第二十三 鎖國
家康は秀吉の方針を襲ひて、天主教を禁止せしかど、海外との通商はこれを奨勵せしかば、彼我の交通しげきにつれ、ポルトガル・イスパニヤの宣教師ひそかに渡来して布教に徒事し、我が國民の天主教を奉ずるものまた少からず。然るに家康素よりその教の國家に害あるを認めたる上に、かねてこの両國人と相容れざるオランダ人は、彼らが布教は、全く國土侵略の手段なる由を幕府に密告したれば、大いに驚きて慶長十七年以来たびたび禁令を發し、宣教師を海外に逐ひ、信徒を厳罰せり。されどこれが禁遏は、内外の交通貿易に制限を加へざれば、たうていその目的を達すること能わざるより、秀忠は元和二年西洋人の貿易を長崎・平戸に限り、家光は更に進みて寛永十年以来ますますその制限を厳にし、邦人の海外渡航及び異國居住者の歸國を厳禁し、遂に長崎港内に出島を築きて、ポルトガルの商人をこゝに移し、一切國民との交通を斷ち、以て天主教の傳播を防ぎたりき。
然るに九州はキリスト教初傳の地にして、かねてより信徒多く、殊に肥前島原半島は熱心なる信者有馬氏の所領にして、肥後の天草島は同じくキリスト教徒たりし小西行長の舊領なれば、この地方は實に信徒の淵藪にして、浸染の久しき、容易にこれを根絶すべくもあらず。よりて幕府は有馬氏を転封し、これに代るに、外教の嫌厭を以て有名なる大和五條の城主板倉重政を以てし、これが禁遏を圖らしむ。重政すなはち有馬氏の原城を毀ち、新に島原に城づきてこゝに居り、あらゆる峻刑苛法を以て教徒を抑壓し、その子勝家更に重税を課して領民を壓服せしかば、怨嗟の聲ますます高まれり。たまたま紀元二千二百九十七年、第百九代明正天皇の寫水十四年の秋、嘗てザビエルの豫言せるキリスト教復興の時到れりとて、信徒相集りて祈祷に耽りたるを、藩吏これを捕へんとして衝突したるを動機とし、遂に一揆の蜂起となりぬ。すなはち島原・天草などの信徒相結び、益田四郎時貞なる少年を擁して天使と稱し、原の城址を修めてこれに據りしが、その徒老幼男女すべて三萬七千餘人に及べり。幕府板倉重昌をしてこれを討たしめしに、賊勢猖獗にして、容易に抜く能はず。既にして、重昌は老中は松平信綱の己に代りて軍を督せんとするを開き、武士の面目を重んじて、翌年正月元日總攻撃を行ひ、挺身奮戦して遂に殪る。信綱ら来り、諸藩の兵會するもの十二萬餘に達せしが、また持久の策を取り、城中食盡くるを待ち、二月やうやくこれを陷れて、賊徒をみなごろしにせり。世にこれを島原の亂といふ。
幕府はこの亂に懲りて、寛永十六年長崎在留のポルトガル人を放逐し、斷然外國船の渡来を厳禁せり。これよりいはゆる鎖國となりて、社會に種々の影響を與へたり。
幕府はまづこの亂により、いよいよキリスト教の害を恐れ、國内の信徒を根絶せんがために、あらゆる禁教の制を布き、あるひは賞をかけて宣教師または信徒を捜索し、あるひは踏繪を以て信仰の眞偽を糺せり。しかして全國の民貴となく賤となく悉く佛教を奉ぜしめ、戸毎に所屬の寺院を定め、宗門帳を作りて寺院をしてその所屬を證明せしめ、遂には檀家の生死嫁娶に至るまでこれを監せしめたれば、古来の戸籍法こゝに於て一變し、吏員時を定めて宗門帳を検査せり。これを宗門改といふ。かくて佛教は殆ど國教となり、一向宗をはじめ禅・浄土・天臺・眞言・法華などの諸宗江戸時代を通じて行はれ、諸寺は一定の朱印地を給せられて、社會に甚大の勢力を有したり。されど幕府はこの保護を加ふると共に、一方には家康以来諸宗本山法度を下して、厳にこれを取締りたれば、王朝の寺院の如き横暴をほしいまゝにサることなく、また僧侶は保護の厚きになれて安逸に流れ、かへつて活氣を失ひ、文治おほむね三百年の間、かつて新宗派の興るものなかりき。
なほ幕府は天主教を恐るるあまり、洋書の輸入を禁じ、宗教に關するものは素より、天文・地理・暦數などの書籍に至るまで、おひおひ禁書の範圍を廣めたり。されば從来盛に傳来せし歐洲の學藝は、その途全く杜絶し、國民はために西洋の文明に遠ざかり、永く世界の進運に後るるに至れり。
また幕府は厳命して、爾後大船を造らしめず、絶對に邦人の海外渡航を禁止したれば、戦國時代以降社會にみなぎりし海外發展の氣勢は全く挫折せられたりし。さればたまたま印度・南洋諸島に出現せる日本町も忽ち衰滅し、圖南の大志空しくして酬ゐられず、萬恨涙をのんで異域の土となりしものまた少からず。はやくも我が植民したる島嶼は、ほしいまゝに歐人の蹂躙にまかせ、我は退いていたづらに太平の夢を貪るに至りぬ。
したがつて海外貿易は忽ち衰へて、また前日の盛況を見る能はず。島原の亂平ぐや、幕府は、ポルトガル人を長崎出島より放逐して、西洋人の渡来を禁止せしも、唯オランダ人は貿易を主として、かつて布教に關係せず、常に幕府に恭順なるを以て、これを平戸より出島に移し、支那人と同じく来りて通商することを許せり。これより長崎奉行に命じて取締を厳重にし、港灣の要處に守備を設け、鍋島・黒田の二侯をして隔年交代してこの地を警備せしむ。爾来オランダ人永く我が國との通商權を獨占し、毎年一回来航して出島に於て貿易を營みし上、まゝ遙かなる海上にて、ひそかに我が商人と交易を行ふことさへありき。然るに幕初以来とかく金銀の海外に流出すること夥しく、遂に國内正貨の缺乏を来ししより、後、新井白石の建議により、第百十四代中御門天皇の正徳五年、幕府長崎新例を發して、清・蘭二國の貿易の船數を限り、通商の額を制限して寳貨の濫出をとゞめ、また厳に奸商の私販を誡めたり。かくて、海外貿易はしだいに縮少せられてますます不振となり、以て幕末に及びぬ。
顧みれば、家光の鎖國政策は我が政治・經濟・文化の上にそれぞれ至大の影響を與へ、永く我が國を世界より隔離して、損失するところ少からざりきといへども、また多大の裨益を認めざるべからず。すなはち西洋との交渉を絶ちたるため、我が國を世界の波瀾のうちに投ぜず、よく國内の泰平を保ち得たれば、その間に封建の制度は完備し、内國の産業は發達し、儒學は普及し、かへつて本邦特有の思想・文化の進歩を促ししなり。殊に鎖國中も、世界の文明はなほ長崎の一角より傳はりぬ。毎年オランダ船の来るや、出島のオランダ商館長は船長らを伴なひて必ず江戸に参勤し、將軍に拝謁して恭順を表し、且、歐洲諸國の近情を報ぜしかば、幕府はこれによりてほゞ海外の大勢を知るを得たり。また後には、洋學の研究者が、これら蘭人の江戸滞留中、その宿舎に就きてひそかに蘭學を研究するの便宜を得、おのづから洋學の發達に資するところありき。
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