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これが基本 A (2/5)
(浄土真宗必携 66頁〜)
「なもあみだぶつ」とは、もとはインドの
ことばでありますが、これは全世界の
すべての衆生によびかけられている
み仏のことばで、深い意味が含まれて
いますから、称えるときは原語のままで
称えます。
では、それはどういう内容と、はたらきを
もっているのでしょうか。
つぎの図をご覧ください、
〈意訳) 帰命 無 量 光明〈智慧)如来
寿命〈慈悲)如来
l l l l
ナモ ア ミダ ブツ
l l l l
〈音写) 南無 阿 弥陀 仏
まず、「ミダ」とは「量られた」という意味です。
それに、否定接頭語の「ア」をつけると、
「量ることができぬ」という意味の「アミダ」
ということばになります。
では、いったいなにを量ることができないのか
といえば、「ひかり」と「いのち」が無限であって、
量ることができないということであります。
ここで「ひかり」といえば智慧をあらわし、
「いのち」といえば慈悲をあらわすのです。
また「ブツ」は、「如来」ともいいます。
如来とは、真如の世界からわたくしを救う
ために来てくださるものという意味です。
つまり「アミダブツ」の意を訳せば
「無量光仏」「無量寿仏」となり、音を写せば
「阿弥陀仏」となるのであって、その内容は
「限りない智慧と慈悲のはたらきをもつ如来
さま」ということであります。
さて「ナモ」とは「帰命」と訳し、「たよりに
する、たのみに思う、信ずる、帰依する」
などの意味があります。
ですから「南無阿弥陀仏」とは、「無限の
智慧と慈悲の如来さま、あなたを信じ、
たよりにします」という意味になります。
しかしここで注意せねばならないことは、
「なも」し、「信じ、たよりにする」という殊勝な心が
迷えるわたくしからでてくるはずがないということです。
このことがよく領解されなくては、名号の心は
わかりません。
元来、わたくしが命がけでなさねばならぬ、
「信じ、帰依する」こと、つまり「ナモ」が、
すでに如来によって完成されて、名号のなかに
含まれ、完全な救いの原動力となって
はたらきかけているのであります。
親鸞聖人は、「ナモ」とは、わたしが如来に帰依し
信ずるにさきだっての、如来からのよびかけで
あったと、受けとっておられます。
どんなばあいでも、ひとつのことが完成するには、
「願い」と「実行」がともなわねば、できあがりません。
いま、ひとりの人間が救われて、さとりをひらき
仏になるという一大事にあたっても、やはりそれに
相応する願と行とが必要であります。
しかしわたくしたちには、仏になれるような願も行も、
おこせません。
そのために如来の方で願行を完成し、その徳を
名号にこめて与えたまうのです。
南無は帰命と訳しますが、また願のいわれがあり、
阿弥陀仏には行のいわれがあって、名号をいただく
ばかりで願行の徳がわたくしの身に具わり、仏になる
べき身となることを表しています。
こうして信心も、願行も名号にこめて与えたまうことを
「他力回向」というのであります。
信心は、浄土真宗のかなめであります。
しかし、信心がたいせつであることは、あえて浄土
真宗でなくても、どの宗教でもいわれております。
しかしその場合、いったい「〇〇さま」のなにを信ずる
のか、姿を信ずるのか、その実在を信ずるのか、
めぐみやたたりの力を信ずるのか、よく考えてみると
あいまいであります。
また「信ずる」とはどんな状態であるかということも、
明確でありません。
仏教一般の場合でも、もちろん信心を必要として
おりますが、その信というのは、仏道を歩むためには、
まず教えを信じてかからねばならないという意味での
信であります。
いわば、これから仏法を学び修行していくための、
入門となるものであって、さとりはどこまでも
その後の修行にかかっているわけです。
浄土真宗の信心は、そういう信とは異なり、
対象はつねに明確であり、信ずるひとつで
救いが完全になしとげられるのであります。
親鸞聖人は「真実の信心」を明らかにし、
信心ひとつで救われることを説かれました。
それは、信心は人間の迷い心がつくったもの
ではなく、本願力の回向による信だからであります。
では真実の信心が仏になる因であるとしたら、
信心はその条件であるかというと、けっして
条件ではありません。
如来は「信じたならば救う」といわれるのではなく、
「かならず救わねばおかない、わたくしのまことを
信じてくれよ」といわれるのです。
つまり「救う」という如来の誓願が先に動きだしている
のであって、それに呼びさまされておこるのが、
わたくしの信なのであります。
そのめぐみを受け入れるためには、
何の条件もいりません。
ではわたくしたちにとって「信ずる」とは
どうなることでしょうか。
それは「如来の本願力について疑いがなくなり、
それにまかせること」であります。
浄土真宗の信心は自分の心を固めて信心するの
ではなくて、そういう我執によるはからいがなくなる
ことです。
本願の光りに照らされて、自分の本当のすがたを
知らされ、如来のまことに目覚めてゆくのであります。
その信心をいただくには、「真実の教えを聞く」
ことしかありません。
「聞く」とは、どういうことでしょうか。
ただ、声を耳にしただけでも聞いたといえますし、
話しの趣旨に不賛成であっても、聞いたといいます。
しかしこれらは、音声を聞いていても、その心持は
受けとっていないのです。
「親のいうことを聞く」などというばあい、その心持ちを
受けとってうなずき、親の願うとおりになったとき、
はじめて「聞いた」ということができましょう。
如来の本願を聞く場合でもおなじです。
親鸞聖人は、聞くということについて、
「われわれ衆生が、本願の起こされたわけと、
その衆生を救うはたらきを聞きひらけば、
疑いの心がなくなる、それを”聞”というのである」と
のべておられます。
つまり、迷いの衆生を救うために本願が起こされ、
それが名号のはたらきとなってわたくしを救うことを、
徹底して聞くのです。
そうして、聞いたところがうなずかれ、
本願のよび声がそのままに受け入れられたことを、
「聞いた」というのであり、その受け入れたままが、
他力の信心であります。
阿弥陀如来の救いの正機(めあて)は、悪人で
あります。この「悪人」とは、如来の光りに照らされて
知る「わたくし」の代名詞にほかなりません。
たとえ世間的には、よい人だといわれても、また法律の
罪は犯していないからといっても、胸をはって、自分は
善人だといえるでしょうか。
悪とはそういう表面的なことではなく、もっと根の深い
ところにあるのです。
わたくしたちは、当然なさねばならぬことを、保身の
ために怠ったことはないでしょうか。
ことばや行いにこそ、あらわすことをしないものの、
心のなかでどれだけ人を傷つけ、おかし、ほうむり
さったことでしょう。
もっともらしい大義名分に名をかりて、その実は自分の
立場や利益を守ろうとし、他人を苦境に立たしたことは
ないでしょうか。
生きるためにはやむをえないといって、どれだけ多くの
生命をうばっていることでしょうか。
仏の鏡のまえに照らしだされて、「罪悪深重の凡夫」
以外の存在であるといえる人が、はたしてあるでしょうか。
それでいて、救いの正機が悪人であると聞かされれば、
頭をめぐらしてよそに悪人をさがすほど、このわたくしは
救いがたい存在なのです。
そのわたくしが救われるのですから、考えてみれば
これはたいへんなことであります。
ただここで注意せねばならないことは、救いの正機が
悪人であるということは、悪事はいくらしても許される
ということではありません。
「救う」と「許す」とはおおいにちがいます。
子どもがかわいいからといって、子の悪事をよろこぶ
親がありましょうか。
如来は、わたくしの悪を嘆きながら、捨てずして救い、
ふたたび悪におちいることのない仏にすることが、
その願いなのであります。
「どんなによい薬があるからといって、好んで毒を飲め
というようなことは、あってはならない」と親鸞聖人は、
いましめておられます。
教えを聞いてゆけば、悪人がめあてであればこそ
このわたくしが救いの正客であったと知らされのであり、
それでこそすべての衆生が救われるのであります。
万人が救われるという大乗仏教のいたりつく極致が、
浄土真宗であります。
如来はわたくしたちに、本願を信じ名号を称え
させて救わずにはおかないと誓われました。
前にのべたように、救いは信心によって定まる
のでありますから、名号を称える「称名」は救いの
正因ではありません。
この名号を称えることが念仏でありますが、
称名念仏するこころもちは、ただ広大な仏恩を
喜ぶほかにないのであります。
一般には、結果をもたらすために、その条件として、
あるいは因として、行をつむものと考えられて
いますが、称名は救われるためにする行では
ありません。
そこで「信心正因、称名報恩」といいます。
わたくしたちは日常生活のただ中に称名念仏を
相続して、自分のほんとうのすがたを知らされ、
如来さまのご恩を仰がせていただくのであります。
しかし念仏はわたくしが称えておりながら、
そのままに如来さまからの大悲のよびかけで
あったのであります。
念仏申して名号のよび声を聞いてゆくのであります。
いつでも、どこでも称えることのできるのが
念仏です。
名号を称えるのに、なんのためらうことがありましょう。
本願を信ずるものは、このお念仏を称えることは
もちろん、わたくしたちのたずさわる職業も、家庭や
社会での生活も、すべてご恩報謝としてたしなむ
べきであります。
ここに念仏者の、うるわしい生活が展開されるのです。
自分のはからいがうち砕かれて、如来のよび声
である名号がわたくしにとどき、如来の限りない
智慧の光りに照らされると、自分の内面のいつわらぬ
すがたを知らされるのです。
それは、けっして底の浅い人間の、単なる反省といった
ものではありません。
心の内が濁り、心の目が閉じているわたくしは自分を
知ることはできません。
他から照らされ、うつしだされてはじめて自分の全貌を
知ることができるのであります。
仏智の光りこそ、わたくしの心の底までとどいて、
迷いを迷いと知らせてくださるのであります。
それは仏智が入りみちて、わたくしに心の目を開いて
くださったからであります。
そして、この自分のすがたに目覚めることは、同時に
如来の真実に目覚めさせられることであり、如来の
真実を知ることは、同時にまたほんとうのわたくしを
知ることであります。
このように、如来の智慧をめぐまれるので、信心の
智慧といいます。
浄土真宗の信心は、「如来よりめぐまれた智慧」により
心の目が開かれるということが重要な点であります。
「信心の人は、正定聚の位に入るのである」と、
親鸞聖人はいわれました。
「正定」とは、まちがいなく定まることであり、
「聚」とは、「なかま」ということでありますから、
”かならず仏になることに決定した人たちのなかま”
という意味であります。
つまり救いは、いま現実に体験されるのですから、
現生正定聚ともいわれ、ふたたび迷いの世界に退く
ことのない身となるので、不退転の位ともいわれます。
正定聚の人は、この世にあるうちから、念仏者
としての安らかな心、喜びの心、感謝の心に
生かされるのであります。
そうして、この世をおわるとき浄土に往生して、
仏のさとりを成就することができるのであり、
この二つは切り離すことのできない関係に
あるのです。
動物的な本能にまどわされ、苦悩を深め、
迷いに沈む人間に、如来は信心をめぐんで
その苦悩を転じ、一切のものにわずらわされない身と
してくださるのであります。
この信心が、やがて浄土に生まれて弥陀と
同体のさとりを開く因となります。
つまり本願が聞こえ、信じられたその瞬間に、
わたくしたちはかならず仏になることに決定される
のであります。
しかし、仏のさとりはこのときここで開くことは
できません。
なぜかといえば、きょうの日までつくってきた悪業は
この身にしみついていて、このような肉体をもって
生きつづけているかぎり、きれいになりきることは
できません。
しかしそういうわたくしではありますが、信心が
定まるとき、すでに仏になる因が決定しているから、
未来はかならず浄土に往生して、ただちに仏の
さとりを得させていただくのであります。
つまらぬことに悩んだり、暗い心にふさぎこんだりした
つきない不安な思いが、信を契機として転ぜられ、
如来の慈悲のなかでのびのびと、「世のため人の
ため」に働くことができるのです。
これが正定聚不退転の人びとであり、わたくしたちも
真実の信を恵まれて、そのなかまに入ることが
できるのであります。
信心の人には、当然に利益が身にそなわって
きますが、親鸞聖人はそれを、現生に十種の益が
あるとのべておられます。
1、目に見えぬ方々から護られる (冥衆護持の益)
2、この上もなく尊い功徳が身にそなわる
(至徳具足の益)
3、罪悪を転じて念仏の善と一味になる
(転悪成善の益)
4、諸仏に護られる (諸仏護念の益)
5、諸仏にほめたたえられる (諸仏称讃の益)
6、阿弥陀如来の光明につつまれて、つねに
護られる (心光常護の益)
7、心が真のよろこびに満たされる(心多歓喜の益)
8、如来のご恩を知らされ、報謝の生活をする
(知恩報徳の益)
9、如来の大悲を人に伝えることができる
(常行大悲の益)
10、やがて仏になると定まった正定聚の位に入る
(入正定聚の益)
これらの利益はすべて、恵まれた信心にそなわる
徳であって、物質的なものではありません。
物質的な福利はどうなるのかといえば、この信心の
目ざめのうえに、自分で努力精進して困難を
きりひらき、獲得していかねばなりません。
これは生活においては当然のことです。
信心すれば物質的な望みをいきなりかなえられる
ように説く教えもありますが、そういう因果の道理に
はずれたことは浄土真宗ではいっさい説きません。
十種の益の九番目に、「如来の大悲を人に
伝えることができる」利益がありました。
わたくしたちは、めぐまれた信のよろこびを
ひとりじめにせず、身近な人からはじめて
ひとりでも多くの人にはたらきかけていこうでは
ありませんか。
それは、わたくしのよろこびを分けていくことで
あると同時に、如来の大悲を伝えるという、
この上なく尊い念仏の実践であり、報恩の
はたらきになるのであります。
十番目の、「やがて仏になることの定まった
なかまに入る」という利益は、他のすべての益の
でてくるもとですが、では、「仏になる」とは、
このわたくしがどうなることでしょうか。
「信を得たものは、いのちおわるときに、
かならず浄土に生まれて仏になる」これが
浄土真宗の教えのしめくくりであることは前に
のべました。
そうすると「その浄土はほんとうにあるのか」
という問いになり、さらに「どこにあるのか」と
いう問いもでてきます。
どうかするとわたくしたちは、浄土の存在を、
人間のなまの感覚でとらえようとしがちです。
けれどもわたくしたちは、その前に、このわたくしに、
仏の世界である浄土を知る力があるかどうか、
問うてみようではありませんか。
さて、浄土について経典にきけば、釈尊は
『阿弥陀経』につぎのように説いておられます。
「これより西の方、十万億の諸仏の国々を過ぎた
ところに、極楽と名づけられる世界がある。
そこには、阿弥陀仏と申しあげる仏がおられて、
いま現に法を説いておいでになる。
・・・・・・ 極楽には七宝の池があって、八種の功徳を
そなえた水が、なみなみとたたえられている。
池の底には、一面に黄金の砂が敷きつめられ、・・・・
階道を上ると、楼閣があって、それもまた、金・銀・
瑠璃・ハリ・シャコ・シャクシュ・瑪瑙などで美しく
飾られている。
また、池の中には蓮華が咲いていて、その大きさは、
ちょうど車の輪のようで、青色の花には青い光りが
あり、黄色の花には黄色い光りがあり、赤色の花には
赤い光りがあり、白色の花には白い光りがある。
そしてそれらは、いずれも、けだかい清らかな香りを
放っている。・・・・・」
象徴的表現をもって華麗なことばで説かれたこの
「浄らかな世界」をその文字どおりには、納得
できない人もあろうかと思います。
そのときは、親鸞聖人にその正しい受けとり方を
聞いてみることです。
聖人は浄土を、「真実の報土」とか「無量光明土」と
名づけておられます。
「真実の報土」とは、如来の願力によって報われて
できた世界ということです。
如来の願いは、わたくしたち一切の衆生を迎えとろうと
いうのですから、その願いに報われた世界は
「わたくしが待たれている世界」であります。
したがって、浄土とは、「ほんとうにあるのか」と
問うべきではなく、生まれる資格のないこのわたくしが
「待たれている世界」と受け取らねばならないのです。
この浄土は、人間の知識でわかる世界ではありません。
真実の教えを聞けば、自ずからうなずかれてくる
世界であります。
教えの光りにあえば、いまわたくしたちのやって
いることも、わたくしの生きている世界も、真実とは
まるでうらはらの「虚仮」そのものであることを
知らされるのであります。
なるほど、わたくしたちは、ときに多少の犠牲を払って
他人のために奉仕することもありましょう。
その行為自体は尊いことでありますが、そのうちに、
「情けはひとのためならず」と、いずれ自分にかえって
くることを計算したり、世間の評判をひそかに
期待したり、そうでない場合でも、
「よいことをしたあとは気持ちがよい」などと、貸しを
つくって自己満足におちいってはいないでしょうか。
親鸞聖人は「修善も雑毒なるゆえに、虚仮の行とぞ
なづけたる」と、善行の底にひそむ打算と名誉欲を
痛烈に悲歎しておられます。
また、過去に幾多の思想家や英雄が、人類を永遠に
導くものだと、もてはやされながら、色あせていった
ことを思い出させられるのであります。
人間の頭脳と力だけでなされた思想や行為は、
時代や価値観が変わるごとに色あせてゆくもので
あります。
これに対して、如来の本願は、いつまでもかわる
ことのない真実として、わたくしたちをよびさまし、
その虚仮のすがたを照らしだしてくださるので
あります。
すべてのことに宗教的なこころが忘れられては、
永遠性がたもたれないことを証明しているようで
あります。
真実は、自然にわたくしのまえにすがたをあらわし
わたくし自身の虚仮であることを知らせるもので
あります。
いったい暗闇はみずから光りを発することが
できるでしょうか。
銀河系のなかには、暗黒星雲が存在することが
知られております。
けれども、なんの光りも発しないその星雲だけが
あるのでしたら、はたしてその存在が確認
できるでしょうか。
そのうしろに、光りを発するものがあってこそ、
はじめてかげとなって確認できるのでは
ないでしょうか。
わたくしの虚仮不実を知るというはたらきは、
わたくし自体のなかからでてくるものではなくて、
それは、真実の世界から、なにかがはたらきかけて
いることのあかしにほかならないではありませんか。
虚仮を知らされれば、悲観に落ち入るので
はないかと考えられがちですが、虚仮を知らされた
とき、すでにわたくしは如来の光明のうちにあるのです。
浄土の真実は教えとなって、わたくしに
はたらきかけ、道はわたくしのまえに開かれて
いたのであります。
真実の教えを聞くーー「南無阿弥陀仏」のいわれを
聞くよりほかにないのであります。
浄土に生まれて仏になる・・・・これですべてが
終わるのではありません。
浄土は一面では、わたくしの罪悪と業苦にまつわる
迷いの終着点ではありますが、他面、あらたに無量の
いのちと智慧を得て、仏としてのはたらき、衆生を
救う役をはたしてゆく、無限に未来にむかって
ひらかれた世界の出発点でもあります。
安楽浄土にいたるひと
五濁悪世にかへりては
釈迦牟尼仏のごとくにて
利益衆生はきわもなし
(親鸞聖人『浄土和讃』)
ここまで読みつづけてきてあなたは、これまで
積極的に生きてきたつもりの人生が、実は消極的な
死なないためのもがきに過ぎなかったと、気づかれ
ませんでしたか。
ながいといっても百年に足らぬ生涯を、死を終着とする
灰色の人生に終始するか、あるいは無量の光りに
つつまれた尊い仏のはたらきをする出発点とするかを、
いつの日にか、あなたは選ばねばなりません。
釈尊に、また親鸞聖人にみちびかれて、さとりを
ひらいて仏になる浄土への、真実の道をただいまから
歩もうではありませんか。
これが基本 A 終り
(内容を転用する場合は、必ず本願寺出版社の
了承をお取りください・妙念寺)
掲載 妙念寺 藤本 誠