2.科学的人類学の描く日本人成立のシナリオ
(1)2種のモンゴロイド
直立歩行、道具と火の使用を特徴とするヒトは、おそらく数百年前に、アフリカでチンパンジーなどの同じ先祖から発生した。ヒトは過ごしやすさと食料を求めて移動した。洪積世(100万年前〜1万年前)に4回の氷河期が到来したが、原人たちは温暖な気候を求めて、地球全体へ広がっていった。我々の直接の祖先である、ホモサピエンスは、20万年くらい前にアフリカで発生し、またたくうちに地球全土に広がった。
20万年前のある女性のミトコンドリアをすべての現人類が受け継いでいるという「イブ仮説」というものがある。細胞の核には、遺伝子の本体である30億塩基対のDNAが存在する。一方、細胞の呼吸を預かるミトコンドリアという細胞内小器官のなかにも、1万6579塩基対からなるDNAが存在する。そして、ミトコンドリアDNAは母からのみ受け継がれるのである。
最後の氷河期は約12〜11万年前(一説では7〜6万年前、ヴュルム氷期)に始まる。この時期にアジア大陸東部には古モンゴロイドと呼ばれる新人が住んでいたが、氷河期にはその大部分が南下した。一方、逃げ遅れてバイカル湖周辺に閉じ込められ集団は数万年にわたって寒冷な気候に適応進化した。これが新モンゴロイドである。
(2)2つの系統の祖先
埴原和郎らの自然人類学の研究によると、日本人は2つの系統の諸民族の混血によって形成されたものであるという。この研究は遺跡から発掘された人骨の形質や遺伝子の分析によるもので、現代人の場合の地域差も実は過去における不均等な大量の混血の痕跡であったという。
たとえば、各時代の頭蓋骨を分析して得た頭長と頭幅の比である頭長幅示数をみると、日本人の頭長は平均196〜182ミリ、頭幅は平均156〜147ミリで、頭長幅指数は77〜86である。これには地域差があり、長頭ないし中頭は、東日本や日本海岸、離島に多く、短頭は西日本で、中心は畿内地方である。なお朝鮮・韓国人は短頭が多い。これらは弥生時代以後に渡来した人々の分布を示している。耳垢も日本人には二種あり、湿っているか(南方系)、乾いているか(北方系)の区別が出来る。さらに、ABO血液型の分布は、民族・人種ごとに異なるが、日本人の場合、A型が40パーセントと云われる。しかし、これは地域によって異なり、埴原和郎氏の指摘によれば南から北への傾斜を持っている。ミトコンドリアDNAから見ても、日本人は二つの集団に分れている。浦和で発見された5000年前の縄文人が東南アジア系のミトコンドリアDNA配列を持っていたことが指摘されている。この配列は現在のアイヌ人に近く、また現在の本土人や朝鮮人とは隔たっている。
日本人の家畜である猿、猪と豚、ウズラ、犬、ニワトリ、馬、牛、猫、肉用ヤギ、水牛などは、大部分が南方系であるものの、一部北方系の混在もある。犬の場合北海道犬や琉球犬は南方系であるが、本土犬も南方系が強かった。弥生人が持ち込んだ北方の犬が少なかったからとされている。
ウィルス研究の日沼頼夫によると、ATLウィルスのキャリアは、日本列島中心部にはほとんど認められず、離島や海浜、山間部に多く、もっとも濃厚なのはアイヌ人と沖縄の人々である。朝鮮人、中国人にはほとんどキャリアはいない。世界的にみるとキャリアは、アフリカ人とパプア・ニューギニア人とアイヌ人と日本人の一部に多い。ATLウィルスは家族内感染のみで伝染するため、現在のキャリアは比較的混血を免れ、平和のうちに過ごしてきた地域の人々と思われる。こうしたことから日本列島のATLウィルスのキャリアは、古モンゴロイドの直系である可能性が高い。
(3)縄文人と弥生人
埴原和郎の研究によると、日本列島の居住民の起源には、二つの大きな波があったと考えられる。まず第一番目の波は、日本でいう旧石器時代から縄文時代のあいだに、主に中国南部や東南アジアからやって来た古モンゴロイドの系統の縄文人。ついで二番目の波は、弥生時代以降に朝鮮半島を経由してきた、東北アジアを出自とする新モンゴロイドに属する弥生人である。
縄文人の祖先は日本列島における後期旧石器時代の人々で、沖縄で発見された港川人がそれに属している。港川人は、中国北部の上洞人よりは、南部の柳江人(広西省壮族自治区柳江県)に似ていることから、縄文人は中国南部の古モンゴロイドに近い。この人々は長頭、低顔、広顔で、眼の上の隆起が強く、鼻根も陥没している。成年男子の平均身長が158センチで、四肢ががっしりしていた。縄文人の大部分は東日本に住んでいた。縄文文化というのは、東日本中心の文化である。
3000年前から2000年前にかけて、大量のいわゆる弥生人の民族移動が起こった。この人々は男子の平均身長が163センチと縄文人より背がやや高い集団であり、短頭、高顔、面長で鼻筋がとおっている。山口県豊浦郡で発見された土井ヶ浜人がその代表である。弥生人は列島に水田稲作をもたらし、先住の縄文人を圧倒しつつ、日本列島に広がっていった。西日本を中心とする人口爆発はこうして起こったのである。
土井ヶ浜人
1954年、日本海に面した山口県豊浦郡豊北町土井ヶ浜で200体以上の人骨が発見された。背の高い古代人の人骨で、平均身長は163センチ、従来の平均157センチの縄文人よりは6センチも高い人々である。顔は面長で目は切れ長であり、丸顔でどんぐり眼の縄文人とは、およそ違った顔付きだった。正確に言うと、成人の男は弥生人、成人の女は縄文人であり、子供は両方の混血である。これはおそらく、男ばかりの弥生人がこの地に上陸し、縄文人集落を襲撃して男を殺し女を自分たちの妻とし子供を生ませたことを意味する。征服されると男たちが皆殺され、女たちは征服者のなぐさみものになったり、子を生まされるのは、古今東西を問わず人類の歴史に多く見られることである。また、人骨はすべて朝鮮半島に足を向けて葬られていた。人骨の一つには首がなく、36の矢が刺さっていた。
小山修三らの研究によると、縄文晩期の人口は16万人であったが、弥生時代には60万人、古墳時代には540万人となっている。この両者の時間差をそれぞれ500年とするとこの増加率は年率0・4%であり、紀元前後から1600年ころまでの世界平均である0・04%の10倍という激増ぶりである。この増加の主因は水田稲作の開始による食料事情の安定によるものと考えられる。縄文集落が平均24人であったのに対し、弥生集落は57人であった。弥生の米作と縄文の焼畑雑穀では土地生産性がカロリー計算で3〜5倍違うという。それにしても異常な増加率である。これは自然増だけではなく、大量の人口流入があったことを意味するという主張がある。弥生時代と言えば、紀元前3世紀から始まる。このころの中国は春秋戦国の時代であり、秦が統一するのが前221年、その秦も始皇帝の暴政があり、秦が倒れたあと漢楚の乱があり、ようやく漢が統一する。この時期の戦乱が多くの政治的難民を作りだした。大陸を逃れた人々が、船に乗って日本列島を目指した。始皇帝の命令により不老の薬を求め、3000人の少年少女とともに東の海へ漕ぎ出した徐福もその一つと考えられる。徐福の出発地は山東半島であったが、これは弥生の稲作の渡来経路についての一説と合致している。つまり、縄文人が進化して弥生人になったのではなく、水田稲作をもった弥生人のおそらく数10万人規模の大量渡来があったと考えられるのである。毎年1000人規模で渡来があったとしても、100年間で10万人となる。縄文晩期の人口が16万人であったとすれば、紀元前3世紀頃にこの程度の流入があっても日本社会にとっては激動である。さて、古墳時代の始まりは紀元3世紀末である。このころ、大陸では三国の争いひきつづく五胡十六国、南北朝の戦乱、朝鮮での三国の分立が多くの政治的難民を生んでいた。このことから、弥生人が古墳文化をつくりだしたのではなく、大量の渡来人たちが古墳文化を作り上げたという考えもある。
弥生文化は九州に上陸してからあっという間に尾張と三河の境の矢作川まで進むが、そこで100年間停滞する。この100年間三河地方の縄文文化地帯では、長く鋭い黒耀石や鹿骨の鏃が多数作られている。金属器のない縄文人は鋭い鏃で抵抗する外はなかった。そして100年後弥生文化は動きだし、関東に達する。縄文人の住居址には長い鏃が散乱している。縄文人の敗北である。
史書の伝えるところによれば、大和朝廷の拡張によって、征服されたり、追われる人々が多数いた。『伊勢国風土記』逸文によると、かって伊勢国三重県には伊勢津彦という国津神がいた。神武天皇の時、大和朝廷の使いが国譲りを迫り、最初拒否した伊勢津彦もやっと承知した。大和朝廷の使いはその証拠を求めたところ、伊勢津彦は夜に浜辺に出るようにいった。嵐になった夜、大和の使いが浜辺に出ると、一艘の小舟が灯りを照らしながら、嵐のなかを東の海上に去って行くのが見えた。こうして伊勢国は大和朝廷の領土となった。信濃国に伊勢津彦の神社がいくつかある。伊勢津彦とその一族は、信濃に逃げ延びたかもしれない。
ヤマトタケルの物語も弥生人による縄文人の征服と考えられる。草薙と焼津の地名説話によれば、金属器を持たない駿河の国造たちは、ヤマトタケルを沼におびき出し、火攻めをした。しかしヤマトタケルは鉄の剣で周囲の草を薙ぎ払い、安全地帯を作った上で、逆に火を放った。風向きが変わって火は駿河の国造たちに襲い掛かり、かれらのすべてを焼き滅ぼした。
(4)日本人の成立
今日の列島住民に見られるさまざまな地方差は、主として後期旧石器時代と弥生時代から古墳時代にかけて渡来した二系統のモンゴロイドの混血度の違いに由来している。追い出しや混血、人口増加率の違いなどの要因が複雑に絡まり合い、第二の波の遺伝子供給源は見る見るうちに日本列島中に広まっていった。その結果、紀元初期までには、最初の波を構成する者たちの遺伝子の継承は、主として本州東北部や北海道、九州南部、南西諸島にかぎられてしまったのである。
日本人は、おもに東北アジアからの移住民を出自とし、地域性はそのほとんどすべてが古墳時代から中世初頭までの間に完成され、一社会集団として2000年以上存在していることになる。よって、この時期をもって日本人の成立期にあてることができる。しかしながら、だからといって「日本」が一つの国としてこれまでずっと存在してきたとか、列島に住む住人が自らのことを「日本人」と認識していた、ということにはならない。