第三十一 明治初年の外交
内治の整頓につれて外交も着々進捗せり。維新の當初、朝廷は世界の大勢を察し、斷然從来の鎖國主義を捨てて、開國和親の方針を採り、明治元年正月、嘉彰親王を外國事務總裁となし、三條實美・東久世通禧・伊達宗城・後藤象二郎らを取調掛となし、内外の政事一に天皇親裁あちせらるゝの旨を各國公使に告げたまへり。これと同時に、國内には、諸外國と和親し、外交の事専ら萬國公法に從ふべき旨を布告したまへり。ついで、京都皇宮に各國公使を召し、天皇紫宸殿に出御して佛國公使らに拝謁を賜ひたりしが、三月御誓文の發布によりて、外交の機運ますます進み、二年に外務省を設け、三年には公使を英・佛・普・米など重なる條約國に駐箚せしむるに至れり。されど民間には、なほ外人を嫌忌するものありて、交際とかく圓滑ならざりしも、おひおひ外交に慣れて、親交はは年と共に加りぬ。
然るに、幕府がさきに締結せる安政の假條約は、十四年の後には改訂し得る約定なれば、明治五年は恰もその改約の期に當れるを以て、あらかじめ使節を歐米に派遣して、我が國の實情を知らしめ、兼ねて諸國の文物・制度を視祭せしめんとし、四年十月右大臣岩倉具視を特命全權大使とし、木戸孝允・大久保利通・伊藤博文・山口尚芳らを副使として、歐米諸國に派遣せり。一行まづ米國に渡りて、逐次歐洲諸國を巡歴し、約二箇年の日子を費して、各國の文明を視察すると共に、國交を厚くし、親和を重ねて歸朝したり。
かくの如く、廣く西洋諸國と親交を結ぶと共に、我が隣邦との修好もおひおひに開け行きしが、まづ解決を急ぐべきは、北境劃定の議なり。こは舊幕以来の宿題にして、しばしばロシヤと交渉を重ねたる後、遂に安政の和親條約に於て、千島列島を二分して、択捉以南を我が領、得撫以北を露領とし、樺太には別に境界を定めずして、両國人雑居の地と定めたりき。後、間もなく、露國の東部シベリヤ總督ムラビヨフ(Muraviev)は清國とアイグン(愛琿)條約を締結して、ウスリ江以東の沿海州一帯を共有することとなりしより、その對岸樺太全島も、當然露領たりと主張し、安政六年ムラビヨフみづから来朝して、我が承認を求めたりしも果さず。文久二年幕府更に外國奉行竹内保徳・松平康直・目付京極高朗を露都に遣はして、樺太の境界を議せしめ、北緯五十度を以て分たしめんとせしも、これまた協はず、後、再度交渉を重ねたりしも、何等決する上ころなくして、以て明治に及べり。
かゝる間に、露國は清國と北京條約を結びて、いよいよ沿海洲を占有し、ますます樺太に迫らんとするの形勢なれば我が政府は大いに北辺の經營に留意しぬ。さきに幕府は、安政以降函館奉行を置きて、蝦夷地を經營せしめしが、その效果容易に擧らず。よりて維新の後、大いにこれが開拓をはかり、明治二年函館の亂平ぐや、その七月新に開拓使を置き蝦夷地を北海道と改稱して、十一國に分ちたりしが、翌三年二月更に樺太開拓使を置き、開拓次官黒田清隆をして専らその施設に當らしむ。こゝに於て、清隆はあまねく樺太島内を巡視し、なほ海外諸國の拓殖事業視察のため、歐洲に渡航し、歸朝の後、樺太は地利少きを似て、寧ろそれを棄てて、北海道を經督するの勝れることを建議せり。朝議これを採用して、明治八年、露國駐箚全權公使榎本武揚をして彼と交渉せしめ、樺太全島を露國に譲り、千島列島全部を我が國に収むることとし、多年の紛議始めて解決しぬ。かくて、北海道の開拓に全力を注ぎ、かねてより札幌に開拓使廳を置き、函館・根室をはじめ、各地に出張所を設けて、土民の撫育教化に盡すと共に、一方産業を興し、海陸交通の便宜を與へて、内地の移住民を招き、八年より更に屯田兵を置きて、國防と開墾を兼ねしめ、拓殖の業大いに進みたり。後、開拓使をやめ、十九年に北海道廳を置きて今日に至れり。
転じて西隣諸邦との關係を見るに、江戸時代には、鎖國以後も清國の商人は常に長崎に来りて通商を營みしかど、彼我両國の國交は遂に開けざりしかば、維新後朝廷はその國交を復せんとし、明治四年伊達宗城らを清國に遣はして、修好通商をはからしむ。こゝに於て、宗城らは天津に赴き、李鴻章と談判して、七月遂に日清修好條規を締結せり。この頃たまたま我が琉球の民臺灣に漂着し、五十餘名牡丹社の生蕃のために殺害せらる。琉球はかねてより薩藩に隷屬せしを以て、鹿兒島縣参事大山綱良みづから往きて蕃人を討伐せんことを請ひ、征臺の議始めて起れり。されど政府はこれを許さず、六年外務卿副島種臣を清國に遣はして、さきに締結したる條約の批准を交換せしむるに當り、乗ねて生蕃の事を質さしめしに、清國政府は、生蕃は全く化外の民なる旨を答へたり。然るにこの時また備中小田縣(備中國及び備後國の一部を管し、備中國小田郡笠岡に県廳を置く)の民、臺灣に漂着して蕃人に劫掠せられたれば、政府は後患を絶たんと欲し、いよいよ征臺の師を起すに決し、七年陸軍中將西郷從道を都督となし、陸軍少將谷干城・海軍少將赤松則良を参軍となし、兵三千餘を率ゐて往いて討たしむ。我が軍の上陸するや、諸蕃争ひて降りしに、牡丹社獨り頑強に抵抗したりしかば、我が兵三道より竝び進みて、これを降せり。然るに、清國は俄に蕃地をもその版圖に屬するものと稱して異議を挟み、速かに撤兵せんことを我に求めたり。よりて大久保利通命を受けで北京に到り、反復辨論せしに議協はず、國交まさに破れんとしたりしに、駐清英國公使ウェード(Wade)居中調停し、清は遂に我が征臺の師の義擧なるを認め、被害民撫恤金・征臺費など、すべて五十萬両(約七十七萬圓)を支辨し、爾後生蕃を検束して害を邦人に加へざらしむることを約して事収り、ついで我が征臺軍も凱旋せり。
この征臺の役は、おのづから琉球の處置を導きぬ。琉球は、はやくより鳥津氏に屬し薩藩の附庸たりしかば、維新後廢藩置縣の際、政府はこれを鹿兒島縣の所轄に屬せしむ。ついで明治五年、琉球國王尚泰の、使を東京に上らせて、王政一新を賀し、方物を獻ずるに及びて、朝廷尚泰を琉球藩王に封じ、華族に列せしめたり。されど、琉球は古来支那にも通聘して貿易を營み、両屬の嫌ありしかば、八年征臺の事終るに及び、朝廷尚泰に命じて、爾後朝貢使を清に送ることを厳禁し、我が正朔を奉じて我が法律を遵行せしめ、十二年遂に琉球藩を廢して沖縄縣となし、ひとしく縣治を布くに至れり。然るに清國はこれに異議を唱へ、我はこれを論駁して折衝を重ねたりしが、たまたま来遊中の米國前大統領グラント(Grant)両國の間を調停して、紛議やうやく解決し、琉球の我が版圖たることいよいよ明かとなれり。
また古来我が國と唇歯の關係ある朝鮮國とは、その信使の来聘も幕末より全く絶えたりしかば、維新の際朝廷これを復せんとし、明治元年對馬の宗氏をして王政維新の旨を告げしめて、修交をはからしむ。然るに、朝鮮國王李熙は若年にして、その實父大院君李?應政權を握り、固く鎖國主義を執りて、いたく外人を侮り、我が歐米に親しむを嫌ひて、我が求を拒みたり。よりて、政府はしばしば使節を遣はして、彼の誤解を辨じ、鋭意修好を勸めたりしも、なほ頑として應ぜざりしかば、民間の志士はその不遜を憤り、これを責めんと主張するものあり。外務權大丞丸山作樂らも、ひそかに黨を結びて朝鮮を襲撃せんと企てしが、事あらはれて罪せられぬ。
我が政府はあくまで朝鮮との間を平和に解決せんとし、明治五年花房義質らを遣はして國交を促し、從来の對馬との貿易をやめしめ、宗家の設けたる釜山の草梁公館を収めて我が政府の官吏を駐在せしむることとせり。然るに、翌六年彼の官吏にして、我を侮辱するの文を草梁公館の門前に公示するものあるに及びて、世論囂々として、征韓の議大いに起れり。陸軍大將兼参議西郷隆盛は、みづから大使として京城に赴きて、彼の政府に諭し、なほ聴かずして害を大使に加ふるに於ては、堂々問罪の師を出すべしと主張し、副島種臣・後藤象二郎・板垣退助・江藤新平の四参議またその議を賛し、征韓の議はまきに決せんとせり。たまたま岩倉具視歐米の視察を終へて歸朝するや、圓治整頓の急務なるを論じて、事を外に構ふるの不可なるを主唱し、大久保利通・木戸孝允らもこれに賛同したれば、征韓論遂に破れ、隆盛をはじめ四参議は、袂を連ねて官を辞し、陸軍少將桐野利秋・篠原國幹らもまた相ついで職を去り、岩倉・大久保ら専ら内閣に重きをなしぬ。
かくて朝鮮には排日の思想高まり、明治八年我が雲揚艦清國牛荘に赴かんとする途中、朝鮮の近海を過ぎ、淡水を江華島に求めんとせしに、その守兵俄に我が軍艦を砲撃せり。艦長井上良馨やむなく應戦して、忽ちその砲臺を陷れ、歸朝して事由を政府に申告せり。こゝに於て、政府は、参議黒田清隆及び井上馨を朝鮮に遣はして、軍艦砲撃の不法を責め、兼ねて修好を議せしむ。朝鮮政府遂にその暴擧を謝し、我が要求に從ひたれば、翌九年二月二十六日、修交條規十二條を締結し、朝鮮が自主の國たることを明かにし、釜山の外二港を開くことを約せしめ、両國和親の實やうやく擧り、明治初年以来の問題始めて解決せられたり。これより西洋諸國も、相つぎて朝鮮と條約を結び、通商を開くに至れり。かくて我が國は、花房義質を代理公使として赴任せしめ、十三年京城に公使館を設け、義質を駐箚せしめたりしが、朝鮮も條約に從ひて、まづ元山津を開き、後、仁川港を開きて貿易港となしぬ。
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