第二十六 幕府政治の弛張 諸藩の治
江戸幕府の施政は家康にはじまり、秀忠を經て家光に至りて最も整備せり。その制一に封建制度により、地方分權の間に巧みに中央集權を行ひて海内を制馭し、また厳に社會の階級を立て、主從の分を明かにして、よく秩序を正しぬ。しかして文武両道の兼備を以て政教の要諦となし、また質素身を持すると共に殖産興業を勵まし、風俗を肅正して驕逸を防ぐを以て施政の方針となせり。爾来歴代の將軍常にこの主義を襲ひしも、時勢の變はこれが實行を左右し、幕府政治の弛張はたうてい免るること能はざりき。
家光薨じて家綱幼少にして將軍職を嗣ぎ、叔父保科正之家光の遺命によりてこれが輔佐となり、前代の遺老酒井忠勝・阿部忠秋・松平信綱らと共に力を合はせて善政を布きし上に、なほ前代の盛世をうけて武朴の風はよく文教の治と竝行し、社會のいちじるしき進展を見たりき。これまで諸侯の廢絶するもの多かりしより、家臣の禄を失ひて天下に流浪するもの夥しく、將軍襲職の初、由井正雪、丸橋忠彌らあまたの浪人を集め、江戸と駿府とに分れ、東西相應じて亂を起さんとはかりしが、幕府はやくもこれを探知して未發に防ぎ。これより浪人を抑壓して、將来の殃を除去せり。たまたま明暦三年正月江戸に大火ありて全市殆ど焦土と化し、焼死するもの數萬を數へたりしが、罹災民の救護は行届き、死者をば回向院に合葬してその菩提を弔はしむ。また消防の制度を創めたる外、これを機として新に市區の改正をも行ひ、街幅を廣くし、道路を平坦にするなど、災後の處置は松平信綱らによりて敏活に行はれて、やうやく江戸の繁昌を増しぬ。なほこの頃追腹の流行は、諸藩競ひてその多きを誇るの風となりて、その弊少からざりしかば、幕府これを厳禁して、世にその美政をうたはる。
然るに名臣信綱・忠勝相ついで卒し、正之も職を退くに至りて、大老酒井忠清獨り威權をほしいまゝにし、諸老これに阿諛して、私謁贈賄盛に行はる。忠清の邸は本城大手門の下馬札前にありしより、世に下馬將軍の稱ありし程にて、幕府の紀綱や弛まんとせしに、家綱嗣なくして薨じ、弟綱吉上州館林より入りて職を嗣ぐに及びて、直ちに忠清を斥け、厳正剛直の聞え高き堀田正俊を大老に任じて、一世の耳目を聳動せり。これより君臣力を協せて政治の革新をはかり、あるひは孝義を旌表し、あるひは町人の豪奢を厳罰するなど、力めて賞罰の厳明を期し、殊に將軍崇學の深き、みづから率先して學問を興ししかば、文運俄に進みて、善政の見るべきもの少からざりき。
されど綱吉の施政はとかく文に偏して武を顧みざれば、文武竝進の主義はおのづから破れたり。たまたま掘田正俊の峻厳は上下の憚るところとなり、遂に城中に於て人のために刺殺せられ、その後は側用人柳澤吉保ら抜擢せられて寵任限りなく、諸政専らその手に出づるに及びて、幕府の紀綱全く亂るるに至りぬ。將軍は能樂に耽り遊樂を事とし、みづから吉保の邸に臨むこと前後數十回、饗宴贅を盡して驕奢度なし。加ふるにその母桂昌院と共に大いに佛法を尊信し、護國寺・護地院をはじめ多くの寺院を興し、喜捨するところ頗る夥しかりき。また慈悲のあまり、しばしば生類憐の令を下して殺生を禁斷し、法令おひおひ苛細に赴きて遂には魚鳥の賣買をとゞめ、殊に將軍の生年戌に當るを似て、特に犬を愛護せしめ、城西中野に小屋を作り、無主の犬を集めて飼養せしめ、その數十萬頭の多きに上れりといふ。しかして鳥獣を傷害するものはこれを厳刑に處し、甚だしきは斬罪・獄門にあてられしことさへあり、世人これに苦しみて、將軍を綽名して犬公方と呼ぶに至れり。かゝる折しも元禄・寳永年間に亘りて、關東・關西の地震、富士・浅間の噴火など、天災しきりにいたりて、多大の損害を蒙りたれば、將軍の驕奢と相待ちて、失費も頗る莫大なる額に上りぬ。こゝに於て家康以来豊富なる財政もはじめて破綻を生じ、經濟甚だ意の如くならざるより、時の勘定奉行荻原重秀の議を用ひて、貨幣の改鑄を行ひ、從来の金銀貨に銅・錫などを加へて悪質のものを發行せり。幕府はために數百萬両の利益を得て、一時の急を救ひしかど、悪貨の通用は忽ち物價の騰貴となり、市場の恐慌を来して、大いに世人の疾苦となりぬ。
綱吉薨じて、その姪家宣甲府より入りて將軍となるや、直ちに生類憐の令を解き、柳沢吉保を斥けて新井白石(君美)を登用せり。白石少壮より刻苦勵精・經史を渉猟し、遂に學和漢を兼ね、識古今に通じ、特に經世濟民の才に富む。その師木下順庵の推擧により、將軍に仕へしより天下を以てみづから任じ、次の將軍家繼の時代に亘りて熱心幕政に當り、一世の學識を傾倒して釐革せるところ甚だ多し。殊に荻原重秀の財政策に反對し、弾劾してこれを斥け、悪貨を改鑄してやうやく古制に準ぜしめて通用の圓滑をはかり、また長崎の新例を出して、清・蘭二國の貿易額を制限して正貨の流出を防ぎ、以て經濟界の亂調をたゞしたるの治績頗る大なりき。
かくて弊政はやうやく改りたれど、元禄時代驕奢の世風は急に變るべくもあらず。殊に白石は専ら文治主義により、從来の武家法度を更新して大いに禮文を尊重せしめ、幕府の殿中に京風を移し、武家の服装をも公家風に改め、公文の書式類に至るまで一定の法式を立て、幕府の儀禮は頗る整頓せしも、やゝ繁文褥禮の嫌ありて、往時の率直剛健の武風は再び見るべくもあらず。然るに家繼薨じて、吉宗紀州より入りて將軍となるに及び、この風は忽ち一新せられたり。
吉宗は紀伊藩主光貞の第三子にして天性英敏謹厳なり。若くして支藩の主となりて具に辛苦を嘗め、やがて本家を嗣ぎて大いに治績を擧げたりしが、今や壮齢を以て將軍職に就き、決然文弱の弊を革めて幕初の舊態に復せんとし、しかも能く時勢の進運に合致するに努めたり。當時昇平年既に久しくして武を用ふるの時なく、士人おのづから懦弱に流れたれば、吉宗いたくこれを慨き、騎・射・剣・槍・柔術・水泳などの修練をすゝめ、またしばしば鷹狩・鹿狩を催し、みづから率先して武技を講じ、大いに士氣の振作をはかれり。これより尚武の風再び興りしが、文事の奨勵もまたこれと竝びて盛なり。吉宗夙に學を好み經史に通じ、學問の振興を怠らず、しかも力めて空理を避けて専ら實用の學に就かしむ。すなはち白石を斥けて室鳩巣を用ひ、六諭衍義を和解せしめ、これを刊行して廣く寺子屋の教科にあてしめ、また湯島聖堂の講義は陪臣・町人に至るまでこれを聴講せしめたり。しかして吉宗の豪放なる、文武共に開放主義を執りて必ずしも祖法の傳統に拘泥せず、蘭船に託してペルシャ馬を求め、蘭人を聘して西洋の馬術を旗本・諸士に授けしめ、また天文・暦數・醫術などが蘭學の精緻なるに負ふところ多く、大いに實用に有益なるを感じ、始めて洋書輸入の禁を弛め、宗教に關せざる書籍の舶載購読を許したり。實に寛永の禁書以後百餘年にして、こゝに始めて蘭書の講習は許され、他日洋學發達の端を開きぬ。然るに前代以来財政の紊亂はいよいよ府庫の空耗を来し、一時家臣の俸禄の給與にさへ不足するの様なれば、吉宗はみづから綿服を着け、蔬菜を賄ひ、また中門・沈香亭など華麗なる殿舎を毀たしめて、以て質素倹約の範を示し、大名には一時参勤の制を緩めて、上納米を課して府庫の充實をはかり、しばしば節倹の令を下して、士庶の衣服・調度より玩具に至るまで、金銀縫箔の類を禁止し、専ら華奢の風を抑へて質素の俗に復するに力めたり。また吉宗は一面大いに殖産興業を奨勵して、國利民福をはかりしところ多し。すなはち朝鮮人蓼を移植せしめてその高價を制し、甘蔗を栽培せしめて砂糖の製法を究めしめ、あるひは甘藷の繁殖をはかり、あるひは櫨・竹などの培養をすゝめて實用に供せしめたり。なほ廣く諸國に検地を行ひて田制を正し、水利開墾の業をすゝめたれば、山野薮澤、所在美田と化して、米穀の産額いちじるしく増加し、連年餘ありし程なりければ、時人吉宗を綽名して米將軍と呼ぶに至れり。諸藩もこれにならひ、産業の興隆をはかりしより、諸國の土宜名産はたいていこの頃より興り、薩摩の煙草、土佐の鰹節、阿波の藍、四國・中國の食塩、紀州の蜜柑、甲州の葡萄、東北地方の蠶業など、今にその記念を残すもの少からず。
從来刑律の定なきより裁判往々公平を缺くの虞ありければ、吉宗これを憂へ、みづから判決の先例を参酌して刑典を撰修し、これを老臣・法官の合議に附して、遂に公事方定書(御定書百箇條)を制定せり。こゝに於て刑制ほゞ備りしが、從来の慘刑を除き、連座を制限し、犯罪の確證あるものの外は拷問を加へしめざるなど、刑はつとめて寛典に從はしめ、司法制度に一大改善を施しぬ。なほ目安箱を評定所に置きて言路を開き、剛直なる大岡越前守忠相を江戸町奉行に抜擢せり。忠相人心の機微を察して裁判の巧みなること神の如く、裁斷公正にして情に適ひ、大岡さばきの誉は今に市井の間に喧傳せらる。
江戸の市街は、年を逐ひて繁榮に赴きしに、大火は疾風につれて頻々として起り、萬戸の寳貨忽ち灰燼となるの憂絶えざれば、吉宗は大岡忠相と謀りて防火の制度を立て、あるひは街衢の要處に火除地を設け、家屋の建築も瓦屋根・土蔵造を奨劾し、あるひはいろは四十餘組の町火消を組織せしめて、纏を印に互に意氣を競はしむ。また飛鳥山・隅田堤など郊外の名所に櫻樹を植ゑしめて市民の観賞遊息に供し、その休養に資せしめたり。なほ浮華なる風俗を取締ると共に、孝義善行のものを表彰して仁風一覽を出版し、新に養生所を小石川薬園の傍に立て、貧民・病者を収容して療養せりしめ、廣く普救類方を刊行して救急の手當を教へ、醫師に乏しき山間僻陬に至大の便宜を與へたるなど、種々の善政を施したり。されば吉宗は江戸幕府中興の明主と稱せられ、いはゆる享保の治は永く世にたゝへらる。
吉宗職を退きて、家重・家治父子相ついで將軍職に就きしに、共に賢明ならずして優遊を事とし、嬖臣これに乗じて威を振ひ、田沼意次は側用人より抜んでられて老中に昇り、その子意知また若年寄に進み、父子相竝びて私利を貪り、上下ために?諛を事とし、賄賂請託盛に行はれて、享保中興の政全く壊れたり。加ふるに、安逸遊惰の風再び生じ、人人競ひて饗宴に耽り、風紀大いに頽廢しぬ。かかる折しも天變地異しきりにいたり、連年實のらずして米價暴騰し、殊に天明の大飢饉は奥羽をはじめ諸國に慘劇を生み、江戸・大阪をはじめ諸國の町人・百姓所所に蜂起して、米商・豪家を襲ひ、怨嗟の聲は囂々として田沼父子に集り、意知は營中に於て刺害せられ、意次も遂に退けられて、ここに世運の一転機を見るに至れり。
これより先、吉宗はその子宗武・宗尹に廩米を給して、各々田安・一橋門内に住せしめ、ついで家重また次子重好に清水門内の邸を賜ひ、いづれも徳川宗家の家族として待遇し、これを御三卿と稱せり。將軍家治嗣なかりしかば、家齊一椅家より入りて世子となり、家治薨じて將軍職をつげり。時に將軍なほ幼少なるを以て、松平定信入りて老中となり、身命をささげて將軍の輔佐に任ず。定信は田安宗武の子にして、聡明にして學を好み、若冠奥州白河の城主となり、折ふし東北地方の凶歉に際し、みづから倹素を以て下を率ゐ、大いに治績を擧げたりしが、幕府に入るに及び、桔据經營從来の弊政を革正して、専ら吉宗の享保の治に復せんとす。
當時財政は前伏の奢侈と連年の凶歉とによりて窮迫を告げ、府庫殆ど空しくなりしかば、まづ財政の整理を以て急務となし、一に緊縮節約の方針を立てて、幕府をはじめ諸侯の經費を節し、町人の奢侈品を禁ずると共に、一面備荒貯蓄の法を設け、諸侯に命じて高一萬石に五十石の割合を以て五箇年繼續の圍米を命じ、なほ江戸の町などにも、町費を節してこれを積立てしむ。この制一たび行はれて、凶荒の慘禍を免れ、その効果永く後世に及びぬ。また家重以来士風おのづから軽佻に流れたれば、定信は文武を竝進して士道を肅正せんとし、まづ旗本・諸士に武藝の稽古を勵ましめ、しばしばこれを將軍の上覽に供し、遠乗・狩猟・騎射などをも催して士氣を鼓舞せり。また當時の學者がとかく論議に走りて、かへつて世教の根本を忘るゝの傾ありければ、定信は専ら質實なる朱子學を執りて海内をしてその適從するところを知らしめんと欲し、まづ昌平校を改造して規模を擴張し、柴野栗山・岡田寒泉・尾藤二洲らを登用して儒官とし、林述齋を扶けてその教育を興さしむ。なほ令して、朱子學を正學として要らこれによらしめ、その他を異學としてこれを抑へたり。これを寛政異學の禁といふ。然るにこの禁令に反對するものも少からず。異學は決して衰へざりしも、朱子學はこれを期として充實普及し、海内の諸藩おほむねその學者を採用して他流の學者を退け、藩學の教育は昌平校と共に朱子學の振興を致して名教維持の効果また大なるものありき。なほ役人の賄賂請託を厳禁し、努めて人材を登用して綱紀を肅正し、また民間の孝子・節婦を表彰して徳義を勵ますと共に、賭博を禁じ、風俗を取締りて、一に民風の改善をはかりぬ。かくて定信の執政は僅かに七年餘に過ぎざりしも、熱誠局に當り、綱紀を肅正して、いはゆる寛政の治を遂げたる後、致仕して樂翁と號し、専ら風月を友とし、幾多の名著を残して逝きぬ。
かゝる際、藩治の良績を以て、また世に明主の名をうたはれしもの、前後に輩出したり。そもそも全國の諸藩は、おほむね儒者を聘して顧問となし、その政見によりて政教を施ししかば、封建の制素より各藩の政治を藩主にまかすにかゝはらず、施政おのづから一致して共通せる實績頗る多かりき。備前岡山の藩主池田光政(新太郎少將)は夙夜治民の道を憂慮し、熊澤蕃山らを用ひて改善をはかれり。すなはち閑谷學校を興して、庶民の教育に至るまで意を注ぎ、また質素を旨として力を民業に用ひ、大いに治水工事を起し、百姓を賑救するなど善政の誉一世に高かりき。會津藩主保科正之は、國内の産業を奨勵し、また山崎闇齋・吉川惟足らを聘して信任甚だ厚く、朱子學を興し、神道を崇び、藩學稽古堂(日新館)の教育を盛にして人倫を正し、一に義を守らしめて、永く良風を後世に残しぬ。また水戸の藩主徳川光圀は、士庶に勤倹を勸むると共に、藩内の産業を興し、孝子・貞女を表彰し、風儀を肅正したりしが、殊にその崇文好學天下の諸侯に冠たり。夙に闇齋流の學者を招きて國史を研究せしめ、大義名分を明かにして、いはゆる水戸學の端を開き、その思想は遂に一世を風靡するに至りぬ。米澤の藩主上杉治憲(鷹山)は藩校興譲館を興し、細井平洲を聘して文教を擴張し、あまねく村里の風俗を匡正し、またみづからいたく衣食を節し、範を示して勤倹を勸むると共に、織物・漆器・紙類の製産を盛にし、平常備荒貯蓄に力めしめしより、天明の飢饉にも、その領内に限りて一人の餓死者を出さざりきといふ。治憲と東西相竝びて明主の誉高き熊本藩主細川重賢(銀臺)は新に藩校時習館を起し、秋山玉山らを擧用して、庶民に至るまで文武を教習せしむ。またみづから粗衣粗食を勵行し、厳に節約の制度を立てて庶民を率ゐ、養蠶・蝋・紙などの製造を盛にし、なほ意を治獄に用ひて刑罰を軽くするなど、仁政藩内に普かりしかば、領民みな重賢の徳を慕ひて、毎年殿様祭を催して、その仁愛を謳歌せり。
かくて治績を以て世に喧傳せらるゝ名藩主は、全國を通じて少からざりしが、要するにいづれもみづから節約して倹素を士民に勸むると共に、一面必ず殖産興業を奨勵して財政の充實を圖り、また文武を竝進して一方に偏せざるに努め、風俗を肅正して仁政を庶民に布くを以て、専ら治政の要諦となせり。また産業の各地に發達すると共に、民間にも殖産の途に熱心なるもの多くあらはれたり。中にも佐藤信淵は、父組以来五世力を農學に盡し、四方に遊びて地質・風土を研究し、加ふるに蘭學を修めて、その家學に西洋の學説を交へて農業の開發を論じ、名著少からず。ついで二宮尊徳は殖産理財の實際に精しく、諸藩に招かれて財政の復興、荒蕪の開拓などを依嘱せられしが、日夜熱誠事に當りて至る所必ず功績を擧げぬ。またその徳行を以て郷黨を感化し、報徳社を起して人々相互の扶助を圖り、今に至るまで民治に資益せり。
定信辞職の後、家齊みづから政を視ること文化・文政年間に亘りておよそ四十餘年、累進して從一位太政大臣となり、武家極致の世となれり。この間は實に波風静かにして枝も鳴らさぬ泰平に、上下ひたすら安逸に耽り、文藝はまさに爛熟の期に達せり。京都の圓山応擧は狩野派より出でて更に和漢の畫法を究め、別に寫生の一流を起ししが、花鳥蟲魚いづれも生動の妙を描き、爾来京阪の畫風を一變せり。また明・清に流行して、行筆自在、敢て形似技巧に拘泥せざるいはゆる文人畫は、わが國にては京の池野大雅の風韻雅趣に富める描寫などにはじまり、谷文晁に至りて門流いよいよ盛大を極めたり。文晁は文人畫の外に諸流を究め、洋室の畫法をさへ参酌して一新機軸を出し、その門に渡邊華山をはじめ高弟頗る多し。また浮世繪は江戸に於て全盛を極め、喜多川歌麿は巧みに婦女の姿態を畫き、ついで葛飾北斎は斯流の外に諸派の筆法を習ひ、森羅萬象を描寫して、いづれも佳ならざるなく、この外にも歌川豊國の似顔繪、安藤廣重の風景畫など、みな一世に傑出せり。しかしてこれらの傑作は、多く彩色華美にして彫摺の精巧なる版畫として、廣く世に愛賞せられ、後には盛に西洋人に愛賞せられて、遠く歐洲の畫界にも少からざる影響を與へたり。かく版畫の發達するにつれ、はやくも司馬江漢は西洋油繪を畫き、銅版を工夫するに至り、遂には書籍の挿畫などに利用せられて、大いに新味をあらはしぬ。また蜀山人(太田南畝)は天性磊落、和漢雅俗の語を以て巧みに狂歌を詠み、いはゆる奇想天外より乳つるの名吟頗る多く、その門流また榮えたり。曲亭馬琴は、はじめ山東京傳に師事して出藍の誉あり。廣く題材を和漢の故事に取り、専ら主義を勸懲に寄せ、雄大なる構想と流暢なる能文を以て幾多の小説を著し、晩年明を失ふもなほ筆を擱かず、遂に二百餘部一千餘册の名著を残ししが、中にも南總里見八犬傳の如きは、最も世に喧博せらる。當時の滑稽小説には十返合一九・式亭三馬を推すべく、一九は軽妙なる筆致を以て道中膝栗毛を著し、三馬はまた鋭利なる観察を以てよく市井の氣風を寫せり。この外柳亭種彦・為永春水らの小説は、人情を穿ちて寫實の妙を得たるも、道義に害ありとして、その著多く絶版に附せられぬ。
かくの如く文藝は文化・文政期に至りてますます多趣多様に亘り、おひおひ民衆の間に普及し、芝居・浄瑠璃の如きも江戸と京阪とを中心として盛になり行きしが、一面それらの文藝はまま卑俗に流れ、純正を失ふの傾向あり。しかして士人は泰平に酔ひて、いたづらにそれらの文藝を弄び、武事を怠りて奢侈安逸に耽り、窮乏の極やむなく町人の融通を請けて、辛うじて生活の資を補ふの様なれば、もはや社會の儀表として、その體面を維持する能はず、かゝる折しも、天保の大飢饉は殆ど全國に亘り、細民生活に窮して所在一揆を起し、騒擾絶えず、遂に大塩平八郎の亂を誘致しぬ。平八郎は、もと大阪町奉行の與力として頗る治績あり、後、致仕して家塾を開き、陽明學を講ぜしが、今や窮民の慘状を見るに忍びず、町奉行に上書して、官の倉廩を發きてこれを救恤せんことを請ふ。されど顧みられざりしより、憤然起ちて同志を糾合し、火を市中に放ち富豪を掠奪して貧民を救はんとして成らず遂に幕兵と戦ひて敗死せり。
天保八年大塩の亂をはじめ四方騒擾せるうちに將軍家齊職をその子家慶に譲りて大御所と稱し、水野越前守忠邦老中となりて、幕政の革新に當る。忠邦明敏にして才略あり、夙に松平定信の人となりを敬慕し、近時政治の日に非にして士風のいたく頽廢せるを歎き、慨然起ちて時弊を矯正し、一に享保・寛政の治に復せんとす。すなはち文武の竝進を期し、碩儒佐藤一齋を登用して昌平校の教育を盛にし、また武藝を奨勵して、久しく廢れたる將軍の武術上覽を復し、高島四郎太夫(秋帆)を長崎より召して西洋の兵術を幕士に傳習せしめたり。殊に風俗の匡正に最も力を盡し、節約を勸めて奢侈淫靡なる風を絶ち、刷新するところ頗る多し。されどその改革峻厳苛細に過ぎて、かへつて民望を失ひ、中にも印旛沼の開鑿を圖りて物議をかもし、また天領の各地に散在せるを幕府の不利とし、これを江戸・大阪十里四方に収めんとして世の怨嗟を受け、遂に老中の職を退けり。蓋し當時幕府は既に實力を失ひ、旗本・家人おほむね堕落して綱紀の弛廢すること久しく、忠邦の鋭意革新の企圖も、もはやこれを救ふこと能はず、幕府衰亡の兆はやくもこゝに萌せり。この時に當り、内には尊王の思想勃興し、外には外交の脅威あり、幕府は實に由々しき難局に遭遇するに至りぬ。
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