喜び合える信の世界 ( 願いに応える人生 )
きょうは、勤行のいちばん最後にしばしば用いられます回向句、
願以此功徳 平等施一切
同発菩提心 往生安楽国
というご文につきまして、少し味わわせていただきたいと思います。皆さま方も、このご文を、しばしばお称えになり、あるいは、
お聞きになっていらっしゃることだと思いますが、一つのひとつの
おことばをじっくりお考えいただいたことがおありかどうか、
そんなことを思いながら、きょうは、このご文をともに味わって
いただきたいと存じます。
このご文は、従来から回向と呼ばれておりまして、しかも、
勤行のいちばん最後におかれておりますために、しばしば
浄土真宗以外の自力の宗旨の考え方のように、読経の功徳を、
仏さま、あるいは亡くなられた方に回向して、それによって
何かご利益を得ようというふうに思われ、紛らわしい、混同しやすい
面があります。
ですから、宗門の中にも、疑問をもっていらっしゃる方があると
思います。
私自身も、もう一つすっきりしないと考えておりました。
そんな気持ちがありましたので、きょうここに取り上げたので
あります。
申すまでもなく、このご文は、中国の唐の時代、浄土教の
大成者ともいうべき善導大師がご製作になった 『 観無量寿経 』 の
注釈書である 『 観経蔬 』 『 観経四帖蔬 』 の最初にある偈文の
おことばであります。
これを読み下しますと、
願わくは、この功徳をもって、 平等に一切にほどこし、
同じく菩提心をおこして、 安楽国に往生せんとなりますが、善導大師のお気持ちとしては、偈文を作って
広く教えを広めたいというおこころざし、お気持ちを顕された
ものであると、従来の書物には書かれております。
しかし、これだけを切り離して、私たちが用います場合には、
もっと広い意味で、自信教人信−−自ら信じ、また、その信じて
いる喜びを多くの方に伝えていくーーという気持ちを表すもので
あると、従来から解釈されております。
簡単に一つひとつのご文をみてみますと、
まず 「 願わくは、この功徳をもって 」 とあります。
願いということは、宗教の場合、特に大事な点の一つであると
思いますが、では、この願いというのが、誰のどういう願いで
あるかということを、根本におさえておかなければならないこと
だと思います。
私たちが教えを聴聞しておりまして、まず聞かせていただきます
ことは、真実の願いを持つことができるのは誰であるか、ということで
ありましょう。
私たちも、それぞれに、自由や平和を願ったり、世の中の幸せを
願ったりはいたしますけれども、つきつめて、本当の願い、
真実の願いと言うことになれば、それは、やはり阿弥陀如来の
願いしかない、と受け取らざるをえないのであります。
そうした意味では、この願いも、根本に阿弥陀様の願い、
阿弥陀如来のご本願というものがあることは、申すまでも
ありません。
しかし、また同時に、阿弥陀様の願い、阿弥陀様のおこころを、
真実と聞かせていただきます私たちも、阿弥陀さまの願いに従う
という形で、その願いをもたせていただく、願いに加わらせて
いただくことができる、といってもいいと思います。
仏教のことばで、随順、したがうという字をならべまして随順と
言っておりますが、そういう形で、仏さまのおこころに従うという
意味では、この願いは、同時に、私たち一人ひとりの願いである、
というふうに受け取ることができると思います。
ところが、その願いを取り違えますところに、今日、しばしば
誤解を招いております 「 他力本願 」 や、また、成り立たない
ことばでありますが 「 自力本願 」 などということばが出てまいる
のであります。
誰の願いか、ということをつきつめて考えれば、こういった誤りは
起こらないのです。
一つのポイントとして、味わいたいと思います。
次に 「 この功徳をもって 」 とある 「 功徳 」 ということが、
また問題になりましょう。
私たちが、お経を読んで、その功徳で、亡くなった方々を
幸せにしよう。
というようなことでありますならば、大きな踏みはずしをしてしまう
ことになるのであります。
やはりあ、これも、阿弥陀さまの真実の功徳、具体的な形で
言いますなら、お名号の功徳ともうしますか、南無阿弥陀仏の
功徳をもって、平等に一切にほどこすということであり、ともに
分かち合うとも言えましょう。
また 「 同じく菩提心をおこし 」 の 「 菩提心 」 ですが、このことば
そのものも、仏教一般に使われております。
それは、自ら悟りを求めるこころでありますけれども、
この場合には、阿弥陀如来からたまわる真実信心というふうに
受け取ることができます。
そして、同じくその信心を起こして 「 安楽国 」 −お浄土に生まれよう、
ということであります。
ここで、もう一つ思いますことは、宗教というのは、どうしても
私一人の生命の問題であるということであります。
人間は、ひとり生まれ、ひとり死ぬといわれますように、私の生命の
ぎりぎりの問題は、私ひとりで解決しなければならないのであります。
身代わりになって死んでもらうわけにもいかない、身代わりになって
私の人生を生きてもらうわけにおいきません。
あくまでも、私ひとりのきわめて個人的な問題であるということは、
申すまでもありません。
それが、どうして 「 平等に一切にほどこし 」 「 同じく菩提心を起こし 」
とあるのでしょうか。
そうして私ひとりではない、すべての人びとと、すべての生命あるもの
と一緒に、と強調されているのかということを考えてみたいとおもいます。
こういうお気持ちは、善導大師の 『 往生礼讚 』 の中にもうかがえます。
「 願共衆生 」 「 願共諸衆生 」 ーー
「 願わくは衆生と共に 」 とありますのがそれで、必ず ” 共に ”
というおことばをつけておられるのです。
私ひとりの問題でありながら、同時に、私ひとりだけのことではない。
という点が強調されているのであります。
従来からの原則的な考え方で申しますと、浄土真宗の信心は、
自分が起こす自力の信心ではなくて、阿弥陀如来によって
与えられる、回向された信心であります。
ですから、一人ひとりが自分勝手に起こす自力の信ではなくて、
すべてに等しく与えてくださる他力の信心であるから、皆が同じく、
同じ信心を、同じように起こすことができる、ということでいわれて
おります。
それは、自力のおよばない信心、他力廻向の信心ですから
「 同発菩提心 」 − 同じく菩提心を起こす。
信心を起こす、ということであります。
しかし、今日のことばで、この意味を考えてみますと、皆さまは、
どういうふうに受け取っていらっしゃるかわかりませんが、
私の受け取っておりますところを申しますと、私だけが救われる
ということは、しばしば、自分さえ救われれば他の人びとは
どうなってもいい、という考えにつながるものであります。
自分だけの幸せ、自分の後生の一大事を解決することに力が
そそがれるあまり、日常生活で他の人びとのことに目もくれない、
自分中心の生活になってしまったり、あるいは、自分だけ幸せを得て、
ひそかに楽しみを味わってしまうということになりかねないので
あります。
そういう意味で、それは、真実の信心と違ったものになってしまう
のであります。
これ対して、他力廻向の信心とは、多くの方々とご一緒に
味わうことのできる信心、喜び合うことのできる信心であって、
そうでなければ、本当の信心とはならない、ということでありましょう。
言い方を変えますと、人それぞれに違った人生を歩んでいるわけで
ありますけれども、誰にでも等しく味わうことのできる教えでなければ、
それは、真実の教えとは言えないのであります。
今日のことばで言えば、普遍性があるかないか、ということことで
ありましょう。
人間は個別的と申しますか、一人ひとり違っておりますけれども、
そうしたことを越えて、皆が同じ阿弥陀さまのおこころに生かされる
知うことが亡ければ、それは自分ひとりだけの思いこみであって、
本当に、真実といえるものかどうかが問題になってまいります。
そういう意味で 「 平等に一切にほどこす 」 といわれますところには、
私ひとりだけに閉じこもってしまう信心の姿ではなくて、生命あるもの
すべてに向けられた阿弥陀如来のおこころを受け取らせていただく
私たちの姿が示されているといえるでありましょう。
こういった点、今日の宗門における具体的な活動で申しますと、
門信徒会運動・同朋運動というような基幹的な運動の中にも、
その精神がこめられているわけでありますので、話し合いの場などで
取り上げていただければ、たいへんありがたいことと思います。
昭和54年8月29日
浄土真宗本願寺派 大谷 光真 門主述
本願寺出版社刊 「願いに応える人生」より(内容転用の場合は、本願寺出版社の了承をお取りください)
あ と が き
宗門では、現在 「 明日の宗門を考える 」 をテーマにした
全国寺院婦人代表総参拝が、ご門主をはじめ、お裏方、
前お裏方のご熱心なご指導ご助言によって進められています。
回を重ねるごとに熱意も高まり、参加されたご婦人方には、
伝道教団としての婦人の役割が認識されるとともに、宗門活動
への積極参加の姿勢が確立されつつありますことは、まことに
慶ばしいことでございます。
ご承知のように、この婦人代表総参拝に先立って、住職・
門徒代表総参拝が、昭和五十三年五月から十六カ月間、
七十三回にわたって実施され、93パーセントという高い出世
規律をみて円状いたしておりますが、この宗門史上はじめての
画期的行事によりまして、宗門発展計画の推進機運が
盛り上がり、新時代の宗門づくりに大きな活力の注ぎこまれている
ことは間違いありません。
ご門主は、ご多忙にもかかわらず、この七十三回の総参拝の
全日程にご臨席、ご法話をいただきましたが、本書は、その際の
二十二編を出版部において文章化し、一本にまとめられたもので
あります。
ご門主は、東京大学および同大学院でインド哲学、
竜谷大学大学院で真宗学を修められたご識見ゆたかなお方で、
ご法話には、身近にご見聞になったこと、その時々の話題などを
織りまぜられ、浄土真宗のみ教えをかみくだいて分かりやすく、
しかも味わい深くお示し下さっています。
とともに、改めて本書を拝読いたします時、現代社会に
開かれた宗門、時代の要請に応えうる宗門づくりにかけられる
ご門主のご情熱がうかがわしめられ、ご門主の宗門人一人ひとりに
寄せられるご期待の深さをも尊くしのばしめられることです。
思いますに、私たちは、量り知れない時間と空間の中にあって、
瞬時のごく小さないのちを恵まれ生かされている、はかない存在です。
それだけに、時間・空間を越えた大いなるいのち、弥陀のご本願を
聞かせていただき、その喜びを一人でも多くの人に伝えていくことの
大切さに気づかしめられます。本書は、そうしたことをしみじみ
味わわせていただくこの上ない書であります。
有縁の人びとに広くお勧めし、聞法の一環として一人でも多くの
方々が味読してくださることを念じて、あとがきといたす次第で
あります。
浄土真宗本願寺派
総長 豊原 大潤