繭の中 その2

                 三
 二人が転院する先は、前の病院よりだいぶん大きな大学病院だった。ふつう大学病院では、別の医療機関による紹介状なしには診察さえ受けられないのだが、あれだけ意固地だった前の病院が奇跡的に紹介状を書いたのだった。それが串田一家に対するせめてもの良心、であったかどうかは定かではないが、ともかく並みの病院以上に設備が整った病院に入れるとは、運が良かったとしか言いようがない。
 彼らが家に着くと、時刻はもう朝の八時になっていた。一雄は二人を何とか寝室に寝かせると、紹介状の入った封筒に書いてあった電話番号にかけて連絡を取った。すると、向こうから十時頃に連れて来てくれという要望があって、一雄はそれに従い十時ちょうどに病院を訪れた。二人を収容した病院側は、さっそく病名の同定に取り掛かった。一雄は診察の続く二人のベッドから離れようとせず、ひたすら彼女たちを見守っていた。
 主だった診察は採血や検尿などこまごましたものだったが、その間にも二人の口から糸が吹き出ていて、診察をしている医師や看護師たちもやりにくそうだった。そして次から次へと医療用の器具や機械が、運ばれてきては搬出するという状況が続き、ある程度調べが一段落したところで医師が説明を始めた。
「紹介状を見た限り、前の病院で病気が精神的なものだと言われたんですね」
「はい」
「あの病状をちょっと見ただけで、精神的なものだ、と判断するのが少し短絡過ぎるということは、私たちも認めるところです。ですが、そんな診察結果を出さざるを得なかった医師たちの心の中もわかる気がします。何せ、この病気は病名どころか原因もまったくわからないのです。こういう例は公害病とか薬害とか、発症当初は何が原因なのかもわからない病気には多いんです。ですが、串田さんの話しを聞く限りではそういった症状ではありませんし、何しろ口から……………」
「続けてください」
「はい、あの、口から糸を吐く症例は、どこの大病院に行っても直せませんし、浅学の私が言うのもなんですが、どの医学書をあさっても出てこないでしょう。体の硬直のみにおいては症例が山ほどありますが、どうも糸を吐く症例とこの硬直は病気としてリンクしていると考えた方がよいでしょう。ですから、こちらの方だけでも完治させる、という訳には行きません」
「すると、この病気は治し方もわからないと……」
「はっきり言えば、そういうことになります」
 一雄はぐっと歯を食いしばり、床を見つめて言った。
「病気の治療法が見つかるまで、二人をここに置いといてもらえないでしょうか。お金は何とかしますので」
「……わかりました。命にかかわるのかどうか、今のところは何とも言えないんですが、大事を取って二人を個室に入れさせましょう。それから、ある程度めどがついたら、安い大部屋に引っ越していただきます。この辺りの病院ではほとんどベッド数が足らないのですから」
「お願いします」
 一雄はベッドの近くまで来て、再び二人の女に目を遣った。二人は相変わらず口から糸を吐いている。それが二人の頭上である程度固まると、看護師があわてて手で糸の固まりを払うのだ。取りあえずは彼女らへの手当てはそれくらいしか出来ないらしい。一雄が更にベッドに近付くと、糸を払っていた看護師は彼に糸の固まりを差し出した。
「これ、何か以前に見たようなことはありませんか?」
 そう言われ、一雄はその糸を手に取った。重さは意外にない。全体が白くて、繊維がきめ細かい。看護師の言う通り、どこかで見たような気がした。しかしそんなことは今、関係がない。好美と亜紀は今もって糸を吐き続けている。一雄は何だか無性に腹立たしくなり、手で空を切るように糸を払い出した。しかし、払っても払っても糸は出続ける。
「看護師さん、この糸がたまり続けると、いったいどんな不都合があるんですか」
「そうですね……口や鼻の前に糸の固まりが来ると、窒息する恐れがあります……ただ、今のところはそんなにたまっていく様子がないので、私たちが交代で糸を取るようにはします」
「そうですか、すみません……お願いします」
「いいんですよ仕事ですから」
 一雄はもう一度医師の方に向き直り、
「お願いします」
 すると医師も無言で頭を下げた。前の病院とは違って、医療スタッフ全員から誠意を感じられ、安心してそのまま帰ろうとした。が、看護師が持っている糸の固まりを見て、一雄はあるひらめきを覚えた。
「その糸、どうなさるんです?」
「一部は資料として取っておきますが、後は有毒でないことを確認して焼却処分するつもりです」
「あの、よろしかったら少し分けてもらえませんか」
「はあ、先生、よろしいでしょうか」
 医師はうなずいた。
「いいでしょう、ただ、まだ無害と決まったわけではないですから、扱いは慎重にお願いします」
「ありがとうございます。ではまた明日うかがいますので」
 と糸の固まりを受け取って、一雄は病院を後にした。
 彼が家に着いた頃には、時刻はもう四時を回っていた。彼は電話帳を引っ張ってきて、呉服屋の欄を調べた。そして近所に呉服屋があるのを見つけると、すぐに電話をかけてまだ店が開いているか確認し、病院で手に入れた糸の固まりを手に、車を飛ばしてその店に向かった。
 呉服屋は彼の家から、車でおよそ十五分のところにあった。こういう街にしては小さめの店だ。到着して店内に入ると、彼はあいさつもそこそこに店員に糸の固まりを見せ、こう告げた。
「これ、何の糸かわかりませんか」
 店員は困った様子で、しばらく一雄と糸の固まりを見ていたが、やがて「おかみさんを呼んできます」と言って奥に引っ込み、五分ほどして和服をきれいに着こなした初老の女性が現れた。
「はい、糸を調べてほしいとおっしゃったのはあなたですか」
「そうです、この糸が何なのか知りたいんです」
「そうですか、ちょっと拝借」
 と言って女性は糸を手に取り、しばらく見入った後、
「すみません、うちでは詳しく調べることが出来ませんから、専門の人に見てもらえますか」
「専門の人?」
「病院の院長さんなんですけど、お家が昔養蚕をやっていたという方で、その人なら調べられると思いますが、私の見た限りでは、手触りとか何か、絹のような気はするんですけど」
「絹、ですか」
「今すぐ住所をお知らせしますので、明日にでも行かれたらどうですか。これ、お返しします」
 一雄は糸の固まりを受け取り、店員が住所録を調べている間、何か世間話でもしようと思ったが、話題が浮かばない。まさか、この糸は妻と娘が口から吐いたものだ、などとは言えず、虚空を見つめ黙って立ち尽くしていると、店員に住所を書いた紙を渡された。彼は何とか謝辞を口にすると、ふらついた足取りで車に向かった。
 好美と亜紀が、絹糸を吐いている。
 何のことだ。
 彼はとにかく家に戻って、ウイスキーを食卓の上にどんと置き、ストレートで胃に注ぎ込んだ。一時間ほどそうして肴なしに杯をあおっているうち、アルコールが頭に回ってきて、もう好美と亜紀の安否など気にならなくなったとき、不思議と冷静に糸のことを考え始めた。
 口から糸を吐く、というのは蚕(かいこ)を代表とする蛾の習性だ。蛾の幼虫はある程度まで成熟すると口から糸を吐き、それで体の周囲をおおって繭を作る。蛾の本体はその中で蝶のさなぎに当たるものになり、羽化を待つのだ。それから幾日か経つと、成虫となった蛾が繭を破って飛びまわるようになる。翻って、彼女たちは繭を作って、どのような形になるというのか。まさか、蛾のように宙を舞う生き物となってしまうのか。そんな恐ろしい想像も、酔いが手伝ってか暴走することなく、そんなこともあるのだな、程度の認識で落ち着いていた。蝶は明るく親しみやすい色と文様で、見る者の目を楽しませてくれるが、蛾は蝶とまるっきり違い、なべて茶色く、不気味な文様を背負っていて、暗くなってからよく飛び回るせいもあるのだろうが、皆に嫌われている。
 そんな蛾の中でも、蚕だけは特別だ。いかに成虫がおぞましくとも、幼虫の段階では「お蚕さん」などと呼ばれて、主に農村で珍重される。むろん彼らが絹の糸を出してくれるからだ。
 しかしそれは虫の話、人間が糸を吐くというのはどういうことであろうか。そこに考えが到って、一雄の酔いが薄まり、また恐怖心にとらえられた。好美や亜紀は、繭を破って以前とは異なる形で出てくるのだろうか。当然人間には、蛾のような習性や本能が備わっていない。だから、彼女たちが何らかの形で成長しているとは考えられない。とすれば、蛾のレベルにまで意識や体が退行してしまうのか。否、体はそれなりに出来上がってしまっているのだから、その線は考えにくい。では精神はどうか。最初に行った医者が明言しているのは、彼女たちはメンタルな部分で異常を来たしている、と。でもそれでは、彼女たちがどういう理屈で糸を吐いているかは説明できない。
 そんなことを考えているうち、彼はすっかり泥酔してしまい、ついに二人のことも糸のことも頭から消えてなくなり、ソファーに倒れこんで眠りについた。
 翌朝、一雄はひどい頭痛に悩まされながら起床した。時刻は午前十時。会社には完全に遅刻である。あわてて会社に電話を入れ、妻と子供の容態があまりよくないのでもう一日休ませてほしい、と言付けた。そして、昨日呉服屋で入手した情報を元に、実家が養蚕家だった医者のところに行くことにした。幸いあの糸の固まりは霧散せず残っていたので、これをビニール袋に入れて持参し、車を飛ばした。
 その医院は少々町外れに位置しており、屋構えも古びていて小さかった。ぱっと見では開いているのかよくわからなかったが、玄関のところをよく見ると、小さく「開診」との札がかけてあった。ペンキがはがれかけた扉を開くと、入ったすぐに小さな待合室があり、意外と小ぎれいだった。少しして、受付らしい老けた女性の看護師が小窓から顔を出して、「診察ですか」とかん高い声をかけたので、
「実は、××呉服店から紹介があったものですが、連絡は来てますか」
 と言うと、看護師は窓から顔を引っ込め、二、三分ほどしてから再び顔を出した。
「はい、うかがっております。診察室へどうぞ」
 中に入るとそこには、よれよれになった白衣を着て、それと競合しているかのような真っ白な髪をたたえ、黒ぶちの眼鏡をかけた初老の小柄な男が椅子に座っていた。たぶん院長だろう。彼は一雄と目が合うと、
「話は聞いてるよ。その糸かい、調べてくれっていうのは。まあそこにかけなさい」
 一雄は中身が見えかけている丸椅子に座り、糸を彼に渡した。
「はあ、これか……確かに、絹のようでもあるな。だけど化繊の可能性だってある。とにかく調べてみるから」
 医師は机に置かれていた顕微鏡を手前に引き出し、スライドグラスに糸を乗せ、それを顕微鏡にセットしてのぞきこんだ。一雄は彼の様子をじっと見つめる。
 そして五分ほど経ち、医師は一雄の方を向いて話し始めた。
「これはまごうことなき絹の糸だ。しかしあんた、絹をこんな状態で持ってくるなんて、よく出来たね。普通、絹糸というものは、繭の状態のものを製糸工場でよった形で出てくるのが最初なんだが、これはまだよる前の、蚕が吐き出したところの糸をそのまま集めた状態だ。よくこんなものを手に入れられたもんだね。ひょっとしてあんた、製糸工場の人?」
「いえ、違います。それは……」
 一雄はこれまでの仔細を医師に話した。
「うん、そうかあ、そうだねえ、これが人間の口から……それがもし本当のことなら、似たような例はあるにはあるが」
「似たような例?それはどんなものですか」
「いつ、どこでということはわからないが、ある女の子が変な病気にかかった、という話は聞いたことがある。その子の、粘膜以外の皮膚からぼつぼつと、綿の花のようなものが吹き出ていたんだ」
「綿の花?」
「そう、話を聞いただけでは、私も半信半疑だった。でも、背中を向けたその子の写真を見て、ああ、世の中には、こういう病気もあるんだな、って驚いた。今はそのレポートも写真もどこかに行って、長いこと忘れていたんだが、あなたの話を聞いて思い出したよ」
「じゃあ先生、その子の治療法はわかったんですか」
「いやあ、私は人からそのレポートを貰っただけでね、別に原因とか治療法とか知ってるわけじゃない」
「そうですか」
 一雄は残念そうに肩を落とした。
「大学病院に入ってるのなら、当座のところは大丈夫だろう。ただ根本的に治療するとなると、これは推測でしかないんだが、恐らく難しいの一言だねえ……」
「わかりました。ありがとうございます。こういう場合、料金はいくら払えばいいんですか」
「いや料金なんていいんだよ。それに私も、昔のことを思い出して面白かった。それよりも、嫁さんと娘さんを大事にしてやってくれよ」
「……申し訳ありません」
 一雄は受付の看護師にまで謝辞を入れ、車で再び大学病院へと向かった。

                 四
 一雄が車を降りて二人が入っている病棟に向かうと、何やらそうぞうしい感じがして嫌な予感がした。ナースステーションでは常に誰かが飛び出したり引っ込んだりしており、その騒動の元であろう病室の前では、医師や看護師が頻繁に出入りしていて、医療器具を持ったまま立ち往生している看護師さえいた。何事だろうと彼は病室に入ると、そこは好美と亜紀のいる部屋だった。
「何かあったんですか」
 部屋から飛び出してきた看護師に訊くと、彼女は目をむいて、
「今朝はどこにいらしてたんですか、お宅の奥さんとお嬢さんがいま、大変なことになっているんですよ」
「え?容態はどんなですか」
「容態も何も…とにかく、入ってください」
 看護師のただならぬ剣幕に、何かが起きたんだ、と悟り、医療関係者の邪魔にならないように、顔からゆっくりと部屋の中に入った。
 すると一瞬、一雄には何が起こっているのかわからなかった。二人がいるはずのベッドの上には、何やら見慣れない、少し細長くて白い大きな玉が二つ、並んでいるのだ。看護師たちをかき分けてベッドに近付くと、それはちょうど人間がすっぽり入るくらいの大きさなのがわかった。
「串田さん」
 一雄のそばにいた医師が言った。
「私は二十数年、この仕事に従事してきましたが、こんなことは初めてです。串田さんはこれが何かわかりますか」
「……二つの大きな白い玉」
「ですよね、誰だってそう思います。でも、この玉の下にあるのは奥さんと娘さんが寝ていたベッドです。よく見てください。この玉は完全に丸くはなっていません。この部分ですね、ここをこうすると……」
 医師は玉の表面を、親指と人差し指でかき分けた。すると、それは糸で編まれた薄い膜になっていて、二本の指で中身がうかがえるようになっていた。
「ここをのぞいてみてください」
 一雄はそこに目を当てようとしたが、ここに来て彼は、さっきあの医院で聞いた話を思い出した。二人が吐いた糸は絹糸だったのだ。ということは、この玉の正体は、
「ま、まさか、繭!好美と亜紀の繭!」
「串田さん落ち着いてください」
 一雄は震えながらゆっくりと、目を指で開けた穴に近づけ、中をのぞきこんだ。
「好美!」
 彼はあわててもう一個の繭に近寄り、指で糸をかき分けてのぞきこむ。すると、
「亜紀!」
 そこに横たわっていたのは、まるで胎児が寝ているように、足を折り曲げてそれを手で抱えた、亜紀だったのだ。好美の方も、亜紀より露骨な形でないとはいえ、子供がひざを抱えている形で眠っている。
「先生、一体これはどういうことでしょうか」
「さあ、私にもよくわかりません。というより、世界中のどの病院を探しても、こんな症例の患者はいないでしょう」
「先生、こうなるまでにどんな経過だったか、教えてください」
「……そのことについては、看護師の中園が詳しいでしょう。すみません中園さん」
「はい」
 三十前後に見える、黒ぶちの眼鏡をかけた看護師が返事をし、一雄の方を向いた。
「串田さん、ちょっと廊下に出ましょう」
 二人は連れ立って部屋を出て、入り口から五メートル離れたところで向き直った。
「お二人の異変に気付いたのは朝の検診の時でした。その時には、お二人はすでに糸を自分の周囲に張りめぐらし、ごく薄い繭を作っている最中でした。それから医師を呼ぶと、医局の医師が全員集まって繭を破るべきか否か話し合いました。その間にも繭はどんどん出来上がっていって、午前の十時くらいにはこじ開けないと中の様子がうかがえないようになっていました。そこまでいっても破る破らないの議論が続いて、今のような状態になったわけです」
 その話を聞いた途端、一雄は一目散に病室に入っていって、医師や看護師をかき分け、二人の繭の前に来ると、繭を破き始めた。
「何してるんですか串田さん!」
 看護師の上げたその一言に、
「あなたこそ何ですか!僕の妻と娘がこの中に閉じ込められているんですよ!これが尋常でいられますか!あなた方も医者ならもっとましな治療をしてください!でなければ、こうするより他にありますか!あなたたちも手伝ってください!」
 一雄の心からの叫びに、医師たちはどうしようもなくて、
「わかりました。あなたの手伝いをしますから、串田さんももうちょっとデリケートに扱ってください。中の患者が心配です」
 この言葉で我に返った一雄は、医師の言う通りゆっくりと糸を解きにかかった。
 そして回診のない看護師たちも、総手でこの糸解きに携わった。作業は極めて慎重に行われ、まるで化石を発掘するように、繭の弱いところから丁寧に糸がほどかれた。
 それからさほど時を置かず、ものの二十分で二人の繭の上半分が取り除かれた。一同が安堵の空気に包まれたその次の瞬間、その場にいた者は戦慄を禁じえなかった。それまで眠るように繭の中に横たわっていた二人が、目を開けて動き始め、取り除かれた部分を補うかのように、再び糸を吐き始めた。それを目の当たりにした、医師の一人が言った。
「困りましたなこれは。まるで本物の繭だ。いや本物の繭が欠損した部分を再生するというのは聞いたことがないが、もしそうだとするなら、いたちごっこに陥る恐れがある。串田さん」
「はい」
 一雄は真っ青になった顔を隠すように、うつむきがちに返事をした。
「これは覚悟しておいた方がいいかもしれません。奥さんと娘さんの繭をいくら取り除いても、すぐに作られるとなると、人海戦術しか繭の生成を止める方法がありません。それにうちのシフトを考えますと、付きっ切りで看病することは出来ません。ICUに空きが出ればいいんですが……ですからこの場で、ある程度まで放置しておくより他にないのです。そして、中の様子が何かの要因で変化した時に、エックス線なりCTスキャンなりで内部を調べて、それから処置する、とした方が適切だと思います。ご了解いただけますか?」
「はい…………仕方、ありません」


            繭の中 その3へ続く