第二十四 學問の復興
戦國時代以降久しく振はざりし文教は、社會の進運につれ、上下の奨勵によりて俄に復活したり。後陽成天皇は和漢の學に通暁したまひ、日本紀神代巻・四書などの勅版あり、後水尾天皇は殊に和歌・國學に通達したまひ、また第百十代後光明天皇大いに儒學を好みたまひしかば、朝堂の諸卿も學に勵むもの多く、文運大いに京都より興れり。一方關東に於ても、家康幼より今川氏に學び、長じて和漢の書を愛読し、好學の念ますます強く、治國の要は畢竟文武両道の竝立にありとなし、専ら文教を興して、戦國殺伐の餘風を矯め、以て泰平の治を致さんとす。されば家康は兵馬倥偬のをり、はやくも京都の宿儒藤原惺窩を名護屋の陣中に引見して經史を講ぜしめ、ついでその門人林道春(羅山)を辟して幕府の儒官となし、政教の顧問に備へたり。道春は博覽強記、夙に意を宋學にひそめ、朱子の新註を以て論語を講ぜしかば、古来漢唐の古註を奉ぜる清原秀賢これに抗議せしに、家康直ちにこれを斥けて、人倫の道は自由にこれを討究せしむることとせり。かくて朱子の學説は最も穏健なりとて、幕府の官學として採用せられ、林家永く名教の維持者を以て任じたり。なほ家康は廣く古書の抄寫蒐集をはかり、江戸に富士見亭文庫を建てて、金澤文庫の蔵書を収め、また新に活字を鑄造して、足利學校に寳蔵せる孔子家語・貞観政要・群書治要などを刊行せしめ、向學の氣風やうやく海内にみなぎりぬ。
家康以後歴代の將軍相ついで學問に勵みしが、五代綱吉は天性聡明その生母桂昌院の輔導によりて、幼より學につとめ、經史を諷誦して病臥といへども手に書巻を放たず。その將軍となるに及びて、しばしば奨學の令を發し、みづから經書を城中に講じて、諸侯・士大夫らをしてこれを聴聞せしめし程なり。これより先、道春塾舎弘文院を上野忍岡に起し、尾張藩主徳川義直ために孔子の廟をこゝに建てたりしが、綱吉その規模の狭小なるを憾み、これを湯鳥に移し、新に宏壮なる大成殿・學寮を造る。これを總稱して湯島聖堂といふ。しかして道春の孫信篤(鳳岡)をして髪を蓄へて士籍に列し、大學頭に任じて祭祀を掌らしめ、綱吉みづから臨みて釋奠の禮を擧ぐ。將軍好學崇文のあまり、こゝに詣づることこ前後十數回に及べりといふ。これより林家代々大學頭に任じて文教を總轄し、春秋の両度釋奠を擧げ、學生をして文武両道を兼修せしめ、學は漢學にして専ら朱子學によらしむ。世にこの學舎を孔子の故郷昌平郷の名に因みて昌平校と稱し、寛政年間更に規模を擴張して幕末に及びぬ。ここに於て全國諸藩もまたこれにならひて各藩學を起し、藩士の子弟をして文武の両道に勵ましめたれば、士分の教育は駸々として進み、昌平校を中心として全國に普及せり。
かくて漢學しだいに盛となり、著名の學者おひおひに輩出して諸種の學派を生ずるに至れり。これより先、近江の人中江藤樹祖父に從ひて伊豫の大洲藩に仕へたりしが、郷里に残せる老母を案じて、致仕して歸郷し、奉養甚だ厚く、また諸侯の聘に應ぜず、塾を開きて門弟を教養せり。その信奉せる學は明の王陽明の主唱したる陽明學にして、専らおのが良知を恃み、知行合一を期するにあれば、日常實践躬行に努めて、その徳行隣里郷黨を感化し、世に近江聖人と稱せらる。その門人中熊澤蕃山最も傑出し、特に經濟の識に富む。はじめ備前侯池田光政を輔けて藩治に大功を樹て、後、京都に出でて學を講じ、名聲嘖々たりしが、かへつて幕府の忌むところとなりて遂に罪せられたり。これと同時に京都の碩學伊藤仁齋は宋儒の説を聖人の旨にあらずとして、敢然起ちて朱子學に反對し、多年論語・孟子二書を討究して、溯りて孔孟の眞意を尋ね、遂に古學を主張せり。仁齋人となり寛厚温順、その子東涯と共に道義の高きを以て聞えたれば、その堀川塾に来り學ぶもの殆ど海内に遍く、門下二千餘人、徳義に勵むもの頗る多し。これに對立して江戸に荻生徂徠あり、同じく古學なれども、孔孟の眞意に接するには、まづ古文・古語の研究に待つべきを主張せり。よりて特にこれを古文辞學といふ。徂徠性豪放にして規矩にかかはらざるを以て、いはゆる?門(徂徠の號?園に執る)の學風は堀川塾のそれとはいたく異なるところあるも、その教育は經學と文章とを兼ねて、多く海内の人材を集め得たり。されば太宰春臺の如き經學に名ある門弟もあれど、服部南郭をはじめ、詩文を以て一家をなすもの、むしろ多きを占めたり。また惺窩の門流に出でて加賀藩の儒臣となり、後、將軍綱吉に辟されたる宿儒に木下順庵あり、その學敢て新古の別を立てず、朱子學を宗として、乗ねて古學を唱へ、學徳共に高くして、専ら人材の養成に努めたれば、門弟各々その長所を發揮せり。中にも高弟新井白石は特に史學に精通し、室鳩巣は朱子學を固守して名教の維持を以て任じ、貝原益軒また實學を以て世を益しぬ。なほ儒學の外にも、保井算哲は天文・暦學に、關孝和は數學に、いづれも前人未發の術理を發見せるなど、科學の進歩もまたいちじるしきものありき。
かく申如く儒學は幾多の流派に分れて、學者各々獨自の説を主張し、實に空前の盛観を呈したり。しかしてこれらの儒者はたいてい諸侯に聘せられて藩の文教にあづかり、また帷を垂れて廣く子弟を教育し、盛に忠孝仁義の道を説きぬ。こゝに於て海内の士庶大いに徳義に勵みしが、特に封建の世態は主從の誼を重んじ一心同體喜憂を共にするの節義を砥勵したれば、復讐の如きは忠臣・孝子の美績と認め、官またその義烈を奨勵して士氣を振作せんとし、君父の仇討ははやくより行はる。中にも播州赤穂の遺臣大石良雄ら、その主浅野長矩のために仇を報じて法に死せしは最も著名なり。その義烈は當時古學派の大家山鹿素行の感化に由るところ少からず。また室鴻巣はために赤穂義人録を著しぬ。この書大いに世人に愛読せられ、赤穂義士の名は今に至るまで社會に喧傳せらる。
かく士分の教育はよく行はれたりしも、女子は別に學ぶに處なき様なりしが、文運の隆昌につれ、上流の女子は多く家庭に學びて博學なるものもあらはれたり。貝原益軒の妻東軒は經史に通じ、讃岐丸亀の井上通女は和漢の學に精しくして、賢婦人の誉高きが如き、女流文學者もその事例に乏しからず。唯庶民の教育は官府の顧みざるところにして、その自治にまかせ、寺子屋は津々浦々に至るまで、しだいに擴まり、兒童は手習師匠に就きて読み書き算盤など日用必須の實學を修め、また全國諸處に設けられたる心學舎に於て日常の道徳を學び、處世の途を教へられたり。心學は石田梅巌が佛儒の説に採りてみづから發明したるものにて、その卑近切實なる道話は大いに民衆に歓迎せられ、政令の風教に資するところ多く、特に當時世の顧みざる商業道徳・女子教育恵などにまで説及びて、多大の感激を與へたりき。したがつて民間に各種の往来物あらはれて寺子屋の教科書にあてられ、心學道話または數多の教訓書刊行せられて庶民男女の訓育に供せらる。また當時の儒者は、おほむね漢文を以て書を著ししにかゝはらず、益軒・鳩巣らは多く平易なる假名文を似てこれを記したるより廣く、士民に読まれたりしが、中にも益軒の著せる女大學の如きは、女子の修身書として世に行はれ、江戸時代を通じて永く女子教育の理想となりぬ。
かくて文化がやうやく上下にあまねかりし上に、社會の平和はうち續き、産業も興りて庶民のやうやく擡頭し来るにしたがつて、文藝もおのづからその間に發達しぬ。まづ俳句は連歌の盛なるにつれて以前より行はれしが、大阪に西山宗因出でて奇警軽快なる句法を以て更に滑稽味を加へ、其の流派一時世に流行せり。その門人に松尾芭蕉あり、若くして伊勢の藤堂氏に仕へしが、その主の早世せるに及び、深く哀悼して遂に遁世し、西行の風を慕ひて、一簑一笠、四方を周遊し、自然を友として吟詠をほしいまゝにす。こゝに於て俳句は從来め滑稽味を脱して幽寂の詩趣あふれ、まさに當時の文學界に一新生面を開き、門弟全國に遍くして、この流獨り海内を風靡せり。同じく宗因の門人に井原西鶴あり、元禄時代の人情世態を如實に描寫して、數多の小説を著せり。その種の小説は浮世草子と呼ばれて、廣く民間にもてはやさる。また一般の娯樂としてはやくより三味線に合はせて浄瑠璃を語り、操人形を舞はすこと興行せられしが、近松門左衞門(巣林子)出でて、浄瑠璃語り竹本義太夫のために筆を執り、流麗軽妙なる文辞を以て、巧みに世の義理人情を寫ししより、大いに世に歓迎せらる。中にもその傑作國姓爺合戦・曽我會稽山などは竹田出雲の脚色せる假名本忠臣蔵などと共に、普く山村僻邑にも流博して、興趣のうちに忠孝情義を子女に教へ、深く人心を感動せしめたり。なほ歌舞伎芝居も廣く上下の嗜好に合し、京阪及び江戸に盛に行はれ、元禄時代には名優東西に輩出して、浄瑠璃と共に當代民衆娯樂の隻璧たりき。
美術・技藝もまたおひおひ精巧の域に進みたり。繪畫には、さきに狩野永徳の孫に探幽(守信)出で、和漢古今の筆致を融合して更に典雅なる畫風を大成し、弱冠にして既に幕府の繪師となり、東西の社寺・殿舎の障壁などに、その霊腕を振ひぬ。門弟にも久隅守景をはじめ、著名の畫家多く、その門葉大いに繁榮して、永く斯界の重鎭たり。また探幽と時を同じくして、土佐光信の玄孫に光起出で、土佐の古流に漢畫の風を加味して精彩を極め、朝廷の繪所預となりて土佐家を中興せり。なほこの狩野と土佐との畫風を融和して、別に一新生面を開きたるは、京都の本阿彌光悦・俵屋宗達らの善くせる装飾畫にして、いづれも濃麗なる色彩を施してよく装飾美を發揮せり。しかしてこの両者の遺風をうけて、更にこれを大成したるは、京都の尾形光琳にして、巧みに華麗なる模様畫を畫き、また精彩なる蒔繪を善くせり。その畫くところいづれも濃艶なる色彩絢爛目を驚かす間に、おのづから豪壮と優雅の風格を備へて、元禄の時代を飾り、いはゆる光琳風は、盛に陶器・漆器・織物などの模様に利用せらる。また特に當代の世態人事を寫せる浮世繪は、江戸や菱川師宣によりて大いにあらはれ、巧妙なを構圖と優雅なる傳彩を以て如實に元禄時代市井の風俗を寫ししが、これらの繪畫は、更に美麗なる版畫として民衆の間に弘通愛賞せらる。かくて元禄時代は俳諧・小説に、浄瑠璃・芝居に、はた装飾畫に浮世繪に、いづれも平民的趣味を發揮し、民衆文藝の大成せるは蓋し當代の特色なるべし。
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