お慈悲に抱かれて ( 願いに応える人生 )


 浄土真宗にかぎらず、仏教以外の宗教も含めまして、長い歴史を
もった宗教が、世界的にいろいろな大きな問題をかかえ、苦労している
ことは、皆さんもよくご承知のことでありましょう。

その中でも、現代の新しい動きの中でもっとも苦闘されているのは、
キリスト教の方々のように受け取れます。特に、自然科学的な考え方と、
世界を創造した神というようなこととの間に、筋の通った解決をする
というのは、なかなか困難なことなのであります。



 それに比べまして、浄土真宗、あるいは広く仏教を考えてみました
場合、必ずしも、表面的には自然科学の考え方と対立矛盾すると
いうわけではありませんので、それだけに、私たちは、むしろ、そういう
新しい現代の思想との対決を怠っているという反省もできるわけで
あります。

しかし、そうはいいましても、幾つか問題点があることは、皆さま方も、
お気づきであろうかと思います。きょうは、その一つを取り上げて、
考えてみたいと思います。



 キリスト教の方では、神があるのかないのかという論争は、もう
何百年、あるいは千年を越えて行われているようでありますが、
私たちにとって、仏さまはどんな方であるかということは、今日、
次第にわかりにくくなってきている、ということがいえると思います。

もちろん、それは、知識として理解するという意味だけではなくて、
身体で感じる、こころで感じるという意味も含めまして、
わかりにくくなりつつあるのではないか、と思うのであります。



  それに輪をかけて困ったことは、仏ということばを、まったく違った
意味に使う世の中の風潮がありまして、人間の遺体、亡くなった
死者の身体を、仏と呼ぶ習慣が非常に強いのであります。

誰でも生命を終えたら仏さまになるといい、あるいは、仏さまを
礼拝するのか祖先を礼拝するのか区別がつかなくなっている
人びとがあるのです。

これは、日本の顕著なことでありますけれども、仏さまといっても
皆さま方それぞれに、お考えになる、こころに浮かべられることは、
違うのではないかと思うのであります。そういう意味で、基本を
まずしっかりと押さえておく必要があるのではないだろうかと思います。



 ホトケということばは、中国で仏という漢字に当てられたものを、
日本でホトケさまと申しているわけでありますが、インドでは、
ブッダと呼ばれておりまして、真理、真実に目覚めた人という
意味だといわれております。

私たちが、如来とお呼びしている阿弥陀如来さまも、もとは、やはり、
インドのことばでありまして、真如からやってきた方、真実からやって
こられた方というふうな意味であります。

ですから、決して、人が死んだら仏、というようなことではなくて、
むしろ、広い意味で、生命あって活動を続けている姿、真実に
目覚め、真実からやってくるという活動的な姿を、仏さまという
ことばであらわしている、といっていいと思うのであります。



 歴史上にあらわれた、ただ一人の仏さまが、お釈迦さまで
あります。
釈迦牟尼仏とか、釈尊、釈迦如来と呼んでいますが、いわゆる
歴史上の実在の仏さまとして、私たちは崇め讃えております。



 それと同時に、浄土真宗では、その根本に阿弥陀さまを
礼拝いたしております。私たちが救われるのは、もちろん、
お釈迦さまが説いてくださった、人間のことばで示してくださった
ことに始まるわけでありますが、そのより奥をさかのぼりますと、
実は、阿弥陀さまが本当の救い主でいらっしゃったという
ことがわかるのであります。

私たちは、その阿弥陀さまのことを、今日、私たちは、なかなか
身体で、肌で、親しく感じさせていただくことができなくなって
いることも、事実であろうと思うのであります。



 一歩進めて考えてみますと、今日の私たちだけが、仏さまを
直接知ることができないのでありません。阿弥陀さまという方は、
私たちの目で見ることもできなければ、手で触れることもできない
仏さまでいらっしゃいます。

そういう意味では、親鸞聖人の時代の方であって、ただちに親しめる
仏さまでいらっしゃった、というわけではないと思うのであります。

そうであるからこそ、私たちを南無阿弥陀仏という名前、お名号を
通して救ってくださる、私たちが目で見て救われる、手で触って
救われるということではなく、阿弥陀如来のお呼び声を受けとらせて
いただくことによって救われる、ということでありましょう。

そういう意味では、私たちがお念仏、南無阿弥陀仏を喜ばせて
いただくところに、阿弥陀さまを感じ、知ることができるということに
なると思うのです。 



 さて、その阿弥陀さまのことを、もう少し考えてみますと、ふつう、
光明無量・寿命無量と申しております。

「 光と命、きわみなし 」 と、現代語にも翻訳されておりますが、
光と命が無限である、限りがないということです。

その光と命は、智慧と慈悲であるといわれております。
真実の智慧、真実の慈悲、この二つを完全に、限りなく備えて
いらっしゃるのが、阿弥陀如来であります。


 『観無量寿経』には、

 仏心とは大慈悲これなり。

ということばがあります。

仏さまのおこころというのは、大きなお慈悲のおこころであって、
お慈悲そのものであるというおことばです。

慈悲ということばは、今日、少しわかりにくくなっております。
若い人びとの間では、愛ということばかたいへん喜ばれて
おりますが、共通している点があるととはいえ、なかなか愛と
いうことばだけで仏さまのお慈悲を言い尽くすことはできません。

あるいはかえって誤解を起こすもとになるかとも思います
けれども、ある程度、共通した点もあることは、確かでありましょう。



 そういう意味で、従来、仏さまのお慈悲のことを、親の子どもに
対する心、親心、親の愛によって、たとえてまいりました。

親鸞聖人ご自身も「釈迦・弥陀は慈悲の父母」というおことばを
使っていらっしゃいますように、仏さまのお慈悲を父や母にたとえて
いらっしゃいます。

そういうことから、私たちは、お慈悲というものを思い浮かべることが
できるわけでありますが、たとえはどこまでもたとえであって、
そのものではないといわれますように、親の子に対する愛情と
いうものには、今日、いろいろな問題があることを知らされるのです。



 今日、世の中が安定してまいりまして、経済的にも、以前に
比べますと、それぞれ楽になってきています。

ところが、それに逆らうかのように、子どもの教育という点では、
問題が次々と起こってまいっております。

その場合に、両親の子どもに対する姿勢が問題になります
けれども、人間を人間として育てるということが、たいへん難しい
ことであることを今さらのように知らされます。



 よく新聞で、過保護とか放任ということを読みまして気がつくので
ありますが、なんでも子どもの希望どおりに親が言うことを聞いて
やると、それは一見、子どもを喜ばすことでありますから、愛情を
注いでいることのように見えるわけであります。

けれども、実は、そういう態度は、ますます子どもの独立心を
弱めて、何事も親に頼って、依存して生きていこうとする甘えた
態度を育てていくことになるわけです。



 一方、過保護といわれることばは、今日、特に多くの方々の
関心を呼んでいることであります。

逆に、放任は、放ったらかしといわれますように、何もしないで、
子どもがどこへ行っても、どういう人とおつきあいをしているかも
全く知らないで、お小遣いだけ与えているというような事です。

これでは、親子の正しい人間関係をもつことができず、同時に、
世の中での人間関係も正しく持つことができないという、たいへん
問題を抱えた人間が育ってしまいます。

そういうことを考えます時に、人間が持っている特徴、ことに人間が
持っている愛情というものが、いかに不十分なものであるかを
知らされるのであります。



 そういったことを逆に対比いたしますと、仏さまのお慈悲、
阿弥陀如来のお慈悲は、たとえば病気を治してくださいとか、
お金持ちにしてくださいといった、自分勝手な私たちの要求を
なんでも過保護に聞いてくださるということでもなければ、逆に、
放ったらかしにして、みすごしてしまわれるのでもないのです。

本当の意味で、暖かく包んでくださると同時に、自立できる人間、
自分のことは自分でやっていくという人間を育ててくださる、
いうなれば、本当の愛情であるということができると思うのです。



 それは、限りのない、極みのない、無量の寿命といわれますように、
相手の状態に応じて増やしたり減らしたりということではなく、無条件
の慈悲であるというふうにもうけとれるのであります。

私たちは、そういう阿弥陀如来のお慈悲を、南無阿弥陀仏の
お名号を通して受けとらせていただくということであります。

それは、人生の上で、いろいろな困難に出くわした時にも、
本当の心の依りどころとなってくださるばかりでなく、ともすれば、
生活がうまくいき、幸福な日々を送っている時にありがちな、
人間としてのおごりなどをも逆にいましめてくださることにもなると
思うのであります。


 親鸞聖人は、阿弥陀如来のご恩を讃えて 『 ご和讃 』をつくって

いらっしゃいます。

皆さまも、たびたび歌っておいでのことと思いますが

『恩徳讃』の中には、

 如来大悲の恩徳は、身を粉にしても報ずべし

というおことばが出ております。

とかく、私たちは、お慈悲に甘えてしまって、自分勝手な要求も
認めていただこうという気になりやすいものでありますけれども、
親鸞聖人は、そういう私たちのあり方を深く反省されまして、
身を粉にして報いなければならないお慈悲であると受けとって
いらっしゃいます。そこに、お慈悲に包まれた私たちの生き方、
あり方を、身をもって示してくださっているのであります。



昭和54年4月22日  

  浄土真宗本願寺派 大谷 光真 門主述
   本願寺出版社刊 「願いに応える人生」より

 (内容転用の場合は、本願寺出版社の了承をお取りください)

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