第三十 明治維新
慶應三年正月九日、明治天皇御英明の天資を以て践祚したまふや、程なくその十月十四日、將軍徳川慶喜大政を奉還せしかば、翌日直ちにこれを聴許したまふ。越えて十二月、さきに西走せし三條實美以下の諸卿及び毛利敬親父子の官位を復して入京を許したまひ、その九日いよいよ王政復古の大號令を發して、諸事神武天皇御創業の始に基づき、上下の別なく至當の公議を竭し、天下と休戚を同じくあそばさるべき叡慮を諭したまへり。こゝに於て、攝政・關白・征夷大將軍以下從来の官職は廢せられて、新に總裁・議定・参與の三職設けられ有栖川宮熾仁親王は總裁に、仁和寺宮嘉彰親王・徳川慶勝・松平慶永・山内豊信らは議定に、大原重徳・岩倉具視・西郷隆盛・大久保利通・後藤象二郎らは参與に任ぜられ、天皇萬機を親裁したまふこととなれり。かくてその夜、天皇親臨の下に、三職の人々相集り、小御所會議を開きて徳川氏の處分を決し、王政維新の政ここに始りぬ。
こゝに於て、新政の大方針を確立せんがために、翌慶應四年三月十四日、天皇紫辰殿に出御し、親王・公卿・諸侯を率ゐて、御みづから神祇を祭りて五事の國是を神明に誓ひ、これを國民に宣したまへり。すなはち、
一 廣ク會議ヲ興シ萬機公論ニ決スベシ
一 上下心ヲ一ニシテ盛二經綸ヲ行フベシ
一 官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦ザラシメン事ヲ要ス
一 舊来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クベシ
一 智識ヲ世界ニ求メ大二皇基ヲ振起スベシ
我國未曾有ノ變革フ為ントシ 朕躬ヲ以テ衆ニ先シ天地神明ニ誓ヒ大二斯國是ヲ定メ萬民保全ノ道ヲ立ントス衆亦此旨趣ニ基キ協心努力セヨ
と。これを五箇條の御誓文といふ。諸臣これを拝戴して、皆感激し、黽勉從事、以て叡慮に副ひたてまつらん旨を奉答せり。爾後諸種の新政は悉くこの御誓文に基づきて施行せられたりき。
大政の指針を宣布したまふや、ついで八月二十七日、天皇即位の大禮を紫宸殿に於て奉行したまへり。諸儀從来の流例を改めて、すべてわが古制に則り、天皇束帯を召され、南庭の御飾も幣旗を用ひたまひしが、なほ水戸家より奉獻せる大地球儀を南庭に据えて、廣く世界と親交を結び國威を宣揚するの意を寓したまへりといふ。たゞこの際行はせらるべき大嘗祭は、内外多事の折とて、特に延期せられ、後、東京に於て御親祭あそばされたりしなり。しかして古例に從ひて、大禮の翌月改元あり、慶應四年を改めて明治元年とし、一世一元の制を定めたまへり。こゝに於て、古来吉凶禍福などによりて、しばしば改元の行はれし煩瑣の舊制は廢せられ、爾後元號を以て、直ちにその御代をあらはすの永式とはなりぬ。
これより先、大久保利通は、王政維新に際し人心を新にするには、英斷を以て遷都を決行するに若くなしと考へ、はやくも、内外交通の至便なる大阪に遷都すべしとの意見を建白したりしが、その後、江戸の地が大阪に勝る所以を論じて、斷然江戸に新都を建つべしと述ぶるものも少からず。遂に江戸を東京と改稱し、明治元年九月、天皇賢所を奉じて東幸したまふ。途中鳳輦をとゞめて農事をみそなはし、おそれ多くも庶民の辛苦を偲ばせたまひ、また始めて渺茫たる太平洋を叡覽あそばされしが、程なく東京に着御、江戸城を皇居として東京城と稱せしめたまへり。ついで十二月、一旦京都に還幸し、一條忠香の御女美子を皇后に立てたまひたる後、翌二年三月、再び京都皇宮を發輦し、まづ伊勢に行幸して神官に御親謁あり、それより錦旗を東風にひるがへして東海道を下り、御恙なく東京城に入りたまひ、爾来永く皇居をここに奠めたまへり。かゝる間に、辱くも天皇は、維新功臣の賞賜は素より、古来幾多の忠臣烈士を追賞したまひ、また招魂社を東京九段坂に建てて、維新の前後王事に殉ぜしものを弔祭したまひたるなど、聖恩は深く枯骨にうるほひぬ。
かくて、諸政着々更新を見たるも、制度の根本的革新行はれずして、王政復古の實未だ完からざりき。朝廷さきに舊幕府の領地を収め、これに從来の皇室御料地を合はせて直轄し、これを府縣に分ち、知事を置きて管掌せしめたるも、廣大なる諸藩の領地はなほ依然として舊のまゝなれば、全國畫一の政治を行ふ能はず、從つて全國の租入は千百餘萬石に達するも、政府の歳入は僅かに百八十萬石に過ぎずして、たうてい内外多端なる當時の用度を支辨すべくもあらず。木戸孝允夙にこの情勢を憂へ、諸侯の版籍を奉還せしめて、王政の根柢を堅くせんとし、これを三條實美・岩倉具視に建言し、更にその藩主に勸むるところあり。ついで大久保利通と謀り、なほ副島種臣・後藤象二郎に説き、各々その藩主に勸めたりしかば、明治二年正月二十日長門藩主毛利敬親・薩摩藩主島津忠義・肥前藩主鍋島直大・土佐藩主山内豊範の四藩主連署して上表し、版籍を奉還せんことを奏請せり。よりて他の諸藩主もまた競ひてこれにならひたれば、六月天皇勅してその請を許したまひ、舊藩主を以て各々その知藩事に任じ、府縣の例にならひて、管内の政務を執らしめたまへり。こゝに於て、全國の土地・人民皆朝廷に歸し、政令悉く一途に出づることとなりぬ。
既に地方は府・藩・縣の三治に統一せられたりしも、その管地の大小・配置の錯綜甚だしく、施政上の不便多かりしのみならず、藩にありては、なほ因襲の久しき、知藩事と士民との間に、容易にもとの主從の情實を去ること能はずして、為政の阻害せらるゝこと少からざりき。されば、木戸孝允は、はやくも、藩を廢して縣を置き、新に知事を任命して、實權を朝廷に収むるの急務なることを唱へ、大久保利通・西郷隆盛・板垣退助らと謀るところあり。かくて四年七月十四日、天皇親しく在京の知藩事を召し、詔を下して廢藩置縣の旨を諭したまへり。かくて、一時に全國二百六十餘藩の知藩事の職を解きて東京に移住せしめ、ついで大いに府縣の分合を行ひ、全國を分ちて一使・三府・七十二縣となし、新に人材を抜擢して、府知事・縣令を任命して政務を行はしめたり。こゝに於て、封建の餘習全く除かれ、郡縣の制始めて確立しぬ。その後、地方の行政區畫はしばしば改正せられ、二十二年に一道・三府・四十三縣となりて現今に至れり。思ふに、かゝる廢藩置縣の如き一大變革が些かの支障なく、一朝にして行はるゝは、ひとしく世界の驚歎するところにして、維新の大業こゝに始めて成れりといふべし。
かゝる間に、新政府の官制は、三職定置以来たびたび改正せられたり。明治元年正月太政官を置きて職制を定め、議定・参與に政務を分掌せしめし上、なほ廣く公議を採るために諸藩の才俊を徴して徴士となし、また諸藩より貢士を選出せしめて、共に政治にあづからしむ。ついで、閏四月、御誓文の趣旨に基づきて、太政官に七官を設けて、立法・司法・行政を分掌せしめ、はやくも議院制度の端を開きたり。
越えて明治二年、王政復古の精神によりて官制を改め、神祇・太政の二官を竝置し、職制多く大寳の古制に準據したりしが、四年廢藩置縣の斷行により、更に中央政府の組織に大改訂を施し、神祇官を廢し太政官の官制を整へたり。
かくて、諸官省め増設改定は、時勢の必要に應じて、たびたび行はれ、遂に明治十八年の内閣制度の創設に及びしなり。
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