第三十二 西洋文化の採用 社會の變遷
さきに御誓文に、廣く智識を世界に求むるの方針を示させたまひしより、岩倉大使一行の歐米に派遣せらるゝに當り、數多の留學生伴なはれ行きしが、從来とかく退嬰的なりし女性も數人その中に交れり。これより國民のあるひは海外諸國を視察し、あるひは留學して、西洋の文化を輸入するもの多く、また海外の事情に通ぜる新進の士が幾多の斬新なる議を立てて舊習を打破したるもの少からざりしかば、諸般の制度より風俗の末に至るまで、しきりに變革せられて、社會の面目とみに改りぬ。
中にも、國運の發展は主として國民教育に俟つべきを以て、教育は特に重んぜられ、明治四年文部省を置きて大木喬任を文部卿として、學政を總轄せしむ。ついで翌五年八月、新に學制を頒布し、全國到るところに小學校を設けて、六歳に至れば必ず入學せしめ、貴賤貧富の別なく、また男女を問はず、國民一般に學に就かしめて、いはゆる邑に不學の戸なく、家に不學の人なからしめんことを期せり。加ふるに學制の規模遠大にして、全國に五萬の小學校を設くるを理想とし、更に高等教育・女子教育・實業教育にも及びて委曲を盡し、爾後學教の振興は多くこれによれり。こゝに於て、新學制によりて續々學校の開設を見、普通教育はやうやく都鄙にあまねく、高等教育の設備もおひおひに整ひぬ。就中、舊幕府の官學たりし昌平校は、明治の初、大學と改められて和漢學を教へ、幕府の創設せる洋學所の改稱せられたる開成所は南校として洋學を、醫學所は東校として醫學を授けたりしが、當時洋學の講習を以て最も須要急務となし、間もなく大學を閉ぢて、南校を開成學校、東校を東京醫學校と改めて、これが興隆をはかれり。これ、後の東京帝國大學の起原なり。この他、官・公立の各種専門學校の設けらるゝもの少からず。私立には福沢諭吉の幕末に創立せる慶應義塾及び大隈重信の早稲田に設けたる東京専門學校など、その最も著名なるものにて、いづれも新文明の開發にあづかりて力ありき。なほ福澤諭吉らは、平易なる文體にて種々の西洋に關する書籍を著して、國民の知識を啓發し、また新聞紙・雑誌などもおひおひ發刊せらる。幕末にはやくもバタビア新聞などの版行を見たりしが、明治に入りては、政府の太政官日誌、民間のもしほ草・江湖新聞など異彩を放ち、ついで横濱毎日新聞をはじめ、日刊新聞も續々發行せられて、迅速に時事・異聞を報道し、またその内容も、始めは、おもに政治問題に限られたる傾ありしも、後には、廣く經濟・文藝の観察にも及びて、文化を普及せしめたるの效極めて大なりき。
學制の新定されると共に、兵制もまた、我が國の古制に西洋諸國の法を斟酌して、一大改善を施されたり。さきに幕府及び諸藩に於て、既に練兵に洋式を採用したりしが、維新の際、更に洋法にならひてしばしば兵制を改めたり。當時大村益次郎は、歐洲にならひて、全國一般に徴兵制度を布くべきことを主唱し、山縣有朋らは、兵制調査のため歐洲に派遣せられたり。その後、益次郎は刺客のためにあたら身を果したるも、有朋らは程なく歸朝して、軍制の改革に當り、國民皆兵制の實施を期しぬ。かくて明治五年に至り、兵部省を廢して陸軍・海軍の二省を置き、遂に天皇徴兵の詔書を下したまひ、太政官また告諭を發して、中世以降武門の私せし兵權を収め、全く上古の制に復して、天皇の大元帥たることを明かにし、翌六年一月、陸軍には、東京・仙臺・名古屋・大阪・廣島・熊本の六鎭臺を置き、その十日いよいよ徴兵令を發布して、士農工商の別なく、全國の男子二十歳に達するものは、悉く兵役に就くべき義務あることと定めたり。こゝに於て、從来の武士の階級全然跡を絶ちて、國民皆兵の主義に復古し、調練は専ら洋式によりてますます整頓しぬ。また海軍は、維新の當初、舊幕府の軍艦を収めてこれを組織せしが、明治七年始めて提督府を置き、後、鎭守府の制を定めて、軍備も漸次に進歩したりき。
かかる間に、通信・交通の機關も、洋法によりて大いに改良せられたり。明治二年、電信線を東京・横濱間に架し、四年には、東京・京都・大阪の間に郵便制度を開始して、舊時の飛脚に換へ、翌年始めて京濱鐵道竣工し、その開業式には、天皇親臨して勅語を賜へり。この頃邦人によりて創製せられたる人力車は、馬車と共に行はれて、從来の乗物はやうやくすたれぬ。また海運は、維新と共に開け行きしが、更に明治五年の頃岩崎彌太郎三菱會社を起して航海業を始め、征臺役後政府の補助を得て、横濱・上海間の外國航路を開きたるより、おひおひ發達し、從つて洋式の燈臺も設置せられ、汽船の往復やうやく頻繁となれり。なほ十年には、京濱間に電話も試用せられ、各種文明の事業は、月と共に進歩しぬ。顧みるにこれらの新事業は、既に江戸時代に萌芽したりしも、維新後はいづれも實用に供せられて、民衆に多大の便益を與へたるものにて、衆庶たゞ驚異の眼を張りて、これら一新せる世態を眺めたりき。
殊に封建の制は上下貴賤の差別素より厳格にして、階級の思想廣く社會にみなぎりたれば、その因襲打破は實に維新の國是たりき。さきに明治二年六月朝廷版籍奉還の奏請を聴許せらるゝや、從来の公卿諸侯の名稱を廢してこれを華族と稱し、舊藩主の一門以下藩臣を士族とし、その他はすべて平民として、全國の國民を三階級に分ちたり。しかも、その間にもまた昔時の懸隔なく、四年には華族平民の婚嫁を許し、更に士民の散髪・脱刀を許し、翌五年には、禮服の制度を立てて洋装を用ひ、徒来の束帯・衣冠などはたゞ祭服としてこれを存せしむることとせり。また古来の太陰暦は不便なるより、これを廢して、西洋諸國にならひて太陽暦を採用し、五年十二月三日を太陽暦に換算して、六年一月一日となし、これと共に、從来の五節供をやめて、新に祭日・祝日の制を定めたり。こゝに於て、神武天皇御即位の年を以てわが國の紀元として、紀元年數を數ふることとなり、皇紀始めて明かとなりぬ。
かくて、明治維新は、神武天皇御創業の古に復するを以て理想とせしかば、宮中の儀制をはじめ、諸般の事物に、復古精神のあらはれたるもの少からざりしも、もと永年の鎖國主義を捨てて、開國進取の方針を採りしより、おもに西洋の文化を採用して、各般の制度・政令・風俗上に改革を施し、固陋の舊習を打破して、改善するところ頗る多かりき。されど、また一方には、歐米の文物に心酔し、みだりに文明開化と稱して、事毎に新奇を競ひて、本邦固有の美風を破り、古美術・舊蹟などを破壊するの傾向あり。こゝに於て、これら社會の變革を喜ばずして、寧ろ封建の舊風を追慕するものさへありて、當時の思想界は、頗る混沌として歸一するところを知らざるの情勢なり。殊にかゝる政治・社會上の變革に際しては、自然政見を異にして衝突するものあり、中にはまた新政を誤解する守舊の徒もありて、多少の波瀾を免れざりき。
さきに征韓論の破るゝや、江藤新平は郷里佐賀に歸り、士族らの組織せる征韓黨の首領となりて、その目的を貫徹せんとせしが、また別に島義勇の率ゐる憂國黨は、政府の施設に不平を抱きて、封建の昔に復せんことをはかれり。明治七年二月、両黨相結びて兵を擧げ、縣廳を襲ふ。朝廷大久保利通をしてこれを鎭撫せしめ、義勇らは鹿兒島に走りて捕へられ、新平は土佐に遁れて縛に就き、各々處刑せられて騒亂忽ち平定せり。
この頃熊本には大野鐵平(太田黒伴雄)・加屋霽堅らの神職、固く本邦の古風を守りて、いつさい洋風を排除せんとし、同志を集めて神風連(敬神黨)と稱し、常に新政に反抗せり。たまたま九年三月、政府士民の帯刀を禁ずるに及び、その黨は、これを以て神代以来の風儀を失ふものとなし、大いに激昂して遂に亂を起し、縣令安岡良亮を斬り、熊本鎭臺司令長官種田政明らを殺害せしが、鎭臺兵討ちて直ちにこれを平げたり。
この亂の起るや、間もなく筑前舊秋月藩士宮崎車之助らは、神風連に應じて起ち、まさに福岡城に向はんとす。然るに神風連の失敗を開き、遙かに長州萩の前原一誠に會せんとして、豊前に到りしに、忽ち小倉師管の兵に撃破せられて亡びぬ。
前原一誠は舊長州藩士にして、さきに参議・兵部大輔たりしが、朝議に合はずして、歸りて郷里萩にあり、常に時事に憤慨せり。されば、熊本の變を開きて、徒黨を糾合せしが、廣島鎭臺の兵に撃たれ、一誠は出雲に走り、捕へられて斬に處せられたり。
これらの騒亂は速かに鎭定せられしも、やがて西南の大役を導きぬ。さきに西郷隆盛の官を辞して郷里鹿兒島に歸臥するや、近時勤倹尚武の風地に墜ちたるを慨き、桐野利秋・篠原國幹・村田新八らと共に私學校を起し、子弟を集めて文武の両道を修めしめ、殊に儒書・洋學を授くると共に耕耘開墾を實習せしめて、質實剛健なる氣風の教養に努めたり。遠近の少壮、隆盛の徳望を慕ひて、来り學ぶもの甚だ多く、その徒は皆政府の施設を憤り、隆盛を擁して事を擧げんとし、熊本・萩の騒亂あるに及びて、いよいよこれと通じて起たんとしたりしを、隆盛制してやうやく事なきを得たり。こゝに於て壮士は、日夜腕を扼して、ひたすら機を窺ひ、形勢甚だ不穏なりき。
政府は、その形勢を察し、陸軍省より令を大阪砲兵支廠に下して、鹿兒島屬廠に蔵せる弾薬を収めて、これを大阪に移さしめんとせしに、私學校の徒忽ち起りてこれを掠奪し、また海軍造船所をも占領し、當時事情偵察のため歸省せる警部中原尚雄らを捕へて、政府の刺客と誣ひ、俄に兵を擧げぬ。隆盛も事既に茲に至りては如何ともすること能はず、少壮血氣の門弟に擁せられて、やむなく蹶起し、鹿兒島縣令大山綱良もこれに應じ、官金を出して軍費を助けたり。隆盛らは政府に質すところありと稱して、十年二月一萬五千の健兒を率ゐて鹿兒島を發し、熊本城を圍みしが、熊本鎭臺司令長官陸軍少將谷干城寡兵を以て固守して屈せず。
時に天皇は、京都に西幸して先帝の十年祭を行ひたまひ、ついで神武天皇の山陵に親謁したまふ。その折、恰もこの變報あり。すなはち鳳輦を京都にとゞめさせられ、隆盛以下の官位を褫ぎ、有栖川宮熾仁親王を征討總督に、陸軍中將山縣有朋・海軍中將川村純義を参軍に任じて、これを討たしめたまふ。官軍肥後の高瀬口より進みて、吉次峠に篠原國幹を殪し、田原坂に向ひしに、賊兵險要を扼してよく拒ぎ、激戦十數日の後始めてこれを抜き、更に諸所に転戦して熊本に入らんとす。この時城中糧餉弾薬殆ど盡きて、落城旦夕に迫り、たゞ援軍の到るを待ちしが、陸軍中將黒田清隆、また命を受けて海路八代に向ひ、進みて宇土に到り、まさに賊背を衝かんとす。陸軍少佐奥保鞏一隊を率ゐて城中より突出し、宇土に到りて急を報じたれば、清隆急ぎ兵を部署して進撃し、まづ城中に入るに及びて、内外の連絡始めて通じ、高瀬口の官軍もついで到れり。かくて熊本城の攻圍は約五旬にして解くることを得たりき。實にこの城防守の成敗は、海内の大勢に關するところたりしに、谷少將以下萬苦を凌ぎて決死固守し、遂に敵の東上をこゝに遮りしは、その功績偉大なりといふべし。
ここに於て、熾仁親王軍を熊本城に進めたまひ、官軍の兵威大いに振ひて、これより豊後・日向の間に賊兵を迫撃して、しきりにこれを破り、遂に鹿兒島に進みて城山を圍めり。隆盛・利秋ら力屈して、九月二十四日自刃して亂全く平定せり。世にこれを西南の役といふ。
この役に當り、天皇は大阪陸軍病院に行幸して、辱くも傷病兵に御慰問を賜はり、皇太后・皇后は御みづから綿撤絲を作りたまひて下賜せられ、御仁慈の涯りなきに感泣せざるものなし。また佐野常民は、嘗て歐洲に赴きて親しく赤十字事業を視察せしより、この役の起るや、大給恒らと相謀りて、總督の宮に請ひたてまつりて博愛社を起し、官賊の別なく傷病老を救療せり。これ本邦赤十字社の濫觴たり。なほまた天皇は、隆盛の維新の勲功を思召され、且その心情を燐みたまひて、後、憲法發布の當日、その賊名を除きて特に正三位を追贈したまひ、世人また隆盛の徳を追慕してやまず。
かくて、大度にして世望高かりし隆盛は、あはれ城山の露と消え、これと相竝びて國事に盡瘁し、周到規畫に長ぜる木戸孝允、才氣縦横、果斷に富める大久保利通も、また前後して世を去りしかば、維新の三傑一時に失せて、實に寂蓼の感あり。孝允はさきに聖鷹に扈從して京都に滞在中、たまたま病を獲て、明治十年五月遂に薨去し、これより利通内外の機務に参畫せしに、十一年五月参朝の途上、暴徒に襲撃せられて、惜しくも最期を遂げぬ。
この西南の役後は、武力を以て政府に抗せんとするもの全く跡を絶ち、内治は平和のうちに整ひ、國運大いに進むに至れり。從って今までの混沌たる思想界も、これを機としてまさに一転し、社會の面目やうやく改りぬ。
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