3.保守本流人類学の描く日本人成立のシナリオ

(1)日本人の常識
 くの日本国民は日本人=単一民族国家論について何の疑問も感じていない。大抵の日本人は「 日本人は昔から日本に住んでいた。途中帰化人などが流入してきたが日本人の基本は昔から日本に住んでいる日本人である。」と思っているのが現状である。外務省は国際連合に毎年提出している報告書に「日本には少数民族はいない」と書いていたという。
 このように、日本が四方を海に囲まれた島国である以上、日本列島は自然な政治的単位をなし、それと同時に自然な文化的もしくは民族的単位をなしているのだという考え方、言いかえれば、日本列島はいつの時代にも「日本国」にほかならず、そこに住んでいた人々はつねに「日本人」であった、という考え方、これこそ保守本流の歴史学、保守本流の考古学、そして保守本流の人類学者によって圧倒的に支持されているものである。
 日本史の専門家や文部科学省の官僚のコンセンサスによる「正しい」日本史像を描くのが、中学生・高校生用の教科書である。ある教科書は冒頭で自らの存在を次のような文章で正当化している。

私たちは20世紀の終わりに近い時代に生きている。そして、この広い世界でさまざまな形で、政治・経済あるいは文化の恩恵を受け、また拘束もされている。この現実の社会は数100万年も前から人類がきずきあげてきたものである。それはどんな経路をとおってきたのであろうか。それを知ろうというのが歴史の学問である。
 私たちは日本という国土に身をおいている。日本史はそのなかで先祖があゆんできた成長のあとをさぐるものである。(石井進)ほか編『詳説日本史』山川出版社、1996年)

この教科書の執筆者たちは、日本という国家ないし国民がいつ、どのように成立したのか、という問に対して直接答えてはいない。執筆者らの意図はわからないが、結果としてこの沈黙は、「日本国」や「日本人」という実体がつねに存在していたという間違った印象を読者にあたえるであろう。

(2)長谷部言人
 三一部隊の指揮官石井四郎中将の恩師である清野謙次と並んで戦中戦後の人類学会の定説を形成し、禰津正志、早川二郎などマルクス主義歴史学者の絶賛と圧倒的支持を集めていたのが長谷部言人である。
 1930年代前半までは日本民族混合起源説を維持していた長谷部や清野は皇民化政策が本格化した1938年頃からその論調を変え混合を全面的に否定するに至る。人類が発祥してすぐに「日本人」は「日本」の地を占拠し以後連綿と現在まで続いていると主張する。日米開戦5ヶ月後、大東亜建設審議会が大和民族の純血維持をうたった答申を出す直前の1942年4月に、長谷部は企画院次長あてに、「大東亜建設に関し人類学研究者としての意見」と題する意見書を提出している。その中で、「日本人」は洪積世には「日本」に住んでいた。高天原は外国ではない。なぜなら洪積世には「日本」に動物がいたからである。「人跡」はこれから探すのだという。しかも、列島の石器時代人は即ち日本人であり、その文化は当時から「極めて特殊なるもの」で「近代のアイヌやボルネオのダイヤクなどに比べて「優越」していたと主張している。そして朝鮮人をはじめ周辺人種とは全く違う「日本人」の特殊性を強調し「日本人は生まれながらにして大東亜の貴要たる特殊性を有す」という。しかも、人口増殖は皇国存立興隆の基のみならず、大東亜建設遂行の根底なり」といい、人間には「良質」「凡質」「悪質」の三種があり、凡質には教育、悪質には断種による除去が必要であるとする。そして、朝鮮人との混血を防がないと「凡質」が増えるから処置を講ぜよと主張している。一方、清野謙次も『日本民族生成論』において「皇国のありがたさ」「日本民族の独自性ある生い立ち」を「数理」から立証した自説を読んで「日本国民としての自覚を増していただきたいため」にこの本を書いたとのべている。

長谷部言人 左:長谷部 言人

右:清野 謙次
清野謙次


(3)単一民族人類学説
 後の人類学会において最高権威として定説を形成していた長谷部言人の日本人の起源に関する説は、先史日本人説(変形説)と呼ばれている。長谷部の主張は、「石器時代人は日本人そのものであり、先史日本人と呼ぶべきである。先史日本人が現代日本人へ転化した要因は、自然環境と社会生活の変転に求められる。」というものである。
『日本民族の成立』という論文に長谷部は次のように述べている。
「縄文時代人と古墳時代人の形態上の著しい相違は、狩猟採集経済を基本とする石器時代の生活から、稲作農耕に依存する金属器時代の生活への転換に付随する租借力・筋力の節約がもたらしたもので、文化が変わり、それにともない骨の形態が変わっても、民族そのものの本質に変化はなかったはずである。」つまり弥生時代においても、またそれ以後においても、日本人の体質を一変させるほど大規模な混血はなく、日本人は石器時代から現代に至るまで遺伝的に連続しているというのである。

(4)明石原人
 1905年イギリスの医師ニール・ゴードン・マンローが神奈川県の酒匂川で加工された石片を発見し日本に旧石器時代があったのではないかとされた。しかし、旧石器時代の存在は長く否定されるようになり、1931年の直良信夫による洪積世人骨の発見も学界全体から無視されていた。しかも人骨は1945年の東京大空襲で焼失してしまった。戦後1948年に人類学者長谷部言人が残された石膏像を研究し、旧石器時代人しかも原人骨と断定して、明石原人(学名ニッポナントロプス・アカシエンシス)と命名した。しかし、当然のように「明石原人」は現在全く否定され獣骨ということになっている。

(5)長谷部の後継説
 谷部の跡を継いで、鈴木尚が「小進化説」を唱える。それによれば、「日本人の頭蓋形態が大きく変化した時期は、日本人の生活が大転換をとげた弥生時代と近代初頭に一致する。明治の文明開化に外国人との混血がほとんどなかったにもかかわらず、大きな変化が起きたのは、食生活を中心とする生活様式の変化によると考えざるを得ない。混血という遺伝的要因が働かなくても骨の形態は大きく変わるから、弥生時代に形態変化が生じた要因として、大陸からの渡来を持ち出す必要はなく、それは狩猟採集生活から農耕社会への変換で十分説明できる。」のだという。

4.保守本流人類学への基本的疑問

(1)進化とは何か
 化とは遺伝子DNAに突然変異が生じ、変異を生じた個体が自然環境の中で淘汰されることによって、長い時間をかけてある形質が次第に優勢になっていくというものである。決して「ある目的」を持って進化が短時間で起こる訳ではない。DNAレベルで縄文人から弥生人へ進化するためには縄文から弥生への移行期間よりも遙かに長時間を要したはずであり生物学的な常識からは考えられないのではないか。もし、DNAレベルの変化ではなく、生活習慣によって後天的に骨格が変化したというのなら。「子供の骨格に変化がないこと」と証明すべきではないのか。また、如何なる生活習慣の変化がどのようなプロセスで骨格の変化に結びついたのかと言うことを実証的、具体的に論証する必要があるであろう。

(2)証拠はあるのか
 戸から明治への移行期に日本人の骨格が変化したというのが例証らしいが、その変化とは「サイズ」の変化ではないのか。明治の日本人が、江戸時代人に比べて、奥目になったり、鼻が高くなったり、彫りが深くなったとでもいうのであろうか。そもそも江戸から明治への移行期に日本人の骨格が変化していることを示す科学的証拠は十分なのか。また、生活習慣の変化も本当に実証されたものなのか。大部分の日本人について、江戸から明治になって食生活が欧米化したという証拠さえないのではないか。そもそも、縄文人から弥生人への移行の際に認められた急激且つ顕著な骨格の変化と同様な変化が、他の地域や他の時代において生活習慣の変化を原因として起こった例が存在するのであろうか。もしそのような例もなく「日本人の特殊性」で説明するとするならば、全く馬鹿げた「科学的」議論であるとしかいいようがない。

5.結論

 野、長谷部から連綿と続く保守本流の人類学は、そもそも、その生い立ちにおいて極めて政治的かつ恣意的であった。しかも、現在の最先端の科学による学際的な研究によって完全に非科学的な説であることが明らかになった。東日本と西日本の顕著な文化的社会的相違を考えても単一民族どころか「日本人は等質である」という主張も十分誤りであり得る。



このボタンを押すとアドレスだけが記された白紙メールが私のところに届きます。


前のページ

目次に戻る

表紙に戻る