第二十二 海外諸國との交通
家康は秀吉の遺圖を襲ひて広く海外諸國と交り、進取の氣風みなぎれる社會の大勢に順應して通商貿易を奨勵し、大いに國富を増加せんとせり。
古来我と唇歯の關係ありし隣邦朝鮮とは、秀吉の出兵以来交通全く絶えたれば、家康まづこれを復活せんとし、對馬の宗氏をしてその交渉に當らしむ。宗氏は自國の經濟上朝鮮との通商を利とし、極力修交に力めしかば、遂に慶長十二年彼の使節来聘して圖書・信物を呈し、幕府大いにこれを優待し、國交こゝに復活して、爾来將軍の代る毎に、彼より慶賀使を送ることとなれり。しかして宗氏は、世々彼我の間にありて仲介の勞を取りしのみならず、貿易の權を獨占して慶長十四年彼と己酉約條を結び、對州人の館を釜山に設け、歳遣船二十艘を約して通商の利を収めたり。然るに幕府が彼の来聘使を過するの儀勅使よりも重く、應接・饗宴また厚きに過ぎて、いたづらに莫大の經費を要し、またかへつて我が國の體面を損ずること少からざりしかば、後、新井白石斷然新儀を立てて、その待遇法を改めたり。
家康また支那と隣交を修めんとし、明商に許して勘合符を求め、貿易の復活を切望せしに、國交は遂に成立を見ざりしも、彼の東南沿海地方の商船は常に長崎に来航し、我が京都・堺・長崎の商人及び大名・寺院などの朱印船しきりに彼に渡りて交易を營むもの頗る多し。程なく明亡びて清のこれに代るに及びても、長崎を互市場とし、こゝに唐館を設けて永く清商と貿易を繼續しぬ。明の遺臣鄭芝龍かつて平戸の田川氏を娶り、その子鄭森(朱成功)と共に明朝の回復を謀り、我に救援を請ひしに、幕議これを拒みしより、挽回の策遂に果さざりしも、後、鄭森は臺灣に抜り、その孫に至るまで、なほ孤忠を守りて清朝に抗敵せり。また明の遺民にして、まゝ我が國に来れるものあり。儒士朱之瑜(舜水)は水戸藩主徳川光圀の賓師となりて史學を興し、陳元贇は尾州藩の客として柔術を開き、僧隠元は宇治に萬福寺を開きて黄檗宗を傳へたるなど、我が文教の進歩を資けたるの數少からず。
琉球はもと我が國に屬し、室町時代より年々薩摩の島津氏に入貢したりしが、また明にも通じ、久しく我に貢を缺きしより、島津家久は家康に請ひてこれを招きしに、聴かず。。こゝに於て家久兵を遣はしてこれを伐ち、王尚寧を虜にして歸りしが、幕府これを優待して國に還らしめしかば、王は深くその恩に感じ、永く島津氏の附庸となりて、歳貢を獻ずることとなりぬ。
家康また廣く西洋諸國と通商を開かんとし、まづ、かねてより来航せるポルトガル(葡萄牙)・イスパニヤ(西班牙)両國との貿易を盛に奨勵せり。よりて歐洲諸國は、依然東洋の貨物を専らこの両國に仰ぎたりしが、イスパニヤの屬國にオランダ(和蘭)あり、はやくより新教を奉じて本國と信仰を異にし、遂に反きて獨立せしかば、もはや東洋の貨物を本國に求むること能はず。こゝに於てみづから進んで東洋の航路を開かんとし、東印度會社を立てて、しきりに船隊を派遣し、遂にマレー諸島を經略し、ジャワ島のバタビヤに根據を定め、ポルトガル人を壓倒して盛に貿易を營みたり。またイギリス(英吉利)人も夙に航海の術に長じ、東洋に来航してマレー諸島にては。オランダ人との競争に敗れしも、印度方面にては着々成功し、東印度會社を起してマドラス・ボンベイなどに占據し、しだいにその經營の歩を進めて、みづから東洋貿易の覇權を握らんとせり。さればかゝる東亞の形勢は、やがて我が國に及びて、新に國交を促進するに至れり。
オランダの東洋に派遣したる遠征隊五隻は、航海の途中種々の支障にあひ、唯そのうちの一隻、慶長五年豊後に漂着せり。家康命じてこれを浦賀に廻航せしめ、その乗組員オランダ人ヤン、ヨーステン(Jan Joosten耶楊子)イギリス人ウィリヤム、アダムス(William Adams三浦按針)の両人を江戸に召し、具に海外の情勢を聞きて、いよいよ通商を盛にせんとし、両人を優待して邸宅を與へ、外交の顧問として江戸に留らしむ。ヤン、ヨーステンは幕府に請ひて、はやく我が國を去りたるも、なほ八代洲河岸稱呼にその名を残せり。アダムスは最も家康の信任を得て、江戸の邸地の外、三浦半島にも領地を賜はり、永く幕府の外交に参與し、あるひは命ぜられて西洋型の大船を造り、あるひは蘭・英両國との交渉に力を盡くししが、安針町東京市日本橋區按針塚横須賀市逸見などの遺跡にその名残を留めぬ。
かくて蘭・英両國との國際關係も新に起るに至れり。慶長十四年オランダ船二隻平戸に来り、圖書・方物を幕府にさゝげて通商を請ひ、家康の國王に宛てたる答書と貿易公許の朱印状とを得たり。こゝに於て平戸に商館を設け、京・大阪・江戸などにも出張所を置きて盛に貿易を營むに至りぬ。ついで慶長十八年イギリス船もまた来航し、船長ジョン、セーリス(John Saris)國王ジェームス第一世(James T)の國書をもたらし、アダムスの周旋によりて朱印状を得たれば、これより平戸に商館を置き、リチヤード、コックス(Richard Cocks)を館長として通商を開始したり。されど、とかくオランダ人に壓せられて、貿易の利少きを見、間もなくみづから退きしかば、オランダ人獨り通商の利益を占め、日蘭の親交は永く繼續しぬ。
家康またイスパニヤに屬せる呂宋とはやく通商を開きしが、更にイスパニヤ領なるメキシコ(濃毘數般Nova Hispania新西班牙の義)とも直接貿易を開始せんとす。たまたま呂宋の前太守我が國に漂着せしかば、幕府これを優遇し、メキシコに送還するに際し、京都の商人田中勝介らを同行せしめて、通商を求めしめしも成らず。こゝに於て伊達政宗更に將軍の内旨を受け、家臣支倉常長・六右衞門を使節として派遣せり。慶長十八年常長ら奥州・月浦を解纜して一路メキシコに渡り、更にヨーロッパに航して、イスパニヤ國王フィリップ第三世(PhilipV)及びローマ法王ポール第五世(PaulX)に拝謁し、到る處大歓迎を受け、呂宋を經て歸朝せり。この行前後七箇年の日子を費ししが、貿易の事は遂に成功せざりき。
かく西洋人の續々渡来するにつれて、さなきだに海事思想の發達したる我が國民は、これに刺激せられて、ますます海外雄飛の念を興し、頗る活氣を呈したれば、幕府もこの時勢に應じて外國貿易に至大の保護を加へたり。すなはち家康は外國人の治外法權を許し、沿海自由貿易を認めて、廣く國土を開放して輸入品を歓迎し、また國民の出貿易を奨勵して、請ふがまゝに渡海公許の朱印状を與へぬ。されば京都の角倉、茶屋、大阪の末吉、松阪の角屋、堺の納屋、長崎の末次などの商人をはじめ、西南地方の大名、近畿地方の寺院など、しきりに朱印船を支那・印度・南洋諸島に出して商利を博したり。よりて彼我の往来頗る盛にして、我よりはおもに銅・硫黄・樟脳及び銅器・漆器、その他調度品を輸出し、彼の生糸・絹織物・砂糖・薬種及び香木・硝子器などと交易して、通商の利益を占めしかば、江戸時代當初財政の豊富なりしは、これに原由するところ多しとなす。
したがつて國民進取の氣象大いに振ひ、海外に移住するものやうやく多く、呂宋・暹羅・安南・交趾などには日本町さへ建設せられ、多きは數百數千人の居留民を數ふるに至れり。駿河の人山田長政暹羅にありて、日本町の壮丁を糾合し、圖王を助けて内亂を鎭定し大功を樹てしかば、王の女婿となりて威名を轟かし、その戦艦の固を轟かに郷國駿州の浅間神社に奉納して、神恩を謝せしことあり。また當時オランダ人臺灣に占據し、我が商船の近海を過ぐるものを劫掠すること頻頻たりしかば、長崎の人濱田彌兵衞はこれを憤り、衆を率ゐて臺灣に渡り、いたく蘭人を懲せり。なほ天竺徳兵街が、少年の頃よりたびたび印度地方に渡航して商利を獲、松倉重政が呂宋を征せんとして、家臣を遣はしてこれを視察せしめしが如き、勇敢冒險の逸話また少からざりき。
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