第八 平安時代の文化
藤原氏政權を得てしだいに隆盛におもむくに當たり、東亞の形勢はようやく一變して、我が國の大陸諸國との國際關係に至大の影響を與ふるに至れり。從来唐の盛世には、我よりたびたび遣唐使・留學生を派遣して、しきりに彼の文物・制度を輸入したりしが、いまや唐の國勢衰へて騒亂を極め、文化もまた昔日の如くならず。さればもはや巨額の費を抛ち、風浪の險を冒して通交するの頗る得策ならざるを悟り、紀元一千五百五十四年宇多天皇の寛平六年菅原道眞の建議を用ひて、遣唐使を廢止したまへり。間もなく醍醐天皇の御代に唐朝滅亡して、彼我の國交は永く絶えぬ。
また今の満州および東蒙古に國を建てたる渤海は、奈良時代以来二百餘年の間、しばしば我が國来朝して貢獻を怠らざりしに、これも醍醐天皇の朝に契丹後の遼のために滅ぼされたるより、遂にその地方との交通も杜絶せり。また朝鮮半島は我が國と離れてより新羅これを統一して、國威の隆昌なること久しきにわたりしが、その後國勢やうやく亂るるに及び、王建國を建てて高麗と號し、第六十一代朱雀天皇の時遂に新羅を滅し、これに代わりて半島を統一せり。ここに於いて再度使を我に送りて入貢を請ひたれど、朝廷またこれを許したまはず。かくて大陸諸國との國交は、醍醐天皇の御代の前後に至りて全くを斷絶したりしなり。
さきに大陸との交通盛んにして、外来文化のしきりに輸入をせらるる間は、とかく模倣の傾向を免れざりしが、今や國交杜絶して外来文化の流入やみてより、かへつて從来移植したりし外國文明をしだいに消化して、新に國風の文化を發揮するに至れり。これ實に平安時代における文化の特色なりとす。
まづこれを法制の上に見んか、大寳律令はおほむね唐制のままを採用せしものにて、素より我が國の實情に適せざるものあり、または簡にして盡くさざる令條も少なからざるより、時宜に随ひて格・式を出して修正増補を施し、以て律令の實行を期せり。嵯峨天皇の弘仁年中、清和天皇の貞観年中、醍醐天皇の延暦年中に相ついでこれらの格・式を編輯せしめらる。これを三代格式といひ、當時社會一切のこと皆これを適用して處決せしなり。なほ朝廷の機密にあづかる蔵人、不法を取り締まる検非違使などをはじめ、令外の官多く設けられて、おひおひ實權を握るに至り、ために律令の官職を無効にせしものも少なからず。ここに至りて大寳律令の規定は大いに變更しぬ。
また佛教は奈良時代以来甚だ盛なりしも、わが尊祖敬神の念と相容れざるの虞ありしかば、はやくも神佛調和の思想はじまり、神も佛法を喜びてこれを護りたまふと考えられたり。されば東大寺大佛の開眼供養に當り、宇佐八幡神これに臨御せんとの託宣あり、朝廷迎神使を遣はして迎へたてまつりしことなどありしが、ついで最澄の延暦寺を創むるや、日吉神社を叡山に建て、空海は高野の山上に丹生明神を祭りて、以て霊地の鎭守とあがめぬ。かかる神佛の混合は佛教弘布の方便としてしきりに行はるるに及びて、遂には佛を主とするの思想にまで進み、佛は神の本地にして、佛の垂迹せるものすなわち神なりと考ふるに至れり。これいはゆる本地垂迹説にして、わが國の諸神をみな諸佛に配して、神號にも佛・菩薩・權現などの稱號を用ひ、神社に舎利を納め、修法を行ひ、また佛殿にも神體を安置するなど、社寺の行事も頗る混同したりき。
かくて佛法は深く人心に浸染すると共に、迷信もまた流行し、人の疾病にかかるは生霊・死霊の祟なりとて、祈祷を前にして醫薬を後にし、天變・人災すべて加持・祈祷を以てこれを攘はんとせり。さればその信仰は多く現世の幸福利益を求むるにありしかど、また當時社會の優柔なる、人々頗る感情に脆くして、花の散り月の傾くにも涙絶えせぬ様なりしかば、まして露の命をはかなみては、ひたすらに未来の安樂を希ひ、彌陀本願の極樂浄土を欣求するの念もおのづから起こりて、阿彌陀如来の信仰やうやく盛になり行けり。ここに於いて寺院には阿彌陀佛を本尊としてまつるもの多く、またこの思潮に應じて、平安時代の末には僧法然出でて浄土宗を起こし、専心念佛によりて極樂往生を教へ、民衆佛教の興隆する端を啓きたりき。
さきに漢學の盛なりし折は漢文専ら行はれたれば、漢字を使用する必要極めて多かりしのみならず、國語を寫すにもこれを利用する程なりしが、もと漢字は字畫多くして不便なるより、これを使用する間に、おのづから簡便なる法の案出せらるるに至れり。すなはち漢字の字畫を省略せる草體はやうやく變じて平假名となり、また漢字の點畫を省き扁旁を去りたる片假名もおのづから發達し、後にはこれを五十音圖に組み立て、いろは歌に綴るに至りていよいよ假名文字の完成を告げたり。ここに於いてかかる簡易軽便なる假名文字を以て自由に意思感情を表し得て、大いに國文學の發達を助成しぬ。
さればいまや前代の漢文に代わりて假名文の全盛となり、さきに詩賦のために壓倒せられし和歌は再び興隆の運に向ひたり。紀貫之・凡河内躬恒らは醍醐天皇の勅命を奉じて萬葉以外の秀歌を集め、古今集二十巻を撰して上りぬ。これ勅撰和歌集のはじめにして、この時、前代に盛んなりし長歌は既に衰へたるも、短歌は大いに發達し、文質華實を、兼備へ、歌調優麗にして後代の模範となれり。貫之嘗て土佐守となりて清廉の聞こえ高かりしが、任満ちて歸京するに當たり、假名文を以て日記を綴りたるは、すなはち土佐日記にして、實に假名文紀行の祖となり、この後は假名文盛んに行はれて物語・草子・日記・紀行など續々あらはれたり。なほ村上天皇の朝には、新に宮中に和歌所を設け、源順・大中臣能宣らの歌人に命じて古今集の後を承けて後撰集を撰せしめたまふ。これよりたびたび歌集の勅撰あり、歌詠は大宮人随一の娯樂として、久しく行はれたるも、徒に詞華の巧をのみ弄して、やうやく浮華に流れ歌道の實はしだいに衰へ行きぬ。
書道も平安時代の當初は未だ多く唐人の跡を追ふに過ぎざりしが、年を逐うてやうやく唐風を脱化して、優麗なる書風開かれぬ。中にも藤原行成は王羲之の流れを汲みて最も精巧を極め、小野道風・藤原佐理と共に本邦の三蹟として、いづれも國風を發揮せり。かかる折しも、また歌・物語りの隆盛はおのづから草假名の發達を促し、紀貫之をはじめ國文學者はたいてい皆優雅なる假名かきに巧みなりき。この頃また藤原氏は外戚の權を得んがために、争うてその女を宮中に納れんとするに當たり、あらかじめ家庭においてこれを教養するの必要あり、なほ入内の後もその侍女に才女を選びて文藝を競はしめしかば、この趨勢に應じて、文藝に勵む女子の輩出を見るに至れり。然るに男子はなほ漢文を主とせしより、平易なる假名文は専ら夫人の手にうつり、從ひて國文に長ぜる女流の一持に多かりしこと實に空前と稱せらる。中にも一條天皇の御時藤原道隆の女定子入りて皇后となりたまひ、藤原道長の女上東門院更に中宮として相竝立したまふに及び、歌文に長ぜる數多の侍女また相分れて互いに才藝を闘はせり。皇后宮に仕えて最も才氣に富める清少納言は簡勁鋭利なる才筆を振つて時時折々の感興を叙して枕草子を著し、中宮に奉仕して貞淑博識の誉高き紫式部は、婉曲流麗なる文辞を以て當代貴族の生活を如實に描寫して、源氏物語り五十四帖を綴り、共に後世永く詞藻の宗師と仰がる。この他にも和泉式部・小式部内侍・伊勢大輔など、才藻すぐれたる女流頗る多かりき。
かかる間に美術・工藝より風俗の末に至るまで、やうやく國風に同化して、前代と全く趣を異にするに至れり。藤原氏政權を占めて日々驕奢におもむくに從ひ、朝廷はいよいよ衰へて、大内裏も村上天皇の御代に炎上してより、また前日の宏壮なる結構に復する能はず、規模おひおひ狭小となりしに、貴族の邸第はかへつてますます壮麗となりぬ。その邸宅はいはゆる寝殿造りにして、すでに唐式の宮殿より脱化し、優美なる檜皮葺の屋舎相連なりて、遣水・前栽麗はしき庭園に臨み、風流いはんかたなし。道長の建てたる法成寺には御堂を設け、阿彌陀佛をまつりてみづらここに退き、頼通は宇治の別荘を改めて佛寺となし、平等院と名づけたり。道長が一代の富を盡くして集めたる銘木・寳石は今に片影をさへ留むるものなきも、平等院の佛殿鳳凰堂はなほ現存して、當代藝術の精華を發揮せり。堂は宇治川の清流に臨みて風光明媚なるうへに、殿廊の結構恰も鳥の両翼を張りて尾を曳くになぞらへ、棟の両端に立てる金銅造の鳳凰は風のまにまに舞ひて頗る技巧の妙を極む。堂内に本尊として安置せる、一代の名工定朝の作れる金色の丈六彌陀佛は、有名なる書家宅磨為成の極樂の圖を畫ける四壁の彩畫、または華麗精緻なる幾多の装飾品と相應じて、優美高雅なる風趣殆ど名伏すべからず。かくて彫刻繪畫の技も大いに發達し、嘗て寛平年中紫宸殿に賢聖障子を畫きて名を馳せたる巨勢金岡の流に名人多く、佛畫に巧みなるものまた少からzu。なほこれと別に一派を起こしたるものに藤原基光があり、纎麗なる土佐繪の祖と仰がれ、唐風の畫流に對し和様の一家を成して永く後世に及びぬ。
攝關家の榮華に耽るにつれ、京都の貴族はすべて華奢を極め、平安京近郊の勝地を擇びて、別墅・山荘を造り、園地の營みに數寄をこらし、ここに遊べる男女は綾羅錦繍の装いにひたすら容儀の鮮麗を競へり。當時貴族の装束はすでに唐服の模倣よりやうやく國風に脱化し、男子の正装たる束帯、女子の正装たる十二單の如きは、いづれも優美華麗にして、四季折々の配色に最も意匠をこらしぬ。かくて朝臣の生活は一般に遊惰に流れ、花の朝月の夕詩歌管弦を弄び宴樂遊興を事とせしかば、歌舞・音樂大いに發達し、内外のもの相融和して、大陸より傳来せる壮麗なる舞樂・朗詠などを歌いて奏づる閑雅なる管弦、盛んに竝び行はる。殊に一條天皇の朝には、これらの遊藝盛を極め、文藝に秀でたる縉紳輩出せしが、藤原公任・藤原齋信・源俊賢・藤原行成は四納言と稱せられて、特に才藝を以て今日にうたはる。中にも公任は道長の催せる大井川三船の雅遊に獨り誉を揚げ、またその著せる和漢朗詠集は後世傳誦して長く諷詠に用ひらる。

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