第十二 大陸との交通 元寇
鎌倉時代より社會の秩序大いに整ひしと共に、支那大陸との關係もまた頗る密接となれり。これより先、支那は、醍醐天皇の御代に唐亡びてより、數多の國に分かれたりしを、村上天皇の朝に宋起りて、これを統一して國勢頗る盛なり。當時遣唐使の制は既に廢れて、國交は絶えたりといへども、彼我商船の往来するものなほ少なからざりしが、鎌倉時代に入りてますます繁くなり行き、宋及び高麗の商船は筑前の博多または薩摩の坊津に来航し、我が商人も彼に赴きて、盛んに貿易を營めり。彼よりは糸類・陶器・銭貨などを輸入し、我よりは米穀の類を輸出して、有無相通じて互いに利益するところ多かりき。
また、王朝以来我が僧侶の片々たる商船に便乗し、萬里の波濤をかして彼の地に渡り、修學するもの絶えざりしが、鎌倉時代に入りていよいよ著しくなりぬ。僧榮西は叡山に學びたる後、入宋して天童山に遊び、歸りて臨濟派の禅宗を傳へ、上下の信望頗る厚く、京都の建仁寺鎌倉の寿福寺の開祖となる。同じく叡山の學僧にして、後、榮西に就きて禅を學びたる道元は、更に天童山に赴き、曹洞禅を傳え来りしが、天性恬淡にして殊に名聞を厭ひ、世塵を避けて閑寂なる越前の永平寺に退隠し、厳肅なる制規を立てて僧侶を養成せり。またこの頃、禅僧の彼より来朝せるものも少からす。北條時頼は宋の僧道隆を鎌倉に招きて建長寺を建て、時宗も同じく祖元を請じて圓覺寺の開祖となしぬ。後世この建長・圓覺の二寺に、寿福・浄智・浄妙の諸寺を合はせて、鎌倉五山と呼び、永く禅宗の重鎭たりき。
かく僧侶の往来につれて、産業の新たに起れるものあり。榮西の宗より歸るや、茶の種子をもたらしてこれを栽培し、喫茶養生記を著してその効能を述べ、世人に茶の飲用を勸めたり。後、明恵更にこれを栂尾に移植せしより、やうやく諸國に広まり、製茶の術もしだいに進みぬ。また尾張の人加藤景正は道元に從ひて入宋し、製陶の術を究めて歸朝し瀬戸に窯業を開き、頗る精巧なる品(春慶の稱あり)を作りしが、子孫にも名匠輩出し、その製品廣く行はるるに及びて、遂に陶器を呼びて瀬戸物というに至れり。かくて工業の興るにつれて商業もまた發達し、各地の商估鎌倉に集り来りて、七座の市場さへ設けられ、また海舶輻輳の地には問丸と稱するものありて、諸國の貨物を取り扱ひたれば、問屋の制も既にはじまりき。
かくの如く彼我の交通は我が經濟・文化の進運助くるところ少なからざりしが、ここにはしなくも彼の来寇にあひて、我の剛勇をあらはすべき時機に際會しぬ。これより先、我が平安時代の末葉には、宗の國威やうやく衰へ、今の満州地方に遼・金などの強國を起りしが、更に蒙古國の勃興を見るに至れり。蒙古族は宋の北方に起りて、もと甚だ微々たるものなりしが、鎌倉時代の初成吉思汗の立つに及びて大いに勢を得、その後しきりに四方を攻略し、遂に金(當時既に遼を併せたり)を滅して支那北半の地を併せ、更に雲南・西蔵及び安南地方を平定し、西は遠く歐州に侵入してモスコー・ハンガリー・ポーランドなどを蹂躙するに至りぬ。かくて第九十代亀山天皇の朝、世祖忽必烈の即位するや南は宋を抑へて都を大都(北平)に奠め、東は高麗を從へて朝鮮半島を略し、その勢に乗じて我をも臣服せしめんとし、文永五年高麗王を介して國書を我に送り来れり。されどその國書の無禮なるより、朝議これに返報せざるに決せり。
然るに翌年蒙古の使者再び来るに及び、朝廷答書案を鎌倉に下してこれを議せしめたまふ。ときに時宗若年にして執權たりしが、生来頗る豪膽なる人なれば、毫も彼の威勢に懼れず、斷乎としてこれを拒絶し、その無禮を責めて使者を逐還し、鎭西の將士に命じてますます防備を厳にせしめたり。
蒙古はやがて國號を建てて元と稱し、しばしば使いを以て、我に服從を促ししに、いずれも返報を得ざりしかば、元主大いに怒りて、第九十一代後宇多天皇の文永十一年十月、忻都・洪茶丘らを將として大軍を率ゐて入冦せしめたり。その戦艦九百餘艘、まず對馬・壱岐を襲ひて虐殺をほしいままにし、進みて筑前に迫る。少弐・菊池・大友の諸軍これを博多灣頭に迎戦せしが、我は武器・戦術に於て頗る不利なりしかども、奮闘してやうやくこれを退けたり。たまたま暴風俄に興りて、敵の艦隊はために大損害を蒙り、辛うじて逃れ去りぬ。
元はこの失敗に懲りず、杜世忠らをしてまた國書を上らしめしが、時宗これを龍口に斬りて我が強硬なる態度を示し、さらに北條實政を九州に遣はして防備の充實をはからしむ。すなはち前役の經験により、極力敵の上陸を阻止せんがために、防塁を博多沿岸一帯に築かしめて再度の来寇に備えしのみならず、なほ彼の再来に先だち、かへつて我より進撃せんことをはかりて、着々遠征の準備を進め、老幼・婦女に至るまで、しきりに義憤を發して奮起するものあり、國民の意氣大いに揚りぬ。
かかる間に、元ははやくも宋を滅して全く支那を統一し、その餘威に乗じて一擧に我が國を從へんとし、紀元一千九百四十一年弘安四年、東路・江南の両軍を發して来り攻めしむ。忻都・洪茶丘ら東路軍四萬に將とし、まず發して博多に迫りしが、我が勇將河野通有・菊池武房・竹崎季長ら防塁によりて防戦し、敵兵を上陸せしめざるうへに、闇夜軽舸を飛ばし、しばしば敵艦を襲ひて彼の膽を寒からしむ。然るに范文虎の率ゐる江南軍十餘萬は、期に遅れて七月やうやく来着し、まさに東路軍と合して我に迫らんとせしが、たまたま晦日の夜半より吹きすさめる神風に、怒濤天を巻きて、幾千の艨艟秋の木の葉と散りみだれ、覆没するもの算なく、僅かに肥前の鷹島に敗残せる兵士も皆我が軍に捕獲せられたり。
かくて歐亞の天地を席巻して、向ふところかって敵なかりし元主も、さすがこの戦敗に懲りて、遂に我が國を不征國のうちに數へ、一指をだに我が土に染め得ざりしは、さきに泰時・時頼が善政を布きて人心を懷け、加ふるに勤倹貯蓄に力めて財政を豊富ならしめしより、一旦この國難に逢ふや鎌倉武士は忽ちその忠勇をあらはし、またよく莫大の軍費を支えたりしがためなり。されどこの勝利は主として擧國一致熱烈なる愛國の精神にまつところ多し。かしこくも亀山上皇は宸筆の願文を伊勢の神宮にささげ、御身を以て國難に代わらんことを祈りたまひ、時宗また一身を抛ちてこの難局に善處し、將士の奮起は素より、國民悉く義憤の精神を發揮し、庶民は兵食・武具の運搬に力めてしきりに勇士を後援し、全國の社寺は敵國降伏の熱祷をささぐるなど、かかる愛國精神の發揮が、やがてこの未曾有の國難をはらひ、國威を宇内に發揚せし所以なり。しかしてこの大勝が、わが國民の自覺を促し、神國の観念を強めたるの効すこぶる大なりとすべし。
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