第二十五 經濟界の進歩 風俗の變遷
學藝の盛なると共に、經濟界の進歩もまたいちじるしきものあり。家康はもと信長・秀吉の豪放と異なり、日常力めて衣食を節約し、みづから範を示して勤倹を士民に勸め、一面また意を財政に注ぎて、大いに國富の増加をはかれり。されば朝鮮・支那の隣邦は素より、葡・西・蘭・英の西洋諸國とも通商貿易を開きて互利を獲、また佐渡・越後・但馬・石見など諸國の銀山を發掘し、産額の豊富なるを利用して、盛に金・銀・銅貨を鑄造せり。その造幣權は幕府の握れるところにして、甲州武田氏の遺法によりて、金座・銀座・銭座の制を設け、勘定奉行所管の下に、後藤光次をしてこれが鑄造に當らしめ、諸藩には特に紙幣(藩札)の發行を許して、その藩内に限り通用せしむることあり。かくて幣制は幕府によりて統一せられて、金融に便し、大いに經濟の發達を促しぬ。爾来歴代の將軍諸藩の明主は、おほむね家康の遺法を守り、みづから質素を旨とすると共に、一方産業を興して國民の福利を増進することに努めたるより、江戸時代當初の財政は頗る豊にして、日光廟をはじめ、諸種の事業に莫大の經費を投じて、なほ綽々として餘裕あるの様なりき。
土地の制度に就きては、全國の草高およそ三千萬石といはれ、その内二千三百萬石は大名(一萬石以上)の封地に屬し、三百萬石は公家及び旗本諸士(一萬石以下)の釆地に係り、幕府の所領は僅かに残餘の四百萬石に過ぎず、土地の大部分はこれを大名に與へてその支配にまかせたり。領内の庶民中にては、農を以て國の本となすの義に基づきて、最も農民を重んじ、これを士分の次に列して庶民の主位に置けり。しかして國民に土地の所有權を附與せしより、あるひは土地兼併の弊を生ぜんことを虞れ、田地の永代賣を禁止してこれを防ぎ、また小農保護のため、獨身若しくは病死のものの田地は、比隣相助けてこれを耕作せしむるなど、勸農の法も具に備りぬ。されど租税はおよそ四公六民または五公五民の如き高率にして、一般農民は日常極めて低級なる生活に甘んぜざるべからざりき。かゝるうちにも、農業は年と共におひおひ進歩し、元禄時代の前後に至りては、山野荒蕪の地の開墾せらるるもの頗る多く、農事の改良もやうやく企てらる。安藝の人宮崎安貞はみづから諸國を遍歴し、老農を訪ひて栽培の法を究め、多年親しく田園生活に勵み、遂に農業全書十巻を刊行せり。これ實に本邦農書の初なり。
交通の整備は政治の統一に最も必要なれば、家康以来大いに海陸の交通に力を盡したり。まづ重なる街道を修し、道幅を廣めて松竝木を植ゑしめ、また江戸日本橋を起點として一里塚を築きて榎を植ゑしめ、往き交ふ旅人の心を慰めつゝ、容易に道程の遠近を知らしむ。したがつて宿驛の制度を立て、驛毎に定數の人馬を備へしめて、公用の往来に遅滞なからしわると共に、駄賃を定めて私人の旅行にも供せしめたり。これらの交通機關は、参勤交代制度の整ふにつれて、ますます進歩し、東海・中山・奥州・日光・甲州の五街道を幹線とし、諸地方の側街道もおひおひに發達して、四方の交通至便となりぬ。しかして通信機關は公用の繼飛脚よりはじまりて、遂には江戸・京都・大阪の間を往来する商用の三度飛脚も起り、順次東北地方にも及びて、商業の取引に至大の便益を與へたり。河川の交通に就きては、伏見・大阪間の淀川の過書船最も發達したりしが、なほ角倉了以(光好)千辛萬苦工夫をこらして保津川を浚へて舟運を通じ、ついで高瀬川・富士川・天龍川などを開きたるより、山海の貨物互に蓮漕の便を得たり。また國内の海運は、鎭國後海外遠航の絶えたるに代りて、かへつて發達の機運に向へり。すなはち大阪より瀬戸内海を經て九州に渡るの航路は依然として盛に利用せられ、江戸・大阪の商人らは互に問屋組合を作りて、菱垣廻船を通じて東西の貨物を運漕し、別に樽廻船の問屋も設けられ、おもに西攝の酒類を江戸に輸送するものありて、取引頗る盛なり。なほ奥羽の海路は機智に富みて一代の巨富を重ねたる河村瑞賢によりて開かる。瑞賢は幕命を受けて、嘗て淀川を修めたりしが、また奥州荒濱より江戸に通ずるいはゆる近廻と、出羽の酒田より下關を經て江戸に達するいはゆる遠廻との両航路をはじめたるより、奥羽の米穀その他の産物を運輸するを得、商業いよいよ隆盛となりぬ。
かくて、鎖國後頓挫せる外國貿易は、正徳の新例によりて再び制限せられ、いよいよ振はざりしも、國内商業の發達は各地に産業の勃興を促し、工業も社會の進運につれてますます進歩せり。陶器には京の仁清・乾山焼をはじめ肥前の伊萬里焼、加賀の九谷焼など、それぞれ特殊の雅趣を具へて、茶湯の流行に應じ、元禄の前後、諸侯をはじめ士庶の驕奢は武具及び調度に贅を盡ししより、意匠をこらせる精巧なる金工、金銀蒔繪を施せる優美なる漆器など續々あらはる。また絹織物は京の西陣を首とするも、地方にありては、概して東北の絹布、關西の木綿類最もあらはれしが、世人がやうやく服飾の美を競ふに至りて、羽二重・縮緬の産出、友禅染・鹿子絞の製作など盛になり行き、中にはオランダの製にならひて、天鵞絨などを織出すことさへありき。
江戸時代の當初は戦國の餘風をうけて、一般に武勇の風社會にみなぎり、士人は最も剛勇を尚びて、極めて質素なる生活を送り、廉潔を希ふのあまり、營利の業を營むを恥ぢ、また主君の死には追腹を切りて、これに殉ずるの風あり。さればおほむね剛健の美風行はるゝも、一面また殺伐麁暴の傾あれば、幕府は秩序を正し治安を維持せんがために學問を勸むると共に、厳に禮儀作法を立てて麁暴を誡めたり。されど壮勇なる氣風はなほやまず、水野十郎左衞門・幡随院長兵衞の如き生命を軽んじてひたすら然諾を重んずる任侠の輩は、旗本の士より市井の間にもあらはれたりしが、また互に黨を組みて争闘し、ために風俗を壊るものも少からざりき。然るに泰平の日既に久しく、士庶おのづから遊惰に流れし上に、經濟界の向上は、ますます世の驕奢を導きたれば、元禄時代文藝の發展につれて、華美の風いよいよ増進せり、殊に江戸・京都・大阪の三都をはじめ、諸藩の城下町は、人口も年と共に稠密となり、商工業榮えて繁盛を極むるに及びて、華奢の風は特に町人の間にいちじるしく、中にも紀文・奈良茂などと稱する商賈が、一代の巨富を積みて、贅の限を盡ししは、今に稗史・小説にその名残を留めぬ。この時代の服装は、直垂・長袴など武家の正装と定められしが、肩衣・半袴または羽織・袴の類、禮装として廣く士民の間に用ひらる。それも當初は男女共極めて質素なる服装なりしも、おひおひ驕奢に赴き、遂に元禄の前後に至りては、男子も白粉をつけ紅の肌衣を袖口より閃かすものさへあり。婦女は振袖・廣帯など、往時に比してすべて寛潤の扮装となり、綾羅錦繍に花形友禅などの華美なる模様をちらして、花見遊覽にひたすら衣裳の美を競ひぬ。世にこれを元禄風と稱して、實に江戸時代の風尚に一期を劃せり。
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