第二十一江戸幕府の成立 社會組織
織田信長・豊臣秀吉の後をうけて、國内統一の業を完うしたるは徳川家康なり。その先新田氏より出づと傳え、上州より移りて三河に入り、松平氏をつぎて七代を經、岡崎城主廣忠に至る。家康はすなはち廣忠の子にして、幼名を竹千代と呼べり。當時松平氏は、織田今川両氏の間に介在して、その勢力甚だ微弱なりければ、竹千代は幼少より織田今川両家に質として久しく抑留せられし程なりしが、天性聡明なる上、辛苦の間に人となりて、堅忍の性格を養へり。桶狭間の役に今川義元戦没し、その子氏眞の為すなきを見、家康斷然これと絶ちて信長と結び、遂に今川氏の所領遠江を略して濱松城に移り、ついで信長と共に武田勝頼を滅して駿河を併せたり。後幾ばくもなくして本能寺の變あり、關東の地また、頗る紛亂したれば、家康これに乗じて、更に甲・信の二國を略し、一躍して五國の太守となりぬ。それより織田信雄を助けて、小牧山の義擧に大いに威望を高めたりしが、ついで秀吉に從ひて小田原の役に大功を樹て、北條氏の舊領を受けたれば、豆・相・武・両總・上野などの諸圖を領し、濱松より移りて江戸に入城す。時に天正十八年八月朔日なり。江戸城はもと太田道灌の築くところにして、後、北條氏の有に歸し、その稗將の守るに過ぎず、城廓も極めて狭小なり。この地東南の一隅海を控へたる外、三面は漠々たる武蔵野にして、いたづらに蘆荻の茂るにまかせ、昔ながらの月影は、いはゆる草より出でて草に入るの様なりしに、家康は鋭意これが經營に着手し、丘陵を削り、海岸を埋立て、神田上水を引きて士民の便益をはかり、また諸侯に課して壮大なる江戸城を築造し、城下に市街を開かしめて、はやくも大都市の基礎を築きぬ。
かかる間に秀吉は内外多事憂慮懊悩のうちに薨去し、その遺言によりて、前田利家は大阪城にありて秀頼を輔け、家康は伏見城にありて庶政を掌りしに、程なく利家薨ずるに及び、家康の聲望獨り盛なり。その身既に内大臣の高位に居り、關東の大領土を有して、諸侯を威壓し、まゝ専權の傾ありしかば、石田三成は、その遂に豊臣氏のために不利ならんことを虞れ、ひそかにこれを除かんとす。三成才幹ありて吏務に長じ、夙に秀吉の恩顧を蒙りて頗る勢力ありければ、加藤清正・福島正則・浅野幸長ら攻城野戦の勇將は、三成が文吏にして權を弄するを憎み、素よりこれと善からず、黨争いよいよ激し。既にして三成は上杉景勝の老臣直江兼續と結託し、紀元二千二百六十年第百七代後陽成天皇の慶長五年景勝封邑會津にあり、しきりに兵備を修めて家康の命に抗せしかば、家康宿將鳥居元忠を留めて伏見城を死守せしめ、みづから大兵を率ゐて東下す。正則・幸長・黒田長政・細川忠興らまた相前後して軍に從ふ。三成その虚に乗じ、檄を四方に飛ばして家康の罪を鳴らし、大いに兵を募りしに、毛利輝元・島津義弘・宇喜多秀家・小早川秀秋・小西行長・長曾我部盛親・吉川廣家など有力なる諸侯檄に應じて来會し、輝元これが盟主たり。三成まづ大阪にありし東征諸將の妻子を収めて質とせんとせしに、忠興の妻明智氏拒みて自刃せしかば、その事遂に成らざりしも、程なく伏見城を陷れ、兵を進めて美濃に陣せり。一方家康は、わざと行程を緩めて悠々下野の小山に達せし時、その急報を得、子秀康を留めて景勝に當らしめ、みづからは東海道より、子秀忠は中山道より、直ちに軍を還して西上せり。中山道の軍は遂に信州眞田氏のために遮られし間に、東海道の軍は奮進して九月十五日敵と關原に合戦せり。この役、両軍の兵數ほゞ相當り、激戦數刻勝敗容易に決せざりしに、小早川秀秋ひそかに?を東軍に通じ、俄に味方の背後を衝くに及びて、西軍忽ち潰亂し、三成・行長以下多く捕斬せられ、景勝もついで降りぬ。家康すなはち戦後の賞罰を行ひ、秀家・盛親らの所領を没収し、輝元を山口に、景勝を米澤に移して各々その封土を削減し、これに反して有功の將正則を廣島に、幸長を和歌山に転封して、領土を加増するなど、その他變動頗る多かりき。かくて徳川氏の興敗は、いはゆる天下分目のこの一戦によりて決せられ、從来豊臣氏に仕へたりし諸侯も、おのづから家康の下風に立ち、その家臣に伍するに至り、これを外様大名と稱して、徳川氏譜代の大名と區別するに至れり。
家康海内の實權を握り、慶長八年征夷大將軍に任ぜられ、幕府を江戸に開きて天下の政治を統べたれば、覇府の名實共に備りぬ。越えて二年、家康は將軍職を秀忠に譲りて駿府に退隠せしも、なほ大事はみづから裁斷せり。然るに秀頼は、關原の役後は僅かに攝・河・泉六十五萬餘石を領して、一大名に過ぎざりしかど、故太閤の嫡子として名望おのづから高く、巨額の軍費を有して金城湯池の大阪城に據り、秀頼の生母淀君は大野治長らと謀りて豊臣氏の舊業を復せんとするの志あり、諸侯の中にも、太閤の舊恩を懐ひて、ひそかに心を大阪に寄するもの少からず。されば家康常にこれを憚りしに、おのが齢またやうやく傾きて、後事期すべからざるを念ひて、一日も心を安んずること能はざりき。たまたま秀頼家康の勸により、嘗て父の造營せる方廣寺の大佛を再興して、第百八代後水尾天皇の慶長十九年その供養を行はんとするに當り、新に鑄たれし巨鐘の銘に「國家安康…君臣豊樂、子孫殷昌」などの文字ありしにより、家康これを以て己を呪詛するものなりとし、俄に供養を中止せしめて、厳しく大阪を詰責す。秀頼の傳片桐且元駿府に赴きて百方辨疏せしも、家康更にこれを聴かず、且元らは努めて家康の意を損せずして、主家を全くせんと謀りしに、淀君・治長らはこれを斥け、秀頼に勸めて兵を擧げしめしかば、長曾我部盛親・眞田幸村・後藤基次ら天下の浪士四方より来集し、城中の勇士木村重成・薄田兼相らと力を合はせて城を守り、その將卒數萬に達せり。家康すなはち秀忠と共に大軍を發してこれを圍みしに、城中よく防ぎ、城また堅くしで容易に抜くべからず。よりてその十二月一旦和を結びて圍を解きぬ。これを大阪冬の陣といふ。
この構和の際大阪城の總濠(外濠の義)を埋むることを約せしに、家康士卒を發して外濠を埋めしむるに當り、更に内濠に及び、また二の丸をも壊ちしかば、城中大いにその詐謀を憤りて再擧を圖り、家康父子また来り攻む。然るに、さしもの堅城も城濠外廓既に失はれて、據守の利少きを以て、後藤・薄田・木村らの勇將は、いづれも河内の方面に出陣して邀撃せしに、利なくして悉く戦死し東軍勝に乗じて直ちに大阪に迫る。名將眞田幸村ら奮撃、しばしば敵の大軍を悩ししも、これまた敵はずして討死し、元和元年五月城遂に陷りて秀頼母子自刃し、治長以下皆これに殉じ、豊臣氏全く滅亡せり。これいはゆる大阪夏の陣にして、秀瀕の庶子國松は斬られ、その株は、後、剃髪して鎌倉の東慶寺に入り、秀吉の子孫は絶えて、海内あげて徳川氏に歸しぬ。これより兵革永く熄みたれば、世にこれを元和偃武といふ。
家康大阪を滅して多年不安の念を刈除し、翌年從一位太政大臣に任ぜられしに、程なく病を獲て駿府に薨ぜり。家康天性深謀遠慮にして、極めて耐忍力に富み、これを輔佐するに本多忠勝・榊原康政ら譜代の武將ありし上に、本多正信・正純父子、僧天海・崇傳の帷幄に参するあり、諸般の制度を創め、文教を興し、以て二百六十餘年泰平の基を定めたりき。朝廷特にその功を賞し、東照大權現の號を賜ひ、正一位を贈らせたまふ。一旦これを久能山に葬りしが、やがて日光山に改葬し、後、東照宮號の宣下あり。はじめ天海江戸に東叡山寛永寺を開きしが、その議によりて後、法親王こゝに迎へられ、輪王寺の宮として世々日光東照宮の事を管せらる。日光廟は更に家光によりて大いに改造せられ、殿舎門廡悉く精緻なる彫刻と燦爛たる金色五彩を施し、陽明門の如きは殊にその粋を集めたり。しかして構常寧ろ纎巧に過ぐるの観あるも、華麗の建築は、あたりの明媚なる山水と相映應して、實に天下の美観たり。
二代將軍秀忠は謹厚にしてよく家康の遺法を守り、福島氏をはじめ常に徳川氏の憚れる諸侯を除きて、幕府の威信を増ししかば、三代家光の治世に入りては、統制割合に易々たるの情勢なりき。加ふるに家光は生れながら將軍の嗣にして、女丈夫の誉高き春日局の教養を受け、人となり剛邁潤達なりし上に、土井利勝・阿部忠秋・松平信綱の諸名臣またこれが輔佐に努めたるより、幕府の基礎いよいよ堅く、家康以衆の諸制度大いに整へり。
江戸幕府の重職には大老・老中・若年寄の三役あり、その會同合議するところを用部屋といふ。大老は幕政を總括するも、常置の職にあらず、老中主として政務に當り、京都及び諸侯の事を掌る。若年寄は特に旗本・諸士を管掌す。これについで寺社奉行・勘定奉行・町奉行の三要職ありて、各々寺社、幕府の財政、江戸の市政を分担し、また別に大目付・目付ありて、大名・旗本を監察せり。なほ常備の軍卒ありて、平時の警衞に任ずるも、戦時にありては、以上の文官も立ちどころに武官と變わりて從軍し、大名・旗本・諸士と共に忽ち軍備を組織するの制たり。また地方には諸大名を封じたれども、重要の地は多く幕府の直轄とし、京都の所司代・二條城番、大阪・駿府の城代、甲府勤番、京都・大阪の町奉行をはじめ、奈良・伏見・山田・日光・佐渡・長崎・堺・下田・浦賀・函館・新潟・神奈川・兵庫などの要地には、前後それぞれ奉行を置きてこれを治めしめたり。
諸大名の統制に就きては、家康以来深く意を用ひ、はやくも封土配置の上に於て諸侯を制するの方策を立てたり。すなはち江戸を中心とせる關東八州、京都を中心とせる上方八箇國及びこの両處を聯絡するに枢要なる東海・東山二道には、譜代大名を配し、外様大名はおほむね辺陬の地に封ぜしが、またその間に、尾・紀・水の御三家をはじめ、徳川氏の親藩及び幕府の天領を交へ、天領は郡代または代官をしてこれを支配せしめ、犬牙錯綜の封地により、大小親疎の諸侯互に相牽制せしむることとせり。
また、諸侯權力の平均に就きても、頗る意を用ひたり。譜代大名は領地おほむね小なれども、幕府の要職に用ひられ、封地大なる外様大名は毫も幕政にあづからしめざれば、領土の大小と政權の多少とはよく平衡をたもちて、まま從来の武家政治に見るが如き諸侯跋扈の弊を斷ちたり。
なほ諸侯制肘の策として、譜代・外様の別なく、天下の諸大名をして、必ず隔年江戸に参勤交代せしめ、その妻子を江戸に置かしむるの制を立てたり。されば街道の要所に關所を設けて行旅を検するうちにも、殊に諸侯の江戸邸に於ける妻女の逃出を恐れて、女子の取調を最も厳にしぬ。この参勤制度は既に家康の時にはじまり、三代家光に至りて確定したるものにして、爾来多少の變更ありしも、幕末に至るまでよく繼續したりしが、十四代將軍家茂の時これを弛め、妻子をして國に就かしめ、その制遂にすたれて、程なく幕府の衰亡を見るに至れり。
また家康は學僧崇傳らをして武家諸法度十三條を制せしめて、これを公布せり。その後、將軍の禪代毎に更にこれを頒ち、その箇條に多少の増損ありしも、築城・徒黨・私婚などの厳禁、参勤交代制の遵守、文武の兼修、禮節・倹約の奨勵などを主とし、法令を以て部下に臨み、常にこれを勵行して諸侯を抑壓せり。
蓋し徳川氏の封建制度は最も整備せるものにて、幕府は唯政治の大綱を握るにとゞまり、諸藩の政治はあげてその自由にまかせたり。されど地方分權の弊を避けんがため、百方諸侯制馭の術を講じて、權力を中央に集むるに努めたるより、再び下剋上の弊をかもすことなく、よく永年の泰平を保ち得たりき。
當時社會は階級制度頗る厳格にして、將軍は上至尊を奉戴して下萬民を統率し、これに直屬せる大名には親藩藷代外様の別ありて、その親疎の家格・采地の大小により各々權力を異にし、官位禮遇より式日の服装・殿中の席次に至るまで、それぞれ差等を立て、高下の格式整然として毫も相冒すことなし。しかして幕臣の旗本・家人及び各藩の士人はいづれも世禄を賜はり、文武の両道を兼修して忠節・禮儀を尚ぶを旨とし、社會上流の地位を占む。これに支配せらるゝ庶民に至りては、農・工・商の三級に分れ、いづれも苗字・帯刀を許されず、極めて質實なる生活を營みたり。しかして庶民の日常生活は武家の干渉を受けず、かへつて地方の舊慣によりて自治の風習を保ちたれば、自治の制度はおのづからその間に發達し、名主または庄屋専ら村民を支配して、村内の産業。交通・教育・風俗などを取締り、その下に五人組制度により、村民は連帯責任を負ひて治安の維持に努め、大いに隣保團結の美風を發揮せり。
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