第十八 戦國時代の世相
室町幕府は大名制馭の宜しきを得ざるより、遂に權臣の跋扈を来し、應仁の大亂を惹起しながら、これを鎭定すること能はず、もはや國内統制の力なきことを暴露せり。ただ義政の子將軍義尚聡明にして壮志あり、夙に幕威を回復せんとす。義尚は幼より文武の業を修め、當代の博識一條兼良を師とし、樵談治要を上らしめて經世の要に備へたり。既にして、江州六角氏の暴慢なるを責めてみづから大軍を率ゐてこれを伐ち、厳に賞罰を正して天下に示さんとす。その陣中暇あれば、すなわち經史を繙き、餘裕綽々たる様なりしに、不幸陣中に薨じて幕府の中興また望むべからざるに至れり。その後の將軍は、おおむね虚位を擁するのみにて、その實權は管領細川氏に、細川氏の權は執事三好氏に、三好氏の權はその宰臣松永氏に、しだいに移り行きて、將軍義輝は遂に松永久秀らのために害せらるる程なりしかば、幕府存立の實全くうせ去りぬ。
されば地方には中央の威令毫も行はれず、功名富貴を望むもの所在に崛起し、互に侵略争奪を事とし、友を伐ち、主を滅して憚らず、遂に強は弱を併せ、大は小を呑みて、群雄割據の形勢を成し、兵戈を結んで解けざることおよそ一百年、從来の名門・舊家はたいていこの間に倒れ、家臣又は微族のこれに代わりて新たに興るもの多く、いはゆる下剋上の氣風は残りなく發揮せられ、全く社會の舞臺を一變せり。
名將・勇士が思ふままに智力を振ひたる、いはゆる戦國時代の世相は、まづ關東より展開せらる。さきに永享の亂に足利持氏亡びてより、上杉氏關東の政柄を握り、持氏の遺子成氏を管領に迎立し、山内上杉家の憲忠は執事に補せられ、家宰長尾景仲(昌賢)これが補佐となりて、東國の静謐をはかれり。然るに成氏は憲忠らを父の仇なりとしてこれを攻殺せしかば、景仲は扇谷上杉家と力を合はせて成氏に當り、成氏鎌倉を保つ能はずして下總の古河に走れり。これより古河公方の稱あり。かくてその勢威俄に衰へたりといへども、なほ名望を以て一方に雄視せしかば、上杉氏は更に將軍義政の弟政知を伊豆の堀越に迎へてこれに對抗せり。世にこれを堀越公方といふ。それより古河・堀越の両公方相對立し、千葉・里見など關東の八將は古河に、山内・扇谷の両上杉氏は堀越に、それぞれ分屬して相争ひ、以て關東の大勢を左右したりき。
長尾景仲もと文武の材に富み、儒者を聘して經史を講修し、主家を輔けて紛擾を制し、よく家政を執りしに、その没後山内家の勢威頓に衰へ、扇谷家の勢望かへつて大いに加る。當時扇谷定正の名臣に太田持資(道灌)あり、頗る文雅の道に長じ、殊に和歌に巧みにして、苅萱しげる武蔵野にもかかる言葉の花もありやと、至尊の叡慮を辱くせし程なり。加ふるによく軍政を修め、新に江戸城を築きて古河に備へ、將士競ひて来り屬し、扇谷家の勢い甚だ盛なりしより、山内顯定これを忌み、定正・道灌の主從を離間せしかば、道灌は定正のために誘はれて遂に悲慘なる最期を遂げぬ。これより後、両家の間に争起こり、交戦年をわたりて互いにその實力を消耗し、随ひて堀河公方家もしだいに衰へたり。
かかる東國の騒亂に乗じて、獨り漁夫の利を占めしは北條早雲なり。早雲はもと伊勢の人、天性豪邁にして覇氣横溢、風雲に乗じて關東を席巻せんとし、まづ駿河に下りて今川氏に寄食し、徐に形勢を察して古河に通じ、ひそかに堀越を窺ひたりしに、たまたま堀越家の内訌あるに乗じ、俄に襲ひてその公方家を滅し、遂に伊豆を略して韮山城に據れり。次いで關東の要扼たる小田原城に據らんとし、その城主大森藤頼を欺きてこれを奪ひ、遂に相模を從へて威武大いに關東に振へり。その子氏綱、孫氏康また智勇あり、父祖の遺業を繼ぎてしきりに隣國を侵ししかば、古河公方は両上杉氏と和し、聯合してこれに當りしが、北條氏はこれを破りて江戸・河越の両城を取り、更に房總に兵威を振へる里見氏と、下總國府臺に會戦してこれを破り、その勢力は両總にまで發展しぬ。かくて紀元二千二百六年第百五代後奈良天皇の天文十五年、川越の戦役に氏康大いに古河公方及び両上杉氏の聯合軍を撃破し、扇谷朝定は戦死し、山内憲政は上州に遁れたれば、後、程なく古河公方も滅亡し、北條氏これに代わりてはじめて關東の覇權を握り、小田原はその首都として繁榮せり。
山内憲政は氏康に逐はれて上州より越後に走り、その臣長尾景虎に頼る。景虎の父為景は上杉氏の家老長尾氏の庶族より起りて家を興し、規模頗る遠大なり。季子景虎勇敢にしてよく兵を用ひ、夙に老成の風あり、家を承けて春日山城に居り、後、久しからずして國内を平定し、更に兵威を隣國に振ひ、殊に義氣を以てあらはる。いまや憲政の来投するに及びて、景虎その譲を受けて上杉氏を稱し、關東管領職を嗣ぎ、ついで薙髪して謙信と號す。謙信憲政の依嘱により、しばしば兵を關東に出して北條氏と争ひしに、その勇悍に恐れて敵するものなく、幾重の山河、恰も無人の境を行くが如く、長駆小田原の城門に迫りしことあり。かくて攻争連年絶えざる間に、また謙信と拮抗して相下らざるものに、甲斐の名將武田晴信あり。晴信薙髪して信玄と號し、深沈にして知謀に富み、父信虎に代わりて躑躅崎の館にあり、しばしば兵を信州に出して諸族を降したれば、同國の豪族小笠原・村上の諸氏敵せずして越後に走る。謙信すなはちこれを援けてたびたび川中島に出戦して信玄と雌雄を争ひたりき。
その他東北地方の豪族に陸奥の伊達・南部、出羽の秋田・最上の諸氏ありて互いに封疆を争ひ、中にも伊達氏最も優勢なりしも、土地遠隔にして大勢に關係なかりしが、獨り本州の中部にありて、他日飛躍の基礎をつちかひつつたりしは尾張の織田氏なり。その家代々管領家斯波氏に仕へて、その領國尾張の守護代たり。夙に平野豊沃の地を占めて徐に實力を蓄へ、勢主家を凌ぎて遂に自立の志あり、信秀出づるに及びて同族を從へ、隣國を侵して俄に聲望を得しが、その子信長豪勇にして智略に富み、ますます家勢を張れり。時に駿河の名族に今川氏あり、勢力甚だ盛にして、既に遠江を略し、さらに版圖を三河に広め、その領主松平氏を服して岡崎城主広忠の子元康(家康)を質とせり。ここに於て紀元二千二百二十年第百六代正親町天皇の永禄三年、今川義元みづから駿・遠・参三國の大兵を率ゐ、元康を先鋒として尾張に侵入せしに、信長寡兵を以てこれを桶狭間に迎撃し、風雨に乗じて奇襲を試み、忽ち義元を殪ししかば、信長の威名いよいよ遠近に轟きぬ。
転じて中國の方面を見るに、出雲の尼子、周防の大内の両氏最も顯る。尼子氏は室町幕府の重職京極家の一族にして、累代出雲の守護代たりしが、經久出づるに及びて富田の月山城に據りて大いに家を興し、嫡孫晴久に至りてますます強大となり、常に大内氏と覇を争へり。大内氏は王朝以来の舊族にして、義興に至りて諸州を併呑し、また明と交易して財力豊富を極め、山口城下の繁榮は一時京都を凌ぐ程なりしに、その子義隆富強を恃みてやうやく驕奢に流れ、文雅に耽りて武事を軽んぜしかば、國政大いに亂れて遂に老臣陶晴賢のために滅さる。時に安藝に毛利元就あり、幼にして大志を抱き、同國吉田の小城より起り、しきりに比隣を掠めて、領土を広め、二子元春・隆景をして吉川・小早川両家の跡を嗣がしめ、その族を合はせて勢いますます盛なり。元就、晴賢の簒奪の罪を鳴らしてこれを伐ち、陶の大軍を狭隘なる厳島に誘致し、風雨晦冥の夜を機としてこれを襲ひ、一擧に晴賢を滅して大内氏に代れり。ついで富田を攻めて尼子氏を滅し、その領土をも併せたれば、毛利氏の版圖は中國より九州・四國にわたりて十餘國に及び、いよいよ中國の覇權を握りぬ。
四國には管領細川氏やうやく衰へ、長曽我部元親土佐より起りて諸族を平げ、ついに四國を統一せんとし、九州には少弐氏の家臣龍造寺隆信肥前に起り、豊後の大友宗麟(義鎭)出でて薩摩の島津氏に當り、三方相鼎立せしが、島津義久に至りてついに九州を席巻せんとするの傾あり。されど、これまた西方に偏して中央の大勢に關係するところ少なし。かくて海内悉く干戈を動かさざるところなく、世をなべて亂麻の様なれば、公卿・社寺の荘園はいづれも豪族のために横領せられ、かしこくも皇室の御料所さへその厄を免るること能はず。幕府また財政窮乏して皇室の御用度を辨ずるの資力なければ、皇室の式微實にその極に達せらる。後土御門天皇は應仁の大亂に難を避けたまひて、禁闕の外にましますこと十餘年、その崩じたまふや御葬儀の資に乏しく、霊柩黒戸御所に安置せらるること四十餘日に及べり。第百四代後柏原天皇・後奈良天皇相ついで践祚したまひしも、幕府の獻資なきを以て久しく即位の大禮を擧げたまふこと能はざるの御有様にて、節會・恒儀も多く行はれず、内裏破損すれども修理の途なく、おそれ多くも毎日の供御にさへ事缺きたまひしといふ。されば公卿は衣食に窮して諸國に流離し、縁を求めて大名・民家に寄食するものも少からざりき。
かかる朝廷の衰微にもかかはらず、天壌無窮の皇運は素より微動すべくもあらず。後土御門天皇をはじめ御歴代、御身の御窮迫を顧みずして常に國民の上に大御心を寄せさせられ、仁慈の後聖徳いつの代にもかはらせたまはず。殊に後奈良天皇は、皇居の頽廢はさて措き、伊勢神宮の廢壊を畏みてまづこれを修めたてまつらんとしたまひ、また宸筆を下して日々の供御を補ひたまへるが如き際にも、御みづから心經を寫したまひ、諸國に下して萬民の福利を祈らしめらる。國民聖徳の深きを思ひて、感泣せざるものなし。すなはち大内義隆・毛利元就・織田信秀をはじめ、今川・上杉・北條・朝倉の諸氏、本願寺・加賀白山など、いづれも御歴代即位の資または皇居修理の費などを奉獻し、また聖旨を體して伊勢神宮のために盡くすものもあらはれ、六角高頼・織田信秀らは相前後して神宮の修理費を奉納し、慶光院清順尼は、後奈良天皇の勅許を得て、諸國に勸化し、浄財を集めて遂に外宮を造營したてまつりしが如き勤王敬神の美績少からず。加ふるにこの際朝廷に於て一條兼良及び吉田神道家の兼倶・兼右らを召して、王朝以来久しく絶えたる日本紀の講修をはじめたまひ、地方に下れる公卿のこれを諸侯の家に講ずるものあり。しかして古来國民が最も光榮とする朝官朝爵はもはや幕府の手を經ずして直接朝廷より拝戴し、四方の群雄いづれも將軍に信頼せずして朝廷に葵向し、天皇を奉戴して天下に號令せんとせざるはなし。されば皇室の式微は毫もその尊厳を損することなく、直接國民との接近はかへつて臣民忠誠の精神を振起し、戦國紛亂の裏にも皇室中心思想のおのづからあらはれしは、また以て國體の精華とすべし。
また戦國のならひ、海内統一の政治は素より行はれざりきとはいへ、地方に割據する群雄は、各々兵戈を交へて日もこれ足らざる間にも、なほ心を文事に留め、政務に怠らざりしかば、諸國の民政はそれぞれに振へり。北條早雲は學を好み、いはゆる針を倉に積む程の勤倹なれど、しかも玉を砕きて惜しまずいといはるるばかり士民を愛撫したれば、人々皆これに心服せり。孫氏康また文雅の道に長じ、しばしば雅友を城中に招きて和歌の會を催し、殊に父祖に繼ぎて仁政を布きしかば、民政頗る整ひて、その家法に早雲寺殿二十一箇條と傳ふるものあり。また武田信玄は禅旨に通じ、兼ねて和歌を善くし、上杉謙信も詩歌に巧みなるうへに風流・遊藝の末技にさへ長ぜしが、中にも武田家は法制の整備を以て稱せられ、その家法に信玄百箇條あり。民政また行き届きて、鑛山の採掘、産業の奨勵と共に、賦税の軽減を以てひたすら民力の涵養に力めしかば、甲斐の國人永くこれを徳とせしのみならず、その貨幣制度及び衡座法は他日徳川氏に採用せられて広く全國に行はれぬ。また關東の今川氏は京都のしん紳と婚を通じ、有職・文雅の道にも長じ、義元は塗輿に乗りて陣中を駆けめぐれる程、公家風に化せしが、これと相竝びて關西には周防の大内氏あり、公卿・學者・僧侶の京都の亂を避けて同家に身を寄する者おびただしく、義隆はこれらと相交り、詩歌・蹴鞠・茶道などに耽りて餘念なく、經籍を遙かに支那・朝鮮に求めし外、また自國にても書籍を梓行し、文藝ために勃興して世に山口文學の稱あり。これに代わりて興れる毛利元就また文事を嗜みて、その歌集に春霞集あり、常に士民を愛撫して深く人心を収攬し、なお子孫を戒めて一心同力その家法を守らしめしかば、家道ますます榮えて永く後世に及びぬ。
かくて戦國時代の進むにつれて地方的統一はしだいに行はれ、兵威熾にして民治に巧みなる大名の城下には、士民四方より来集しておのづから都市をなせり。北條氏の善政を布くや、諸國の士民小田原に集中し、商賈城下に軒を竝べて、その繁盛一時往時の鎌倉を凌げり。これに對して山口は西都と呼ばれ、支那・朝鮮との貿易繁盛し、西國の商賈はここに来集せしのみならず、外人も少からず移住し、富裕一時天下に冠たりき。かく各地の城下がその地方の政治・經濟の中心となりて、城下町の發達をみたる外、堺・兵庫・門司・平戸などの如き、専ら通商のために新に都市の起こるものもありて、はやくも近世都市發達の起源をなしぬ。
されど昇平無事の日少かりし當時のこととて、教育は一般に振はざりしが、篤學の將上杉憲實下野の足利學校を再興して數多の經籍を寄せ、學規を立て、學僧を招きて講説を掌らしめしかば、學徒諸國より来遊して、講筵一時頗る榮え、さきの金沢文庫と併稱せられて、今に貴重の典籍を遺存せり。この他には別に學所の聞ゆるものなきも、當時の群雄はおほむね家庭の教育に注意し、謙信が剣戟のひまにみづから筆を執りてその子のために習字本を認め、信長・秀吉・家康らが幼時いづれも寺子屋に學びたるが如き、以てその一端を察すべし。女子に至りては殊に貞淑の教を旨としたれば、夫を天としてこれに仕へ、貞烈の誉をあらはしし美績また少なからず。
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