第十三 鎌倉時代の文化
鎌倉時代は一般に武勇を尚びたるより、まづこれに關連する工藝・美術の發達を見たり。すなはち源平の抗争以来戦争うち續きて、刀剣の需要盛になりゆき、武士道の振興するにつれて鍛刀の術もいよいよ進歩せり。また京都に於ては、後鳥羽上皇大いに刀剣を好みたまひ、諸國の刀工を召して番鍛冶を定め、毎月鍛錬せしめたまひしより、その技ますます進みて、京都の粟田口吉光をはじめ名工諸國に輩出し、下りて鎌倉に岡崎正宗出でて特に精妙を極め、日本刀の誉は海外にまで轟けり。なほ明珍家は代々精巧なる甲冑を製作して名を揚げ、永く子孫に及べり。
佛教美術は前代より引續きて、鎌倉大佛の如き端麗なる金銅佛の傑作もあらわれしが、一般に勇壮なる木造の彫刻多く、よく當時の剛健なる特色を發揮せり。かの平安時代に有名なる佛工定朝の裔に運慶及びその子湛慶らの名手あり、當代の初に出でて、四天王・二王などの像を刻みしが、その雄渾なる刀法を以て巧に活動の諸相を寫ししは、前代の優美纎麗なる手法とは全く趣を異にしぬ。
また戦争を寫せる繪巻は、軍記物と伴なひてあらわれ、勇壮を喜ぶ當時の人心に歓迎せられしが、これらの繪畫は、おほむね前代より發達せる大和繪によりて、色彩豊かに、姿態も細かに寫し出されたり。中にも住吉慶忍の筆と傳ふる平治物語繪巻及び藤原長隆の蒙古襲繪詞などはその白眉と稱せらる。殊に藤原信實は寫生に長じて、後世肖像畫家の祖と仰がれ、なお佛教の隆盛につれて、社寺の縁起、高僧の傳記を主題とせる繪巻物も頗る流行せり。
この時代に新に傳来して、おもに上流社會に行はれし禅宗は、種々の方面に多大の影響を與へたり。その寺院の建築は、宏壮なる山門・佛殿・法堂など一直線に相竝びて建てられ、殿堂の床には甃を敷きつめ、柱楹多くは白木作り、頗る質實なる構造にして、全く宋風の模倣なれば、從来の唐風に基づきて建てられたる寺院とは著しく様式を別にして、一異彩を放ちぬ。また禅僧の簡素なる生活は、武士の剛健なる氣象に合したるうへに、座禅を組みて静慮開悟するの宗風が、よく精神の鍛錬に適するより、大いに武士の間に行はる。かの時頼の大度、時宗の膽勇なども、この修養に得るところ少なからざりき。
かく新しき宗教の傳はれるとともに、一方平安時代の宗教は、多くは加持・祈祷によりて現世の幸福を求め、遂には騒亂を事としてやうやく弊害を生ぜしのみならず、その説くところ高遠に過ぎて、かへつて通俗に悟り難かり傾あり。然るに他方興亡定なき世相に對せる當時の人々は、むしろ未来の安樂を希ふ念強くなり行きしかば、數多の善知識出でて、平易なる教えを以て未来を力説し、専ら庶衆の安心を得しむるに努めたり。ここに於て當代の宗教は、大いに前代と趣を異にするに至りぬ。法然は、平安時代の末より、浄土宗を開き、地力の難行を捨てて、専修念佛によりて極樂浄土に往生せんことを勸め、深く人心に感動を與へて、數多の弟子・信徒を得たりき。中にもその高弟親鸞はさらに眞宗(一向宗)を創め、從来行われ来りし一切の祈祷を退け、また自ら僧侶の戒律を捨てて肉食妻帯の生活をなし、専ら他力に頼りて彌陀の一向信念を高唱し、盛に南無彌陀佛の六字の名號を唱へしめたり。しかしてこの両宗は、ともに他宗の排撃に逢ひて、開祖のしばしば地方に流さるることをありしは、かへつて廣く諸國に流布するの機縁を作りぬ。殊に僧一遍は浄土宗より出でて別に時宗を開き、みづから諸國を遊行して専心念佛を勸め、遊行上人の稱を得たる程にて、普く地方を勸化するの効頗る大なりき。また僧日蓮は天臺宗より出でて新たに法華宗(日蓮宗)を開き、まづ立正安國論を著し、これを執權時頼に獻じて盛に法華經の功徳を述べ、日夜巷に立ちて熱烈に法を説き、南無妙法蓮華經の題目唱道によりて即身成佛を得よと教へたり。されど激烈に他宗を誹毀するより、往々世の迫害を受け、伊豆・佐渡などに流竄せらるることありしに、日蓮毫もこの法難に屈せず、ますます奮闘傳道に力めて、いたく人心を鼓舞し、甚大なる感化を社會に與へぬ。かくて、王朝の宗教がとかく上流社會に行はれて、貴族的佛教の傾向ありしに比し、これらの新佛教は、いづれも宗教の形式を顧みずして信仰を力説し、簡易なる教旨を以て當時の民心に適應し、この後民衆の間に弘通するに至りしは、また當代の特色なるべし。
かかる時勢の變遷にもかかはらず、和歌はなほ京都に於て常に盛んに行はれ、殊に後鳥羽上皇和歌を巧みにしたまひ、歌人としては、有名なる藤原俊成・定家の父子、同じく家隆、僧西行などあり。中にも定家は歌學を大成して永く歌聖と仰がれ、家隆と共に勅を奉じて新古今集を撰せしが、その歌調の流麗にして歌想の巧緻なる、實に勅撰歌集中の白眉と稱せらる。また定家が、いはゆる百人一首を書しておのが小倉の山荘に貼れりと傳うるものは、今に小倉色紙として世に珍重せらる。なほ西行の歌が寂びたるうちに情味に富める、實朝の詠が古雅にして雄渾なる、それぞれ趣を異にして、以て當代の盛況を偲ばしむ。されど後には歌學の家相分かれて、互いにその家勢を争い、歌風は唯舊套を墨守するに至りて流弊ようやく加り、歌道はいよいよ振るはざりき。
當時の文學に特に異彩を放ちて、新しき趣を加えたるは軍記物なり。すなわち尚武の世風につれて、源平以来の盛衰興亡を題材として著せる保元物語・平治物語・平家物語・源平盛衰記の類、ひろく人々に愛読せられしが、これらはいづれも明快なる假名交り文を以て如實に戦闘の様を寫し、その間に巧みに崇高なる佛語を交へ用ひ・離合生死の人情を説きて大いに人々を感激せしめたり。殊に平家物語は、これを琵琶に弾じて歌はれしより、ますます世に行はれ、壮烈なるうちに優しき風流・韻事を傳へ、人生の悲哀を感ぜしむるところもまた少なからざりき。
されば當代の文學も、前代の貴族階級より転じて、武士の間に移り、やうやく庶民の間に普及するの傾向を帯び来れり。しかして庶民の教育を受くるものは多く寺院に行き、僧侶に就きて読書習字などを學びしより、いはゆる寺子屋の源も開かれ、またわが國修身書の鼻祖といはるる十訓抄などの教訓書も、はじめて世に出でたり。從ひて女訓の類もようやくあらはれ、女子の風も、王朝の如き優柔・放縦のならひを去り、理智に富める尼將軍、または社會の救濟に志深き執權時宗の妻覺山尼をはじめ、貞烈なる婦女も多くあらはれて、その美風を發揮するに至りぬ。
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