第十九 海内の統一 美術・技藝
應仁の亂後社會の秩序紊亂して忽ち混亂の情態に陷りしも、年所を經るに從ひて併呑しだいに各地に行われ、地方的統一の傾向は遂に全國統一の氣運に向ひつつあり。この氣運に乗じ、地の利と卓抜の知謀とを以て、よくその偉業成せるは織田信長なり。
信長の桶狭間に今川義元を殪すや、徳川家康は義元の子氏眞の共に為すなきを見て、かへつて信長と結びたれば、信長はじめて後顧の憂なく、専ら西上を策していち早く旗を京都に立てんとす。よりて、まづその途に當れる美濃の齋藤氏を滅してその稲葉山城を収め、清洲より移りてここを居城とし、周の文王岐山より起るの故事に因みて城下を岐阜と名づけたり。正親町天皇遥かに信長の威名を聞召し、立入頼隆を下して御料所の回復を委ねたまふ。信長父の志しを承けて夙に勤王の念深く、勅命を拝するに及びて大いに感激し、速かに朝廷の興復を果たして宸襟を安んじたてまつらんとせり。時に將軍義輝害に遭ひ、その弟義昭遁れて信長に来投し、また回復を依託せしかば、信長大いに悦び迎へ、紀元二千二百二十八年(永禄十一年)いよいよこれを擁して入京し、奏して義昭を將軍となし、壮麗なる二條城を築きてここに居らしむ。義昭欣喜してその恩を謝せしに、その後信長の威望日々に高きを忌み、自ら安んぜずして兵を起こし、これを除かんとはかりしかば、遂に紀元二千二百三十三年(天正元年)信長のため逐はれて足利氏こに滅亡し、信長これに代わりて兵威四隣を壓し、近畿悉くその命を奉ずるに至りぬ。
ここに於いて中央に志ある東西の群雄は、信長を除きてこれに代らんとするもの多し。まづ關東の名將武田信玄は、巧妙なる畫策を以て諸方を操縦する間に、西上の機いよいよ熟して、まず大兵を率いて南下し、途を東海道に取りて入京の宿志を果さんとす。ときに徳川家康遠州を略して濱松に居城し、信長の依嘱を受けてこれに當り、その援軍と三方原に邀撃せしも、衆寡敵せずして敗北せり。よりて信玄は更に兵を進めて三河に討ち入り、野田城を落としいれしに、たまたま宿痾再發して歸國の途中不幸にして病没す。ここに於いて多年剛勇を以てよく信玄に匹敵せし上杉謙信は、その好敵手を失ひたるを惜しみしが、これよりもはや後顧の憂なかりしかば、軍を北陸に進めて西上を決行せんとし、すでに越中・能登を略し、秋夜陣中一詩を賦しておのが得意を歌ひたりき。やがて天寒く雪深くして兵馬を進むるに不便なるより、一旦軍を班し、翌くる彌生、越路の野山雪解くるに至りて、更に大擧西上を決行せんとせし際、また俄に病没して志を果さず。その後家督の内訌ありて上杉氏ますます衰へぬ。また關西を代表する英傑毛利元就は、これより先既に入京の壮志を抱きて逝き、この他東西僻陬の群雄は未だ入京の志を伸ぶるの機に達せず。かく東西の英傑は宿志まさに成らんとして、いずれも俄に没し、いはゆる人事不測の變が獨り信長をして功業を収めしめ、その統一事業は着々として進捗するに至れり。
かくて信長は、その功業一段の進歩を見るに及びて、更に根據を西に進めんとし、新たに近江の安土に築城して岐阜よりここに移る。この地琵琶湖を控へて京都に近く、加ふるに東海・東山・北陸の要衝に當りて、これらの地を制するに便なり。城は丘陵に據りて漫々たる湖水に臨み、七重の天守閣高く天空にそびえて頗る壮観を極め、殿内の装飾また善美を盡くして絢爛目を驚かし、實に本邦城郭の制に一新紀元を與へ、麓には士邸甍を竝べ、商家軒を繼ぎて街道の往還晝夜絶ゆる間なし。信長すなわちこの地を中心として、まさに四方に號令せんとす。
この時に當り、武田信玄の嗣子勝頼天性勇猛にして、父の遺志を繼ぎて必ず覇業を成さんとし、しばしば南下して家康と兵戈を交へ、信長は家康を助けて専らこれに當らしむ。天正三年勝頼精鋭を擧げて三河の長篠城を攻圍せしに、城主奥平信昌死守して屈せず、信長・家康聯合して赴き援け、鐵砲隊を以て盛に敵を攻撃せしかば、勝頼大敗してその軍死傷するもの一萬餘、老功の名將多く討死して、武田家はために一大打撃を受けぬ。さればこの後は宜しく兵を休めて静かに武力を養ふべきに、勝頼血氣にはやりてなほ討伐をやめず、實力ますます消磨して家勢頗る衰へたり。ここに於いて紀元二千二百四十二年正親町天皇の天正十年、信長は家康・北條氏政(氏康のこ)らと共に、三方より兵を進めて甲斐を包圍攻撃せしに、勝頼既に人心を失ふこと久しく、その一族・諸將風を望みて違反投降し、さすがの勇將勝頼も如何ともする能はず、妻子を伴なひて一旦天目山に遁れんとし、その山麓田野に於て敵と奮闘して遂に自刃せり。勝頼の夫人北條氏も夫に殉じて悲壮なる最期を遂げ、あはれ貞烈の誉を残しぬ。これより信長は滝川一益に上州を與へ、厩橋(前橋)に居らしめて、關東を控制せしめたり。
勝頼關東に活動する間に、西方に於て毛利氏は、元就の没後もその遺族能く元就の遺訓を守りて協同し、家勢毫も衰へず、嫡孫輝元家を嗣ぎて、吉川元春・小早川隆景の両將をこれを援け、兵威日に強盛にして更に九州・南海に及びたれば、遙かに關東の武田・上杉氏と盟約して信長を牽制せり。然るに信長はみづから東國に當らざるべからざれば、部將秀吉を抜擢してこの方面の經略を委ねぬ。秀吉は尾張國中村の農家に生れ、はじめ木下藤吉郎と稱す。性明敏にして機智に富み、夙に大志あり、少年にして遠州に赴き、松下之綱に仕えて軍學を習ひしが、ついで尾張に歸りて信長の僕となる。その才幹やうやく信長に認められ、しだいに登用せられて遂にその部將に列し、しばしば戦功を樹てて頭角をあらはし、先輩丹羽長秀・柴田勝家の武名を慕ひて姓を改め、羽柴筑前守秀吉と稱せり。今や中國征討の大任を受くるに及びて、着々歩武を進めて天正十年備中に入り、清水宗治を高松城に圍み、折からの梅雨に乗じ、長堤を築きて河水を導き、城に灌ぎてこれを覆没せんとす。毛利輝元その急を聞き、元春・隆景らとともに大擧赴き援けしかば、秀吉また信長の来援を求めたり。ときに信長は東國より凱旋したるを以て、これを機としてみづから西下し、いよいよ毛利氏と雌雄を決せんとし、まづ明智光秀らにその先鋒を命じ、みづから上洛して本能寺に宿る。光秀は美濃の人、もと土岐氏の疎族にして、信長に仕へて大いに用ひられしが、嘗て信長に怨むところあり、俄に叛きて、六月二日の黎明、急に本能寺を襲ひて信長を害し、その子信忠をも二條城に攻殺せり。信長智略衆を抜き、能く人材を擢用せしも、天性豪放・部下を遇すること峻厳に過ぎて、まま他の怨恨を招き、ために忽ち逆臣の凶手に斃れ、統一の偉業半途にして挫折しぬ。
一方高松城は、日々の五月雨に水嵩増して、まさに陷落に瀕せしより、毛利輝元五國を割きて和を求め秀吉はさらに城將の自裁を促して和議容易に成らず。たまたま本能寺の變報秀吉の陣に至りしが秀吉深くこれを秘す。城將清水宗治は身を以て士卒の命に代わらんことを請ひ、進んで義烈なる自刃を遂げたれば、和議はじめて成れり。よりて秀吉直ちに軍を班し、途に織田信孝(信忠の弟)らと合して山崎の弔合戦に一擧に光秀を誅し、それより織田家の宿將と清洲に會同し、柴田勝家らの議を退けて信忠の子秀信を織田氏の嗣と定め、ついでみづから喪主となりて、故主信長父子のために盛大なる法會を大徳寺に營みて、おおいに上下の信望を博し、勢威嶄然宿將を凌げり。勝家これを忌み、滝川一益らと共に信孝を擁して兵を擧げ、秀吉を除かんことを謀る。秀吉機先を制して、大いにその軍を江賤岳に破り、勝に乗じて長駆して越前北荘に迫りて勝家を滅し、一益は力竭きて降り、信孝も自刃して亂全く平ぐ。ここに於て秀吉は越前を収め、前田利家を加賀に封じて北陸を控制せしむ。かくて織田氏の遺業をやうやく秀吉の手に移り行きしより、織田信雄(信孝の兄)はこれを憂へ、徳川家康に頼りて秀吉を除かんことをはかる。家康舊誼を重んじてこれに應じ、濃尾平野の要地小牧山に出陣し、秀吉また大兵を率ゐて、大阪より来たりて犬山に陣す。然るに家康は、かねて四國の長曽我部元親、紀州の根来・雑賀の一揆、及び越中の佐々成政らをひそかに誘致し、大阪城の虚を衝かしめんとしたれば、秀吉はこれに牽制せられて行動とかく意の如くならず。加ふるにその部將信輝森長可ら長久手に於て大いに家康のために破られしかば、秀吉はかくて曠日瀰久の不利なるを悟り、遂に和を講じ、程なくおのが妹を家康に嫁せしめて盟約を固めぬ。これより秀吉紀州を討ちしが、その陣中閑をぬすみて舟を和歌の浦に浮かべ、玉津島に打出て緑たちそふ布引の松をめでなどし、悠々として一揆を降し、ついで軍を四國に遣はして元親を伐たしめ、更にみづから越中を伐ちて成政を降し、忽ち北國を定めて上杉景勝と會盟せり。ここに於て秀吉の創業をはじめて成れり。
これより先、秀吉創業ほぼ成るや、まず天下を控制するの根據を定めんとし、かねて信長の遺圖を襲ひて、城を大阪本願寺の舊地に築かんとし、諸國に令して大石・巨材を運ばしめ、塁を高くし、堀を深くして、壮大なる城郭を造れり。その要害の堅固なるは殿宇の雄麗と相待ちて、實に天下第一の稱あり。諸將また居をその周圍に卜し、築地を構へ門戸を連ねて荘厳を極め、商家は簷を竝べて広大なる城下町を開けり。この地もと東と北とに大河を控へ、西は海に臨み、四通八達の地なれば、百貨輻輳して殷賑また海内に冠たりき。
ここに於て海内おほむね秀吉の威に靡きしかども、なほその命を奉ぜざるものに、九州に島津氏關東に北條氏あり、島津義久國富み兵強くして、大友・龍造寺の諸侯を壓し、遂に龍造寺隆信を敗死せしめ、しきりに大友氏の所領を蚕食せり。大友宗麟これを恐れ、みづから上洛して救を秀吉に請ふ。秀吉、信長の遺志を繼ぎて素より九州經略の意あり、まづ島津氏を招諭して朝覲を促ししに、義久秀吉を軽んじてこれを聴かず、かへって攻略をほしいままにせしかば、秀吉奏請して大擧島津氏を伐てり。天正十五年三月秀吉行粧美々しく大阪を發し、旌旗を春風にひるがへして西下せしに、胸中既に勝算あり、途に厳島に遊びて、聞きしより眺にあかぬ風光を賞し、悠々九州に入る。水陸の諸軍二十萬、軍容堂々、進んで鹿兒島に迫りしかば、諸城おほむね風を望みて潰え、義久ついに敵せずして薙髪して来り降る。秀吉これを許し、その侵略地を収めてほぼ舊領薩・隅日の三州を保たしむ。かくて恩威竝び行われて九州悉く平ぎぬ。また北條氏は早雲小田原に據りしより氏直に至るまでここに五世、久しく武威を東國に布き、殆ど關八州の地を掩有して日々攻略を事とせり。秀吉よりて氏政・氏直父子の上洛を促ししに、これまた秀吉を賤しみて命に應ぜざりしかば、秀吉その罪を責め勅命を奉じて出征し、徳川家康らを先鋒とし、軍を東海・東山の両道に分かちて竝び進ましむ。両軍箱根・碓氷の天險を破り、諸城を陷れて小田原に會し、城を包圍せしが、北條氏は城郭の堅固と一族・將卒の決死團結とを恃み、兵食また餘ありて容易に下らず。秀吉よりて持久の策を立て、陣中しばしば宴を張り、歌舞を催して、將士をねぎらふ間にも、陣營を峨峨たる石垣山上に營み、小田原城中を俯瞰して日夜攻略をはかれり。ここに於て城中の將士意氣おのづから沮喪し、衆心やうやく離叛して、ひそかに秀吉に通ずるものあり。されば、城中よく攻圍を支ふることを百餘日に及びしも、氏直遂に屈し出降り、小田原城はじめて陷る。秀吉すなわち氏政に自刃を命じ氏直を高野山に放ち、ついで北條氏の舊領を擧げて家康に與へ、その他それぞれ論功行賞を終へたり。この間に奥州の伊達氏をはじめ東北の諸侯も、遙かに兵威を望みて争ひてカンを秀吉に通じ、從来小田原のために遮斷せられし奥羽の地もまた秀吉に靡きて、天下悉くその威令を仰ぐに至りぬ。ここに於て應仁以降の騒亂全く平ぎ、全國統一の偉業はじめて完成せしは、恰も紀元二千二百五十年正親町天皇の天正十八年なりき。
かくて信長の遺策を繼承して海内を統一し、再び太平の世を開きたる秀吉は、經綸においても殆ど信長とその軌を一にせり。既に戦國紛亂の間に顯れたる尊王の思想はこの両雄によりて遺憾なく實現せらる。信長・秀吉共に勤王の志深く、夙に皇室を奉戴して四方に號令せんとし、信長は安土に、秀吉は大阪に城づきて、いづれも根據を京都の附近に置き、共に武人の最も光榮とせる將軍職を望まず、かへつて當初より朝官を拝し、信長は遂に右大臣に昇り、秀吉は關白に任ぜられ、ついで太政大臣に進み、豊臣の姓を賜る。蓋し關白の職たる、古来藤原氏の獨占にして他門のこれに陞りしものなかりしに、秀吉勲功の賞によりてこの顯職に上り、無上の榮達を極めたり。されば尊王敬神の美績また頗る多く、信長勅命を受けて入京するや、まず村井貞勝らに命じて皇宮を修理せしめ、殿堂・門廡悉く舊制に復せしむ。また米を上下両京の市民に貸與し、その利息を収めて内裏の供御に充て、後、更に御料所を復し、なほ資を獻じて朝儀を復興したてまつり、公卿の采地をも復してその窮乏を救ひたれば、公卿の流落せるものも再び京都に歸来し、都下やや舊観に復することを得たり。信長また伊勢神宮の廢頽して故典の擧がらざるを憂へ、資を獻じて内外両宮の造營を企て、所要の經費はいくばくにても支出せしめんとせしが、不幸本能寺の變ありて果さず。秀吉その遺業を繼ぎて、両宮の造進を遂げたれば、その正遷宮式はじめて擧げられ、戦國以降久しく廢絶せし式年遷宮の制ここに復活して、これより永く行はる。秀吉は氣宇宏大、嘗て地を京都内野に相してここに新第を營み、殿樓華麗、名づけて聚樂第といふ。すなはちここに第百七代後陽成天皇の行幸を仰ぎ、秀吉文武百官を率いて扈從したてまつりしが、貴賤・老少遠近より来集して盛儀を拝観し、感泣して曰く、「圖らざりき、今日または太平の象を観んとは」と。このとき秀吉は、天皇・上皇をはじめたてまつり、皇族に御料を奉獻し、公卿・女官に至るまで知行を頒ち、更に諸大名をして永遠に皇室の尊崇を誓はしむ。また和歌の御會には、松の千載に君の萬代をことほぎ、舞樂の天覽、管弦の御遊、善盡し美盡せる御饗宴に、ひたすら叡慮を慰めたてまつれり。盛事實に前古に超絶し、駐輦五日に及びて龍顔麗しく還幸したまふ。なほ秀吉更に皇宮を修め、その周圍に公卿の邸第を起こし、専ら皇運の挽回に盡くし、以て尊王敬神の大義を實行しぬ。
信長・秀吉はまた大いに民政に注意し、政治の統一も着々實行の運びに向ひぬ。さきに信長の入京するや、まず兵士をして皇宮を護らしめ、また吏を市中に派して厳に軍勢の亂暴狼藉を取り締りしかば、市内静謐にして人々皆心服せり。當時社寺・豪族至るところに私關を設けて通行税を徴發するならひなりしが、信長まづこれを廢止し、さらに竝木街道を開きて諸人交通の便をはかり、なほ都市を保護して諸役を免除し、百姓の賦役を軽減して生業に安んぜしむ。また折々馬揃・相撲などを催して部下の武藝を奨勵し、學問・美術は素より、苟も一藝一能に長ぜるものは必ずこれを優遇して民業の開發に力めたりしに、功業半にして終りしより、その後世に傳はれるもの極めて少し。その後を承けたる秀吉は、母に仕えて至孝、よく妻子を愛撫せしのみならず、かりそめにも師恩を忘れず、舊師松下之綱に所領を與へて舊恩に報いたるが如き、その眞情永く世の欽慕するところたり。加ふるに天空海濶の度量をもって悉く天下の英傑を包容し、広く士民を愛撫し、嘗て北野に大茶湯を催し、方一里の松原、木の下森の陰おのおの數寄をこらせる八百餘の茶席を設け、貴賤・貧富の別なく、風流に志あるものはことごとく来會せしむ。秀吉また多年蒐集せる秘蔵の珍器・名物を飾りて縦覽せしめ、衆庶と樂しみを共にせしが、ついで聚樂第の門前に莫大の金銀貨を積重ね、一々みづからこれを諸將に頒與せり。また秀吉は、かかる豪壮なる行動の間に、頗る意を國家の經濟に注ぎ、まづ力を京都の復興に盡して、市街を區畫整理し、周圍に土手を築きて外郭となし、京都の面目を一新せり。また全國のを田制を正さんとし、天正より文禄年間にわたりて、ひろく五畿七道に検田使を發して細密に田畝を丈量し、田制を改めて三百歩を一段とし、米穀の産額によりて田畠の等級を分ち、その収穫に應じて税率を定め、およそ収穫の三分の二を官に納れしむることとせり。世にこれを天正の石直、または文禄の検地といふ。またしきりに諸國の鑛山を採掘して巨額の金銀銅を収め、大小判金及び銀・銅の貨幣を鑄造して全國に流通せしめたれば、經濟界も頓に進展せり。殊に職制もしだひに整い前田玄以は京都の市政及び社寺の事を掌り、長束正家は財政、浅野長政・増田長盛・石田三成は訴訟その他の庶務に當り、これを五奉行と稱して政務を分掌せしが、後、更に徳川家康・前田利家・毛利輝元・宇喜多秀家・上杉景勝(初、小早川隆景)の五大老、または生駒親正・中村一氏・堀尾吉晴の三中老など置かれて、共に大事を議することとし、政務の規律頗る確立しぬ。
かくて世の太平となるに從ひ、美術・技藝もおのづから發達せり。信長既に技藝に長ぜる者を優遇して藝術の進歩を圖り、從来工藝品に濫りに日本一の號を稱せるを禁じ、斯道の大家の審査を經たるものに限り、その號を許すこととして、粗製濫造の弊を矯めぬ。秀吉特に豪壮を好み、信長の安土城にならひて大阪城・聚樂第を營み、雄大華麗を極めたりしが、なほおのが功業を永く後世に傳へんとして、方広寺を京都の東山に建て、未曾有の大佛像を安置せり。膠漆塗金の木像、高さ十六丈、優に奈良の大佛を凌ぎ、堂宇また二十丈に上りて、京都の一偉観たり。晩年更に城を伏見に築きしに、この地山に倚り水に臨みて、展望に富み、京南の要地たり。秀吉諸大名に令してその工を援けしめ、夫を役すること二十五萬人、渠を通じ、道を開き、郭を築くこと三重、宏壮の樓閣高く聳えて、白壁十畳翠松に映じ、壮観いはんかたなく、殿宇の内外盛に彫刻・繪畫を利用して、豪華雄麗、最もよく當代の特色を發揮せり。當時著名なる畫家に狩野永徳あり。永徳は元信の孫にして、嘗て安土城天守閣の金壁に霊腕を振ひ、ついで秀吉に寵用せられて、大阪城・聚樂第に畫き、その養子山樂は、大阪・聚樂の外づ特に伏見城の装飾にあずかる。いづれも雄健なる宋元畫に優麗なる土佐派の筆法を融和し、その豪健なる筆力はよく殿閣の宏壮に相應じ、絢爛なる傅彩は燦爛たる金壁にふさはしく、雄大華麗前後に比なし。またあらゆる彫刻装飾は左甚五郎らの名手によりて施されたりといはれ、意匠の卓抜、手法の勁健また世に傑出せり。然るに豊臣氏亡びて伏見城また毀たれ、墾きて多く桃樹を植ゑ、その地を桃山と稱せしかば、桃山時代の名は當代の美術を代表する稱呼となり、今なほ京都の社寺に遺存せる伏見城の遺構(西本願寺の書院)・飛雲閣・唐門、豊國神社の唐門、近江竹生島都久夫須麻神社の拝殿)に、いはゆる桃山時代豪華の跡を偲ぶべし。また諸種の遊藝も時代につれて興りしが、中にも能樂は公武の間に流行して装束・調度に贅を盡し、茶道には泉州の人武田紹鴎さきの珠光の法を傳へて遂に一家を成し、その門弟千利休秀吉に用ひられて、斯道を興隆してその名海内に鳴れり。男女の服装は製作おほおひ簡素となり、肩衣・半袴は上下と稱して専ら武士の常服となり、女子は袴の着用を廢し、一枚の服を着流して帯を結ぶの風もはじまりたりしも、色合・模様などは時代につれて華麗となり、装飾・調度に金銀・珠玉をちりばめて、豪奢の風尚をあらはすもの少なからざりき。

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