クロノス・天使と戦う男 その7


 時間を超越した虚数空間、つまり時間が流れない場所に移ったクロノスは、連れてきたマリ子の治療に取りかかった。

 彼女は深い、こころの病にかかっていた。

 彼女のものを考える能力が失われてしまったのだ。

 正確には、失われたのではなくて、彼女の脳のものを考える回路が働かなくなっただけであるが。

 足などに深い傷を負って、足の方はすっかり治っても、ケガしたときに受けた痛みのショックで足を動かす脳の神経回路が働かず、足が動かないことがあったりする。

 彼女の場合、天使が切られたのを見て、考える回路に強いショックがかかったのだ。

 今の彼女はエーテル体で、本物の体ではないが、このまま彼女を実体に戻しても、彼女は今の廃人の状態のまま、かもしれない。

 そう考えて、クロノスは彼女の頭に手を当て、彼の超能力で考える回路を開こうとした。

 しかしそれはデリケートな作業だった。

 うかつに脳細胞を動かし、関係ないところをいじると取り返しのつかないことになってしまう。

 だから作業は慎重に行なわれ、時間もかかったたが、時間の流れないところにいるのだから、実際には時間がかからないのと一緒だ。

 そして何とか、彼はマリ子を話が出来るようになるまで治した。

 そこから先は、さらにデリケートな部分でもあり、彼女のためにも自分で立ち直ってもらわなきゃいけない、そう考え、クロノスはことばで彼女の説得を始めた。

 しかし、彼の思った通り彼女はクロノスの話を受け付けなかった。

「あ、あ、あんなことのあ、あったあとで、あ、あ、あなたとはな、はなしす、る、くらいな、ら、わたしは、廃人のままで、いた方が、ま、ましよ!」

「何てこと云うんだおい、自分の云ってることの意味が判ってんのかよ!今のお前は普通じゃないってことくらいは判ってっけど、冷静に俺の話くらい聞けよ!いいか、俺があいつらのいっぴき…一人やふたり切ったところで、死にゃあしないんだよ!ただ、こっちにいられる姿をなくして、あっちに行っちまうだけなんだ!もう少したってみな、俺が切ったあいつ、平気な顔してこっちの空飛んでるぜ。何しに来るのか、俺は知らんがな」

 彼は同じような文句を何べんくり返しただろうか。

 返ってくるのは決まって彼をののしることばで、話を聞く様子を見せないからだ。

 そしてそれがムダだと判っていても、彼にはそうするしか手がなかった。

 しかし、ここに来て、

「………ほ、ほん、と、と、とう?」

 と、彼女は自身なげに返してきた。

 クロノスは勝機を得て、

「本当さ。あいつらは、お前の信じてる神が作ったんだ。同じ材料があるなら、いくらでもおなじ天使が作れるさ。神がいなくなりでもしない限り、あいつらも死なないのと一緒だ」

「で、で、でも…」

 マリ子は言語障害に悩まされつつも、

「な、なせ、あ、あ、あなた、て、て、て、て、て、天使さまと、は、話し、しなかったの?話せ、ば、わ、判り合え、た、かも、な、なのに、い、い、い、いき、いきなり………」

 マリ子は滝のように涙を流し、頭を抱えて地に伏した。

 それを見てクロノスは、彼女にあわれみといとおしさを感じ始めたが、それをぐっとこらえ、毅然とした調子で、

「俺が出会いがしら、奴といきなり戦った理由かい。いー質問だ。いいか。俺がもしあの時、お前に遠慮してもたもたしてたら、天使はとっとと武装しちまう。で、最初に攻撃されるのは俺じゃなくて、お前の方なんだ。天使はお前を殺しに出たかもしれないんだ!」

「うそ!?」

 彼女は、すばやく顔をあげるとそう叫び、

「なんでわたしなのよ!あなたじゃないの!天使さまに追いかけられてたの、あなたの方じゃなかったの!?それにわたし、キリスト教徒なのよ!天使さまのこと、信じてるのよ!」

 マリ子は、さっきまでのたどたどしい言葉を捨て、彼をきつくにらんでまくし立てた。

「いや、奴の出方見てわかった。あっちの連中、お前殺すことに決めたみてーだ」

 クロノスは彼女が立ち直りかけた喜びと、ことの真相を伝える苦悩とがごたまぜになった表情で話を続けた。

「俺は今、お前のこころに住んでることで、こっちにいられる。それは知ってるな。だが奴らはこっちで実体になってる俺を切ってもお前のこころにまだ俺の影が残ってる。俺はお前のこころに戻り、しばらくかけて自分でお前のこころに残った俺の影に合わせて自分を治せば、俺はこっちにいられるようになる。さっきの天使と同じだな。神が天使作ったのが、お前のこころの中で俺を自分で作ってんのと一緒になる」

あ、だからあのとき、天使さまとクロノスの姿重なって見えたんだわ。でもそれって、天使さまとクロノス、同じってこと?……?堕天使?………

「そんなんでいくら切っても俺は倒せん。で、どーするか。元から絶つ。つまり、お前のこころを攻撃することで俺を、お前のこころにいられなくする。そうなると、俺は不安定な状態でしかこっちではいられないから、切られれば死ぬわけだ。お前キリスト教徒だから、最初はお前のこころ攻撃するのを渋ってたんだが、ああ来たということはお前も敵、と見なしたんだ、連中は」

「こころを、攻撃?」

 マリ子はちょっとだけ、感情より好奇心を前に出した。

「俺やさっきのあいつが剣使ってただろ?あれは、ものじゃない、こころを切る武器だ。あれでこころ切られたら、よくても後遺症が残る。つまり、さっきみたいな言語障害程度で済む。そして最悪の場合、本物の廃人になる。こころが完全にダメになる、んだから、ものの体、も、死ぬ、のと、一緒だ」

 ここでなぜかクロノスのことばに、悲痛な響きがこもっていた。

 しかしマリ子は怒りに燃えはじめ、

「じゃあ、どゆこと?よーするに、あなたがわたしのこころからとっとと出てけば済む話、なんじゃあない!わたしに迷惑かけないって云ったの誰?あなたじゃないの!本当にわたしのこと気ぃつかってくれるんなら、わたしのこころから出てってよ今すぐ!なにさ偽善者ぶっちゃって、結局、自分が可愛くて他人傷つけてるだけじゃないの!」

「おーそーとも!自分がかわいいさ、俺も、お前も、結局自分がかわいくて、自分の身、守ろうと思うのさ!お前もそー思うんだ、あいつらだってそう思う、俺が思ってどこが悪い!」

 クロノスは、彼女に気遣っての厳しい口調をかなぐり捨て、感情のままに怒声を張り上げた。

「でも、俺の生きる権利なんて他にどこにある?人間は生まれたからには法律で生きる権利が保障される、なんてもっともらしくほざいてっけどよ、んなもん他から与えられてなんぼのもんじゃねーだろ?みんな、自分で生きる権利を作ってんだ!地球の上で、生活することでさ!まして、神から与えられたなんてけんとー違いもはなはだしーんだよ!そして、これが俺の生きる権利だ!俺も人間風じゃあないが、生きてる。誰かに迷惑をかけたって、生きる権利、守ってもいいんじゃあないか!」

 何事をするにもいつもは眉一つ動かさないクロノスが、この場では珍しく紅潮し、息を切らしていた。

 マリ子は完全に彼の迫力に圧倒されて、無言で様子をうかがっていると、ここで初めて彼は表情に迷いを見せ、

「いや今まで俺、迷惑かけようなんて思ったこと、いっぺんだってない。少なくとも、思ったことは。こんなこと、はっきり考えたこともなかったからな。今まで、たいがいの宿主は奴らにとって異教徒で、見つけられてからそいつが攻撃受ける前に必ず俺は逃げてった。そいつに迷惑かけないために。そして俺は必ず逃げおおせてた。追っ手はけ散らした。強い援軍来る前に、別の宿主に隠れてた。せわしない作業だが、やりおおせてた。だけど二回だけ、それをやらなかったことがある」

 クロノスはそれまでうつむいて独り言を云うようにしゃべっていたが、ここで彼はマリ子の目を直視し、彼女の身はなぜかすくんだ。

「いっぺんは、何度も話すヒュノスの時だ。奴はなぜか、俺にこころにずっといるように云い、天使が来てもあいつには近づけなかった。あいつ魔術か錬金術かやってたが、それと関係あるのかもしれない。たしかに天使も来なくて居心地は良かったが、だんだんずっとそこにいてもしょうがないような気がして、あいつから出ていった。もちろん、あいつに断ってだが。あんな静かな別れはあれこっきりだ。それから……」

 彼はその先を話しづらそうに、マリ子から視線を外すと、

「ヒュノスのずっと、前の時だ。可憐な少女だった……逃げ回るのが嫌になったせいもあるが、彼女はヒュノスと同じくらい、いや多分それ以上、俺とこころが共鳴してた、彼女はユダヤ人の子だったが、本人はそんなこと気にしてなかった。本当に素直でこころのきれいな娘だった。で、天使は嗅ぎつけた。俺を、彼女を。でも、やれるかもしれないと思った。あれだけ彼女と共鳴してれば、俺は本来の出せる限りの力を出し、彼女を守りながら天使と戦える、そう思ったんだ。でも、俺は、彼女を…………」

 クロノスは涙と鼻水を同時に流し、それを振り払うと次を続けようと努力した。

クロノス、泣くんだ……

 彼は涙声で、

「一瞬のミスだった……いや、あんなに奴ら来るとは思わなかったんだ……何云っても、云い訳にしかなんないよな、プリ……彼女にも、責任ないんだ、当たり前だ。同調の仕方、そんなに判るわけでもないし、まだ子供だったんだ……それをあいつらは…」

「彼女の名前は?」

 マリ子は好奇心でふと、こう聞いたが、それには彼は答えず、彼女はクロノスが自分の世界に入っていることに気づいた。

 そして、マリ子の問題もまだ片づけていないことに気づいた。

「ねえ、どうして天使さまとあなた、そんなに仲悪いの?話し合おうとか思わないの?」

「ん?」

 クロノスはマリ子の問いかけに気づくと、すぐに立ち直って、

「そんなこと、あいつらがいっぽーてきに追い回してるからさ…理由はあいつらに聞け…ってんじゃ、納得してらえねーよな。俺もほんとーにその理由は判らん。ただ云えるのは、どーも俺をあっちに行かせたくないらしいことは確かだ」

「あっちに?天界に?」

「そうだ、俺もあっち行けば、俺が何でこんなことしてしか、こっちに居られない理由が判るかもしれん。そして他に何かわかるかもしれん。それを隠したくて、奴らは俺をこっちに追いやり、俺を追い回してる、そんな気はうっすらとしている。ただ具体的なことは、何一つ判らんが」

「………それは、あなたが堕天使だからよ」


 マリ子はなにか閃きを感じ、いつもの口調を取り戻して云った。

「あなた、元は多分、天使だったのよ。そして本当は、神さまの使いとして力を与えられ働いてたのがいつしかその力を悪用するようになったんだわ。神さまのため、みんなの幸せのためでなく自分一人のために。そしてみんなに大きな迷惑与えたんだわ。だから、神さまに天界から追放された。天界にいたときの記憶もなくなって、本来の力も使えなくなった。自分が生きることで、みんなに迷惑かけるようになった。あなたはその自覚がないだけかもしれないけれど、あなたはそういう意味で神さまの敵対者、堕天使、悪魔なのよ。だからあなた、顔だけはそんな天使さまみたいにきれいなのよ。きっとそーよ」

 マリ子は我が意を得た、という感じでまくしたて、これから彼を追い出す口実をどう作るか考えていると、クロノスは厳しい顔で彼女をにらみつけ、

「よくそんな、他人事のような顔して偉そーなこと云えるな。お前自分が生きてることで、他人に迷惑かけてない自信あんのかよ」

 その彼のことばは、ふっと彼女のこころをかすり、脳裏に坂本や美和、神父さんの顔が浮かんだ。

「自分の出どころもよく知らないくせに、人のこと決めつけんなよな。は!神、善、悪魔、悪。短絡思考もいーところだ。よーしいいだろう、そこまで云うならこっちにも考えってもんがある。せっかく治してやったのに何なんだが、もいっぺんお前閉じこもらせちまうかもしんねーぞ」

「ふん、何する気?天使さま、あなた切ったって死なないんなら、もうわたし平気よ」

「そんなこっちゃねーよ、その、お前の信じてる善なる神さまのみことば、みこころによって、何がなされたか、お見せしよーってんだよ。いいな、覚悟は出来てるか」

 彼女はクロノスのただならぬ様子に、本当にとんでもないもの見せられる、そう直感したが、云いだしっぺは彼女である。

 意地でも受けない訳にはいかない。

「わかったわ、見せてもらおーじゃありませんことかしら」

「上等だ。そこまで回復したんなら、大丈夫だろ。すぐ行くぞ!」

 クロノスはマリ子の手を取ると、虚数空間の闇を抜け、おびただしいほどの光の帯の中をくぐり抜けていった。

「どーしたの、何これ、なにこれ」

「落ち着け、俺たちの知覚だけ時間を飛び越えてんだ」

「え……これひょっとして、時間跳躍?」

「この世にそんざいするものは何であれ、神ですら過去や未来に手を加えることは出来ない。最大の力をもって出来るのは、過去をかいま見ることぐらいだ」

「え、神ですら?最大の力って、あなた、いっ……」

 彼女の質問が終わらないうちに光の帯はその幅を広げ始め、やがてはっきり目で見える光景が、彼らの前に現われた。

 それは、中世西アジアの城塞都市であった。

 四方を城壁や川、水路に守られ、それを侵そうとする何者をも通すまいという強い意志の見える軍事都市である。

 彼らは、街全体をながめる格好で、その一方の壁の上に浮かんでいた。

「ここ、どこ?」

「アンティオキアだ」

「アンティオキア?」

「おや、知らないのかい。北シリア地方、ルーム朝トルコ領内の城塞都市、十字軍遠征ルートの一つにして、ルーム朝領内、最大の攻略要所。十字軍、調べたんだろ」

「うるさいわね。細かいところだから思い出せなかっただけ。そー云われれば判るわよ」

「どーだか。これでこの光景が悪魔である俺が作った幻じゃなくて、史実の一つであることは確認できましたね」

「え、ていうことは……」

「ほう、さすがにわかりが早い。さて、これからが見ものだ。お客さんもうお見えになってまっせ」

 マリ子が見下ろすと、すでに十字軍が城壁を取り囲んでいた。

 しかし、流石にトルコの要所と云われるだけあって、彼らはただ壁の外で手をこまねいているようすだった。

「あ、そーか、これ時間がかかるんだった、そうだよな、マリ子」
「え、ええ」

 マリ子はおぼつかない記憶を頼りに、ついうなずいた。

「確か1097年後半から、翌年八月までだったもんな。陥落は、何日だったっけ……えーい、めんどくさい、このまま倍速モード、いっちゃえ」

 すると、ビデオの倍速モードにでも入ったように、目の前の光景が流れ出した。

 昼が過ぎ夜が過ぎ、十字軍や守るトルコ軍の兵隊が、アンティオキアという巨大なゲーム盤の上のコマのように、猛スピードで城の中を行き来し、そしてその大半は朱に染まって崩れた。

 そして、陥落の日が訪れた。

 十字軍たちは広いところに集まり、口々に何ごとかを叫んでいた。

「何て云ってんの?」

「……これから起こることを見たいんなら、聞かねえ方がいいんだけど、ちょっとなら」

 とクロノスは、指をならして乾いた音を立てた。

 すると、彼女の耳に飛びこんできたことばは、

「神よ、感謝いたします!」

「神のみこころに沿いし我々に、祝福を!」

「この戦いは、神のみこころなり!」

「ちがう!」

 マリ子はクロノスに向かって叫んだが、

「見どころはこれからだぜ」

 と彼は冷酷に云い放った。

 その先を、彼女は知っていた。

 そしてそれは、およそ彼女の正視に耐えるものではないことも、判っていた。

 しかし彼女の好奇心は、知識の与える警告を無視した。

 戦い終えた十字軍たちは、罪なき市民からその富を奪っていった。

 抵抗する者は容赦なく殺された。

 やがて、ただ面白がるだけのため、何十人もの市民が兵士の手によって、焼き払われるなどの虐待を受けた。

 女は、家の中を、道端を問わず、いたるところで犯された。

 そして、占領された城の塔の上で、兵士が叫んでいた。

「我らが司教、アデマール様が異教徒の手にかかって亡くなられた!罪深き異教徒に死を!栄光を我らに!異教徒に神の罰を!アーメン!」

「違う!」

 マリ子は目を閉じ、耳をふさいだ。

 しかし、陰惨なイメージは彼女のこころに絶えず入りこんでいた。

「ほう、どう違うんだ」

「クロノス、とにかく、ここから離れて!」

 クロノスは彼女の手をつかむと、再び光の帯の中へ飛びこみ、そこで止まった。

 するとマリ子は、クロノスをにらみつけたが、その怒りは彼に向けられたものではなかった。

「あんなの、神さまの意志なんかじゃないわ!イスラム勢力に奪われた聖地エルサレムを解放する、そんなの大義名分で、十字軍の目的は最初から東の国への侵略だったんじゃない!」

「それはそう、しかしそれは、十字軍を編成した西国(西ヨーロッパ)の諸侯(地方を治める領主、諸侯が中央の王に仕えることもある)の頭の中にしかなかったことで、かき集められた兵士一人ひとりは、最初からそう思ってないぜ」

「え、何よその、最初からって?」

「戦争ってのは、どっちみち略奪を起こすもんなんだよ。兵士は猛獣になる。その仕組みはこうだ。法王の唱えた聖地奪還を契機にして、諸侯が侵略を考え、建て前だけ総司令官の聖職者に伝える。聖職者は、建て前を額面通りに作戦司令官に伝える。司令官はそのことばを作戦の仕事に変えて兵士に伝える。その伝言ゲームのうちに建て前のことばが取れてきて、兵士たちは諸侯のたくらみを文字通り受け取り、それを実行に移すんだ」

「なによそれ、ぜーんぜんわかないじゃなーい!」

 マリ子は半分泣き叫んだ。

「やれやれ、じゃ、もう一ヵ所見てもらいましょか」

 とクロノスは彼女の手を取り、光の帯に飛びこんだ。

 次に訪れたところは、マリ子にはあまりなじみのない民族の街、であった。

 街は一見にぎやかで、人通りも絶え間なく、なにごとも起こっていそうにいない。

 しかし、たまに近世ヨーロッパの風俗をした白人が見え隠れするのが少し気になった。

「ここは?」

「近世の南米、インカ帝国の帝都だ。帝国ってぐらいだから、多少は血なまぐさいこともあったんだろうが、この街は平和だぜ。実に平和で豊かな国だ。知ってるだろ」

「ええ」

「ところが1532年、奴らはやってきた。それがどこの国の誰か、お前知ってるか」

「スペイン王国の……ピサロ」

「そう、もちろんピサロだけでなく、いろんな兵隊や随員も引き連れてる。そして……ちょっと来い」

 クロノスは高度を下げて宿屋ふうの建物に向かい、その屋根に突っ込んだ。

 彼らの体はエーテル体だから、もちろん屋根などすり抜ける。

 マリ子は屋根をすり抜ける間、目をふさがれた。

 そして視覚が戻ったとき、彼女が見たものは暴力的なシーンだった。

 宿の玄関で、何人かの白人が誰かを取り囲んでいる。

 その輪の真ん中に、屈強な白人に組み伏せられた、現地の人らしき人物がいた。

 見ると、白人の輪の中にいた神父が、彼に何ごとかを話していた。「何やってんの?」

「押さえつけられてるのは、インカ帝国の皇帝だ。っつっても、黄金の仮面つけている他はあまり偉そーじゃないな。ま、それが奴らの信条だからよ。それに引き換え見ろよ、あのスペインのやろーども、ごてごて飾り立てやがって、きっと自分、偉く見せよー、って思ってんだぜ。あの、皇帝の前にいるのがピサロだ。そんで、あの神父、何つってるか、聞かしてやる」

 クロノスが指をパチンと鳴らすと、神父の話すスペイン語が意味をともなって彼女の耳に届いた。

「お前たちの神は悪だ、なぜなら、あんなに神がたくさんいる訳ないからだ。もしお前たちが自分を悪だと認めたくなかったら、われわれの神を受け入れよ。そしてお前たちの神を捨てよ。その贖罪のしるしとして、お前たちの持つすべての富をこのピサロに捧げ、自分たちをスペイン国王、カルロス五世の臣下であることを認めるがいい」

 不自然だ、彼女は思った、彼らの云い分が間違っていることは歴史的な事実としても当に明らかだが、それらしても彼らのことばは余りにも不自然に彼女の耳には聞こえた。

「わたしたちの神々は、わたしたちにとって善いそんざいであり、また君たちの神々が君たちにとって善いそんざいであろうことを疑わない………」

 そしてそれに対するインカ帝国の皇帝は彼らにとって正しいだけでなく、実に自然な考え方に見えた。

「君たちの王は、偉大なのかもしれない。わたしはそれを疑わない。だからわたしは彼を兄弟としてあつかいたい……君たちの神は、君たちが云うことばによれば、自分で創造した人間たちによって処刑されている。しかしわたしたちの神は天にいて、そこから神の子らを見守っている」

え、どういうこと、あの人が云ってることば、まるで聖書のことばじゃない。そりゃどの宗教も似てるところはあるけど、これって立場がぜんぜん逆……

 彼のことばが、彼らの要求すべての拒絶の意志だと知ると、ピサロは随員になにごとかを命じた。

 そしてその随員は、すぐに表へ出て行った。

「あいつ、なに命令したの」

「見てりゃ判る。俺たちも表行こうぜ」

 彼らが表に出ると、もう始まっていた。

 街のいたるところに築かれた塹壕から顔を出した白人の兵が、大砲、火縄銃の弾を、まるでゲームのように現地人の体に撃ちこんでいく。

 その様は、綿密に計画が練られた作戦行為に等しかった。

 だがその相手は、武器を持たない帝都の市民なのだ。

 まるっきりアンティオキアのくり返し、いやそれ以上だった。

「何でこんな…ここまでしなくても」

「そう、奴らは戦争を楽しんでるのさ。おおかた、これから始まる現地の抵抗に備え、市街戦のシミュレーションを生身の人間を使ってやってるつもりなんだろ」

 弾の標的は、女、子供、老人、誰でもいとわなかった。

 抵抗する、守る術すら持たない市民は、ドミノ倒しのように倒れていく。

 ひと通り虐殺が終わると、今度は略奪が始まった。

 奪うものは金目のものすべて、耳たぶに通された金のピアスすら、彼らは平気で引きちぎった。

 彼らが死体を動かすたびに、広場は血で染められていく。

 そして、次を探そうと腰を上げ、歩みを始めた兵士が、誤って死体の頭を踏みつけ、弾の直撃で半分崩れた頭の、その中身が周囲にまき散らされた。

「ううっ!」

 マリ子は両手で自分の口を押さえた。

 今の彼女はエーテル体なのだから、口からは何も出てはこない。

 しかし彼女は非人間的な光景を前に、空しい吐き気がして仕方がなかった。

「もういい!もういい!」

 口を手で押さえたままマリ子が叫ぶと、クロノスは再びあの真っ暗な場所へ彼女を連れていった。

「これでもう判っただろう。お前らの神の、そのみことばで、そのみこころで、こんなことを人間はやらかしてんだぞ」

 勝ち誇ったことばに彼をにらむと、クロノスもまた、辛い表情を隠せないでいた。

「あなた、ほんっとに悪魔なんじゃあない?わたしにあんなひどいもの見せるなんて」

「感情で動くことはいいことだが、判断に感情をさしはさむのは、見当違いだな。何もお前ばっかじゃない。俺も摂食器官があれば、そんなゲロゲロやってるぞ」

 クロノスの冷静なことばに、彼女は彼に対する怒りをいったん保留した。

「確かにあの男の云ってた通り、お前たちの神は、ある意味正しいのかもしれん。正しいこと、云ってるのかもしれん。だがそれは宗教の言葉だ。人間のことばじゃない。人間には理解できない。だから、人間のことばに、宗教の、神のことばを押しこめようとする。ところが、ことば、ってのは取りようによっていろんな意味持ってくる。だから、たとえ元のことばは正しくても、使う人間が正しくないと、正しく伝わらない、そんなもんなんだ、神のことばって」

「じゃああなた、正しいことばの使い方、知ってんの?」

「さあ、なんとなくなら何か云えるが、なんともいえん。俺も信仰についてはいろいろ考えたことはある。人間が宗教、神に対しては、どんな民族でもどんな宗教でも、のべつまくなしに祈ってる。じゃあ祈る対象の、神や偶像を取っ払って、祈ることそれ自体になにか意味があるんじゃないか、そう思ったんだが、そっから先は判らんし、先に進む気も、興味もない」

「まるで、あなたが神さまにでもなりそーな感じね。どう?今の日本、神さまいくらでもいるんだから、あなた神さまになってみたら?なりは神さまみたいだし」

 マリ子が皮肉をこめてそう云うと、それまで冷静だったクロノスの表情が変わり、

「じょーだんじゃねー俺あんな、大嘘つきの独善者になんかなれっかよ!考えただけでもおぞけが立つ!気持ち悪りー!」

 クロノスの豹変ぶりに驚いたマリ子は、わめきまくる彼をただ静かに見ていたが、やがてクロノスはわれを取り戻し、

「つい興奮して済まんかった、話を戻す、ええ……ここへお前を連れてきた本来の目的、お前を立ち直らせる、それは何とか果たせたな、それともう一つ、まだ云っていないが、俺の目的がある」

 二人は互いを厳しくにらみつけていた。

「俺がお前を立ち直らせたのは、仕事を続けてほしかった、それはもちろんある。しかしもう一つ、お前が正気でいてほしい理由がある。それは、もうすぐ天使の兵隊がやってくるからだ」

 マリ子は我知らず、胸の十字架を握りしめた。

「どうしてそれ、あなた判るの?」

「奴らの動き、いろんなもの見てれば判る。鳥どもとかから情報収集する手もあるし。数は二人、日時はまもなく、とゆーことしか判らん。そしておそらく決戦の場は、お前の家の上空だ。もちろんその時、お前は出てくる必要はない。俺が出ばって奴らけちらしゃいいだけだ。しかし……………」

 クロノスは云い辛そうに彼女から視線をずらすと、

「今度来る奴は機甲天使って、本格的に戦い仕込んでる連中だ。俺もそんな奴いるとは知らなかった。俺もたいがいの奴には負けん自信がある。だが今回ばっかはわからん。ひょっとするとかなわんかも知れん。それに………」

 クロノスは、また彼女と視線を合わせ、

「俺も本当の実力をいっぺん出してみたい。思いっ切り戦いたい。そのためには、お前の協力が必要だ」

 話が意外な方向に飛び、マリ子は目を泳がせた。

「えっ、あなたの戦いに協力、するって、どう……な、何するのよわたし」

「こころを同調させるんだ」

「こころを、同調?」

「云ったろ、俺とお前のこころの波長は、似かよってるって。それだけでもずいぶんありがたいんだが、それを同調させるってのは、こーするんだ。俺は、お前の姿を、こころの中に思い浮かべる。今もそーしてるがね。そしてお前も、俺を見ることによって、俺の姿をこころに抱いてる。そーだろ?」

「え、ええ」

「その、互いに浮かべてる互いの姿をこころに強く思うんだ。なるたけ、強く。すると、そのこころに浮かべた姿自体が共鳴しあう。そうすることによって、俺は持ってる本来の力を出し切れる。あ、この力はお前にだって及ぶんだから、仕事のとき試してみよーか。仕事、はかどるぜきっと」

「いえ、いえ、そこまで心配していただかなくても、けっこーです」

 マリ子はあわてて首を振った。

「ともかく、お前ならそれ出来ると思うんだ。あのときの彼女は、上手くいかなかったけど………………」

 そのときふと、クロノスは切ない顔を見せ、その顔がふっと彼女のこころに素直に入ってきた。

 そして彼の切ない想いが、ふわっと彼女のこころに広がった。

え、これが、同調するってこと?

「たぶんお前は、彼女に匹敵するくらい似たこころしてるし、まして大人なんだからきっと出来ると思うんだ。なあ頼む、やってくれないか。俺と天使と戦ってる最中にさ、な?」

 クロノスはしゃがんで腰を折り、両手を合わせて頭を下げ、頼む、たのむとくり返した。

どうしよう、なんか神さまに祈られてる感じ……確かに、こいつの云ってることにも一理はあるわね。でも、泥棒にも一分の利、かも知れないし…それに同調するってのも、あんまし悪いことじゃなさそーね、試す分にはいいんだけど、天使さまが………

 マリ子はここでまた、あることを閃いた。

「そーね、試してみてもいーかも」

「ほんとか!?」

 クロノスの顔に珍しく、素直な喜びの花が咲いた。

「ただし、条件があるわ」

「じょうけん?ほう、どうぞ」

「天使さまやあなたが本当にあなたの云うとーりの成り立ちなら、天使さまがまずわたしを狙ってくるはずね。そうすれば、天使さま切られても元に戻れる証明になるから、あなたと同調してあげてもいいわ」

「ほー、お前大胆なことゆーなー。それってお前、最初俺お前のこころん中隠れてて、まず奴らにお前の身、さらすことになるぜ。そして、俺の話が本当なら、お前殺しに出る。いいのか、そんなことして」

「当然よ。わたし、あなたより天使さまのこと信用してんだから」

「そんなこと云っていいのかなあ。聖書にも書いてあるぜ。『お前たちの神である、主を試してはならない』ってね。さ、話は済んだよーだな。帰ろう。帰ったらお前とっとと仕事しろ。じゃあ、行こう」

 クロノスは彼女の手をつかみ、漆黒の闇の中から抜け出した。

 そしてほどなく、懐かしい光景が近づいてきた。

 彼女が今、住んでる街だ。

      クロノス・天使と戦う男 その8へ続く