繭の中 その1 |
一 だいたい、その日の始まりからして、彼ら親子の間はぎくしゃくしていた。 前の晩、夫婦である串田一雄と好美は、四歳になる娘の亜紀を動物園に連れて行こうと決めた。そしてそのことは亜紀には内緒にしておいて、サプライズを演出するつもりだった。しかし当日の朝、これからドライブに行こう、と一雄が娘に話したところ、どこへ行くの、と問いただされた。動物園だ、と一雄は仕方なく答えると、わたし動物好きじゃない、あんなキモいの見たくない、と、どこで覚えたのかそんな言葉を返してきた。じゃ、どこがいいの、と聞き返すと、遊園地、と反射的に答える。串田夫婦は仕方なしに、予定していた動物園より遠いところにある、大きめの遊園地(テーマパークというよりは、そこは遊園地と呼ぶのがふさわしかった)へ娘を乗せて車を走らせた。 その日は日曜日にもかかわらず、意外と空いていた。これなら家族で遊戯に満喫できる、と始め一雄は安心していたが、いざチケットを買う段になって、どのアトラクションに乗りたいか亜紀に訊いたところ、 「亜紀ゲーセンがいい」 「ゲーセン?亜紀、なんだそりゃ」 「ゲームセンターのことよ。まったく、どこで覚えたんだろう」 一雄は好美の言葉に少なからぬ毒を感じつつも、亜紀の手を取って、 「よーし亜紀、ゲームセンター行くぞ」 「あなた、わたしは行かないわよ。ここで待ってる。あんな音のうるさいところ、わたし耐えられないから」 二人は浮かない顔の母親の元を離れ、ゲームセンターへと向かった。 そのゲーセンなる場所は、小さい頃多少は腕に覚えのあった一雄でも辟易するほど、華美ななりをしていた。かつて一雄の目を誘ったアーケードゲームはなりをひそめ、代わりにクレーンゲームや、カードを使った特典付きビデオゲームが大半を占めていた。そして奥の方では、パチンコ屋で見るのとほぼ同じようなスロットマシーンや、競馬ゲームにコイン落としゲームが並んでいた。入り口を抜けると亜紀は二百円もの軍資金を握りしめ、真っ先にカードゲームのところに向かい、自分の持っているカードを機械にセットし、硬貨を入れてゲームに興じた。 どういう遊びをしているのか知りたくて、一雄は彼女の頭の上から覗き込むと、モニター上でポップに着飾った二人の女の子が、最近の踊り(当然ながら一雄はそれを知らない)を踊っていた。彼女も半分踊りながらテンポ良くボタンを叩いており、しばらくするといつの間にかゲームは終わっていた。そして一雄の目には、どっちが勝ちでどっちが負けかまるで判断が付かなかった。そんな彼をよそに、亜紀は機械に二枚目のコインを投入し、またモニターの踊りに興じていた。 そしてゲームが終わると、彼女が勝ったのだろうか奇声を上げて、満面の笑みを浮かべて父親の顔を見やった。どうやら満足してくれたようだ、一雄はにこやかな顔で亜紀を肩車し、母親の好美が待っているベンチへ戻った。 一雄は妻に向け、亜紀ゲームに勝ったぞ、などと調子のいい事を最初は言っていたが、それがカードを使ったゲームであることが彼女に知れると、 「まったく、そんなゲームうちの近所にいくらでもあるのよ、スーパーの軒先とか。わたしもさんざんねだられて遊ばせたけど、この子こんなとこまで来てアレやったの?」 と不快な感情を隠しもせずに言った。一雄は場を紛らすためにあわてて、 「じゃあ亜紀、今度はどこ行きたい?ジェットコースター?ミラーハウス?」 「わたしもうお家へ帰りたい」 一雄は、何だそりゃ、もう帰りか、と肩すかしを喰らいながらも、他の遊具に乗りたくないなら仕方ない、と自分に言い聞かせた。そして好美にも意見を聞いたところ、 「勝手にすればいいでしょう。帰りたいって言うなら帰ろう。何しにわざわざこんな遠いところへ来たんだろうね」 と捨て台詞を残し、駐車場へ足早に向かった。 そして、その出来事が起こったのは、夕食が終わってからのことだった。 彼は居間でゆったりとくつろいで、テレビのバラエティ番組を見ていた。妻は、夕食後の片付けをしており、その周りを亜紀が何かわめきながら走り回っていた。 「ほら亜紀、パパのところで遊んでらっしゃい。ママは片付け物で忙しいのよ。亜紀が手伝ってくれるのならいいけど」 果たして四歳の子供が母親の手伝いなどするのだろうか、などと考えながら、一雄は亜紀が彼のひざの上に来るのを待った。しばらく経って、亜紀は一雄の座っているソファの横に飛び込んだ。 「パパ、何でママは亜紀のことうるさく言うの?」 これも、いつもの亜紀の口癖である。好美のことについては一雄もいろいろ言いたいことはあったが、近くで話を聞いている好美の手前、本音を出すわけにもいかず、いつもこうなだめていた。 「ママは別に亜紀のこと嫌いで言ってるんじゃないよ。ママは亜紀のこと心配だから、君が間違ったことを正すんだ。それに、ママにはママの仕事があるんだ。その間は、亜紀も静かにしてくれたら、ママも喜ぶよ」 そんな曖昧な言い訳で本当に効き目があるのかどうか、ともかく、こう言ってしまえば少しの間、亜紀が静かにしてくれるのだ。 しかし、亜紀はまだ小さいからこんなごまかしが効くのだが、歳を重ねて反抗期になったり、女性学の本をまるごと信じるような歳になったら、何で女が家事全般を負わなければならないのか、などという言葉を親に向かって吐く、そういう時期が来るのかな、と一雄は内心危惧していた。 そんな折だった。 突然台所の方から、何か食器を落として割ったような音が聞こえ、ほぼ同時に、亜紀がさっきまでソファーで飛び跳ねていたのが、急に動きを止めて、それっきり彼女は動かなくなった。一雄はまず台所に行ったが、そこでは床に皿の破片が飛び散っており、好美は皿を片付けようとした格好で固まっていた。 「おい、好美、どうしたんだ、好美!」 一雄は好美の肩をつかんで揺さぶったが、彼女は何の反応も見せず、ただうつろな目でじっとしている。彼は戦慄を覚え、妻の体を破片の落ちてない床に横たえたが、一方でまだ静かにしている亜紀のことも気になった。居間へ戻ると、亜紀もソファーの背もたれに手をかけ、クッションにひざをついたままの格好で、好美と同じように固まっていた。その光景を目の当たりにして、一雄は恐怖を覚えるより先に、自然と体が動く。まず寝室に行き、布団を二つ敷いて二人を寝かせ、そして台所の床に散らばった皿の破片を掃除した。 さて、これから何をすればいいのか、という自問に駆られた一雄は、ここに来てようやく事の重大さに気付き、パニックに陥った。そしてしばらくの間、何も手立てが思い付かないまま、部屋の中を右往左往した。 それから二、三時間は経った頃、と一雄には思われたのだが、実際にはものの十分で二人はほぼ同時に目を覚ました。そしてゆっくりではあるが体を動かしたのを見て、一雄はとりあえず安心した。 「大丈夫か?」 一雄は好美の背中に手をあて、ゆっくりと体を起こしてそう訊いた。すると彼女は、 「え?今、何かあったの?」 「急に好美の体が動かなくなったんだ。覚えてないの?」 「ううん、何も。お皿を落としたのはわかるけど」 「疲れてない?片付けものだったら、僕がやってもいいけど」 「ええ、いいわ。私がやる」 「そう?体は動く?」 「ええ、ありがとう」 そう言って彼女が立ち上がろうとした時、彼女の目に、布団で寝ている亜紀の姿が入った。 「亜紀はどうしたの?」 「亜紀もさっき体が動かなくなったんだ。おい亜紀、動ける?」 と、好美にしたように亜紀の状態を起こすと、亜紀は寝ぼけたような声で、 「うん、パパ、ママ、亜紀何かしたの?」 一雄は顔を青ざめながらも、 「亜紀もちょっと体調が悪かったのかな、そのまま寝てていいよ」 と優しく言い、不安な顔をする亜紀を、二人で大丈夫大丈夫と唱えながら寝かしつけた。そして夫婦は差し向かいでソファーに座ると、 「お前、昼間のことで疲れてたのか」 「いいえ、別に疲れてはいないんだけど………」 「お前あのあと亜紀に、何か厳しいことでも言ったんじゃないのか?僕の見てないところで」 「何であなたに隠れて亜紀を叱らなきゃいけないのよ!」 「最近お前、亜紀に当たり過ぎてる感じがするからな。よく言うじゃない、育児ノイローゼとか」 「そんなのなんか、なってないわ。あの子こそ、最近とみに言うことを聞かなくなってきてるの。あなたが甘やかし過ぎたからじゃないの?」 「そんなことないよ。お前の方が僕より亜紀と接している時間が長いんだから」 「そんなことでケンカしてる場合じゃないわよ、お医者さんのところ行ってみる?」 「お前たちがか?」 「私はそんな大したことないと思う。でも亜紀はまだ小さいから」 「そうだな……突然死症候群なんてのもあるみたいだから、明日にでも行ってみてくれないか」 「そこまでは行かないと思うけど、今度また発作みたいなのが起こったら、連れて行くわ」 「今日はもう寝ろよ、後は僕がやっておくから」 「頼むわね」 そう言って好美は寝室に向かい、一雄は台所へ洗い物を片付けに行った。 二 一雄には思うところがあった。彼の家族の二人の女、好美と亜紀のことである。二人はだんだん、特に亜紀の発達度合いが増すにつれて、仲が悪くなっていくように思われた。そして、好美はそれに比例して、一雄との仲も険悪になっている、ような気が彼にはした。好美はもともと子供は欲しくなかったようだ。ただ一雄と一緒にいたい、そんな感じが結婚当初からあった。そして、子供が産まれることによって、当然ながら彼の寵愛は亜紀一人に注がれ、それが好美にはたまらなかったらしい。むろん彼も好美のことを特に邪険にした覚えはないが、彼女の目には恐らくそう映ったのだ。そして中流以下の家庭の常として、一雄は家族を食べさせるために、必死に会社で働いてきた。もちろん、その代償として普通の家なら家族サービスが怠りがちになるところを、彼の場合は出来るだけ時間を工面して、三人の時間を少しでも持とうとした。三人でよくドライブにも行った。そうして普通なら幸せな家庭が維持できる、となるところだが、ここで問題が生じた。 亜紀が好美より、一雄になついてしまったのだ。 亜紀は一雄の言うことならよく聞くが、母である好美の言うことは無視するようになった。そればかりか、一雄がいたずらをいさめると素直に聞く耳を持つが、好美から何か注意を受けたりすると、その叱責を打ち消すかのように奇声を上げて家中を駆け回り、好美はほとほと手を焼いていた。このことは確かに、一雄が亜紀に対して甘すぎることが原因の一つとして考えられ、彼にも反省する点はあるのだろう。が、好美の亜紀に対する嫉妬などという、まともな神経をしていればとうていたどり着かないような動機が、彼女を支配している、と一雄は考えざるを得なかった。 そして、一雄自身は彼女たちについてどう思っているかというと、彼は好美のことは愛しているし、亜紀もいとおしく思っている。しかし、それがそれぞれどれくらい、ということになると、判断は難しかった。確かに亜紀に対しては、普通の男親が娘に抱く程度の愛着は持っており、将来は結婚という形ででも娘を手放したくない、くらいは思っているし、好美に対しても、彼女が浮気でもしようものなら彼女を殺して自分も死ぬ、などと考えているほどである。それは、それだけ一雄が真面目であることの現われであり、彼自身、これまでに浮気をしようという心がまったくなかったという自負がある。もし仮にそんな心の動きがあったとしても、家にいる二人のためを思って涙を呑もう、という意識を常々持っていた。 そんな精神をもってしても、この二人の間にある確執を、一雄は御しきれなかった。確執と言えばおおげさだが、実際そんな雰囲気が二人の間に流れている、と一雄は感じていた。だいたい一雄には、自分で産んだ子をうとましく思うなどという、好美の心理が理解不能だった。本人が子供を欲しくなかった、と明言しているだけあって、その主張を一貫して通しているのは認めるが、それを子供を産んでからも実践しているというのは、ある意味病気ではないか、そんな気もした。しかしそんなことを面と向かっては言えないので、彼は心の中でこう思っていた。好美には初心に帰って、子供の頃お人形さん遊びをやっていたように、純粋な気持ちで亜紀に接して欲しい、と。そして亜紀にも、小さかった頃の無邪気な心に戻って、ふた親とともにゆっくり歩みを進めて欲しい、と。 しかし、彼は彼自身の自己批判を怠っていた。ひょっとすると、それが問題解決の糸口になるかも知れないのだ。この点で、一雄はどこにでもいるような責任棚上げオヤジと寸分もたがわなかった。 「あなた」 どこかで一雄を呼んでいる、という感じがしたので、目を開けてみると、上から覗き込んでいる好美の顔が見えた。気が付くと彼は寝床の中で、眠ったまま考え事をしていたのだ。 「うん、おはよう」 「あなたいつまで寝てるの。もう起きないと遅刻するよ」 「ああすまない、即行で支度するから」 一雄が食卓に顔を出すと、もう元気な様子の亜紀がジャムを塗った食パンにかじりついていた。 「亜紀、お早う」 「おはよう、パパ」 「体の具合は、もう大丈夫?」 「うん、平気だよ」 娘の快活な返事に、一雄の顔は自然ほころんだ。その顔を、いささか疎ましげに見ている好美のことには、彼はまったく気付いていなかった。彼はあわてて朝食を胃に押し込むと、好美に対して真剣な顔で、 「昨日の病気の事だけど、今度何かあったら直で携帯にかけてくれ。会議中でもいつでもいい、ここで車乗れるのは僕一人だから、遠慮はしないで」 「わかったわ」 急いで朝食を終えると、一雄は車に乗り込み会社へと向かった。 そして夕方、彼は帰宅すると玄関のところである異変に気付いた。亜紀の嬌声が響いてこないし、当然するはずの夕餉の匂いもしていなかった。一雄は昨日の例から、これを何か異変が起こったしるしだと考え、靴を脱ぐ間も惜しんで家の中へ駆け足で入った。 すると案の定、好美と亜紀が固まったままの状態で、台所に座り込んでいた。これはまずい、と思った一雄は二人を無理やり車に乗せて、一路病院へ運ぼうとした。といってももう夕刻で、どの病院が開いているのかわからない。救急車を呼ぶにしても、二人いっぺんに一台の救急車に乗せるわけにはいかないし、緊急事態なのに二台の救急車を待っているのももどかしい、一雄は道交法を無視して、車のハンドルを握りながら携帯で夜の受け入れ態勢がある病院を調べた。すると意外にも家から結構近くに、大きな病院が緊急外来を設けていた。一雄は急いでそこに連絡、考慮し得る最短の時間で病院に着くことが出来た。二人は担架に乗せられ、病院の奥へと運ばれた。残った一雄は看護師の指示で待合席に座って、医師が説明に来るのを待った。 それから三十分ほど経った頃、看護師がやってきて、二人は無事で今は意識がはっきりしていると報告を受け、彼は一目散に処置室へと向かった。 二人は各々ベッドで、体をまっすぐにして横になっていた。ああ、よかった、と思う間もなく医師が説明を始めた。 「串田さん、以前にもこのようなことはありませんでしたか」 「はい、一度、家の中で体が固まったことがあります」 「そうですか、今のところ、どういう病気だとかははっきりしていません。恐らく脳に関係のある病気だと思われるんですが、具体的にどこが悪いかということも言えません。一度検査入院などなされたらどうです?」 「はい……でも、前に発作が起こった時は、何で言うんでしょう、すぐ体調が元に戻りましたし、後遺症みたいなのもありませんでしたし、……それでは、検査をお願いします。いつ頃がいいでしょうか」 「いつでも大丈夫ですよ。あなたの都合のよい時に」 「そうですか、それは決まったら、その時連絡します」 そして一雄は、好美と亜紀の寝ているベッドのところへ行って、 「大丈夫か?」 「ええ、私は大丈夫。亜紀も、別に変なところはないって言ってる」 「よかった……」 一雄は亜紀の方へ向き直り、 「亜紀、どこか変だったり痛かったりするところはない?」 「うん、ない」 「好美、ちかぢか二人で精密検査を受けたらどうだ」 「精密検査…」 「ひょっとしたら、脳のどこかに異常があるかもしれないって。だから、前もって調べとけば、今後何かあった際に役に立つと思うから」 「そうねえ…二人してこんなことが続くなら、それがいいわね」 そして一雄は医師に、 「先生、今日は帰ってもいいですか」 「構いません。特に緊急を要する病状でもありませんが、念のため自宅でも安静を保っていてください」 「わかりました。ありがとうごさいます」 一雄は二人が歩ける事を確認して、夜間受付に診察料を払い、車に二人を乗せて病院を後にした。その車中で串田夫婦は、すでに眠っている亜紀を起こさないように、小声で話した。 「どうする、これからのこと」 「どうするって、私と亜紀がこんな状態じゃ、どうしようもないわよ。私が起きていられるなら、食事くらいは作るけど、後の家事はあなたがやるしかないわ」 「それもそうだ。でも僕って、実は家事が死ぬほど苦手なんだ。洗濯物は必要に迫られればやるかもしれないけど、掃除は絶望的に出来ないよ」 「じゃあ、それくらいは目をつむる。部屋が散らかり過ぎないように気をつけて」 「ありがとう、出来るだけのことはするよ」 この辺りは首都圏のベッドタウンで、昼間は閑静で居心地もよいが、夜ともなると明かりが他の街に比べて少なく、まるでゴーストタウンの様相を呈している。おまけに都会の近くなので夜中の星はほとんど見えず、漆黒の闇が、三人が乗っている車の周囲を支配した。車中でふと目を覚ました亜紀も、周りのあまりの暗さに恐怖を覚え、何とか二人が彼女をあやして家まで戻った。 「でも、今日明日どうなるってことでもなさそうだから、よかったわ」 亜矢を寝かしつけた後、二人はやっと落ち着いた様子で話し始めた。 「そうだな。でも、病名も病状もわからないし、精密検査を受けてみないとどうしようもない。それに、亜紀とお前、どちらかならばともかく、二人いっぺんに同じような病気にかかるなんて、何かおかしくないか?」 「それもそうね……何が原因なのか、考えてみるわ」 「これでお前、二人ともノイローゼだったりしたら、頭抱えるぜ」 「ノイローゼならまだましよ。今どき、うつ病というのも流行ってるんだから」 「うつ病って、薬で治せるんだろう?そっちの方がいいじゃないか」 「それもなかなか難しいみたいなのよね。薬で短期間で治る人もいれば、リハビリが必要で何ヶ月、何年も医者にかかる人もいるらしいの」 一雄は答えに窮してしばらく黙り、 「うん、取りあえずは安静にしておくんだな」 一雄は二人分の布団を寝室に敷くと、亜紀を起こさないよう慎重に好美を寝床まで導き、彼女を寝かせた。 「明日はどうするの」 「病院とかの手続きを取ってくる。明日は仕事返上だ」 「ごめなさいね、私がこんなことになって」 「亜紀も一緒だよ。謝ることはない」 この間、彼女の視線が一度たりとも亜紀の方に行っていないことに一雄は気付き、一抹の不安を感じながらも、明日からの準備を始めた。 三度目の異変が起こったのは、一雄が就寝しようとした時だった。それまで彼は二人の入院準備に追われていて、気が付くと午前三時を回っていた。どうせ明日は一日潰れるんだから、とその時までがんばっていたのだが、さすがに睡魔には勝てなかった。寝る前に様子を見ようと寝室へ向かい、二人の寝顔を見た途端、彼はまるでこの世とは別の世界に叩き落されたようなショックを受けた。 好美と亜紀が、口から何やら白い糸のようなものを吐いていたのだ。 それを見た時、一雄はなぜかわたあめを作る綿菓子器を思い出した。それは彼がまだ幼稚園生の頃、特別に夜更かしが許されていた祭りの晩、神社の境内に行ってみると、露店がところせましと並んでいた。その中の一つ、わたあめ屋が偶然小さい一雄の目に留まり、テキヤ風の男が器用にわたあめを作っているのを、憧れのまなざしで十分ほど見とれていたことがあった。あまりにも熱心に彼が製造過程を見詰めていたので、テキヤの兄さんが一つ持っていくか、と彼に普通の半分ほどのわたあめを貰い、後から無駄遣いをしたのではないかと親にさんざん怒られた記憶がある。その時彼はお金を持っていなかったので無実だったのだが、今でもわたあめを見るとその時のことを思い出した。 しかし現実には、自分の妻と娘が白い糸を吐いている。当然これは綿菓子ではない。いやひょっとすると綿菓子ではないか、と、その糸を人差し指にからめて糸の匂いをかいでみたが、全然匂いはしないし、べたつきもしない。二人の様子を見ると、目を半開きにしており、体は少しも動かない。たぶん、さっきと同じように硬直しているのだろう、と一雄は思った。この状態では、二人を車に乗せて病院までは行けそうにない。彼は救急車の出動を要請した。この際、いくらコストがかかろうと迷惑をかけようと、どうでもよかった。好美と亜紀が助かってくれれば、と彼は思った。救急車は彼が思っていたよりも早く到着し、手際よく搬送された。一雄自身は車で病院に乗りつけ、二人の処置は病院に任せて一人深夜の薄暗い待合室で待つことにした。 しかし次第に、待ち時間の長さにいらだちがつのり、同時に不安でいっぱいになっていた。人間が糸を吐くという症例など、一雄は知らない。いや、この広い地球の中でも極めてまれな現象ではないか。といっても彼は医学にはまったく通じていないので、今のところはただ医師が説明に来るのを待つしかなかった。 やがて看護師が一雄のもとにやってきて、とにかく病室に来るように言われ、看護師の後を追った。そこには二人の医師(恐らく当直医全員だろう)と数人の看護師が二人のベッドを取り囲んでおり、不安に駆られた一雄は彼らをかき分けて二人を見ようとした。すると、二人は静かに寝ていたが、口から糸を吐く行為はまだ続いていた。 「串田さん。私たちも出来る限りの診察をしました。また、ここは曲がりなりにも病院ですから、最新の機材を使って病名を特定しようとしました。しかし、奥さんと娘さんの病例は、全国、全世界のどの病気とも同定できませんでした。つまり、最大級の難病とも言えるのです。ですから、治療の施しようもない、というのが我々病院側の見解です」 一雄は二人をもっと近くで見ようとして、首を二人の顔近くに持ってきた。二人は医師が説明している間も、今こうして彼が顔をのぞきこんいでる間も、口から糸を吐いていた。だが一雄の目には、彼女たちがどこから糸を出しているのかまったくわからない、強いて言えば口の奥から糸が噴き出ているようにも見え、実際にどこから出ているのか知りたくて、一雄は口をこじ開けて見て見たいという衝動に駆られたが、医師たちの手前、行動には移せなかった。 「あのー、」 医師の一人が右手を上げて一雄に近寄り、 「これはあくまで私の私見なんですが……」 一雄は医師の複雑な表情を読み取って、 「何でしょうか、どうぞ」 「私は内科医ですけど、普通の人間なら口から糸を吐き出すという体の仕組みはありません。いえ体質以前に前例のない病状ですから……私がこんなことを言うのもなんですが、これはひょっとして、我々身体を扱う医術の領域ではなくて、なんかこう……精神的なものが原因だと推測されるのです」 「精神的?」 一雄はその若い医師に向き直ると、そのネクタイをつかんだ。 「精神病だって言うのか、好美や亜紀の病気が!」 「推測と言うか、まだ憶測の段階なんですが、可能性としてはゼロではないのです」 「じゃあ何ですか?妻と娘は同時にノイローゼにかかって、それで糸を吐いていると言うんですね?それじゃ世界中のノイローゼ患者が、糸吐いてるなんていう症状が出ているんですか!」 「そうは言ってません。ただ、さっきも言ったように、その可能性がわずかながらある、と申しているだけです」 一雄はネクタイから手を放し、何かあきらめた様子で、 「せめて、体の硬直を直す手立てはないんですか?あなた方がそんないいかげんな診察をする以上、よその病院に診てもらわざるを得ませんが、運ぶのが面倒なら、何とか体の硬直だけは……」 「硬直は筋肉の収縮に関係あるものですから、筋弛緩剤を投与すればおさまると思います。ですが、何しろ全身に硬直が及んでいますから、分量を間違えると大変なことになりますし、転院されるのならこのままの状態でよろしいのではないかと……」 「わかりました。もうあなた方の手は借りません。私が自分で妻と娘を運びます」 「いえ、我々も医師としての責任がありますので、お二人は我々で運ばせていただきます。この移送にあなたの出費は要りません」 「そうですか、ではご勝手に」 こうして好美と亜紀は、そこから少し離れたところにある病院に転院することとなった。 |
繭の中 その2へ続く