繭の中 その5 |
八 それからようやく、昔のような三人の生活が始まったが、その中身まで昔通りという訳には行かなかった。第一好美が二人のことを覚えていないので、家事自体は体が覚えているのかある程度はこなせても、それに裏打ちされるべき妻の情愛、母親の愛情が伴っていなかった。食事の時なども、一雄が毎回頼み込むようにして食事を作ってもらったり、まるでウェイトレスの仕事でもやっているかのように空いた皿を片っ端から片付けたりなど、まるで赤の他人のように彼女は振る舞い、一雄は砂を噛む思いで彼女の言動を見守っていた。これがこのまま続けば、この家庭はどうなってしまうんだろう、そんな危惧を彼は抱いた。 そんな状態が四日ほど続き、再入院もやむをえないか、と一雄が考え出したとき、ちょっとした事件が起きた。元の状態に戻りかけていた亜紀が、以前と同じように奇声を上げながら部屋をかけ回っていて、ふとした拍子に転んでひざにすり傷を負ってしまった。その時好美は洗濯物をたたんでいたが、亜紀が痛がって鳴き声を上げながら床を転げ回っていると、すっ、と好美は立ち上がって亜紀の元に座った。母親の姿を確認した亜紀は転げ回るのをやめ、痛い、痛あいを繰り返していると、好美は右手を亜紀の頬にさしのべて、 「はい、これくらい大丈夫よ、泣かなくていいわ」 と言って、指につばをつけて亜紀の傷口に塗った。すると亜紀も泣くのをやめ、母親の目をじっと見つめた。 「もう、痛くない、痛くない、強い子だものね、亜紀ちゃんは」 そして好美は立ち上がり、救急箱を取ってきて傷の手当てをほどこした。亜紀はまだ信じられないものを見る目で母親を見ていたが、ここに来て事態を了解したのか、 「ママ、ママ、あたしのことわかるの?」 「ええ、わかるわ、わたしの亜紀ちゃん」 亜紀は矢も盾もたまらずという感じで母親に抱きつき、今度は別の意味で大いに泣きじゃくった。 このとき一雄は仕事に出ていて、その模様を直接知る手段がなかったが、夕刻彼が帰ってきた時、真っ先に亜紀が駆け寄ってきて、彼にたどたどしいながらもそのことを報告した。それを聞いた一雄は、そうか、病状が快方に向かっているんだな、と半信半疑ながらもそう思った。 それから二週間ほど経ち、好美もすっかり亜紀と打ち解け一緒に遊んでいる場面もたびたび一雄は目撃したが、相変わらず彼に対する情愛をまったく示そうとしなかった。やはり血のつながりのある間の絆は強いんだな、そう思って彼は落胆していたが、ここで重大な事を思い出した。彼は彼女たちの関係改善こそを願ったが、自分に対する想いというものをまったく念頭に入れていなかったのだ。以前は、好美と亜紀の仲がよくなれば、すべての問題が解決してしまうかのように思っていた。翻って自分がどうしたか考えてみると、彼女たちに対して自分が何をしてやれるか、露ほども考えていなかったのだ。つまり彼女たちだけの問題だと見なして、彼は自分のことを棚に上げていたのである。それを補うためには、亜紀にしてやったように、自分自身が動かなければ話にならない。一雄はそう決意し、なるべく有給休暇を取って三人の時間を多く作ることにした。 その第一日目の朝、一雄が起きると好美はすでに台所で朝食を作っていた。これまでは家事をまったく丸投げにしていた彼は一念発起し、台所に入っていって「何か手伝うことはないか」と尋ねると、「別にないわよ」と返され、ショックを受けた。その素振りは繭になる前の、彼女の態度とまったく同じだったからだ。これではいけない、と一雄は配膳を手伝おうと、茶碗や箸、必要と思われる皿を慎重にテーブルの上に乗せていったが、そのうちの皿一枚が何かの拍子で一雄の手からすり抜け、床に落として割れてしまった。その音は意外に大きく、リビングでテレビを見ていた亜紀も心配になって顔を出したほどだ。それに対する好美の反応はこうだった。 「あなた、配膳の仕方も知らないの?だから知らない人は、こういうのに触っちゃダメなのよ」 一雄はまたもショックを受けた。彼女の、知らない人、というのは、彼が配膳の要領を知らない、という意味なのか、彼自身を知らない人と思っているのか、もし後者だったら一雄の立場は最悪だ。そのことを問いただしてみようかとも彼は思ったが、やぶへびになるかも知れないので、それはよした。 食事が済み、一雄は「僕が片付けようか」と再び手伝いを申し出たが、「また何か割られてはたまらない」と返され、おとなしくリビングに戻って亜紀とテレビを見た。娘はテレビのバラエティ番組を見ながら、屈託のない笑顔を浮べていた。亜紀のことはもういいだろう。しかしいくら有給を使っても好美があの調子では、まったくらちが開かない。そう判断した一雄は、翌日の朝早くから車で遠出して、またあの遊園地に二人を連れて行こうと企てた。別に、車に乗せてやるのが男の甲斐性と思っている訳ではないが、少なくとも家にいて好美の冷たい小言を聞いているよりはましだろう。一雄は明日の遊園地行きを二人に話し、亜紀は素直に喜んだが、好美は「どうしてあなたのような人が私たちをどこかに連れて行く訳?」と言ってきて、一雄は三たびショックを受けた。彼女は、まだ自分のことを彼女とは関係のない、赤の他人だと思っているのだ。彼は落胆しつつソファに体をうずめたが、何とか明日の遊園地行きまではモチベーションを保っておこうと考え、ろくに好美と会話することもなく何もしないで一日を過ごした。 次の日、一雄は誰よりも早く起きて、眠い目をこする好美と亜紀に身支度させてから荷物ごと車に詰め込み、遊園地へ向かった。彼らは起きてから何も口にしていなかったので、コンビニに立ち寄ってサンドウィッチと牛乳で朝食を済ませ、比較的空いている午前中に到着することが出来た。さて園内に入り、「まずどれに乗る?」と一雄が恐る恐る亜紀に訊くと、 「わたしあれがいい」 と亜紀の指差した先は、その遊園地でも一番大きなジェット・コースターだった。 「ああ、あれには亜紀は乗れないよ。たぶん年齢制限があるし、亜紀はそんなに背が高くないから乗っちゃダメ、って言われるよ」 「亜紀あれがいい〜あれがいい〜」 「困ったな、しょうがないから、まずゲームセンターにでも行ってみる?」 一雄はここで、二人を試すように言ってみた。すると好美は、 「亜紀がそれでいいなら行ってみようよ」 と一雄にとって意外な合いの手を入れた。しかし、さらに意外な答えが亜紀の口から出てきた。 「亜紀、パパとママが一緒に乗れるのがいい。でしょ?パパ、ママ」 一雄ははっ、と胸を突かれたような感覚を覚え、見ると好美も同じように受け取っている様子だ。 二人はしゃがみこんで亜紀を見た。 「そうだね、考えてみれば、パパとママが遊園地で一緒の乗り物に乗ったことなんかなかったね。好美、三人で乗れるもの、乗ろうか」 ここで好美は、しばし額に手を当てる素振りを見せたが、彼らに向き直って、 「ええ、そうね。だんだん思い出してきたわ。こんなところに来ても、亜紀にかまけてばっかりで、みんなで一緒に楽しもうなんて考えもしなかったわ。高いところがいいなら、あの、観覧車にでも乗りましょうよ」 そして三人は観覧車乗り場まで行き、料金を払ってゴンドラに乗り込んだ。乗ってみると、その観覧車は外から見たときよりも高く感じられ、てっぺんに達した時など一雄の街までうかがえた。特に亜紀にとっては、そんな高さから下を見るのは初めてだったが、意外に怖がらず、広い眺望を彼女なりに楽しんでいた。 「ねえパパ、どこにあたしのお家があるの?」 「ちょっと亜紀にはわからないかなぁ、あの鉄塔の手前の、茶色い屋根のお家だよ。見える?」 一雄はその方向を指差したが、 「わかんない」 ここで一雄はこわごわと好美の様子をうかがったが、いつものように厳しい視線をこちらに向けておらず、むしろ柔和な目で二人を眺めており、ああ、やっと変わってくれたんだな、と内心胸をなで下ろした。 それから彼らは、幼児が乗ってそれほど危なくないアトラクションに次々と乗っていった。そういう形で遊ぶのは、彼らにとって初めてのことだった。一雄も好美も童心に戻って、という訳には行かないにしても、喜んでいる亜紀の顔を見て、充足した雰囲気を味わっていた。 ここに来て二人はようやく理解した。遊園地は子供のためだけの施設ではない、親が親たらんとするための遊び場でもあるんだ、と。 そうして一通りのアトラクションを回り、車で帰途に着いた時には、もう空が暗くなりかけていた。亜紀は遊び疲れて車内で眠ってしまい、残る二人は肩を並べて車窓を流れる景色を黙って眺めていた。そういう状態がしばらく続いた後、好美が唐突に口を開いた。 「そういえば、こういう気分でみんなと車で帰るの、久しぶりだったわね」 「え、どういう気分で?」 「こんな風に、楽しかった、って思いながらよ。何か今までは、半分ケンカして帰ってたような気がするわ」 「……きっと僕のせいだ。今まで悪かった」 「いえ、悪かったのはわたし。亜紀もまっすぐゲームコーナー行かなくなるなんて、あの子も少し変わったのかも知れないけど、それでもわたしがもうちょっと気を使っていたら、あんな険悪なムードにならなかったものね」 「僕も悪いよ、今まで子供を勝手に遊ばせるのが遊園地だ、って考えてたから。最初からこんな形で一緒に遊んでやればよかったんだ。子供の人格なんて、子供がもともと持っているんじゃなくて、親が迷い悩みながら育んでいくものなんだなあって、つくづく思ったよ。亜紀が以前あんな遊び方しかしなかったのは、僕らの責任だ」 それから二人は、しばらくの間黙っていたが、今度は一雄が口を開いた。 「ねえ好美」 「何?」 「僕たち、まだやっていけるかな」 「やっていけるわよ。あなたは私たちが変わったって言うけど、あなただって変わったと思うわ。お互い様よ、こういうのは」 「うん、そうだね」 夫婦の会話はまたここで途切れ、車は漆黒の闇の中を突っ走り、ただ弱々しい街灯だけが彼らの行き先を照らしていた。 |
繭の中 終わり ご意見、ご感想はこちらまでお寄せください。