第二十八 外交の紛糾 洋學の研究
幕府の實力やうやく衰へし頃、内には勤王の思想勃興して幕府に迫り、外には外艦しきりに来航して辺海をおびやかし、内外頗る多事なりしが、辺海の憂はまづ北海より起れり。ロシヤは早く意を東方の經營に用ひ、人煙稀なるシベリヤを蠶食したりしが、ペートル(Peter)大帝出づるに及び、清國とネルチンスク條約を結びて國境を議定し、更に拓殖の歩を進めて遂にカムチャツカ半島を略し、ますますその勢力を太平洋沿岸に張らんとせり。かくて露人はしだいに南下して、樺太・千島諸島を侵掠し、蝦夷地に来りてわが北辺を窺へり。ここに於て幕府は最上徳内らをして蝦夷地を巡視せしめしが、徳内は後また單身千島を探検して歸り、民間の識者中にも、かゝる形勢を察して、早くも海防を論ずるものあり。中にも林子平は、専ら志を辺防に注ぎ、蝦夷に渡りて北辺の形勢を探り、また長崎に遊び、蘭人に就きて世界の大勢を究め、まづ三國通覽圖説を著して、蝦夷・朝鮮・琉球の地理風土を説きて、防備を施すべきを論じ、ついで海國兵談を公にして、世界の形勢に鑑み、わが海國の防備を厳にすべきことを詳述して、以て時人の覺醒を促したり。されど幕府は、これを以てみだりに奇矯なる誣説を弄して衆を惑はすものなりとして子平を處罰せり。
されど子平が罪を得たる間もなく、寛政四年九月露國の使節ラックスマン(Laxmann)根室に来りて、我が漂流民を送り、且通商を請へり。これ寛永鎖國後外國の公に通商を求めたる始なり。幕府これを許さず、長崎に到ることを諭して歸らしめしが、これより俄に國防の必要を覺り、まづ老中松平定信をして房總豆相の沿岸を巡視せしめたり。ついで近藤重蔵(守重)幕命を奉じて蝦夷地を巡察し、高田屋嘉兵衞を嚮導者として択捉島に渡りて探検を遂げ、土民を懐柔して開發を企て、露人の建てたる標柱を仆して我が國標を建てたり。その頃伊能忠敬も公命を受けて蝦夷地の海岸を實測せしが、忠敬夙に西洋の學術を習ひて、推歩測量の精確當時無双といはれ、これより全國に亘りて測量・製圖の大業を成しぬ。
既にして露國は、更にレサノフ(Resanov)をして我が漂民を伴なひ國書・方物をもたらし、長崎に来りて通商の約を結ばんことを請はしむ。幕府はその國禁たるを告げて拒絶せしかば、彼はこれを怨み、しきりに樺太・択捉に寇して劫掠をほしいまゝにせり。よりて幕府は蝦夷全土を収めて天領とし、松前奉行を置きてこれを經營せしめ、ついで仙臺・會津の二藩に命じてその地を警固せしむ。また間宮林蔵(倫宗)は扁舟を操つて萬苦を凌ぎ、蹶然樺太を探検し、更にシベリヤに渡り、實地を踏査して歸れり。かくて北辺一時大いに騒擾して、露國に對する攘夷論も起りしが、その後佛國ナポレオン(Napoleon)皇帝のモスコー侵入などありて、彼の國内多事なりしため、しばらく我と交渉を絶ち、北門一時小康を得たりき。
かく北疆多事にして、幕府防備に苦しめる時に當り、西辺また新に騒擾をかもせり。これより先、歐洲の形勢は一變して、ポルトガル・イスパニヤの両國國勢既に衰へ、フランスは大陸に、オランダは海上に、それぞれ覇權を握りたりしが、後、ナポレオン皇帝起りてしきりに諸國を征服し、遂にオランダをその屬國となせり。然るにまたイギリスはフランスと争ひ、印度を占領して着々經略の歩を進め、その東洋艦隊はフランス及びオランダの植民地を襲ひ、その貿易を妨げて、東洋貿易の利を獨占せんとす。當時オランダの三色旗の飜へるは唯我が長崎出島のみなりしかば、英國東洋艦隊の一隻フェイトン號(Phaeton)は蘭船を捕獲せんとて、文化五年突然長崎に闖入し出島の蘭人を掠禁して頗る亡状を極めたり。長崎奉行松平康英これを撃たんとして果さず、責を引きて自刃しぬ。この後も、英船しばしば我が近海に出没して狼藉を敢てしたり。
かゝる露人の寇掠、英人の暴行は、いたく國民の排外熟を高め紀元二千四百八十五年第百二十代仁孝天皇の文政八年幕府令して外國船の我が海岸に近づくものは、直ちにこれを撃攘はしめ、また我が商船・漁船なぜの外國船に接近するを厳禁し、斷然祖法の鎖國政策を勵行せり。世にこれを文敬一の撃攘令といふ。これより幕府はますます意を國防に注ぎ、夙に西洋の兵學を究めたる長崎の町年寄高島四郎太夫及び伊豆韮山の代官江川太郎左衞門英龍(坦庵)らを用ひて新式の兵器・戦術を研究せしめ、軍事の改善をはかりて以て攘夷に備へんとす。諸藩の大名また多く攘夷説を執りしが、中にも水戸の徳川齊昭はこれによりて人心を緊張覺醒せしめ、天下の士氣を鼓舞して武備の充實に力め、以て金甌無缺のわが帝國を傷けざらんことを緊要となし、みづから率先して攘夷論を唱へ、反射炉を作りて盛に大砲を鑄、むねと國防の充實をはかりぬ。また薩摩の島津齊彬は、同志の親友佐賀の鍋島直正と共に、盛に西洋の文物を採用して既に瓦斯・電氣の使用、寫眞術、蒸氣船・蒸氣車の製作などをも試み、また種痘法を行ひなどしけるが、いづれも反射炉を以て巨砲を鑄、一朝有事の際海防の用に備へたりき。
かくて攘夷論は大いに天下を動かししが、洋學者はおほむね世界の大勢を察して、これに反對せり。さきに洋書の厳禁ありしより、西洋の事情は殆ど我が國に知られざりしに、新井白石は、たまたま来朝せるローマの宣教師に就きて世界各國の地理・歴史などを開き、西洋紀聞を著し、なほそれに蘭人より聞けるところを加へて采覽異言を著し、やゝ西洋の事情を明かにせり。ついで將軍吉宗洋書の禁を弛め、長崎の和蘭通詞にも始めて洋書を読むことを許し、青木昆陽を長崎に遣りて蘭學を學習せしむ。爾来學術書の輸入と相待ちて、刻苦蘭學を講習するもの相踵ぎて出で、西洋學術の端やうやく開かる。豊前中津の藩醫前野良澤(蘭化)天性眞摯一身を蘭學の研究に委ねて、かつて名利を求めず、蘭學を昆陽に受け、更に長崎に赴き、通詞に就きて講習し、やゝ蘭語に通じ、杉田玄白らの同志と共に、解剖書の翻訳に從事せり。されどいづれも蘭學の素養乏しき事とて、いはゆる舵なき扁舟の大海に乗出ししに似て、僅か數字の訳語にも一両日を費す程にて、苦心は豫想の外なりしも、刻苦精勵遂に解體新書の訳述を果したるは、これ實に鎖國後洋書翻訳の嚆矢にして、蘭方醫學の教達に貢獻せしのみならず、洋學の發展に一転期を劃したるものたり。また仙臺の藩醫大槻玄澤(磐水)は良澤・玄白に就きて學び、特にオランダの語法を研究し、蘭學階梯を著して、綴方・發音などを示ししかば、これより蘭學に志すもの急に増加し、斯學隆盛の端をなししが、後、大阪の緒方洪庵の學塾の如きは、特に英才を輩出せる淵薮と稱せらる。かく洋學次第に民間に普及するに及びて學習の範圍も廣まり、從来の醫學の外、兵學及び諸種の學術を原書によりて研究するものあり、平賀源内の如きは、電氣機械・寒暖計などを創製して世を驚かしぬ。また露・英両國との交渉喧しきに及びては、蘭學の外、新に英露の國語をも講習するに至れり。さればこれら洋學者の中には、海外の事情に通じ、我が鎖國政策の不利を悟るもの少からず。たまたま天保の頃英國の軍艦来りて通商を請はんとするの風聞あり、幕府これを撃攘せんとするの議を聞くや、三州田原の藩士渡邊崋山は鴃舌或問・愼機論を著し、陸中水澤の人高野長英は夢物語を著して、共に英船撃攘の非を論ぜしが、幕府はいづれも造言世を惑はすものとして、二人を捕へて投獄せり。
かく幕府はひたすら開國を説くものを抑へたれども、世界大勢の推移はますます外より我が國に迫り来れり。恰もこの頃隣邦清國はイギリスと阿片戦争を開きて利あらず、上海・廣東などの五港を開き、且香港を割譲し、償金を出して和を結べり。その敗戦の報我が國に達するや、幕府もやうやく鑑みるところあり、天保十三年さきの文政令を緩めて、外國船の漂着せるものには薪水・食料の需要品を給與し、上陸を許さずして歸航せしむることとせり。世にこれを天保の緩和令といふ。
かかる際イギリスのアメリカ植民地は、さきに獨立して北米合衆國と稱し、國力年と共に進展して、その領域を太平洋沿岸に擴め、更に支那に直通航路を開きて貿易の利を獲得せんとし、遂には清國と通商條約を結びし上に、また太平洋の捕鯨會社を起して、その事業盛大となり行くにつれ、寄港地を我が國に求むるの必要より、まさに我が開港を促さんとするの情勢にあり。さればオランダ國王ウィリヤム第二世(WillamU.)は、再度書を幕府に致して、ねんごろに世界形勢の推移を説き、近時蒸氣船の發明ありて、今や四海比隣の如く交通する時に當り、依然として鎖國の舊習を守るの不利なる由を忠告し、また太平洋上航海の盛況と米國當時の情勢とを説き、その要求を拒みていたづらに國際紛議をかもすの得策にあらざる旨を述べて、しきりに開國を勸告するに至れり。
この頃第百二十一代孝明天皇即位し、いたく外交に宸念を悩ましたまひ、勅を幕府に下して、ますます海防を厳にし、爾後外交の事は大小となくこれを奏上せしむ。たまたま紀元二千五百十三年(嘉永六年)アメリカの水師提督ペリー(Perry)軍艦四隻を率ゐ、兵備を整へて浦賀に来り、大統領フィルモーア(Fillmore)の國書をもたらして修好通商を請へり。老中阿部伊勢守正弘は浦賀奉行戸田氏榮らをして、これを久里濱に引見せしめたるも、事態重大にして容易に決すべくもあらず、ペリーは明春再び来航して回答を求むる旨を合げて、一旦退去しぬ。こゝに於て幕府は江戸瀕海防備の必要を悟り、俄に品川沖に砲臺を築き、藷藩に命じて武相總房の海岸に屯戎せしむ。士民もまた、その殷々たる砲聲に多年太平の眠をさまされ、戦端今に開かれんとて、人心頗る恟々たりき。然るにペリーの退去後、間もなく露國の使節プチャチン(Poutiatine)もまた軍艦を率ゐて長崎に来航し、千島・樺太の國境を劃定し、且、通商貿易を開かんことを請ふ。幕府川路聖謨らをしてこれに應接せしめ、交渉を後年に期して去らしめたり。
こゝに於て正弘は事の由を朝廷に奏上し、また諸侯に諮りてこれが處置に對する意見を徴せり。然るに諸侯の主張は區々にして頗る囂々たりしも、おほむね彼の請求を拒絶するに傾きたりしが、國防備らざるを以て、幕府はこれが歸嚮に迷へり。かゝる折しもたまたま將軍家慶薨じて家定嗣ぎ、?劇の間に多事の嘉永六年は暮れて、翌安改元年はやくもペリー軍艦九隻を率ゐて再来し、艦隊を進めて神奈川沖に碇泊せり。幕府は林大學頭?らをして、横濱にてこれと應接せしめ、遂に和親條約を結びて、下田・函館の二港を開き、薪水・食糧などを給與することを約せり。その頃イギリスはフランスと同盟して、クリミヤ戦役にロシヤに當りしかば、英國の提督来りて、その旨を臺げて我が國に寄港地を求め、また露國は米國の和親條約の成功を聞きて、同じく来りて修好と國境の協定とを迫りしかば、幕府はこの二國及びオランダともほゞ米國と同様の條約を締結し、殊に露國とは、千島列島を二分し、樺太を両國人の雑居地と定めたり。されど通商貿易の事はなほ舊の如く、オランダを除きては、これを許さざりしなり。
かくて幕府の當事者は、紛糾せる外交問題にいたく心肝を砕きたりしが、いよいよ國防の充實を必要となし、幕臣勝麟太郎安芳(海舟)らの上書を採用して、諸國の要所に砲臺を築かしめ、また江戸に講武所を開き、長崎に海軍練習所を設けて陸海軍の振興をはかり、なほ蕃書調所を創設して新知識の輸入をはかり、大砲の
鑄造、軍艦の建造など、鋭意諸般の改革を斷行せり。また天下の志士にして、大いに當時の國事を憂ひて蹶起するものあり、長州の士吉田寅次郎(松陰)文武に長じて、夙に天下の形勢を洞察し、ペリーの使命を果して江戸灣を去りて下田に入るや、ひそかに米艦に投じて海外に渡り、廣く世界の事情を探らんとせしに、事あらはれて幕府に捕はる。その師信州松代の藩士佐久問象山、また豪邁にして、はやく洋學を講究して濟世の志深し。送別の詩を松陰に送りていはく、「環海何茫々、五州自為隣、周流究形勢、一見超百聞と。ために象山もまた嫌疑を受けて、連座の罪に問はれぬ。
和親條約既に結ばれたれば、安政三年米國の總領事ハリス(Harris)下田に来り、ついで江戸に入りて、將軍家定に謁して國書を呈し、また老中掘田正睦に面して、親しく世界の大勢を説きて我が鎖國方針を執るの不可なるを論じ、切に通商貿易を開かんことを請ひ、しきりにこれを促せり。ここに於て幕府も時勢を察し、その要求を容れて、しばしばハリスと通商條約を議せしめ、遂に、神奈川・兵庫・長崎・函館・新潟の五港を開し、公使・領事の駐箚、外人の信教自由・治外法權を認め、また輸入・輸出品に對する税則などをも規定し堀田正睦をして上京して勅裁を奏請せしめたり。然るに徳川齊昭をはじめ、攘夷の説を持して幕府の外交策に反對するもの頗る多く、朝議もこれに傾きしを以て、孝明天皇は深く國家の前途を憂へたまひて、容易に幕府の奏請を許したまはず、更に諸大名の衆議を盡して上奏すべしとの勅答あり。よりて正睦は空しく江戸に歸り、ハリスは條約の調印を迫りて幕府いよいよその處置に苦しみぬ。
この時に當り、彦根藩主井伊掃部頭直弼大老に擧げらる。直弼資性剛毅なる上に、若きより修養に努めたりしが、今やこの重任を帯びて、身を以て一意この難局に當らんとす。時に英・佛の二國は難を清國に構へてこれを破り、遂に天津條約を結べり。たまたま両國の艦隊この戦勝の餘威を以て、大擧して我が國に迫らんとするの風説あり。ハリスこれに乗じて條約の調印を逼ること急なりしかば、幕府は事態の頗る切迫せるを見、安政五年六月十九日遂に勅許を待たずして調印を了し、ついで、蘭・露・英・佛の諸國ともこれに準じて條約を締結せり。
これより假條約を實行することとなり、まづ長崎・函館・神奈川の三港を開きて、内外人の互に貿易するを許し、外國奉行を置きて専ら外交の事を掌らしむ。ついで萬延元年外國奉行新見豊前守正興ら幕府の使節として米國ワシントン府に赴きて、條約の批准交換を了せしが、その後慶應元年にはいよいよ條約の勅許を得て、永年の鎖國政策はここに全く破れ、廣く世界萬國國交を開くに至りぬ。


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