第六 平安時代初期の趨勢
第四十九代光仁天皇の稱徳天皇について立ちたまふや、まづ和氣清麻呂らを召還して本位に復すると共に、道鏡を造下野國薬師寺別當に貶して、忠逆をただしたまひ、更に精を勵まして治をはかり、從来の積弊を一掃したまはんとす。當時財政窮乏の後を承けて、御みづから節約をはかりたまひ、たびたび天下の租税を免除し、地方の飢饉を救助し、また吏を諸國に派遣して國司の誅求を戒めたまへるなど、つとめて仁政を施して専ら民力の涵養をはかりたまへり。ここに於いて前代の弊政やうやく改まりて綱紀やや振ひたりしが、天皇の御子第五十代桓武天皇の御代に及びては、更に全く前代よりの面目を一新するに至りぬ。
桓武天皇は英邁にましまし、先帝の御遺志を繼ぎていよいよ積年の宿弊を刷新し、朝廷の綱紀を振張したまはんとするに當たり、まづ奈良の舊都を去りて、人心を新にするの必要を察したまへり。よりて山河交通の便ありて、まさに國運の發展に適切なる形勝の地を選び、ここに新都を建設せんとしたまひ、遂に和氣清麻呂の建議に基づきて、紀元一千四百五十四年延暦十三年都を平安京に奠めて萬代の帝都を期したまふ。この京は、その規模平城京よりもやや大にして、東西約四十二町、南北約四十九町にわたり、左・右両京の制、條坊の區畫など、ほぼ平城京と同じく、殿堂・邸第・輪奐の美を競い、子来の民軒を列ねて殷賑を極めたり。されど右京ははじめより榮えずして、左京のみ繁榮を来し、今の京都市は、主としてその左京とさらに洛東に發展したる市街とにより成立せるものなり。
奈良時代の餘弊は地方未開にして民力の疲弊せるを最とすれば、天皇特に大御心を地方の政治に寄せたまふ。當時國司は多く奸曲にして私利を貪り、民政頗る紊亂せしが、殊に國司の任期満ちて交代するの際に、紛擾を極むるを常としたれば、天皇新たに勘解由使を置き、その治績を勘査せしめて厳に理非をただし、更に辺境の開拓を進めて、良民の安堵をはかりたまへり。蝦夷の經略は日本海に面する地方には早く進捗せしが、太平洋に面せる地方には遅々として進まず。聖武天皇の朝に至りて、出羽經營の中心は既に秋田城に進みしも、陸奥の鎭所はようやく陸前の多賀城に達せしに過ぎず。さればあるいは直路を開き、あるいは城塞を設けて、つとめて両者の連絡を通ぜんとはかりしも、山岳畳畳兵をやるに困難にして、輜重の輸送また容易ならず、歴朝の鎭撫も未だ甚だしき功績を擧ぐることを得ざりき。ここに於いて桓武天皇は夷地の事情に通ぜる坂上田村麻呂を抜擢して征夷大將軍に任じ、これが征服をはからしめたまふ。田村麻呂は漢人の裔にして、武勇絶倫、大いに夷賊を破り、ついに陸中に膽澤・志波の両城を築きてこれに備えたれば、秋田城との連絡はじめて容易となり、蝦夷屏息して騒亂鎭定し、膽澤城はこれより鎭守府として、永く東北地方統御することとなりぬ。
また佛教は、奈良時代において隆盛を極めたれど、弊害も随ひて百出せしかば、桓武天皇はその匡正に力めさせられ、最澄・空海の二名僧を信任して、これが革新にあたらしめたまふ。最澄は近江の人にして、既に延暦七年比叡山上に延暦寺を建てしが、ついで詔を受けて入唐し天臺山國清寺の道邃法師に就きて、天臺宗の教理を學び、程なく歸朝をしてこれを弘めたり。後、第五十六代清和天皇の御世に至り、傳教大師の諡號を賜はりき。
空海は讃岐の人にして、最澄と共に入唐し、長安青龍寺の僧慧果に就きて眞言宗を學び、歸朝の後大いにこの宗旨を弘め、紀伊國高野山上に金剛峯寺を開き、第五十二代嵯峨天皇の深き御歸依を得て、更に京都の東寺を賜はれり。後、醍醐天皇空海に弘法大師の號を諡りたまいぬ。この両宗は、奈良時代の寺院を都市に營みたると異なり、峨峨たる山上翠緑の際にその堂塔を設けて、さらに森厳荘重の趣を加へたれば、かへつて衆庶の随喜渇仰をひけり。加ふるに、いづれも深遠なる教理を探り、加持・祈祷を主として、専ら國家の鎭護を旨としたれば、全く前代の宗教と面目を異にせり。また両僧の諸國をめぐりて布教に從事するや、つとめて社會の公益を起し、最澄は美濃・信濃の山中に宿舎を建てて旅人の便をはかり、空海は讃岐に満濃池の堤を築きて灌漑に便益を與えしが、なほ、最澄は専ら力を學僧の教育に盡し、空海は詩文・書道の發達に貢獻せしうへに、綜藝種智院を京都に開きて、貴賤・僧俗の別なく収容して儒・佛二道を授け、當時政府の毫も庶民教育を顧みざる間に、はやくも庶民・宗教學校の魁をなせり。かくてこの両宗はひろく上下の尊信を博して、ますます普及し永く社會に勢力を維持して、以て今日に至れり。
桓武天皇をはじめたてまつり、以後御歴代の天皇また御心を政治に留めて、ますます綱紀の振張をはかりたまひしかば、平安時代のはじめ數代の間は朝威最も盛んにして文化も隆盛を極めたり。桓武天皇の都を平安に奠めさせらるるや、新たに大學寮を設け、勸學田を寄せて大いに教育を奨勵したまひしかば、講堂寮舎の結構整備すると共に、文教勃然として起これり。中にも嵯峨天皇は大いに詩文を好みたまひ、爾来歴朝これを貴びたまひしかば、漢文學特に發達して勅撰の詩文集もあらはれ、文章は經國の大業なりとて經國集と題するに至りし程なり。從ひて小野篁・都良香のごとき著名なる文學者輩出して、空海などと共に才藻を以て稱せられしも、詩は唯唐の白樂天の調のみ慕ひ、文もまた六朝の四六駢儷を模して、字句の彫琢を主とするの傾きあり。書道は専ら晋の王羲之の流を傳へ、嵯峨天皇は空海・橘逸勢と共に草隷を巧みにしたまひ、殿閣諸門の額に染筆して、三筆の誉を得たまひしが、いづれも筆力雄渾後世の規範とたへらる。
かく當時の文化は、未だ大陸の模倣に過ぎずして、しかもおもに漢文學に傾きたれば、大學の分科中最も重んぜられたる紀傳道(歴史)も、文章を主として文章道とかはり、後には文章博士を置きて専ら詩文の研究に耽り、他の諸道の教育はいたく衰へはじめたり。されば歴史の講修は全く行はれず、朝堂に於ける日本書紀の進講も次第に振るはずして、遂に村上天皇の御代に及びてやみぬ。ここにおいて學問やうやく浮華に流れて實用に遠ざかり、國民の思想はまさに一變するに至りき。
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