日本の原住民(2)

東北の蝦夷−−肥沃な日の出の国
 蝦夷族の居住する地方を「日高見の国」と称した。いわゆる日高見の国とは、「東方の蛮族が居住する日の出の国」という意味である。それでは日高見の国はどこにあったのであろうか。それは東方の地区においてまだ大和の王朝の臣下として従っていないものを指して、特定も範囲をさしてはいないとされている。大和朝廷の勢力東漸に従い、その範囲もだんだん東方、続いて東北方へ移動した。日本武尊の伝説が成立した時代(6世紀)には、「日本書紀」の記録によると、日本武尊は海路を通って陸奥国(現在の東北地方)に進入し、日高見の国を攻撃した。討伐した後に、「蝦夷は既に平定された、日高見国より、南西の常陸(茨城県の東北方面)を経て帰ろう」といっている。これより、蝦夷族の勢力圏が茨城県の東北地区から東北地方全部に至っていたことが分かる。

 「日本書紀」の中で蝦夷の記録はこんな調子である:「朕は耳にした:その東の異民族は、性強暴で、凌犯を宗としている。村に長がいなくて、県の首領もいない。各境界をむさぼって、そして互いに領土を奪い合う。山に邪神もいて、町はずれには悪賢い幽霊。……その東の異民族の中で、蝦夷は最も強力である。男女、父子の別もない。冬は穴に宿し、夏は木に居住する。毛皮を着て血を飲み、兄弟が互いに疑いあう。……ゆえに古来から、王化に染まっていない。……巧みな言葉で粗暴な神を鎮め、武を振るってずるい幽霊を退けよ。」「東の異民族の中、日高見の国がある。その国の男女は槌に髪を結んで入れ墨をして、人となりは勇ましい。すべて蝦夷と言うのである。また土地は肥沃で広く、撃って取る価値がある。」
 「日本書紀」の記載する東北地方の蝦夷の奇異な風俗が本当かどうか、疑問がある。上述の記録は、「漢書」、「礼記」の言葉とほとんど同じである。換言すれば、「日本書紀」は、決して、実際に蝦夷の生活を観察、あるいは信頼できる情報を運用して来たのではなくて、ただ中国の古典籍の中の乱暴で俗っぽい記録に関係する記載を引用しただけのようである。

蝦夷族はアイヌ(AINU)族か?
 まず蝦夷=アイヌの代表的学説を列挙する:1)中世、近世の蝦夷はすなわちアイヌ、ゆえに古代の蝦夷もアイヌである(江戸時代の学者 新井白石、本居宣長)。2)「日本書紀」とその他の古代の文献の史料の中の蝦夷関連の習俗の記載は、すべてアイヌと類似する。3)東北地方は多くのアイヌ語の地名(言語学者の金田一京助、等)がなお存在している。4)石器時代人はアイヌ(小金井良精、鳥居竜蔵)である、或いはアイヌの伝説の中のコビト(坪井正五郎)である。

 それと正反対に、非アイヌ学説がある:1)石器時代人も現日本人を形成する部分であって、蝦夷の時代と石器時代の末期は重複している、ゆえに蝦夷族は非アイヌ族である。2)考古学者がすでに証明しているように、東北の北部(日高見の国)は、相当早くから古墳文化と稲作の技術があった、ゆえに蝦夷族は日本人である。3)「古事記」あるいは「日本書紀」などの蝦夷族関連は乱暴な人民の記録で、すべて虚構である。そのためこれをアイヌと見るべきではない。
 1950年3月に、中尊寺の金色堂の蝦夷人、平泉の藤原氏の遺体を調査した結果、特にアイヌの特徴を発見しなかった。ゆえに蝦夷非アイヌ説はますます有利になった。しかし、この論争は今なおまだ結論がない。比較的受け入れられる言い方は:東北の古代の蝦夷族、これは日本列島の東部あるいは東北部の縄文人の子孫に位置するのである。

農耕、狩猟、産鉄を行っていた蝦夷
 上述した通り、蝦夷族は歴史、地理、あるいは人種の方面に関わらず、その実在の境界を区切ることははなはだ難しい。彼らの習俗、文化の類型も同じく固定的ではない。私達が蝦夷族の生活を探求する時、必ず気づかなければならないことは、彼らは北方の文化の要素を有し、また西方(大和)の文化の要素を含むということである。元慶の乱(878)の時に、小野の春風と言う人がいて、異民族の言葉に精通するために異民族の軍の捕虜との疎通ができた。それからわかることは、少なくとも蝦夷族の中で、一部の人は日本語がわからなかったことである。しかし蝦夷族すべてが日本語をわからなかったかどうかは知るよしもない。
 昭和33年(1958)、青森県の南津郡の垂柳遺跡で、200粒の炭化米、および、弥生式土器に残ったもみの痕跡が発見された。この発見から次のことが分かった。すなわち、今から2000年以前、日本の東北部の北で、すでに稲作が始まっていた。しかし4、5世紀には、気候が寒くなったため、岩手県の北上川の流域以北はすべて稲作に従事することができなくて、7、8世紀にやっと稲作を再開することができた。

 蝦夷族は長い間、ずっと狩猟民族と見なされていたが、実は彼らも農耕に従事した。今なお依然として、比較的高い人口密度で定住した蝦夷族を発見してはいないが、彼らは、ある程度の定住があり、人口密度は高くなく、狩猟、採集、漁労、稲作を以て生活の手段にしていたであろうと推測することができる。
 658年、阿倍比羅夫が180隻の船を率いて東北に遠征した時、恩荷と言う人が投降してきた。彼は言う:「私達は弓矢を持つが、しかし私達は決して戦闘に用いるのではなくて、けものを捕まえるのに用いている。今、私達は更にあなた達と敵対することはしない、しかし、あなた達が万一平和条約を破るなら、秋田の浦の神はきっとあなた達を勘弁することはできないであろう。」これより分かるのは、蝦夷族は東北各地すべてで、部族社会を形成して、彼らは独自の信仰を持って、神を尊びあがめていた。
 大和朝廷の勢力がだんだん北上する時に、岩手県の各郡内で日本式神社を創立し、しかも北方の浄法寺町では天台寺を建築した。この天台寺は728年に建てられた。換言すれば、8世紀以前は、蝦夷族は仏教を信奉していなかった。

 しかし、その時大和朝廷の教化は浄法寺町一帯に浸透してはいなかった、おそらく天台寺の実際の創建年代は、900年〜1000年前後である。普通は、天台寺の創建者は、大概は「最後の蝦夷」を称した地方豪族の安倍氏である。日本の律令国家は、統治する地区で租庸調法を実行した。蝦夷は租庸調の税金をなにも負担せず、かえって大和朝廷から俸禄を取った。しかし、蝦夷は稲作に従事し始め、同じころ大和朝廷も蝦夷には豊富な金と鉄が隠れていることを知った。その時、蝦夷を討伐することを始める。しかしながら、大和朝廷は蝦夷を征服するのに、必ずしも武力を重点にするのではなく、取引と懐柔政策を組み合わせた。東北地方は昔から、鉄を産するので有名であった。日本の武士の刀は、一説には岩手県一関市の「舞草刀」に源を発する。それからも、朝廷軍と蝦夷軍が戦う、その激烈なありさまが分かる。



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