繭の中 その4

                 六
 一雄が目を覚ますと、時刻は午後七時を回っていた。彼の記憶は、絶望感に包まれて部屋を出る辺りまで残っていて、気が付くとこの部屋で眠っていたのだ。その間、何時間経ったか覚えていなかった。第一、この病院を訪れてからどれくらいの時間が経ったのかも、まったくかわらなかった。
 しばらくすると、彼のベッドのもとに主治医が現れ、それを見て彼は罪悪感を覚えたが、それがなぜなのかもわからなかった。
「ああ先生、どうしたんですか僕は」
「覚えてないんですか……まあ仕方のないことでしょう。それをいま説明するのは止しにします。ご気分はどうですか」
「はあ……あまりよくないです。それより、好美と亜紀の様子はどうです?」
「繭が破れそうな兆候を示しています」
「え!どちらがですか?」
「二つともです。もしかしたら近日中に破れるかもしれません。ご覧になりますか?」
「はい!」
 一雄はゆっくりとベッドから起き上がり、スリッパを履いて部屋を出た。二人の病室に行くと、先ほど見たように二つの繭がベッドの上に転がっている。
 スタッフの作業は佳境を迎えていた。一雄のような素人には何だかわからないような機材がたくさん運ばれていて、その中の一つに、繭の表面に張られた電極から延びた、コードとつながっているものもあった。スタッフの一人が一雄に状況を説明したが、あまりに専門用語が多いので、一雄は辟易した様子を見せた。それを察して主治医が言う。
「今日のところはまだ大丈夫だと思いますので、帰ってお休みになりますか?」
「いえ、いつ繭が破れるかわかりませんから、よければここに泊まりたいと思います。でもこの部屋は、二人だけで手一杯だから……」
「大丈夫です、職員が泊まる宿泊室がありますから、そちらをご利用ください」
 一雄は夕ご飯を食堂で済まし、宿泊室に覗きに行ったが、そこはまさしくタコ部屋だった。そして二人の様子を見た後、宿泊室に行って仮眠を取ろうとしたが、例の鎮静剤で昼間に寝ていたこともあって、なかなか寝付けなかった。
 それから午前も一時頃を回って、何とか眠くなってきた時、彼のベッド下を誰かが叩きだした。
「串田さん、大変です!繭の様子がおかしくなりました!」
 それを聞いて、一雄はあわててベッドから飛び出し、寝間着のまま二人のいる病室に向かった。病室に入ると、中で医師や看護師たちが大慌てで作業をしていた。一雄もある機材をのぞいて見たが、何が表示されているのかさっぱりわからず、かたわらにいた医師に尋ねた。すると、
「繭の表面が熱くなってきたんです。電極にさわらないように、手を当ててみてください」
 一雄は人差し指の先を、繭に押し当ててみた。すると、十数秒はさわっていられないほどの熱さを感じた。
「先生、これはどういうことですか?熱さで二人がやられるんじゃ?」
「そんなことはないと思います。ただ、これが二人の体内から出た熱であれば、ひょっとすると今晩にでも繭が割れるかもしれません」
「その時は!その時はどうするんですか!」
「私にもわかりません。最善を尽くしますが、もしもの時は串田さんが判断してください」
 一雄は二の句が告げず、しばらく医師たちが動き回っているのをぼうっと見ていた。
 そうするうちにやがて、若い医師の次のような声が部屋中に響き渡った。
「大きい方の繭の表面に、亀裂が生じました!」
「何だと!」
 医師たちは好美の繭をぐるりと囲み、その様子を見守った。一雄は医師たちの隙間から、辛うじてその亀裂を目で認めた。
「繭の表面が剥離しています!もう破れるかもしれません!」
「内視鏡で中を見てみろ!」
「これは僕の妻です!僕に見せてください!」
 周囲のもの凄いあわてぶりに、思わず一雄は医師たちの怒号より大きい声を出し、一瞬その場を凍りつかせた。
「そうだ、最後の権限は串田さんにある。みんな、串田さんに最前列を譲ってあげよう」
 と主治医が言ったので、取り巻きの医師たちは黙って一雄に席を譲った。
 一雄は繭が一部破れたところをのぞき込んだが、何か白いごちゃごちゃしたものが見えるだけで、その中身をうかがうことは出来なかった。
 そして、
 ばりっ
 という音がして、全員が大きい繭を注目したが、それには変化が見られなかった。
 さらに、
 ばりばり
 という音が響き、皆が振り返ると、なんと小さい方の繭が割れていたのだ。
「はやく措置を……」
 という主治医の指示も空しく、繭はさらに大きい音を立てて割れた。そして、
 あぁぁぁぁぁぁ あぁぁぁぁぁ
 という泣き声が聞こえてきて、一雄は我が目を疑った。
 繭が割れきって、そこにいたのは、裸のまま透明な液体にまみれた、亜紀の姿だった。
 その場にいた者全員が息を飲み、何事をも口にすることが出来なかった。
 少しして、
「こっちも割れたぞ!」
 冷静さを取り戻し、好美の繭に張り付いていた医師がそう叫んだ。
 医師たちは半々の割り合いで双方の繭に集まり、ひとまずヤマを越えた亜紀を調べる班と、まだ繭が割れきっていない好美の様子を見る班に分かれた。一雄も、何をしたらいいかわからないが、とりあえず好美の方に行った。
 繭の割れ目からはすべすべした感じの肌が露出しており、みな先ほどとは違って冷静に事態を見極めようとしていた。
「これは、亜紀ちゃんと同じケースではないんですかね」
 医師の一人が、自らを落ち着かせるように言った。
「うん、確かにその通りだ。でも油断するな、気が抜けると、対処に響く恐れがある」
 主治医が重々しい声で皆に告げた。
 とその時、また繭の亀裂が大きくなり、
「そら来た、体を傷付けないように繭の破片を押さえろ。こっちは大きいんだから」
 一雄は何も出来ない自分に焦りを覚えながら、じっと妻の動静を見守っていた。
 そして繭がさらに割れ、
「よし、来るぞ、しっかり支えてろ!」
「はい!」
 繭の裂け目が大きくなり、好美の手がそこから飛び出してきた。
「そこ!押さえろよ!もう出るぞ!」
 裂け目から彼女の胴体が出てきて、周囲にいた医師たちは繭を抑えきれなくなり、何人かしりもちをついた。
 そして繭が完全に割れ、殻は下に落ち、好美の全身が診察台の上に転がった。
 彼女は亜紀と同じく一糸まとわぬ格好で、粘性のある液体に濡れていた。
 ただ、彼女の産声はなかった。
「こんな……こんなことが……いったい、この繭は何なんだ……」
 この不気味な現実を前にして、一雄はひざをつき、そう口走った。

                 七
 繭から出てきた二人は、しばらく病院で精密検査を受けることとなった。その間、一雄はとりあえず会社に出たが、ほとんど仕事にならなかった。帰りには必ず面会に行ったが、二人は眠ったままだった。時折り目が覚めるという話だが、そんなところに一雄が出くわすことはなかった。
 そして検査が終わり、電話でそのことを聞かされた一雄は、会社を休んで病院まで出向いた。彼は即日、その足で二人を引き取るつもりだったのだ。
「すみません先生、何から何までご面倒をかけて」
「面倒どころか、私たちもこれまでにない経験をしました。もっとも、同じ症例なんてあと百年は起こりえないと思いますが」
「二人は大丈夫なんでしょうか」
「まあ、今のところ容態は安定しているのですが……」
 主治医はそれ以上語ろうとはせず、一雄はその態度に少々いらだちを感じた。
 二人の病室に入ると、そこには看護師ばかり十人ほどがひしめきあっていた。ちょうど機材を引き払う間際だったので、それくらいの人員がいたのだ。
「あの、それでは検査結果を……」
 一雄が恐る恐る言うと、主治医は落ち着いた調子で看護師に、
「水原さん、カルテを持ってきてくれないか」
 と言い、一雄と主治医が無言で待っている間に、すべての機材が撤去された。
 一雄はベッドに寝ている二人の顔を見た。好美は前より少々やせたようだ。亜紀の方もほんの少し小さくなっている感じがしたが、単に栄養が足りなくて憔悴としているというのではなくて、脂肪など無駄な部分がそがれている、という風に見えた。
 看護師がカルテを持ってくると、主治医は淡々とした調子で言った。
「まず奥さんの好美さんの方ですが、うーん……体に関しては、何も言うことがないですがね。現状を維持しているというか、むしろ若返った、という結果が出てますね」
「若返った?」
「専門的なことを言えば代謝系とか、内蔵年齢とかいろいろありますが、要は体の器官全体が青年期に戻っている、という感じです。問題なのは頭の方でして…」
「どこか悪いんですか」
「いえ、どこかが悪いということではありません。ごくごくたまに目が覚めて、言葉をよどみなく発する時もありますし、しゃべれる時に知能検査をしたりしたのですが、こちらも実年齢より若いという結果が出たのです」
「実年齢より若い……それじゃ、頭の中も若返っているということですか?」
「そうとも言えないんです。奥さんはほとんどしゃべりませんし、時々言葉には聞こえない声を出すこともありました。だから、知能レベルでは良好な結果が得られましたが、それ以外はまるで子供のような感じがするのです」
 一雄は大変なショックを受けたが、医師にはそうと見せずに、
「リハビリは、受けさせてもらえるのですか」
「リハビリといっても、体のどこかが悪いというわけではないですから……脳機能障害とも違いますし、これはどうもメンタルな面がありますから、はっきりした認定でも受けないと、どうにも出来ません」
「亜紀はどうなんです」
「お子さんも奥さんと同じような容態でして、目が覚めてる時に知能検査をしたのですが、実年齢は四歳でしょう?どうも二、三歳くらいに退行しているような印象を受けるんですよ」
「な……」
「いえ、決して知恵遅れになったのではないです。むしろ起きている時は貪欲に見聞きしたものを吸収する傾向にありますね。悲観する材料はまったくございません。ご自宅で適当な教育をなされば、元に戻ります。それは断言できます」
「そうですか……では亜紀は僕が引き取りますので、好美の方は何とかお願いします」
 そして、これからリハビリのために施設へ送られる好美を残し、一雄は亜紀を抱えて病院を出た。彼は娘を後部座席のチャイルドシートに座らせ、車を発進させた。車が家と病院のちょうど真ん中辺りに来た時、突然、
「パパ、ママはどこ?」
 という亜紀の声が、後ろから弱々しく聞こえてきた。一雄はびっくりして、
「ママは大丈夫。まだ元気になってないから、元気を取り戻すために病院に残ってるんだよ」
「ねえ、あたし、ママがいないとさびしい」
 一雄は、娘の母親を想う声が聞けて、一瞬心がなごんだ。
 しかし、ここで彼ははっ、と息を飲まざるを得なかった。最近の亜紀は、好美からいろいろ叱られたりした時、一雄に近寄って母親の愚痴ばかりこぼしていたのだ。もともと、亜紀が母親のことを気づかって話しているところは、彼女が生まれてこのかた一回も聞いたことがなかった。小さい頃にはそんなほほえましい場面もあり得ただろうが、恐らくそのとき一雄は会社に行っていて、そんなところを目撃することはなかった。
 一雄はまず両脇に汗をかき、そしてそれが全身に渡った。彼女の意識は昔の、まだ無垢で母親に対して庇護をのみ求めていた時分に戻ってしまったのだ。これは、このごろ一雄が亜紀に対して望んでいた態度だ。小さかった頃の無邪気な心に戻って欲しい、と。それはあくまで彼の願望でしかなかった。子を持つ親がよく思う、他愛もない妄想だ。それが現実のものになってしまえば、どれほど苦労するかもわからずに。
 それは、妻の好美に対してもそうだ。亜紀を完全に自分の庇護下に置いた状態で、子供の頃お人形さん遊びをやっていたように、純粋な気持ちで亜紀に接してほしい、と。
 それら一雄の願望を、現実は無批判にかなえてしまったのだ。それが今後、彼が生活する上でどのような重荷になるとも知らずに。
 それからしばらく一雄は、亜紀の面倒を見るのに大忙しだった。何しろ、これまで彼は育児を好美に丸投げしていたので、ご飯の作り方からトイレトレーニング、本を読んで聞かせる、休日には公園で遊ばせるなど、仕事一辺倒だった一雄にとってすべてが初めての経験だった。始めの頃は仕事と両立させるのに難儀したが、近所に住む親戚の娘にベビーシッターを頼むなど、いろいろな技を使いながら、何とか育児をこなしていた。
 亜紀の体調はというと、当初心配されていた発育不足の方も、時間が経つにしたがってどんどん元に戻っていき、二週間ほどで元の体重になり、三週間経った頃には知能も昔と遜色がないまでに回復していた。ここで一雄の心を大きく動かしたのは、彼女が母である好美を恋しがる感情が、日に日に強まっていることだった。
「ねえ、パパ、ママは?」
「ママにはもうちょっとで会えるからね、いま体がどこか悪くないか、病院で調べているところなんだ。そして、悪いところがなくなったら、すぐ家に帰ってくるよ。だから心配しないで。すぐ戻ってくるよ」
「でも、亜紀、ママに抱っこされたい。ママに会いたい。ママのご飯食べたい」
 一雄は幾度となく繰り返されるこれらの言葉に、胸が締めつけられる思いがした。
 そのような最中にも、一雄は一人でしばしば好美を見舞いに行った。亜紀を連れて行かなかったのは、好美がまだ不安定な状態で面会させるのは、互いによくないという医者の判断からだが、行っても彼女は寝ているばかりで、医者に容態を聞くより他にはすることがなかった。
 亜紀が退院してから二ヶ月が経ち、好美のリハビリが良好ということなので、彼女の一時帰宅が許可された。一雄は即刻病院に赴き、主治医から話を聞いた。彼女は体そのものには問題はなく、かえって健康であるそうだ。ただ問題は神経的、精神的なことで、彼女が一雄たちを見てどう反応するかがわからない、ということが医療スタッフの間で危惧されていた。
 不安を抑えつつ一雄が病室に入ると、果たして彼女は起きていたが、彼を見ても彼女はほとんど反応を示さなかった。彼は問いかける。
「好美、僕だ、一雄だ、覚えているか?」
 すると、
「あなたは……誰でしたっけ」
 そんな状況だということは知っていたが、一雄はショックを受け、その場に崩れ落ちそうになった。そこに看護師の一人が彼の肩に手をかけ、耳打ちする。
「大丈夫です。時間をかけて接すれば、普通の生活は送れるはずです。すぐに元の生活、というわけには行きませんが」
「わかっています。説明は受けましたから。でも、実際こう来られるときついですね…」
 医師の一人が口を出し、
「串田さん。ひょっとすると好美さんは、お子さんのことも認識しないかもしれません。だからといって、好美さんを邪険にはしないでください」
「それはもう、もちろんです。どんな状態になったって、好美は好美です。亜紀の母親です」
「ですが、問題はお子さん自身です。お子さんは童心で好美さんにまとわりつくでしょうが、怖いのはそれを好美さんが拒絶するような事態です。お子さんもあの影響をいくらかこうむっているはずですから、精神的にショックを受けて、退行現象なりを起こすかもしれません」
「それもわかっています。亜紀は以前に比べて、好美のことを想う気持ちが大きくなっているようなんです。だから、その点に関しては僕も怖いんです」
「そうですか…まあ、今回は仮退院という形ですので、何か異常があれば私どももすぐに対処します。それでよろしいですね?」
「はい…」
 それから看護師の介添えの下、一雄は好美とともにタクシーに乗り込み、自宅へ向かった。その間、二人のあいだに会話はまったくなかった。
 そして家に着き、看護師にうながされて好美は家の玄関に入った。すると、そこで待っていた亜紀が、
「ママ!ママ!」
 と叫びながら好美に抱きついた。しかし好美は、
「あなた…誰?どこの子?」
 亜紀はこの冷酷な言葉で、その小さな心に痛手を受けたらしく、口を閉ざしてうつむき、そのまま固まってしまった。その様子を見た看護師は、
「やはり時期尚早だったのでしょうか、これでは…」
「いえ、しばらくこのまま好美を家に住まわせるつもりです。一緒にいれば、何か思い出すかもしれません。無理だとはっきりしたらこちらから連絡を差し上げますが、それまで待っていてもらえませんか」
「わかりました。しばらく様子をうかがいましょう」
 看護師を乗せたタクシーは去り、後には重い表情の一雄と、母親の思わぬ態度にとまどう亜紀と、要領を得ない様子で突っ立っている好美が残された。


           繭の中 その5へ続く