繭の中 その3 |
五 一雄は家に戻り、さてこれから何をしようか、という段になって、自分ひとりでは何も出来ないことに気付いた。普通なら、帰ってくると夕食の用意がしてあって、彼は夕飯前に風呂に入ることにしていて、亜紀の嬌声を聞きながら湯船につかる、というのが日常だった。しかし、彼女たちの異変いらい、彼はろくに食事を作ることも風呂をわかすことも出来ない。彼はとりあえず食卓についた。すると、昨晩どうしようもくなて飲んだウイスキーの瓶が、中身を半分ほど残してテーブルの真ん中に立っていることに気付いた。この間はストレートで飲んでいたからひどい二日酔いになったんだ、少し腹にものをためてたらよいだろう、とどこかで聞いた話を思い出し、冷蔵庫を開けて冷凍食品を取り出し、それをレンジで温めて食べた。 そんなことをしている間も、一雄は二人のことを気にかけていた。彼女たちはつい先日まで、腹の中ではいろいろあるだろうが、それほどこの生活に不平を持っていたようには見えなかった。いま食べている味気ない冷凍食品とは違って、好美は文句一つ言わず、素朴だが味わいのある料理を作ってくれた。亜紀は味についてずけずけ言うことはなかったが、黙々と食べているその姿を見て、ああ亜紀もおいしく食べているんだな、と傍目から判断していた。そういう点からすれば、一雄の家庭は幸せだったのかもしれない。 しかし、長年一緒に暮らしていると、そうとばかりも言っていられない。なにぶん、亜紀はちょっと気分が高ぶったりすると、奇声を上げて家の中を走り回っていた。一雄自身は、テレビや新聞を見ているときはちょっとうるさいかな、と思うくらいだったが、好美はそういう時「あんたがうるさいから仕事にならないでしょ」とか、「そんなにおいたしてるとお父さんが怒るわよ」とか、自分のことを棚に上げたり一雄に責任を転嫁したりして、自分の感情だけで娘に当り散らしていた感がするのだ。 しかもそれは亜紀に対してだけではない。ここ近年、彼女の一雄への態度も、次第に厳しいものになっていた。彼が食事の後の片付けを手伝っていて、うっかり皿を割ってしまったりすると、まるですべての悪の元凶が彼にあると言わんばかりに、烈火のごとく怒った。そしてそればかりでなく、今のそそうとはまるで関係のないことまで持ち出して、積年のうらみつらみを並べ立てるのだ。それは単なる夫婦喧嘩ではない、一雄にはそう思えるのだが、そんな例が、病気になるまではいくらでもあった。しかし、彼女がいないと何も出来ない、という事実は否定することが出来なかった。 冷凍食品をすべて平らげ、普段ならこれからくつろげる時間であるはずだが、二人の容態に対する焦燥感が先に立って全然落ち着くことが出来ず、彼は再びウイスキーの瓶に手を出し、ストレートであおり始めた。そして酔いが全身に回ってくると、先日までの亜紀のことも思い出された。亜紀は結構手のかかる子で、普通女の子というのは手がかからないから最初に産んでおいた方がいい、とよく言われるが、彼女の場合は例外だ、と彼は思っていた。亜紀は食べている物をよくこぼしていて、特に食事時には三分の二をこぼしていると言っても過言ではなかった。その上、必要以上によくしゃべる。幼児らしい他愛のないことを話すのなら問題ないが、本で覚えたのか夫婦の間や周りの大人の会話を聞いていたのか、走り回りながら意味もわからずに、自分たちが赤面するような言葉を発しているのだ。それを聞いた好美が例の「お父さんが聞いたら怒るわよ」みたいな叱り方をするのだが、いっこうに効いた試しはなく、ごくたまに一雄が重い腰を上げて叱ったりすると、泣きながら床の上を転げまわった。こうなるともう始末に負えなくなり、二人とも彼女が静かになるまで待つ、というルーティンスタイルが出来上がっていたのだ。 そんな中での唯一の救いが、亜紀が一雄になついてくれている、ということだった。彼は亜紀に対しては、好美のように感情をそのままぶつけて、自分のことを棚に上げて怒ることはなかった。そのせいで亜紀が彼と接する時は、好美の時と違って、ずっと笑顔だった。 そのことを、好美は快く思っていないようだったが、それがなぜだか彼にはわからなかった。 一雄はウイスキーの瓶を空けてしまい、シャワーでも浴びようかと思ったが、体の疲れと心労とでそれ以上起きていることが出来ず、再びソファーに横になって眠ってしまった。 一雄が目を覚ましたのは、午前も十一時を回った頃だった。またも遅刻が決定的な時刻に起きてしまったが、好美たちの容態が急変した時は連絡なしに休んでもよい、と会社から言われていたので、しばらくは自分がいなくても現場は混乱しないはずだ、と彼は楽観した。しかし問題なのは、何が彼の目を覚まさせたか、ということだった。目覚まし時計も切っていたし、他に何か騒がしい音がしているわけでもない。それに、自発的に起きたということはありえない。今もって、彼は酒の影響で眠かったからだ。どうしたことか、と彼はしばし二人のことと、二日酔いも忘れて家中を点検して回ったが、やがて謎が解けた。電話が鳴っていたのだ。 「ひどいですよ、今朝十回以上はお宅にかけてますよ、大変なことが起こりました。詳しくはすぐに病院に来てください」 この看護師、文法がちょっと乱れてるな、と無感動に彼は思ったが、すぐに自分が何をなすべきか悟った。 病院に行かなくては。 平日の午前中で車が少なかったせいもあろうか、一雄は法定速度を二十キロもオーバーした速さで車を飛ばし、病院へ向かった。そして二人の部屋に入ると、またもや大量の医師と看護師が病室に押し寄せていた。一雄はその間をかき分けて、病室へ入った。 「いったいどうしたんで……うわっ!」 彼は、ベッドの上にあるものを見て絶句した。なんと、まるでエジプトの包帯を巻いたミイラのような、ほぼ出来かけの繭が二個、ベッドの上に横たわっていた。 「先生方!どうして放置しておいたんですか!」 主治医は一雄の顔を、実に申し訳なさそうに見ながら言った。 「放置していたんじゃないんですよ。糸を取り除く作業は深夜までやってもらっていたんです。でも、常に付きっ切りというわけにはいきませんから、夜中に四回ほど看護師さんに見回る程度にするよう指示しました。それで、……午前五時ごろに、糸を回収しに病室に行ったのですが、その時はすでにこの有り様でした。我々としても不覚を取った、という感じです。前回の見回りの時にはまだ、繭は出来ていなかったんです。おそらく私たちが目を放してから、三十分から一時間の間の出来事だったと考えられます」 一雄はさらに近寄って二つの繭を見た。それらはそれぞれ、好美と亜紀の身長と同じくらいの大きさなので、誰がどちらに入っているかはよくわかる。彼は好美の繭に触ってみた。こちらは完全に繭が出来上がっているらしく、強く押すと固く感じられる。次いで亜紀の方。こちらはまだ柔らかく、繭の厚みもなさそうであった。 「好美……亜紀……」 繭から指を放すと、一雄はしばらく呆然と繭をながめていたが、やがて意を決したように亜紀の繭に近付くと、その表面にあるわずかなくぼみに指をかけ、繭を割ろうとした。 「串田さん!何をやっているんですか!」 「亜紀を繭の中から救い出すんですよ!だってそうじゃないですか!亜紀は何も悪いことしてないんですよ!」 医師や看護師たちは一雄を亜紀の繭から引き離そうとしたが、火事場の馬鹿力なのか一雄の力はとてつもなく強く、彼らをはねのけてなおも繭を破ろうとした。 「落ち着いてください串田さん、今この繭を破れば彼女にどんな影響が出るのかわからないんですよ!今からCTスキャンを撮りますから、その後に対応を考えましょう!」 一雄はその一喝に手を止め、 「本当ですか…」 「もちろんです。だから…」 その時部屋に入ってきた看護師が、主治医に日と、二言告げると、主治医は一雄に向き直ってこう言った。 「CTスキャンは私たちの手でやります。それで、串田さんには少々やっていただきたいことがありますので、時間を下さい」 「僕?僕がですか?」 「はい、ぜひうかがいたいことがあるので、別室で待機してください」 「はあ、CTスキャンはちゃんとやってくれるんでしょうね」 「お任せください」 「そうですか……わかりました」 先ほどの看護師が一雄に手招きをして部屋を出て行ったので、彼は彼女の後についていき、四畳ほどの部屋に通された。そこはテーブルと椅子だけがある簡素な部屋で、外光をブラインドカーテンで遮断しており、外の音はほとんどしないという不気味な場所だった。看護師はすぐに姿を消し、一雄は立ったまましばらくその部屋をながめていたが、やがて白衣を着た、歳の頃は彼と同じくらいの女性が入ってきた。 「では手前の椅子に座ってください」 と彼女が促したので、彼はその椅子に座り、かの女性は奥の椅子に座った。ブラインドカーテンからわずかに漏れる光がちょうど逆光になって、彼の席からは彼女の姿が見えにくかった。 「串田一雄さんですね」 「はい」 「私は精神神経科の心理士をやっております、永峰です。よろしくお願いします」 「え……しんりし、ですか」 「いつもは心を病んだ方のカウンセリングを行っていますが、今日は内科の要請で、串田さんのお話を聞かせていただきます」 「ちょっと待ってください。妻と娘の病気と何か関係があるんですか。それも、僕が心の病気にかかっていて、それが原因だとでも…」 「直接的にはそうではありません。あなたは心の病にはかかっていませんし、この件に関しては100%、あなたに非はありません。ただ、お二人がああなる前の、あなたの二人に対する評価をお聞きしたいのです」 「二人の評価……それを聞いて、二人が直るとでも言うんですか」 「それに近いことは……ともかく、お話をお聞きしたいと思います。よろしいですか」 一雄はそれ以上抵抗する術を失い、 「はい……」 「ではまず、あなたの奥さん、好美さんですね、日ごろ奥さんはどういった女性だったんですか」 「どういったと……そうですね、結婚当初は仲がよかったんですけど、子供を産んでから少し、おかしい点が出てきたような気がします」 「それは、子供さんにばかりエネルギーが行って、あなたにまでは目が届いてなかったということですか?」 「いえ、それは、その点については、逆です」 「どういう風にですか」 「えーと、…本気で子供を育てようとしていなかった、とでも言うんでしょうか。普段は、彼女がしつけ担当で、僕が遊び担当、っていう感じなんですけど、しつけと言っても、ただちょっと悪さをしただけでもただならぬ剣幕で怒ったり、構ってもらいたがっている時も僕に娘を追いやって、自分はやりたいことをしたりとか…とにかく、子供に対する愛情が足りないというか、何か変なんです。あ、たまに邪険にすることもありました」 「子供さんに対して、ですか」 「はい、彼女の近くでおもちゃで遊んでいると、彼女がそのおもちゃを僕に投げたりとか、ひどい時は子供の両手を持ってぶらさげて、僕のところに持ってきたりとか」 「なるほど、それらは全部子供さんに対して」 「そうです、ね、おかしいでしょう」 心理士の永峰はしばらく考え込み、 「では、子供さんの方はどうだったんですか」 「亜紀は、……うちの娘は、ひたすらうるさかったですね」 「うるさいとは、あなたに対してですか、それとも奥さんに」 「両方ともです。とにかく、暴れまわって叫んでましたね。まるで男の子じゃないかと思えるくらいに。物は投げるし、食事は自分で満足に出来ないし、トイレの使い方もちょっと怪しいし、本にはそろそろ出来る頃だと書いてあったんですが。ね、ちょっとおかしいでしょう、うちの子供は」 心理士は再び考え込んで、 「少し待ってくださいね……ええ、何というか、串田さんは、さっき言われたことで、二人がおかしいと思われるのですか」 「はい、普通、こんなことはないと思いますけど」 「その、普通、とはどんなことを指して言うのでしょうか」 「それは、普通、ですよ。例えば他の家族が公園や行楽地なんかで遊んでいるのを見て、ああ、これがうちの家族だったらな、ってよく思うんです。あと、テレビとかドキュメンタリーとかあるでしょう、よく家族が集まっているところを映すじゃないですか。そしたら、奥さんとか、子供とか、一家の大黒柱の旦那さんを大事にするでしょう。僕はそういうのを見て、これが正しい、と思うんですが」 「では串田さん、それらの例と比較して、本当に自分の家族の方が劣っている、と感じるんですか」 「はい、それはもう」 「…串田さん、申し訳ないのですが、あなたの判断は正しくないようです。他の家族が、表面上は楽しくしているように見えることもある、と思いますが、実際にはそうではないでしょう。その内側では、他人が知る術もない葛藤が渦巻いています。これは私の経験も加味していますが、どんな家族も十中八九ろくなものではありません。小さい子供は走り回るしうるさいし、奥さんは子供にも夫にも口うるさく、その夫にしたって暴力で問題を解決しようとしたり、家事にも子育てにも無関心だったり、散々なものです。現実の世界なんてこんなですから、テレビに映っていた家族を理想像とするのは、あまりに短絡だと思いますよ。テレビは99%演出されたものですからね、もっときつく言えば、ぎりぎりやらせでしょう。そんなものを判断基準にしてしまうというのは、よほど仕事一辺倒だったんですね」 一雄は怒りで体を震えさせながらも、それを押し隠すかのように、 「僕はこれまでも、家事はなるべく出来る範囲で手伝ってきましたし、子供の面倒も見てきました。自分は家族のために、最善を尽くしていたつもりです。それを、部外者のあんたから四の五の言われる覚えはありません」 「本人はそう思い込んでいるから、カウンセリングが必要なんです。これは単なる人生相談ではありません。わかりますか。以前お二人を診た医師は、心因性、心の病だと診断されたようですね。それを、あなたが間違っていると主張されるのも無理はありません」 「じゃああなたは、好美や亜紀が精神に異常を来たしてあんな病気になった、とでも言うんですか!」 「そうではありません。確かに現代医学をもってしても、あの病気の治療法はありませんが、そこに到るまでのお二人がどういう心理状態であったかを明らかにすることも、これから見つけるべき治療法の一つのきっかけなんです。できあなたは、この病気を未然に防ぐ方法をご存知だったのですか?」 それを聞いて、一雄は愕然とした。確かに彼は自分のことを棚上げにして、妻と娘を自分から一段低いところに置いて考えていたことに気付いた。その上で、家庭内のいざこざをすべて彼らのせいにしていたのだ。好美が亜紀に冷たかったのも、自分が亜紀を甘やかし過ぎて、好美を構っていなかったことに要因があるのだ。それは、病気になる前は考えもつかなかったことだ。自分の一挙手一投足が、彼らの病気に関係するなど、思いもよらなかった。決して因果関係は認められないものの、自分が彼らを精神的に追い込んでいた責任は、厳然とある。 「少々追いつめたような言い方でしたね。すみません。でもこう言わないと、串田さんが聞き入れてくれないと思いましたので。どうも申し訳ありません」 カウンセラーはそう詫びを入れた。それに対し一雄は、 「いいえ、僕の方こそ、何の反省もしてなかったことに気付かなくて……目から鱗が落ちました」 その時、 「串田さん!」 ドアの外から彼を呼ぶ声が聞こえたので、彼はびっくりしてその部屋を出、 「どうしたんですか」 「CTスキャンの結果が出たんですが、大変なことになりました。詳しくはスキャン室で……」 そう言う看護師のただならぬ様子に不吉さを覚えた一雄は、彼女の案内でCTスキャン室へ急いだ。その部屋の前に、先日のように医師や看護師たちがたむろしており、医師の一人に訊いてみた。 「何事ですか」 「いえ……その……とにかく、中に入ってください」 答えた医師が、腕で額の汗をぬぐうのを見た一雄は、またもただならぬことが起こったのを悟り、恐る恐る部屋に入った。中にいたスタッフは、意外と冷静な空気の中で作業している。一雄はゆっくりと機材のモニターに近寄っていった。それに気付いたスタッフの一人が彼に言う 「串田さん、これはご覧にならない方がよいかと…」 「もう驚くことはないでしょう、見せてください」 「そうですか、それなら…」 それまでモニターに張り付いていたスタッフの一人が横に退き、一雄は画面を直視した。すると、何かごちゃごちゃしたものが映っているのはわかったが、それが何を意味するものかはわからなかった。 「何ですか、これは」 「これはですね、繭の名の様子を輪切りにして見せたものです。繭の外殻はこの丸い部分、そして体がこれです」 「これが体?」 「そうです。おわかりにならないと思いますので、説明しますと、」 とオペレーターが、次々とモニター上に画像を表示させ、 「輪切りにしているのでわかりづらいんですが、例えば頭部を見てみますと、この部分が脳です」 オペレーターは手元のマウスを操作し、 「こう見ると脳の形が連続して見えますね、それでここ、ここがおかしいんですよ。ここは本来、この頭蓋骨いっぱいに脳が収まっていないといけないんですが、これを見る限り、全体的に脳がわずかながら萎縮している、つまり小さくなっているみたいなんです。わかりますか?」 マウスのポインターが脳と頭骨の間の、わずかに空いたすきまの辺りを指していた。それを見て一雄は言う。 「ええ、確かに」 彼は緊張しすぎて額に汗をかき、そでで汗をぬぐった。 「同じことは、この足の筋肉にも言えます。ほら、ここがこう、ここがこうなっているでしょう?本来、ここの筋肉はここがこう(とポインターで指しながら)なっていますよね。でもこの筋肉が、ある程度未発達の状態になっているんです。まるで長い間、使われていなかったかのように…おわかりになりますか」 「少し、は……」 そこに主治医が割って入り、 「そうですか、それではもっと全体的な診断を申しますと、お二人の容態は、かなり悪いです。いえ、悪いと言うのはちょっと語弊がありますが、簡単に言えば、お二人は発達の遅れた子供のようになっています。と言っても、お子さんの方はもともと体が未発達なのでそれほど問題はありませんが、奥さんの方が心配ですね。体が退行している、というのが正しい言い方かもしれませんが、どちらにしろこのまま繭から出て来られたら、これはあくまで推測ですが、奥さんは身体障碍者のような生活を強いられるかもしれません。それでも、私たちは全力で、、お二人を繭の中から救い出すよう努力しますので、ご心配なさらずに任せてください」 「心配せずに、だって?」 一雄はその説明を一通り聞いて、ある程度納得したようだが、医師の最後の言葉はかえって一雄の心に火をつけた。 「これが心配せずにいられますか!好美が身体障碍者になるかも知れないんですよ!亜紀だってどんな障碍を持って出てくるのかわからない、それなのに心配するな、それこそふざけるな、だよ!」 「お気持ちはわかりますが、これが限界なんです。こんな状況で適切な治療法を編み出すなんて、誰も出来ませんよ。先に症例があってそれを何とかしようとする、その試行錯誤の中で治療法は生まれてくるものなんです。いま私たちに出来ることは、お二人が繭から出てくる時に、いかに損傷を少なく出来るか、この一点しかありません。その辺りを、ご了承ください」 そう聞くと、一雄は無言で部屋を出て行った。医師たちは、これを彼が自分たちに一任したものと取って、それぞれ作業を再開し、野次馬の看護師たちは各々自分の持ち場に戻っていった。 しかし、医師たちの認識は甘かった。一雄が去って十分ほど経った頃、再び彼が部屋に入ってきた。医師たちはそれを別段不思議に思わず、作業を淡々とこなした。一雄は両手をポケットに突っ込み、じっと繭を見つめている。しばらく経って、医師の一人が少し離れたところで見ててください、と呼びかけたところ、一雄はかたくなにその場を動こうとせず、医師たちは困惑の色を顔にたたえた。 その時、一雄はポケットに入れていた両手を抜いた。その手には、アルコールの入った小さな瓶と百円ライターが握られていた。医師たちは一斉に色めきたち、彼の動きを制止しようとしたが、一雄はすでに小瓶の栓を抜き、好美の繭にアルコールをかけていた。 「何てことするんです!そんなことしたら、取り返しがつかないことになります!助かるものも助かりませんよ!」 「助かるものも助からない?お前らはまだそんなことが言えるのか!好美はもう助からないんだよ!何とか繭の中から引きずり出しても身障者だ!亜紀もどうなるかわからない、どうせそうなるんだったら、いっそのことこの手で終わらせた方が、こいつらの供養になるよ!」 「串田さん落ち着いてください!繭に火をつければお二人は死んでしまうし、病院も火事になって他の患者さんに迷惑がかかりますよ!そしたらあなたもどうなるか!」 「知ったことか!」 そして一雄は繭に向かい、 「こいつら、生きてる間だけでなく、死ぬ時も迷惑かけやがって、お前ら殺して俺も死ぬ!」 「やめろ!」 近くにいた若い医師が動く一瞬早く、一雄はライターの火を好美の繭に押し付けた。しかしすぐに彼はその医師に制止され、火も繭に焦げ跡さえ残さずに消えた。さらに一雄は複数の医師に取り押さえられ、彼は抵抗せずその場に伏せた。 「あなたの行動は本来、警察行き確実のものなんですよ!今回は穏便に済ませますけど、少しは自重してください!」 「わかった、わかったから放してください!」 右手のライターは医師によって取り上げられた。得物を失い拘束を解かれた一雄は、ゆっくりと立ち上がって呆然と二つの繭を見すえた。 「どうして、どうしてこんなことに……」 その様子を見ていた主治医は、 「片桐くん、串田さんに鎮静剤を打って休ませてあげなさい。彼は尋常ではないから」 「はい」 片桐と呼ばれた医師は、一雄を別室に移して鎮静剤を打ち、ベッドの上に寝かせた。 |
繭の中 その4へ続く