第七 攝關政治 荘園
藤原氏はその祖鎌足が中大兄皇子を奉じて大化の改新を助成し、爾来政治に参與して大功を樹てたりしが、その子不比等または要路に立ちて律令を撰修し、枢機に列して勢力あり、加ふるに朝廷の外戚となりて一族大いに世に顯れたり。ここに於いてその家ますます繁榮し、平安時代の當初不比等の玄孫冬嗣に至りて最も隆盛となりぬ。冬嗣は嵯峨天皇の朝に仕え、蔵人頭として機密にあづかりてより、累進して左大臣に上る。冬嗣寛容にして見識に富み、専ら自家の興隆に力め、南圓堂を興福寺内に建てて子孫の福運を祈り、また勸學院を起こして一族子弟を教育し、施薬院を設けて同族の貧困なるものを収容せり。かくてその女順子(第五十四代仁明天皇の女御)の御腹なる第五十五代文徳天皇立ちたまふに及びて、外戚の權いよいよ重く、その家獨り榮えたりき。
當時貴族はおのが子弟教養のために各々競いて私立の學院を設け、藤原氏の外にも和氣氏の弘文院、橘氏の學館院、在原氏の奨學院など、續々として起こり、以て王朝の文華を飾りしが、中にも勸學院の教育最も振るいて、藤原家より幾多の英俊を出したり。しかしてこれらの人々は、いづれも自家を起こすの念にのみ駆られて、まま僣上の言動あり。冬嗣の子良房はその女明子を文徳天皇の後宮に納れたてまつり、後に右大臣より一躍して太政大臣に任ぜらる。太政大臣は則闕の官とて頗る重く、人臣にしてこれに任ぜらるる例なきに、良房一たびこの官に上りてより、殆どその一家の壟斷するところとなれり。ついで良房は、その外孫にあたらせたまふ幼冲なる清和天皇を擁立して、みづら攝政となり、また良房の養子基經は不遜にも第五十七代陽成天皇を廢して第五十八代光孝天皇を御位に即けたてまつりしが、第五十九代宇多天皇立ちたまふに及び、詔して萬機巨細となく基經に關白して後奏下せしめたもう。關白の稱ここに始まり、名は異なれども、實は攝政と相同じ。これより後、藤原氏は天皇御幼少の時は攝政となり、天皇長じたまふに至りて關白となるの例を開けり。蓋しわが國の制、攝政は必ず皇族の任じられたまふ定めなれば、人臣の攝政は全く異例なるにかかはらず、漢土に先例ありとて、時人も別にこれを怪しまざりしは、また以て思想の變遷せるを見るべし。
宇多天皇は一旦基經を關白に任じたまひしも、藤原氏の權力ますます強大にして專恣の行少なからざるを憂へたまひ、時弊を匡正したまはんがために、基經の薨ぜし後、菅原道眞を登用してその勢を抑へんとしたまふ。道眞は儒家の名門に生まれ、幼にして頴悟、早くより父祖の家學を受けて詩文に長じ、才學一世に秀でたるのみならず、天性忠誠にして徳望極めて高し。當時育英の業はおほむねおのが一族に限るの風なるに、獨り道眞は、その書斎紅梅殿をひろく世に開放して篤志のものの閲覽にまかせたれば、諸家の子弟ここに學びて立身せしもの多く、人呼んでこれを登竜門と稱したりといふ。されば宇多天皇は道眞の才徳を認めて、これを抜擢して蔵人頭の要職に補したまひしが、既にして御位を醍醐天皇に譲りたまふに及び、新帝なほ御幼年なりしも、別に攝政を置かず、道眞をして基經の子時平とともに政務を執らしめ、特に御遺誡を造りて新帝の御訓誡に供えたまへり。醍醐天皇また仁慈の御心深く、世は泰平にして延喜の聖代とうたはれ、後の村上天皇の天暦の御世と竝び稱せらるほどにて、父帝の御誡を奉じて、時平を左大臣、道眞を右大臣として相共に政務に勵ましめたまふ。かくて道眞の寵任日に加わり、聲望いよいよ高まるに從ひ、時平大いに不平を抱き、道眞の榮達を妬める人々と相結びてこれを讒奏したれば、朝廷遂に道眞を貶して太宰權帥とし、また數多の子弟男女を各地に配流したまひぬ。道眞罪なくして配所の月を眺むるも、毫も他を恨まず、かへつておのが潔白を天の照覽に訴へてみづから慰め、また日夜慎みて、門を閉ぢて文筆を友とし、恩賜の御衣を捧げては、天恩の涯なきを偲び、かりにも忠誠の念を失はざりき。よりてその薨後間もなく本官に復し、更にしばしば官位を追贈せられて、ついに正一太政大臣に至り、天満天神として深く上下の崇敬を受け、今に北野神社・太宰府神社をはじめ、山村僻邑に至るまで、その祠を見ざるところなく、殊に文學の神として永く世に敬慕せらる。
道眞配流せられて宇多天皇の御志空しくなりし後は、藤原氏は威權ますます盛んにして、おのれに縁なき貴族を次第に排斥したれば、他の名族舊家もいつしか屈服してその頤使に從い、藤原氏の勢または竝ぶものなし。されば攝關より大臣・大將など顯要の地位をば悉くその一門にて占め、獨り朝廷の政權をほしいままにせしうへに、また數多の荘園を私有して、いよいよ實力を加えたりき。荘園とはもと別荘・園地の義なれども、勲功をあるものに賜はる功田、寺社の寄附田、または開墾田などはおほむねその私有を許されたるより、いづれも荘園に編入し、租税を免除せらるるもの少なからず。殊に權門勢家は開墾・兼併などによりて、荘園の名義の下に広大なる土地を私有して租税を官に納めず、頗る専權を極めたり。ここに於いて公田おひおひに減じて班田収授の制度は行はるべくもあらず。貴族が天下の富を私して驕奢に流るるに引きかへ、朝廷の用度はますます窮乏して綱紀全く振はざるに至りぬ。
されば朝廷の政治はいつしか藤原氏の心のままになり行きし中にも、基經の孫九條師輔に至り一におのが一家の發展にのみ力め、その女安子を村上天皇の皇后に進めたてまつり、その庇護によりて、九條家の一流獨り繁榮して藤原氏の權勢を獨占するに至れり。ここに於いてもはや他の九條家に對抗すべきものなきを以て、權力の争いはかへつてその一門のうちにうつり、父子・兄弟牆に鬩ぐの醜態を呈したり。師輔の子兼通・兼家の兄弟が互いに攝關の地位を争ひ、兼家の死後その子道隆・道兼が相反目せるが如き、一身の利害のためには殆ど倫道を顧みざるの様なりしが、最後の勝利は遂に兼家の季子道長の手に歸しぬ。道長は豪邁にして頗る才略あり、第六十六代一條・第六十七代三條・第六十八代後一條天皇の三朝に歴任し、政柄を掌握することおよそ三十年、その女は三人まで立ちて皇后となり、その外孫に當たらせたもう皇子は三人まで引續きて帝位に登りたまふに至れり。かくてその家の荘園天下に遍く富皇室を凌ぎて驕奢を極め、専横の振舞また少なからず。三條天皇は道長の専權を快からず思召したまひ、心ならずも御位を去らんとていと哀れなる御製を残したまひしに、道長は同じ雲井の月を眺めて、望月の缺けたることのなきおのが榮華の程を誇れり。たまたま道長病みて入道し、法成寺を建ててこれに移り住みしが、その結構壮麗古今に絶し、世に極樂浄土の現出とうたはる。これが築造には僭越にも宮中・神泉苑などの石を運ばしめてその用に充て、その子頼通は諸國に令して、むしろ公事を緩うすともこの役に怠ることなかれといへり。驕慢もここに至りて極まれいといふべし。實に道長の一代は藤原氏隆盛の頂點にして、榮華物語・大鏡の類書は全くこの盛況を頌せんがために編述したるものなり。
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