煉獄華 その1

「おい、俺のところに妙な電話が来たぞ。誰だこんな忙しい時に回した奴は」

 I蔵町役場の大部屋に、助役の怒声が響いた。

 大部屋といっても町役場だからそれほど広くはない。窓口に張り付いている人員を別とすれば、二十人ほどの職員が机を並べていた。そして壁も床も、総じて古びた汚れをまとっている。

「すみませーん。炭鉱の残務の件は、全部助役に回せと言われてるもので」

 少々歳の行った女性職員が答えた。
「助役を何だと思ってるんだ。電話は炭鉱の件じゃないし、俺はどこぞの『すぐやる課』じゃない」

「じゃあ電話は僕が受けときます」

 ここで、総務課の山崎という男が機転を利かした。

「そうか、頼む」

 そう言い捨て、助役は自室に戻った。山崎は回線を自分のところに回してもらい、

「はい、うけたまわりました。わたくし、総務課の山崎と申します。で、ご用件は……はあ……そうですか、廃坑の中ですか……」

 I蔵町は岡山県の西に位置している。人口は一万八千人ほど、山間部の小さな町なのにどうしてこんなに人口か多いかというと、かつてここは炭鉱で栄えていたのだ。

 最盛期にはその倍の人間が住み、景気を支えていたが、折からのエネルギー転換で石炭産業は斜陽化、他に大して産業がなかったので、炭鉱が潰れるとたちまちのうちに他の産炭地と同じ道をたどった。

 そんな町だから当然、役場にも活気がない。窓口でも転出届を出す者の方が多いし、工場を誘致するにも、山間部なのでまともな土地が提供できない。それ以前に、めぼしい土地は昔からの大地主が握っているので、活用のしようがないのだ。

 山崎の応対は続いた。

「子供が二人ケガ……廃坑の中で遊んでいたのではないのですね?……はい……わかりました。現在、役場でそのような件を扱っている部署はないのですが、とりあえず人を出しますので、用件はその人に一任するということで……はい、そうですか、少々お待ちください」

 山崎は受話器を手でふさぎ、

「おい、滝」

 と、隣の席で書類の山と格闘している声をかけた。滝と呼ばれた男は顔を上げ、

「何ですか」

「お前、ヒマか」

「え?一応、暇じゃないです」

「お前の仕事、今は書類をさばくぐらいだろう」

「そうですけど」

「そんなもの、後回しにしろ。住民から苦情の電話が入った。お前行って、話を聞いてこい」

 滝はあからさまに嫌な顔をし、

「ええ?そう言われても、仕事が遅い、って怒るのは山崎さんじゃないですか」

「今回は大目に見てやる。どっかの市民ウケ狙ってる役所のせいで、住民の苦情をムゲに出来ないんだ」

「ほんとに怒らないですか?どこですかそこは」

「ちょっと待て。まだ先方と連絡している」

 そう言って、山崎は再び電話に出る。

 滝はその様子を、不満げな目でながめた。

 ああ、また貧乏くじ引かされそうだ、そう思いながら。



 普通、町役場に勤める人間はたいがいその町の出身だが、滝はI蔵町出身ではない。それどころか、彼は東京にある某私大を出ていた。

 そんな学歴を持つのなら、もっと豊かな県の県庁、市役所あたりを狙うのが筋というものだが、なにぶん彼の成績がそれを許さなかった。しかし、高度経済成長期が過ぎ去ろうとしている時勢、彼は一般企業に見切りを付け、安定した収入を得るべくあくまで官公庁にこだわり、各地の採用試験を受けまくった。当然ながらというか、ことごとく玉砕。結果、今の仕事口しか得られなかった。

 それでも自分は大学卒だ、という自負が彼の内にはあった。といって在学中の成績は最悪だったし、何かサークルで重要な役職についていたわけではなく、まして学生運動の熱烈な闘士でもなかった。いや後者は官公庁に入るにはマイナス要因にしかならないが、とにかく根拠のない薄っぺらなプライドが、平気で人をあごで使うような高卒の上司がごろごろいる職場へ、彼を導いたのだ。

 当然、彼の意に沿わない仕事も降りかかってくるが、仕事は仕事、そう割り切って、彼は電話のあった翌日、炭鉱関連の資料と筆記用具の入ったぶ厚いカバンを手に、ひとり役場を出た。

 行き先は役場から北方へ行ったところにある、町でもっとも古い炭鉱だ。滝はその炭鉱に連なる鉄道に乗って、目的地K原へと向かった。

 K原の駅で降りると、まだ廃鉱になってまもないのか、駅前の意外な人出に滝は当惑を覚えた。主婦とおぼしき年配の女たちが、買い物籠を抱えて往来している。また失業者であろう壮年の男たちが、たくましい腕をあらわにして店先で雑談したり、無目的に歩いていたり、日中にもかかわらず立ち飲み屋で一杯引っ掛けたりしていた。

 こうした街にあふれる大人たちは、いずれも目が生きておらず、古びて痛みの目立つ家々にはさまれ、明日をも知れぬ身をもてあましているようだった。
 しかし子供たちは違った。無垢というか、天真爛漫というか、はたまた世の中の仕組みを知らない無責任な稚気丸出しというか、とにかく彼らは炭鉱の閉山による街の停滞をまったく意識することなく、ただ我が身を楽しませるがために、路上でひたすら遊びに熱中していた。

 そんな光景を見るのは大人にとっては救いなのだろうが、彼らが長じて大人になった時のことを考えたら、暗澹たる気持ちを抱かざるを得ない。

 滝はそんなことを考えながら目抜き通りを過ぎ、問題の炭鉱跡へと足を運んだ。

 ケガをした子供が住んでいるという長屋に着くと、意外に小ぎれいなのに少し驚いた。廃鉱になったとはいえ、つい先日まで活況を呈していた町なのだから、当たり前といえばそうだろう。役場で受け取ったメモに書いてある住所を訪ねると、まだ病院にいるのか不在だった。もう一人の子供の家も同じだ。彼らや彼らの保護者には後日、話を聞くことにして、とりあえず表に出ている人に当たってみようと、滝はあたりを見回した。

 すると彼の目に、ある光景が飛び込んできた。

 それは単に、光景、などという生易しいものではない。

 現実が、そこにあった。

 それは、子供たちが嬌声をあげながら走っている、というものだった。

 それだけなら普通なのだが、何かが違っていた。

 子供たちの腕の先に、手が、ない。

 そこは、先を削って丸くした木の棒のようになっていた。

 片手がない子もいれば、両の手を失っている子もいる。

 中には片足の先が、ない子もいた。

 しかし、彼らはそんなことを意にも介せず、笑いながら通りを駆けている。

 片手だけある子の中には、赤い花を高くかかげている者もいた。

 足のない子は、寸足らずの足でびっこを引きながら、先に行く子の後を付いていった。

 そんな子供たちが十人ほど、滝のそばを通り過ぎた。

 十秒ほどして、彼は我に返る。

 彼はその光景をすぐには受け入れることが出来ず、額に手を当ててしばらくその場に立ち尽くした。

 そのうち、長屋の玄関から誰かが出て行こうとしているのに気付き、彼は気力を振り絞ってその人物に声をかけた。

「あの、すみません」
 出てきたのは、恐らく六十がらみの女だった。髪にぞんざいな感じでパーマを当て、安っぽい渋めのワンピースを着ている。その顔は、生活に疲れていた。

「なんだい、あんた」

「あの、町役場の者です。滝と申します」

 彼は慣れた手付きで名刺を取り出し、彼女に渡した。

「ああ、役場の人。子供がケガしたことかい」

「そうです。話をうかがいに来ました」

 彼は女のわかりの速さに、内心安堵した。こういった田舎町では、たとえ役場の人間でも、よそ者は毛嫌いされるのが常だからだ。

「でもわざわざそんなことで来たの?こんなこと、この辺じゃあそんなに珍しくないのに」

「と、言いますと?」

「何でかは知らないけどね、この辺の子供はよくこんなケガをこさえてくるものなんだよ」

 おかしいな、そんな事例は聞いたことがないのに、と滝は思いつつ、

「炭鉱で遊んでて、何かで手足を切った、そういうことですか?」

「だから何でかは知らないって。まあ穴の近くで遊んでた子が、ああなったのは確かだけどね。前に警察を読んだ人がいるけど、ポリ公のやつら、原因がわからないってサジ投げてた」

「はあ、じゃあ警察に行けば話が聞けるのですか?」

「さっちゃんとトシ坊のことは知らないよ。今は病院じゃない?大騒ぎして町立病院に行ったみたいだけど、どうせなら相澤先生のところに行った方が早いのに」

 突然出てきた固有名詞に滝はとまどい、

「相澤先生?」

「近くのお医者さんだよ。ああそうね、話聞くなら相澤先生の診療書に行きな」

「わかりました。ありがとうございます。診療所はどちらですか」

「ここから西に行ってすぐだよ」

 滝は軽く頭を下げて、西の方へ向かおうとした。その時、

「一つ言い忘れてた、ここでケガをした子はね、」

 彼は立ち止まってふりむき、

「はい、何です?」

「ここであんなケガした子はね、わりかし早死にしちゃうんだ。だからあんまりしつこく相澤先生に聞いちゃダメ。気ぃ悪くするから」

 と言って、女は去っていった。

 それからしばらく、滝はまたその場に立ち尽くした。



 これはおおごとだ、路上で我に返った時、滝は思った。

 さきの老婦人が言った、相澤とかいう医師のことは後回しにして、彼は電話ボックスを探した。役場に連絡を入れるためだ。この仕事は、彼一人の力だけでは処理しきれない、そう判断して、保健課の職員に助力を求めようと思ったのだ。

 長屋の敷地を出て、駅に少し戻ったところで電話ボックスを見つけ、彼は保健課に直接電話を入れた。

「何、K原?ちょっと待て、お前、総務課の人間だろ?何で私のところに回すんだよ」

「だから、詳しい話はここで聞いてもらうことにして、とりあえず誰か出せませんか?そっち方面の知識が要りますし」

「うちは苦情処理係じゃないんだ。滝、お前一年ここにいるんだからわかるだろ、こちらが人を回したいと思っても、人も金もないんだ。お前ひとりでやれ」

 そう言って、電話は途切れた。滝はやるせない思いを抱えて電話ボックスを出ると、いきなり「K原診療所」という看板が、彼の目に飛び込んできた。

 ここが、老婦人の言ってた相澤の居場所かも知れない、そう思って、彼は診療所の門をくぐった。

 ここは長屋とは対照的に、というより町の光景に似て、庭は枝葉の伸びきった灌木や雑草で荒れ放題、奥にある建物の壁や柱はペンキがはげてボロボロだった。とても、まともな医師のいるようなところではない。そう思って滝は二の足をふんだが、町立病院は駅の反対側にあり、今から行くと時間がかかる。それにこの屋敷の主は町民の信頼も篤いようだし、いちおう話だけでも聞いておこうと、彼はゆっくりとドアを開けた。

 玄関は簡単な待合室になっていて、奥の診療室との間に二、三人は座れるスペースがある。その椅子も建物と同様、年季が入っていた。

 椅子の向かい側に小さな受付が設けられていて、滝はそこをノックしようと近づいたところ、いきなり小窓が開いた。

「どうしました」

 中年の看護婦がそこから顔を出し、彼は驚いて身をすくめた。

「今は患者さんがいないので、すぐに診察できますよ。どうぞ。こちらに名前を書いてください」

「あの、すみません、僕、病気ではないんです。実は……」

 彼は例のごとく名刺を出して、簡単に用件を述べると、

「はあ、そうですか。どっちにしろ暇ですから、中へどうぞ」

 彼女は診察室のドアを開けた。滝は何だか申し訳なさそうに入る。

 そこには、中年よりやや上に見える男が座っていた。髪は白髪が多く、黒ぶちの眼鏡をかけている。体はしまっているようで、大きめの白衣がだぶついている。背は滝と同じくらいであろう。たぶん、この男が相澤医師だ。

「話が聞こえました。子供のケガの件ですか」

「はい」

 滝は名刺を出そうとして、相澤の膝元に置いてある雑誌が目に入った。英語版サイエンスの最新号だ。相澤はそれを机の上に置くと、

「こないだの件のことはよく知らないけど、その分だと宿舎の人から話を聞いたんですね」

「はい」

「ということは、子供たちの話も」

「はい。実状も見ました。先生にはお聞き苦しいことでしょうが……」

 滝は顔を伏せ、上目遣いに医師の表情をうかがったが、彼は平然とした顔で、

「ええ、でも私も以前から興味は持っていました。どのようにしてあんなケガをしたのか、どうしてあの子たちが短命か、ということを」

「ご協力、願えますか。役場もふところが苦しくて、自前で調査ができないんです」

 相澤は滝の顔をじっと見つめ、

「わかりました。私も余裕が出来たら、いずれ調べるつもりでした。渡りに舟です」

「ありがとうございます。助かります」

 滝は深々と頭を下げた。

「むろん、まったくのただというわけには行きません。が、必要経費に色を付けた程度で結構です。期日は、私の都合でよろしいですか?」

「もちろんです。電話をいただければ調整します。僕一人しか動けませんが。ところで今、ちょっとだけでも話をうかがえないものでしょうか」

「ええ、いいですよ。どうせ暇だから構いません」

 滝はつばを飲み込むと、

「その、あの子たちは、どんな風にしてケガを負ったんですか」

「それが、まるで鋭利な刃物で切ったように、手や足がもぎ取られていたんです」

 滝の脳裏に、あの子供たちの姿が浮かぶ。彼はそれを振り切って、

「その、宿舎の人も、警察も原因はわからないっておっしゃってました。先生個人のお考えは、どうなんですか」

「うん、石炭を掘り出していた当時なら、石炭を運搬する機械が稼動していて、それに挟まれて切っちゃったってことも考えられるけど、それも今は動いてませんし」

「じゃあ、穴の中に落ちたとか」

「地表の坑道はまだ残っていますが、危険なところはもう封鎖されているはずです」

 滝は再び目を伏せ、

「じゃあ、何であの子たちはあんなケガをしたんでしょうか」

「質問が最初に戻ってますよ」

 相澤の皮肉めいた冗談に、滝は額から土砂降りの汗を流した。そしてしばらく黙った後、

「あの子たちが短命だというのは、どういうことでしょうか」

「うーん、事実だけを言うなら、彼らはみな原因不明の身体衰弱で亡くなってます。ちょうど老衰のように」

「病気ではないんですか」

「私の知る限りでは、病原体が見つかってません。レントゲンで見ても、ガンとか、腫瘍とかそういったものもありませんでした。ただ、衰弱死した、というほかはないのです」

 再び滝の脳裏に、不具者となりながらも遊びに興じていた子供たちの姿が浮かんだ。

 彼は持参したハンカチで体中の汗を拭き取ると、更に暗い光を帯びた目で医師を見つめ、

「鉱毒、ということはないでしょうか」

「それはないでしょう」

 相澤はあっさりと言った。滝はなお真剣な顔で、

「本当ですか?もし鉱毒が原因だったら、炭鉱会社のみならず自治体も非難の的になり、賠償請求されてしまいます。それ、本当でしょうね?」

 相澤は笑って、

「炭鉱では、三池で起こった炭塵爆発のような事故はありますが、炭鉱から鉱毒が流れ出た、という話は聞いたことがありません」

 時代は昭和四十年中盤、まだ粉塵による肺ガン等の健康被害が認識されていない時のことである。またこの時代に喧伝されていた公害も、その症例との因果関係が一部認められ、訴訟が始まった頃だ。滝のような下級官吏は、そういうことに敏感にならざるを得ない状態だった。彼は相澤の心遣いに少しだけ安堵したが、

「そういえばさっき、『事実だけ』とおっしゃいましたね、相澤さん。すると、先生一人がお持ちになっている考えというのもあるのですか」

「あー、それはですね」

 今度は相澤の挙動が怪しくなり、彼は窓の外を見て、

「人に話を聞きましょうか。ここには、私よりここのことに詳しい方がおられるんです。そちらに参りましょう」


          煉獄華 その2へ続く