いわゆる学歴差別と人権屋のたくらみ その(2)
3.差別と区別
「非人為的差異・区別 difference」言いかえると、自然的・客観的な差異を取り除くことは不可能であるし、その必要もない。全てを平等にという主張は、全ての個性の否定である。
似非人権派=人権屋さんたちによると「他と異なる取り扱いがされれば則ち差別である。どんな人も同じ結果が得られるが平等だ」そうである。とんでもなく無理な考え方であるといわなければならない。これでは現実にある差異を無視して扱いを歪めることになる。「野球の下手なプロ野球選手」とか「力の弱い力士」とか「足の遅い陸上選手」を作れというようなものである。歪めない取り扱いは言うまでもなく「野球の上手なプロ野球選手」とか「力の強い力士」とか「足の速い陸上選手」を作ることである。
人間は本来、平等な能力を持ち合わせてはいない、その差異こそが個性であり才能である。その個性や才能を自由に伸ばすことが出来る世の中こそ公平な世の中であるというのが西欧型自由民主主義の基本的な理念である。
さて、現実の世界では様々な要因で差異が存在し異なった取り扱いがなされている。人間ひとりひとりが異なるものをもっているという条件の下で、皆が納得できるような扱いをすることによって平等を実現するという「相対的平等」の考え方によるものである。税金の例で言えば、1000万円の所得があるものと200万円しか所得がない人も一律10万円の税金をとるのは「相対的に」平等ではないのである。憲法学でいうところの合理的差別とはこのようなものであり、世間に受け入れられる根拠をもつ考え方である。
いまはなき朝日ジャーナルの『差別・その根源を問う』という対談で、安岡章太郎が、「人間から差別をなくすことが理想だとは思えない。それよりも差別をどのような方向へ持っていくかということの方が問題じゃないか」と言っていたことが示唆的である。筆者は不合理な差別をなくせば合理的差別が増え、合理的差別が減れば不合理な差別が増加するのではないかという仮説をもっている。
4.「学歴差別」の中身
「一流大学を出てないと一流企業には入りにくい」、「入れたとしても、出世していくのは殆ど一流大学の出身者だ」、「中央省庁は学歴階級社会そのものだ」とかいった類の主張がある。「高学歴者が優遇されるのはおかしい」という考えである。さらに、「学力だけで人間を判断するような思想は危険だ」とか「今の専門テクニック化した大学受験で、総合力が測れるのか」、「学校の勉強と仕事は関係ない」などという主張が続くのだが、本当にこの主張は正しいのであろうか。