第二十七 尊王思想の發達 國學の勃興
家康は朝廷を尊敬し、夙に諸侯に課して皇居・仙洞を造營し、供御を増したてまつりて、以て叡慮を安んじたてまつりしが、歴代の將軍またその志を繼ぎて尊崇を失はず。中にも家光は禁裏御料として一萬石、上皇の御料地として七千石を進獻し、後水尾天皇はその忠節を嘉し、殊に百敷の古き軒端を改めて玉を磨き成せる功往時に倍せりとて、これを賞したまへる程なり。されど儀式・典禮の廢れたるものなほ多かりしに、綱吉は第百三代東山天皇御即位の際に、用度を獻じて久しく絶えたる大嘗會を復興し、また朝廷の御料をそれぞれ増獻して、禁裏三萬石、仙洞一萬石、女院三千石となしたてまつれり。なほ柳澤吉保が、家臣細井廣澤の建言により、多年荒廢せる山陵の修理を上申するや、將軍直ちに京都所司代に命じ、勅許を請ひて、あまたの山陵を修理してその冒涜を防ぎぬ。またこれまで世襲親王家は僅かに伏見・京極・有栖川の三家に留まり、皇太子の外皇族のおほむね落飾したまふ例なりしを、家宣は新井白石の建白を納れ、奏して新に親王家を起し、皇女の御降嫁を請ひたてまつれり。こゝに於て閑院宮家始めて立ちたまひ、後には親子内親王(和宮)將軍家茂に御降嫁あらせられたり。將軍吉宗また謹厚にして、談たまたま朝廷の事に及べば、必ず座を正してこれを傾聴せる程なれば、就職の初、幕府の四脚門が朝廷の制に擬したる僭越非禮を咎めて、忽ちこれを毀たしむ。下りて天明京都の大火に禁裏・仙洞の烏有に歸するや、家齊は松平定信を奉行としてこれが造營に當らしむ。定信素より尊朝の志篤く、古制を調べ故實を尋ねて、力めて王朝宮室の規模に復せんとせしに、奉公の至誠遂に空しからず、紫宸・清涼の両殿を始め、殿舎門廡悉く古制に則りて竣功し、至尊の叡感斜ならず、御製の詩歌を將軍に賜ひ、將軍また感激措く能はざりしが如き、いづれも尊朝の美績ならざるなし。
されど江戸幕府は、信長・秀吉が皇室を奉戴して天下に號令せんとせるに反し、朝廷を離れて厳正なる封建制度を布きしこととて、都を抑制して朝權を収めんがためには、あらゆる政策を施しぬ。すなはち家康以来京都に所司代を置き、常に幕臣の人材を任命して、朝堂の動静を窺ひ、兼ねて關西地方を制せしむ。また更に朝廷に武家傳奏の公卿を置きて關白に通ぜしが、幕府はこれら公幕問の連絡に當れる要路の人々を左右し、朝堂の實權をその掌中に収めたり。また公家諸法度十七箇條を定めて、天皇の御學問を定め、親主の座位を三公の下に置き、武家の官位を公家當官の外とするなどの條項ありて、官位・儀禮の事に至るまで、武家の干渉するところとなる。なほ秀忠は家康の遣旨を繼ぎ、朝廷の外戚となりて公幕の融和をはからんとし、その女和子(東福門院)を進めて後水尾天皇の後宮に納れたてまつりしが、入内の儀は實に空前の盛儀を極めたり。ついで和子中宮に册立せらるゝや、秀忠・家光父子上洛して二條城に天皇の行幸を仰ぎ、饗應進獻善盡し美盡して、聚樂第行幸の往時を凌ぐと稱せられ、關東の權はますます宮中に張りぬ。
かくて幕府はかしこくも内外より皇族・公卿の行動を監視し、毎に法度を勵行して、時に皇室の尊厳を毀損したてまつることさへありき。後水尾天皇、大徳寺・妙心寺などの高僧七十餘人に紫衣を勅許したまひしに、幕府その公家法度に違背せる故を以て、悉くこれを褫奪せり。
僧澤庵らこれに抗議して從はざりしかば、幕府はこれを處々に配流しぬ。天皇大いに逆鱗あらせられ、葦原の御製に時世の非なるを歎きたまひしが、俄に御位を中宮の御出なる興子内親王に譲りたまへり。
これ明正天皇にして、實に稱徳天皇以来八百六十年にしてまた女帝の例開かる。ついで皇弟後光明天皇立ちたまひしが、天資英明厳正にましまし、夙に朱子の學説の理義精明なるを崇びたまひ、和歌・國文も専ら風の正しくして人道に益あるものを勸めさせられ、廢典を興し復古の御志深かりき。さればいたく幕府の専權を憤りたまひ、ひそかにこれを制したまはんとせしに、不幸にして、痘を病みて早く崩御し、その後、時勢はとかく京都に利あらず、永く關東のために拘束せらるるの情態なりき。
かゝる間にも御歴代の萬民愛撫の聖徳は、いつの世にもかはらせらるべくもあらず、後光明天皇は辱くも藤原惺窩の文集に勅序を賜ひ、東山天皇は、打づゞく旱天に賀茂川の流乏しく、農民のいたく稼穡に苦しむを聞しめし、皇宮内の引水を停めて田圃をうるほさしめられしかば、老若その聖恩の厚きに感激し、毎朝犁鋤に徒事するに先だち、必ず一所に集りて遙かに皇宮を拝し、天恩を感謝したてまつりきといふ。また第百十九代光格天皇は、御代の初、諸國に窮民の打毀などの行はるるを聞しめされ、御製を下して、かゝる不群事の御治世に起れるを悲しみたまひ、かしこくも御身の不徳を責めたまひたるなど、列聖の御仁徳には誰か感佩せざらん。この時に當り、學問おひおひ隆盛に赴くにつれ、講學の結果、尊王の思想おのづから勃發して、幕府の専横を排撃し、憤起するもの各方面よりあらはるゝに至りぬ。
儒者はおほむね支那を崇拝して、禅譲放伐の説を是認するものさへありしが、中には深く國史を研究して、國體の本質を説くものもやうやく出でたり。會津の人山鹿素行は、武士道を研究しで山鹿流の兵學を創め、またはじめ程朱の學を奉ぜしが、後これを斥けて、直ちに孔子に接すべしとて、はやくも古學を主唱せり。その著せる中朝事實は、我が國こそ處の中華文明の地にして、萬世一系の皇統を戴く我が國は、支那の革命相次ぐの國體と此すべくもあらず、わが國體の尊厳は即ち萬邦に卓絶し、忠孝の大道は開闢以来儼として我に存せることを明かにし、大いに國民に覺醒を與へたり。水戸の藩主徳川光圀、少壮史記の伯夷傳を読みてその高義を慕ひ、始めて修史の志あり。史局(彰考館)を江戸の別邸に開きて四方の碩學を招噂し、廣く史料を天下に捜りて相検討せしめ、神武天皇より後小松天皇に至る國史を編修せしむ。これ有名なる大日本史にして、編纂の體は紀傳に從ひ、本紀・列傳・志・表に分ちしが、歴代の藩主その業を紹述することおよそ二百五十年、明治三十九年に至りて完結し、すべて三百九十七巻の大部に上る。本書大義名分を明かにし、勸懲竝び存するを期す。中にも神功皇后を后妃傳に入れ、大友皇子を帝紀に列し、南北正閏の論を立てたるは、その三大特筆と稱せらる。したがつて文を行ること厳峻にして、その史論はいたく人心を鼓舞せり。なほ光圀は忠臣・烈士を顯彰し、楠公の碑を湊川に建てて、鳴呼忠臣楠子之墓と題し、碑陰には嘗て加賀藩主前田綱紀のために探幽が畫ける櫻井驛訣別の圖に、朱舜水の題せる賛文を刻せり。光圀また常に家臣を戒めて、朝廷を崇敬して一意奉公の念を失はしめざりしなど、世道人心に甚大の感化を與へたりき。
また水戸に聘せられたる儒者には、山崎闇齋の門流多かりしが、闇齋は垂加と號し、もと佛門より出でて儒學に入り、専ら程朱の學を固執せしも、また獨自の見識を持し、孔孟の聖賢といへども若し我が國に来攻せば、直ちにこれを摧破すべく、強ちその徳化に服すべきにあらずとなし、禅譲放伐の説を否認し、その門弟浅見安正(絅齋)も靖獻遺言を著して尊王の大義を強調せり。闇齋は晩年吉川惟足に就きて吉田家の唯一神道を學び、これに宋儒性理の學説を交へて、垂加神道なる一家の教理を立てぬ、これらの神道は、佛式に則れる祈祷祭祀を行ふも、もと日本書紀神代巻に據りて數理を立つることとて、その研究はおのづから國體の観念を喚起し、これを奉ずるものに幾多の勤王志士を出すに至れり。越後の人竹内式部は京都に出でて徳大寺家に仕へ、夙に垂加流の神道を修め、公卿を集めて日本書紀を講じ、わが皇統の神聖正大を説きて大義名分を明かにし、畢竟天皇より諸臣に至るまで、學問を勵み五常の道だに備らば、天下萬民歸服して、將軍もおのづから政權を返上し、王政復古するに至るべしと論じ、その説は遂に公卿を經て、時の第百十六代桃園天皇に進講するに至れり。よりて幕府はこれを憚り、寳暦九年式部を追放に處し、これに從學せる諸卿を罪しぬ。
これと時を同じくして、江戸に尊王斥覇を鼓吹するものに、山縣大弐・藤井右門の徒あり、大弐は甲斐の人にして、最も兵學に長ず、同じく闇齋の學流を承けて大義に通じ、江戸に道場を開きて兵學を門弟に授くる間に、往々幕府を攻撃し、武門の久しく政柄を握りて、天皇垂拱して唯成を仰ぎたまふことを憤り、柳子新論を著して、暗に王政復古の意を寓せり。同志の徒藤井右門また深く朝廷の御衰微を慨き、大弐の説を祖述して、熱烈なる論議を敢てし、兵學を實際の適例にあてて、甲府及び江戸の攻撃法を説けることなどあり。こゝに於て明和四年幕府は大弐を斬り、右門を梟せしが 式部もまたこれに連座して流罪に處せらる。これいはゆる寳暦明和事件にして、實に江戸時代に於て王政復古の運動を試みたる嚆矢たり。
かく勤王慷慨の士は、相ついで處罰せられしかど、國史の研究はますます進み、殊に國學の勃興すると共に、國體いよいよ闡明せられ、尊王論の勢は次第に盛になれり。蓋し國語の研究は、儒學の隆盛に壓倒せられて、概して振はざりしが、元禄の頃僧契沖出で、博學多識にして殊に歌學に精しく、徳川光圀の依嘱を受けて、萬葉代匠記を著して註釋に創見を立て、その他幾多の和歌・物語の註釋書を公にして、始めて古語の研究に曙光を與へたり。これと殆ど時を同じくして、京都稲荷山の祠官に荷田春満あり、ひろく古典・國史に通じ、それらの自由討究によりて、本邦獨得の古道を發見せんとして、國學を主唱し、世の儒道にのみ耽るをやめて、國學の林に踏入るべきを紹叫しぬ。ついでその弟子遠州の賀茂眞淵に至りて、儒教を排して盛に我が古道を力説し、その階梯として古言を研究し、みづから萬葉調の歌詠を巧みにせり。國學これより大いに世に弘まりしが、中にもその學統を傳へてこれを大成したるは、伊勢の本居宣長なり。宣長は儒佛の教を斥けて、一に惟神の大道を明かにせんとし、折々玲瓏たる鈴の音に倦怠の氣を慰めつゝも、三十五年の長日月をひたすら古事記の研鑽に没頭し、遂に古事記傳四十八巻の大著を遂げ、わが古道を闡明して國粋を發揮するに努めたり。その門弟數百人殆ど海内に遍く、熱烈に師説を宣揚して、尊王憂國の精神を鼓舞せしの效頗る大なりき。なほ宣長没後の門人平田篤胤は、儒佛の教を交へたる唯一・垂加の如きを俗神道として極力排撃し、純粋神道は惟神の大道に基づけるものたることを主張し、特に我が皇國の萬國に冠絶する所以を高調せり。この外にも伴信友・塙保己一などのおもに國史の考証・編著に大功を樹てたるあり。殊に保己一は、幕府の保護を得て和學講談所を開き、群書類從千二百七十部を編して、廣く世に刊行したるは、國學の研究に至大の便宜を與へぬ。かく國學の大家輩出して、諸方面より古史・古文を研究して、わが國體の本源と國民の思想・性情を明かにし、熱烈に國體の尊厳・君臣の大義を説きて、大いに社會の思潮を動かししかば、尊王愛國の思想はこれによりて鼓吹せられ、國學者及び神道家にあまたの尊王家を出すに至れり。
かくの如く國學勃興して國體を辨ずるものおひおひに多くなりしが、また太平記などの廣く世に愛読せらるゝに及びて、これに感激して尊王の精神を喚起するもの少からず。太平記は戦國時代以降大いに社會にもてはやされしが、この書絢爛の筆致を以て、吉野朝の御歴代と諸忠臣の義烈とを説きしかば、読者をして知らずしらず感奮興起せしむるものあり。高山彦九郎(正之)・蒲生君平(秀實)の處士、いづれも少時太平記を耽読して、憤慨激越の士となれり。彦九郎は天下を周遊して、憂國の士と交りて尊王の大義を鼓吹し、君平も諸國を歴遊して志士と交を結び、多年山陵の荒廢せるを慨き、みづから跋渉調査して山陵志を著しぬ。また頼山陽(襄)人となり氣節あり、深く時勢を憤り、日本外史を著して、王家失權武家興亡の由来を述べて忠邪の迹を明かにし、晩年更に日本政記を草し、延元・正平の際に於ける順逆の甄別に最も意を用ひ、病を力めてこれを刪潤せり。その論叙縦横自在にして、行文また痛快流暢なりしかば、天下の士争ひてこれを読み、ために國史の知識を普及し、尊王の大義を辨ぜしむるの效頗る大なり、この頃水戸の藩主齊昭(烈公)は英明果決の資を以て、熱心藩政の振肅をはかり、經綸の俊傑藤田東湖を重用し、水戸に弘道館を建てて盛に士民に文武を修めしめしが、殊に光圀以来の主義を遵奉して、尊王敬神の大義を主唱せり。こゝに於ていはゆる水戸學は各地に浸潤し、これを規模とせる諸藩は、藩學の中に聖廟の外に産土神を祀り、釋奠の禮にも神式を交ふるなど、一種の異彩を放ちたりき。かくて海内の諸藩も、從来經史の教課を以て専ら藩學の綱領とせるに反し、記・紀を始め古史・古典または大日本史・外史・政記などの國書を教課に加ふるに至り、尊王愛國の思想はおのづから士庶の間に普及するに至りて、他日王政復古の一大原動力となりぬ。


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