クロノス・天使と戦う男 その8 |
彼女たちが家を飛び出してから、戻ってくるまでずいぶん長い時間がたったように彼女には感じられた。 しかし、実際にかかった時間は家を出てからクロノスが天使を切るまで、なのだ。 だから、彼女が部屋で目を覚ました時、日めくりカレンダーの日付けが変わっていないのが、ひどく不思議に思われた。 「じゃあ、俺は奴らとの戦いに備えて、お前のこころの中で態勢整えてっから、お前は仕事進めて、いつ奴らが来ても対応できるようにこころの準備をしてろ」 彼女のエーテル体が本体に戻るのを見届けたクロノスは、そう云い残して彼女の前から姿を消した。 本当にあいつって勝手な奴だけど、律儀さだけは買えるわね 彼女のこころには例のショックがまだ残っていたので、もうろうとした意識の中、彼女はなんとなくそう思った。 しかし、意識がはっきりした時、彼女は飛び起きて鏡を求めた。 そして部屋にある三面鏡を開けると、自分の顔をまじまじと見つめた。 私よね、鏡に映ってるの、わたし、よね。確かにわたしよね…… マリ子は、先刻までいろんなことがあったので、自分が変わってしまったんじゃないだろうか、そんな気がしたのだ。 しかし、鏡の中に映っているのは、まぎれもなく彼女がそうだ、と思っているマリ子の顔だった。 それでひとまずは落ち着いたが、それでも不安が彼女のこころにちらつき、都合三十分、彼女は鏡の中の自分を見続けた。 それでようやく納得がいくと、彼女はため息をついて鏡を閉じた。 それから彼女は仕事にかかったが、そのとき彼女は少し前まで自分がスランプであったことをすっかり忘れていた。 そして何も考えずにコンテを描き始め、あまりに何も考えていなかったため、悪魔が天使を切ってしまうという、彼女にしてはとんでもない話を作ってしまった。 翌日彼女の様子を見に来た坂本も、この突飛な展開に度肝を抜かれた。 「うーん、よくこんなのやっちゃったねえ。まあ、僕としてはこんな風になるの期待してたんだから」 「え、そうなんですか」 そのときマリ子の中ではマンガで天使を切った罪悪感よりも、坂本にほめられた嬉しさの方が大きかった。 「でも、こんな理屈の書き方じゃ、先生の読者には判りにくいと思うんだ。先生の読者って結構若い子が多いから。もっと判りやすく描けばよくなると思うけど」 それは、クロノスに聞いた、天使が切られても元に戻る、その仕組みのことだった。 「わかりやすく、なるんでしょうか、こんなの…」 「大丈夫だって、先生の才能をもってすれば、それこそ簡単なことさ。大事なことは、先生の視点そのものを下げてから考えることだ。小手先で判らせようとしたって、こころの姿勢がなってないから、伝わらないんだ。ことばとかで合わせるんじゃなくて、こころで合わせようとしなきゃ」 どうして坂本さんのことば、クロノスのと、重なっちゃうんだろう…… 「ねえ坂本さん」 「うん?」 「仕事とは関係ないですけど、ちょっといいですか?自分のことなんですけど」 「おっと、人生相談?ぼかぁそんな柄じゃないけど、受けるものはなんでもいただきます」 「すみません、あの………………自分がそうしようと思って、仕出かしたことで、どんな結果になっても後悔しない、そんな自信、坂本さんにありますか?」 「ふうん……なんか、漠然とした質問だね」 「すみません、こうとしか云えないんです」 マリ子は、はっきりと云えないもどかしさに、うつむいてしまった。 「先生が何考えてるか判んないけど、そうねえ……人は普通、自分の出来る技量の範囲の中で、出来ることをしているね。それだったらそんなこと考えない。やれるかどうか自信のないことをする時どうしたらいいか……それをする前に、自分がそうすることでどう事態が変わっていくかを、じっくりと考える。そして、自分の予定してないことが起こった場合、どう軌道修正して自分の思う方向に持ってけるか、その方法を考える。それで実際やってみて、うまくいったら当然後悔はしない。上手くいかなかったら、軌道修正の方法をやってみる。それでダメなら万策は尽きた、つまり、もう仕方がない、てことになるから、どんな結果になってもある程度納得はいくんじゃないかな」 坂本の答えは、彼女の期待してたよりずっと現実的なものであり、彼女は返すことばを失い、しばらく何も云えずにいると、 「あ、ごめん、なんか、悪いこと云っちゃったかな、そしたらあやまる」 「いえ、あやまることなんてありません!すみません考えこんじゃって、もういいんです。わかりました。ありがとうございます」 「いえいえこちらこそ、僕なんかのちっぽけな考えが、先生のような方のお役にたっていただけたら、光栄実にあまります」 坂本さんみたいないい方、他人に対して悪いことなんて云えるわけないわ。それに、坂本さんだったらわたし何云われても聞いちゃいますよ、坂本さん? そして坂本が帰るとき、彼はマリ子に不思議な質問をした。 「岸田さん」 「はい?」 「先生の洗礼名って、何て云ったっけ」 「……プリスキラですよ。坂本さん、ご存じでしょ」 「…いやなんかね、今それ聞いとかないと、なんだか先生変わっていってしまうような気がしたんだ。いや、僕の方こそ僕の気まぐれに、付き合ってもらって悪かった。じゃあ先生、いい仕事、期待してますよ」 坂本の去りぎわのことばの真意は、彼女にはさっぱり判らなかったが、ともかく先の彼女へのアドバイスについて、彼女はしばらくの間考えた。 軌道修正の方法…戦いのときの段取りは、まずクロノスの代わりにわたしが矢面に立つ。そして天使さまがやって来るのを待つ。……どーやって、来るのがわかるんだろう?まあ、あいつのことだから遠視とかの超能力で判るんだろうな。それから、わたしの読みだと天使さま、クロノスが出てくるまで待ってるんだわ。そしたら、わたしの勝ち。強そーな天使さま、ふたりもいらっしゃるんだから、あんな奴、すぐどっか行っちゃうわ …………でも、うまくいかなかったら、あいつの云ってることが正しかったら……天使さま、わたしを殺そうとするんだわ。そうなったら、どうしたらいい訳?……あいつと、同調?そしたら、わたしも助かる?ううん、天使さま、そんな方じゃないわ……万が一、てことも確かにあるけど、それじゃわたしの信仰、いえ、神さまを疑ってしまうことになるわ…神父さん、クロノスの声聞いただけであんなになっちゃったものね、たとい神父さんの考えが、神さまぐらいまでになっていなかったとしても、神父さん、神さまのことば信じて、あんなことされたんだわ……神さまのことば、ひとのことばじゃない、それはひと、そのもの、わたしも、神さまのことば、神父さんも、神さまのことば、天使さまも、神さまのことば、それじゃ、神さまって一体なに?そして、クロノスって何? 彼女のこころの迷いは、必ず神への誰何の疑問になってしまい、そのたびに彼女は最初から同じことをやり直した。 仕事を進めながらも、そんな思いに頭を悩まされ続けて、一週間が過ぎた。 その月の原稿を上げたマリ子は、また例の、戦いの際の身の振り方を考えていたが、やはりどうしても神への疑問に行きついてしまい、 あーっ!なんで、神さまって何、なんて考えてしまうのよ!どーしてわたし、こーあたま悪いんだろう! と、頭の中で金切り声をあげると、 「おい、もの考えるなら静かにやってくれ、こっちが集中出来ねえじゃないか」 「クロノス、どうかしたの?」 と、こちらも不機嫌さをこめて返すと、 「どーしたもこーしたもねえ、もーすぐあいつらやってくるんだ」 「え、天使さまが!いつになるの?」 クロノスはベッドのそばに姿をあらわすと、 「明日だ。あしたの正午きっかり、つっても日本の標準時は兵庫県の明石の子午線で決めてんだろ?こっちで太陽が真上にくる時間だから、少し誤差が出る。ええ…少し、早まるくらいか。とにかく、正午まえに奴らは来る」 こいつ、なんでこんなに頭よくて、回転速いんだろ。盗んでやいたいくらいだわ 「つーとこで、そっちのほーの仕上がり、どうだ」 「なんの仕上がりよ」 「こころの準備」 「…………いつのことになるか判んなかったから、調整がつけらんないだけよ。明日になったら、ちゃんとしてるわ」 「どーかなあ。さっきのよーすだとまだ揺れ動いてるみたいだけど。どうだい、前言撤回して始めっから俺にしょーぶさせる気になんねーか。今ならまだ、間に合うぜ」 「それこそ、じょーだんじゃないわよ。わたしだって意地ってもんがあるわ」 「意地はってても、現実を見てないとしょーがないぜ。まーいーや、明日までまだ時間はある。ゆっくり考えるこったな……あ、ひょっとしてお前、殉教しよーとしてんじゃねーのか?」 「じゅんきょう?」 そのことばに彼女はすぐにはリアリティが持てず、長崎の二十六聖人だとか、島原の乱だとかを連想したが、 「お前、犠牲になって天使にこころ切らせて、俺を弱らせてから倒してもらう、そんなバカなこと考えてねーか?」 するとマリ子は烈火のごとく怒りだし、 「あなたこそ、なにバカなこと云ってんのよ!そりゃ、あなたいなくなるに越したことはないわよ。でも、たとえ天使さまの望みだって、命あってのなんぼのものなんだから、そんな殉教なんてごめんだわ!」 「ほー、なかなか云うじゃねーか。ま、それくらい元気なら、大丈夫ってとこか」 と、クロノスはその美しい顔に笑みを浮かべて、姿を消した。 マリ子はそれを悪魔の笑みと考えたかったが、彼女にはどうしても、自分も辛い思いをしてるのを隠す、強がりの笑み、と思えてならなかった。 そして先ほど、自分が天使を信用してないようなことを云ったのに気づいて、こころのバランスがさらに大きく崩れた。 ええい、最近のわたし、かなりおかしいわよ。神さまや天使さま、疑うよーなこと考えたり、口にしたり、あいつのゆーこと真に受けたり、しっかりしなさいよわたし! しかしどう考えても結局彼女は同じことをくり返すばかりであった。 そして、いくらじたばたしも天使は明日、やってくる。 結局その日、彼女は考えがちっともまとまらないまま、一日を終えた。 翌日目を覚ましたマリ子は、自分の中でまだ迷いが続いているのを意識した。 寝てる間も、わたし何か考えてたな……はっきり覚えてないけど、天使さまに切られる、そんな夢見てたんじゃないのかな…… そして彼女は、今まで起こったことすべてが夢であってほしい、そう思ったが、そうではないことも彼女の中でははっきりしていた。 そうこうして、彼女がそろそろだな、と思ったときに、 「目覚めはいいようだな。それだけ体の調子よさそーなら、まーまーいけるかもしんねーな」 と、いつものヤンキー口調が聞こえ、ベッドに腰をかけてクロノスは姿をあらわした。 「気は使ってくれて、ありがとう。でも、あなたのためにわたし、健康なわけじゃないんだからね」 「はいはい、ところで、覚悟は決めたかい?」 「…何の覚悟よ」 「天使に切られる覚悟」 「そんな覚悟、するわけないでしょう!」 彼女は思わず口に出して叫び、 「おい、聞こえっぜ周りに、もうたちっと状況つかめよ」 マリ子はあわてて手で口をふさいだ。 「じゃあ、万が一、ま・ん・が・い・ち、百歩ゆずってそーなったとしたら、あなたどーするつもり?」 「そりゃもちろん、お前守るさ……あ、そーいえば打ち合わせしてなかったな。よーし、今のうちに片付けとこう。お前、したがらなかったからな」 「そりゃそーよ。天使さま、わたし切るはずないんだから」 「そーいうなよ。じゃあまず、お前が表に出て……どこにする?どこにいても、お前のいるところに奴らやってくるぞ」 「人目のつかないところがいいわね…じゃあ、砧公園の立ち入り禁止の囲いの中。ほんとはダメだけど、こっそり入っちゃう」 「ロケーションはそれでいいな。んで、取り合えず俺は、お前のこころの中に隠れて天使が来るのを待つ」 「で、天使さまあなたが出てくるまで、空で待ってる訳ね」 「天使はまず間違いなく、お前に向かってくる。そしてお前に切りつけようとする。すると俺が出て行って、まず第一撃を防ぐ」 「ちょっと、勝手に話進めないでよ!」 「そこまでは、間に合うだろう。でもその先が問題だ。二匹来るということは、俺を攻撃すると同時に、お前攻撃することになるだろうから、俺はいいとして、お前の守りだな。こっちで防戦してる最中はさすがにお前守りきれない。だからそのとき俺と、前云ったやり方で同調してくれ。そうすれば、お前の周りにバリアーを張ることが出来るし、俺の力も武器も強くなるから、奴ら撃退できる」 天使が二人来る、それだけで、ここまで詳しく先を読む、そんなことが自分だったら出来るだろうか。 「で、同調の仕方は、判るよな?お前、あんな上手にマンガ描けるんだから、俺と同調するくらいお茶の子さいさいだろ」 「え?どゆこと?マンガ描くことと、同調することと、どう関係があるのよ?」 「関係あるどころか、そのものずばりじゃねーか。お前が一人のキャラクター描く時、お前そいつと同調してんだよ」 「へ?」 「ま、とにかく昼前までまだ暇がある。こないだみたいに使いもんになんなくなるといけねーから、今のうちにやれること済ましときな。じゃ、俺は最後の詰めがあるから」 と、またもや謎を残してクロノスは姿を消した。 同調、ねえ…… マリ子は、彼の云う通り昼前まで次の月の話を作っておくことにした。 白い紙を前にして、マリ子はふと、先月天使を殺しっぱなしにしてたのを思い出して、天使へのおわびのつもりで天使を生き返らせる話にすることにした。 話を作るコンテの段階では、各キャラクターは丸とか四角とかでちゃんとした形で描かないものだが、マリ子はその回を描いてる途中、ひとりのキャラクターをきちんと描いてみようと思った。 まず、こころにそのキャラクターをはっきりと思い浮かべる。 そしてその、こころに抱いた線をたどるように筆を動かす。 すると、鉛筆の先が自然に納まるべき場所を探すようになり、それを忠実にたどればそのキャラクターが出来上がる。 彼女は出来上がった絵を見て、これが同調すること、と云えば云えなくもないのに気づいた。 確かに、そのキャラクターをしっかりこころに浮かべれば、その絵が描けるわ。でもこれってただ絵を描く、それだけのことなのよ。まあ、お金は入ってくるけど。あいつが云ったみたいに、わたしがあいつのこと思えば、あいつそんなに強くなるのかしら……あいつが強くなったら天使さま、切られちゃう。わたしが切られちゃう、方がいいのかな……だめだめそんなこと考えちゃ、ポジティブ・シンキング、ポジティブ・シンキング、思うこころは力になるんだから、悪く考えちゃダメダメ…… 彼女がコンテを描き上げると、時計の針は十一時を回ろうとしていた。 そして、ちょうど頃合いに、 「おい、そろそろ時間だぞ」 と、クロノスの落ち着いた声がした。 「判ってる。じゃあ、砧公園行くわ」 「ああ、そうしてくれ。ただ、道中は俺、仕込みの最終段階入ってっからよ、打ち合わせとかひまつぶしのおしゃべりとかは、なしだぜ。砧公園だったらそー遠くはないが、そーだな……なるべく、十一時半ぐらいまでに届くよーにしてくんねーか。なんか、つめ忘れてることがあったら、いけねーからよ」 |