第十四 朝廷と幕府との關係 建武の中興
鎌倉幕府の政治はおほむね行渡り、社會の秩序も整ひたりといへども、これを國體の上より見れば、素より一種の變態たり。蓋し萬世一系の天皇御みずから國家統治の大權を行ひたまふは、實に我が建國の大本なり。然るに時勢の變遷は、政權遂に武家の手に移り、幕府國政を執るの變態を生ぜしが、頼朝以来源氏の將軍は代々朝廷を尊崇し、常に恭順を失はざりしにより、公幕の間極めてなだらかなりき。されど源氏の滅後、北條氏幼主を擁して執權となるに及び、しばしば王命に從はず、ここに由々しき事變を生ずるに至りぬ。時に院政を開きたまへる後鳥羽上皇は英武の御氣象にましまし、夙に政權を朝廷に回復せんとの御志あり、院中に北面・西面の武士を置きて、まま關東の家人を以てこれに任じ、また刀剣を鍛へ、武藝を講習せしめて、機會の到るを待ちたまひしに、執權義時ますます不遜なるより、これを憤りたまひて、いよいよ鎌倉追討の御志を決したまへり。
第八十五代仲恭天皇の承久三年、義時追悼の院宣下るや、政子宿將を簾下に集め、ねんごろに頼朝の恩澤を説きて去就を決せしめしが、諸將みな感激して、一死舊恩に報いんことを誓へり。泰時は臣子の大義を説きて父義時を諫め、速やかに闕下に伏して朝命を奉ずべきことを勸めたれども、聴かれず。義時すなはち大江広元らの議により、泰時・時房(義時の弟)らをして大軍を率ゐて東海・東山・北陸の三道より直ちに京都に向はしむ。官軍これを大井戸・洲股・宇治などの要所に防ぎしも、時未だ到らず、將帥またその人を得ざりしより、いずれも敗走し、賊軍進みて京都を犯せり。
これより義時は、上皇の御謀に参與せし卿相を捕へ、鎌倉に護送する途にこれを慘殺し、また首謀者たる關東武士を斬りしは素より、その頑是なき幼兒までをも悉く虐殺せしは、さすがに人々の涙をそそりぬ。殊におそれ多くも天皇を廢して第八十六代後堀河天皇を立てたてまつり、後鳥羽・土御門・順徳の三上皇を遠島に遷してたてまつれり。上皇はいづれも長き憂き年月を孤島に送らせたまひ、朝な夕な煙波遙かに都の空にあこがれたまひながら、崩御せしが如き、實に開闢以来未曾有の大事變にして、北條氏の大逆無道罪死を容れずといふべし。
この時北條氏は、勤王の朝臣・武士の所領三千餘箇所を没収し、有功の將士をその地頭に任じてこれを新補地頭といひ、從前のいわゆる本補地頭に對して、特に優遇を加へたり。また亂後、泰時・時房を六波羅に留めて京畿を鎭壓せしめしより、南北の両六波羅府はじめて開かれ、爾来常にその一族をその探題に補して近畿・西國の政治を行はしめたれば、北條氏の根柢いよいよ固く、その權力ますます盛大となりぬ。ここに於いて六波羅探題をしてひそかに朝堂を監視せしめ、おそれ多くも皇位繼承の御事にさへ容喙し、遂には持明院(後深草天皇の御系統にて伏見上皇の京都持明院に閑居したまふよりはじまる)大覺寺(亀山天皇の御系統にて、御宇多上皇の嵯峨大覺寺に入りたまふよりはじまる)の両統更立の議を立て、力めて朝廷の權力を殺ぎ、また五攝家を分立して、かはるがはる攝關の職に任ぜらるることとして、藤原氏の權勢を割き、なほ鎌倉の將軍は常に宮家及び攝家より幼主を迎へ、その壮年に達するや、事に託してこれを廢黜するなど、百方策を立てて専ら自家勢力の維持をはかりたりき。
されど北條氏の實力はやうやく衰へはじめ、殊に元寇に要せる莫大なる軍費の支辨に、殆ど蓄積せる財政を盡ししのみならず、その後も社寺の寄進・將士の恩賞に國費多く、幕府の實力はこれがために一大打撃を受けたり。從ひて鎌倉の家人もその負担重きがうへに、戦勝の餘勢おのづから奢侈の風を生じ、所領の賣買・質入など盛んに行はれ、遂には窮乏の極みに陷りたれば、幕府はこれを救はんがために徳政の令を發して、從来賣買質入の田畠その値を出さずして本主に返さしむるに至り、頗る經濟界の不安をかもしぬ。かくてこの國力糜爛の際なるにかかわらず、執權高時暗愚にして、更に政治を顧みず、あるひは田樂に耽り、あるひは闘犬の技を好み、日夜宴遊を事として、驕奢を極めたり。ここに於て權臣長崎高資これに乗じて威福をほしいままにし、綱紀ますます紊亂して、反亂地方に起り、民心しだいに幕府を離れんとす。
時に京都には、第九十六代後醍醐天皇大覺寺統より出でて皇位に即きたまひしが、天資英邁おはしまし、儒佛の學に精通したまふ。ここに於いて御父御宇多法皇は院政を返したまひ、天皇記録所を開きて親しく大政をみそなはし、北畠親房・萬里小路宣房・吉田定房らの賢臣を擧用して、鋭意政治の革新をはかりたまへり。すなわち検非違使廳に命じて富裕の輩の買占めたる米穀を點検して、更に價を定めてこれを賣らしめ、また諸國に設けたる新關を停止して交通の煩を除き、なほ朝餉の御膳部を節して窮民に施行したまへるなど、朝廷の恩威竝び行はれて、綱紀頗る伸張したれば、天皇はこの機政權を朝廷に回復し、以て後鳥羽上皇の御遺志を完うせんとはかりたまへり。然るに北條氏は依然皇位の繼承に干渉して、専横を極むるより、天皇大いに憤りたまひて、いよいよこれを伐たんとしたまふ。
ここに於いて天皇はひそかに親近の朝臣らを召して、討幕の密議をこらされ、日野資朝・同俊基らをして近畿・東國を微行して、諸國の武士を徴さしめたまひ、また護良(尊雲)・宗良(尊澄)両親王を相ついで天臺座主に補して南都・北嶺の僧兵を結ばしめ、着々謀を進めたまひしが、事早くも幕府の探知するところとなり、資朝は捕へられて佐渡に流され、俊基は再度鎌倉に下されて、後、遂に斬らる。高時更に二階堂貞藤(道蘊)をして大兵を率ゐて西上せしめ、承久の例にならひ天皇の廢立を決行せんとす。貞藤武家執權の責務を説きてその不臣の企てを諫めたれども聴かれず。天皇はその計畫を察知したまひ、夜にまぎれて俄に宮中を出て、笠置山に行幸して近國の義兵を募りたまひしに、楠木正成河内の赤坂城に據りてこれに應じ奉りしをはじめとし、勤王の兵召に應じて来り集り、笠置の衆徒と共に力を合はせて行宮を護衞せり。然るに賊の大軍来り攻むるに及びて、笠置遂に陷り、天皇は藤房以下僅かに二三の朝臣を從へて、圍を脱し岩の枕草の茵ただ夢路をたどる御心地にて、赤坂さして落ちゆきたまひしに、途に賊兵のためにとらはれて、遂に隠岐に遷されたまふ。備前の豪族兒島高徳聖駕を播遷の御途に要して、これを迎へたてまつらんとして、果たさざりしことは、桜樹の題詩にその赤心をあらはせる勤王美談として世に頌はる。この時皇子以下勤王の卿相多く斬流せられはまひしが、天皇は隠岐の行宮に神器を奉じて、一に時機の到来を待ちたまへり。
かかる間に正成は金剛山の險に據り、さい爾たる千早の孤城に雲霞の如き鎌倉の大勢を引き寄せ、あらゆる奇計を以てこれを悩まして、おのづから四方の義氣を鼓舞し、これに乗じて護良親王は吉野より令旨を諸國に發して、勤王の兵を募りたまへり。ここに於て、勤王の軍所在竝び起りて、その勢やうやく盛なれば、天皇六條忠顯らを随へてひそかに隠岐を遁れ、伯耆に渡りたまひてその地の豪族名和長年に奉ぜられ、船上山の行在所に於て、義兵を召して東上の策を立てたまふ。かくて護良親王のかねての遠大なる御計畫は着々進捗し、幕府の海内に於ける政權の要地は、相前後して官軍のために悉く討滅されたり。すなはち九州には肥後の菊池武時博多の探題北條英時を攻めて勤王の魁をなししより、鎭西の諸豪おひおひこれに風動せし間に、伊豫の土居通増・得能通綱らをはじめ、四國の官軍は専ら長門の探題北條時直に向ひ、播磨の赤松則村は六條忠顯と共に山陰・山陽の義兵を合はせて六波羅を衝きしに、たまたま關東も討手として西上せる足利尊氏は俄に歸順して、共に六波羅を攻め、探題北條時益・仲時はいづれも戦死して、六波羅府ここに陷りぬ。更に東國にては、新田義貞ら上州より南下し、極樂寺坂・稲村崎の切所を破りて鎌倉に打入りしかば、高時以下一族・郎從東勝寺に入りて悉く自刃し、間もなく博多長門探題も亡びて、僅かに一箇月を出でざるうちに、各方面共に鎭定し、鎌倉幕府全く廢滅に歸せり。時に紀元一千九百九十三年元弘三年五月の末つ方なりき。
六波羅陷落の報上聞に達するや、天皇直ちに船上山の行在を發して、歸洛の途に就きたまふ。聖駕兵庫に到りてはじめて關東の捷報を聞召し、またここに奉迎せる楠木正成らを先駆として京都に入りたまひ、巡狩還幸儀を整へて皇宮に還御せり。ここに於いていよいよ公武一統して、後鳥羽上皇の御遺志はじめて達せられ、中興の新政大いに行はる。天皇まづ記録所に臨みて萬機を親裁したまひ、事必ずしも先例を追ひたまはず、「今の例は昔の新儀なり、朕が新儀は未来の先例たるべし。」とて、新儀の勅裁頗る多かりき。また新に雑訴決斷所を設け、その寄人を公卿・諸將の中より選出して、五畿・七道の政務を分掌せしめ、武者所を置きて、新田義貞をその頭人として兵士を監督せしめらる。なほはやくよりを恩賞方を置きて復古の大業に關するものの論功行賞を遂げ、中興の主勲護良親王を征夷大將軍に任じて軍事を總べしめ、地方には公家國司の外勤王の諸將を各々守護に任じ、親王を以てこれを統括せしめ、以て各方面を鎭撫せしめたまへり。なほ久しく廢絶せる大内裏を造營せしめ、また王朝以来鑄造の絶えたる貨幣を新たに發行せしめらるるなど、建武中興の宏業一時大いに擧りぬ。
かくて積年幕府が掌握せし勢權初めて朝廷に返り、再び延喜・天暦の王政に復せしも、今や時勢はいたく王朝と異なり、武家の中心は既に倒れきとはいへ、社會の勢力は依然として武士の占しむるところなれば、かかる社會の情態を一新して武家政治の根本を抜くは、とうてい短日月の間に能くするところにあらず。殊にかかる革新の際には、とかく紛糾を重ぬるを常とすれば、朝臣の失政、將士の不平と相まちて、公武互いに相きしり、頗る雑然たる間に、かねて野心を包蔵せる尊氏はこれに乗じて事を擧げ、まま大義に明らかならざる武士これに靡きたれば、海内鼎沸してまた収拾すべからず。中興の大業忽ちにして挫折するに至りしは、誠に惜しむべく、歎ずべし。
足利氏はもと源氏の宗家に出でて、北條氏の下風に立つを潔しとせず、尊氏に至りて機を見て源氏の幕府を再興して父祖以来の宿志を果さんとす。護良親王は早くもその野心を看破したまひ、正成・義貞・長年らと謀りて天皇の綸旨を請ひこれを除かんとしたまひしに、かへつて尊氏の讒奏にあひ、親王はその犠牲となりて鎌倉に下り、東光寺に幽閉せられたまひ、後、遂に尊氏の弟直義のために弑せられたまへり。尊氏ほしいままに東下して、鎌倉に據りて反旗をひるがへし、新政を喜ばざる將士を誘致して勢猖獗を極め、追討の官軍を敗りて西上す。然るにまた正成・義貞らに討たれて、はるかに九州に敗走したるが、多々良濱辺の戦いに一たび菊池武敏を破りしより、その勢威鎭西を風靡し、海陸の大軍を率ゐて再び東上す。正成・義貞らこれを湊川に邀撃せしかど、衆寡敵せず、正成終日の奮闘に刀折れ矢盡きて遂に壮烈なる忠死を遂げ、義貞また敗れて京都に退きぬ。尊氏よりて直ちに京都を犯し、六條忠顯・名和長年ら勤王の將士しばしばこれと戦いて討死せり。ここに於て紀元一千九百九十六年(延元元年)、後醍醐天皇神器を奉じて吉野に遷幸し、義貞は勅命を承け皇太子恒良親王を奉じて北國に赴き、鋭意經略に力めしも、挽回の志成らずして遂に戦死し、かねて奥羽を經營せる北畠顯家は遥かに兵を率いて上洛し、しきりに賊軍に當たりしかど、これまた僅かに二十一歳の壮齢を以て赫赫たる功績を残して、泉州石津原に討死し、王師とかく振るはざる間に、天皇はからず御病を得、かしこくも悲痛なる御遺詔を留め、御劔を按じて吉野の行宮に崩御せり。
これより全國の武士官賊に分かれて相争ひ、海内鼎沸して永年の大亂となりしが、その間朝威とかく振るはず、吉野の行宮も時には大和の賀名生・河内の天野などに遷り、常に賊軍の壓迫を蒙られき。されど第九十七代後村上・第九十八代長慶・第九十九代後亀山の三天皇は、先帝の御遺詔を奉じて堅忍不抜の御意氣を以て萬難に當たり、常に王政の興復に努めさせたまひ、諸皇子またその天意を體して、宗良親王は關東に、懐良親王は鎭西に、各々御身を挺して王師を指揮したまふ。加ふるに、勤王の諸將は全く一身一家の利害を捨てて孤忠を守り、楠木正行・北畠親房菊池武光など、いずれも父子・兄弟相繼て赤誠を致し、いかなる逆境に臨みても、毫もその節を變ぜず、一意天歩の艱難をたすけたてまつりて、以てよく數十年の間、頽勢を支へ得たりき。
然るに後亀山天皇は天下の兵亂久しきにわたりて國民の塗炭に苦しむ憐れみたまひ、折しも足利義満がひたすら恭順の態度を以て降を請ひたてまつるに及び、天皇これを許したまひて京都に還幸し、はじめて神器を第百代後小松天皇に傳へたまふ。ときに紀元二千五十二年(元中九年)にして、世の浪風もここに静まり、萬民新たに聖運の隆昌を仰ぐに至りぬ。

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