クロノス・天使と戦う男 その6


 クロノスに誘われての空中遊泳を終えた次の日、マリ子は実にすっきりとした気分で目を覚ました。

 クロノスの云った通り、彼女は元気を取り戻したのだ。

 目が覚めてしばらくぼうっと彼女はこころの平静さをかみしめていたが、ふと今までの出来事はみな夢なんじゃないかと思い始めた。

 そうなればもう、あのかっこうだけは上等な奴のおしゃべりや、牧師さんとの忌まわしい思い出に悩まされないで済む。

そう、夢、あれは夢だったのよ。もう、とんでもなく嫌な夢だったけど、かなり怖い恐怖映画でも観たつもりで忘れてしまえばいいんだわ………

「おいおい、そう他人を都合良く悪役に押しこめないでくれないか。俺はいちおー、正義のヒーローのつもりなんだがな」

 マリ子の顔から血の気が引いた。

 が、それは一瞬のことで、彼女は物憂げに半身を起こし、ベッドの脇に現われた人物を少々うらめしげに見すえた。

「いちおー、見た目だけはそんな感じね。でも中身がともなっていないわ。せいぜい引き立て役の三枚目ってとこ」

「つれないこと云うなよ、中身だって捨てたもんじゃないぜ。お前見たことないからそう云うんだよ」

「じゃ、その中身ってのを見せてよ」

「見えないよ、今のお前にゃあ」

 そう云うクロノスの顔は、なぜか切なげだった。
 
  しかし、マリ子は彼をいぶかしげににらんで、

「ところであなた、人の考えたこと聞いてたわね。あなたの云ってた不可侵条約、あれどうなったわけ?」

「心配してあげてんのよ今は。わかってよ、そのくらい。それより今日から仕事するんだろ。俺に何か手伝えることないか」

「……なによ急に。バイト代出せないわよ」

「俺を隆と一緒にすんなよ。俺、お前のこころに間借りしてるから、人間流に、家賃、てのを払おうと思ってさ」

「家賃!」

 マリ子はびっくりして、体が飛び上がりそうな心地がした。

「考えたんだけど、俺こころの中に住むのに同意もらったの、ヒュノスとお前だけなんだ。あいつの場合、自分が面白がってたから世話なかったけどさ、お前には何かしないと悪いと思ったんだよ」

 クロノスは軽くうなずくと、きょとんとした顔の彼女からの答えを待ったが、やがて彼女は不愉快そうに、

「やちん、ってナニよそれ、人のこころアパートかなんかみたいに、それにわたし同意なんて………いいわ、もう。あなた、悪魔じゃなさそーだし、気ぃ使ってくれるの、判ったから。そういうことにしておきましょ。でも、家賃てどう払うの」

「だから、何か俺にできることを頼んでくれればいいんだよ。ほら、昨日空飛んだだろ。あれ、敷金礼金って考えてくれ。あんなみたいにさ、お前にできなくて俺に出来ることをやってあげるんだよ。もちろん仕事の関係だけだけど。とりあえず何かないか」

「天使さまに会わせて!」

 マリ子はほぼ反射的に云ったが、あとに続いた沈黙と、彼のいら立ちを隠せない表情が、彼女にあやまちを気づかせた。

「人見てもの云うくせ、付けといた方がいいぜ。美和って姉ーちゃんじゃねーけど、お前ほんっとアマチャンだからな」

 彼は姿をかき消し、マリ子は不安げに腰を起こしたが、すぐにクロノスの声が聞こえてきた。

「云い忘れてたけど、家賃払うのは一週間に一回、それ以上はビタ一文払えないよ。何を頼むか、それが本当に仕事に必要か、自分に必要なことか、じっくり考えてから頼むことだ。いつか云ったよーに、こころにかなり強く俺のことを思えば出てくるから。ただし、さっきみたいな脳みそを使っていないような頼みは、即刻却下だからな」


*    *     *


 朝食を終えたのち、マリ子は机に向かった。

 クロノスのこころ強いバックアップもあって、マンガを描く気を起こしたのだ。

 彼女がいつもそうするように、資料に目を通し、前に描いた自分の作品を振り返り、紅茶を飲んでひと息ついた後、コンテ(原稿の元になるラフ・スケッチ)を描く紙を敷き、何を描こうか考えた。

 しかし、何も思い浮かばない。

あれ、何で出てこないのよ。いつもはいろいろ本読んで、お茶すすって、そんで白い紙見たら、何かしら浮かんできて、そこから始まっていろんな話が広がっていくってーのに、今日に限って何にも出てこない…………

 彼女はもう一度、いろんな本に目を通し、そして紙に向かったが、やはり何にも出てこない。

 マリ子は背もたれに体重をあずけ、また鼻を紙にくっつけ、しばらく考えた。

 それから体を起こして、白い紙を見たが、何も浮かばない。

 そしてマリ子は、自分がスランプに陥っているのかもしれない、ということに気づいた。

うっそー、こんなの初めて、何で、なんで?どうしてなにも出てこないわけー?

 マリ子はマンガを描き始めて以来、描けないということがなかった。

 だから、出版社で会う作家の仲間と話してても、彼らの云うスランプについてはそれまでピンとこなかったのだ。

 描くことなんていくらでもある、彼女はそう思っていたが、そうでもないことをその身をもって今、知らされたのだ。

 でも、なぜそうなったのか。

例の騒動のせいかしら?ううん、でもあれは確かに辛かったけど、強いて思い出そうとしなければ、こころは穏やかでいられるわ。じゃあ、クロノスが何か?……こいつも最初のころはいろいろあったけど、今は別にあいつがいたからってどうってことないし、それどころか仕事、協力してくれるっつってるし、……ただ単に、みんなの云ってるスランプになっただけなのかなあ…

 いろいろ原因を考えたところで、マンガのネタを思いつくでもなかった。

 しかし仕事は、先に進めないとしょうがない。

 マリ子は、坂本の携帯に電話した。

 編集者である坂本に助言をもらおうと思ったのだ。

 しかし結構いそがしい坂本のことである。

 彼の性格上そんなことはないと思うが、仕事中うかつに呼び出したりして彼の機嫌を損なうことにもなりかねないので、最初はためらったが、ちょっとでもアドバイスを受けられれば、という気持ちで連絡することにした。

 ほどなくして、電話はつながった。

「やあ、声元気そうじゃない。何があったのか知らないけど、立ち直れたの。良かったね」

 彼女は坂本の声を聞いて一瞬、切ない気持ちになったが、それでもこころをふりしぼって、

「あの、いま、わたし、仕事をやってるんですけど、しごと、できないんです……えっと、ごめんなさい、何云っていいのか……」

「あ、わかった、先生スランプになっちゃったんだ」

どうしてみんな、わたしちゃんとしゃべってないのに、わたしの気持ち、判るんだろう…

「そっかー、先生もなっちゃったんだー、誰もが通る道だから、先生調子よすぎると思ってたら、やっぱりね…何も、浮かばないんでしょ、話も、キャラクターも、舞台も」

「ええ、そうなんです。別に、前あったことはもう済んでますからいいんですけど、ただ、頭がすっからかんなんです」

「それはねえ、今までそれでいいと思ってやってきたやり方が、先生の頭の中で行きづまっちゃったからなんだよ。何でも、物事には限界っていうのがあってね、それにぶつかっちゃったら、別の方法見つけなきゃ先に行けないんだ。けど先生、すぐにはそれ出来そうにないから、ぼくが考えるに、そー……先生ずーっと舞台、天界と地獄だったでしょ。それをね、人間の住んでるこの世界にずらしてみる、とかいいんじゃないかな。すると、人間との関係も出てくるから話広がるでしょ」

 彼女の頭の中で、何かひらめくものがあった。

 マリ子はそれから、事務的な話を少しして電話を切り上げた。

 そして彼女は楽な姿勢になって目を閉じ、彼の言葉をくり返した。

坂本さんて、ほんっとに頭のいい方なんだなあ…わたし、ぜんぜん近づけないや。ううん、それでいいのかも……

 仕事しなきゃ、そんな思いがふと浮かんできて、彼女は目を開け、再び紙に目を落とした。

 でも、何も出てこない。

あ、そーか、このやり方じゃもうダメなんだ。別のやり方見つけないと。でも、どうやればいいんだろう……

 マリ子は目についた本を片っぱしから引っ張り出し、坂本のことばを頭に置いてそれらをひもといた。

 そして一通り読み終えると、彼女はある一つのことがらに思いいたった。

「クロノス」

 彼女は声では小さく、しかし心の中では大きくこう唱えた。

 すると、

「はいはい」

 という調子のいい声が聞こえ、商売人のように手をもみながらクロノスは現われた。

「なんざんしょ」

「家賃、はらって」

「おや」

 クロノスはとぼけた顔をして、

「早いねーぇ、そんなに早いとあきられて嫌われちゃうよ」

 マリ子はちょっと軽蔑の目で彼をにらみつけ、

「大家はわたし、どーでもいーでしょ」

「わーりやした、で、どー払いましょ」

 すると、マリ子はすました顔をして、

「FLY ME TO THE MOON」

「へ?」

 クロノスは少し考え、

「月へ、連れてけ、って?」

「ちょっと、かっこつけて云っただけ。ものの例え。よーするに空飛んでみたいの」

「ん?昨日飛んだばっかじゃん」

「昨日はただ、びっくりしてただけだったわ。観察するひま、なかったんだから」

「はいはい、で、仕事との関わりは?」

「わたしね、考えたの。天使さまって空飛ぶでしょ?…まあ、あなただって飛ぶけど。空飛ぶんだから、天使さまの視点ってあんな鳥とおんなし見え方なんだと思うわけ。わたし、天使さま描いてるくせに今までそんなこと考えてなかったから、空飛んでみたら、天使さまの見方、そーゆーのわかるなー、って」

「てんしのしてん、ですか…まー、仕事ですからしょうがないけど、俺、その天使のみかた、ってのがいまいち気に食わんな…」

「なによ、人の考えにケチつける気?」

「いえいえ、文句は云いません。おっしゃる通りいたします。でも俺、なんか気ぃすすまねーなー」

「ごちゃごちゃ云わないの」

 マリ子は、集中してるから部屋に入らないで、と家族に言付けすると、クロノスと共に空へ飛び立った。

「うわー、やっぱ凄いなー」

 彼女は再び目にする壮大な光景に、感嘆の声をあげた。

「おい、遊びで来てるんじゃないんだぞ」

「判ってるわよ」

 マリ子はさも、仕事してるんだ、と見せるように首をめぐらし、視線を四方に散らした。

 するとやっぱり、多摩川がよく目についた。

 そして緑。

天使さまは、地上で羽を休める時、人の作ったもののところに、降りてこないんだろうな…きっと、人の目に付かないような、森みたいな、木とかいっぱい生えてるとこに来るに違いないわ…

「あれっ、クロノス、わたしたちの姿って、下の人とか飛行機の人とかに見えたりしないの?見えたらまずいんじゃない?」

「見えないよ。今俺たちが自分が見えるのは、俺たちが自分で見える形でいるからなんだ。人間に見える形じゃないんだ」

「?????よく判んないけど、そーならいっかぁ」

じゃあ天使さま、どこにでも降りてけるなあ…でも、自然の中にいる方がやっぱり天使さま、気持ちいいんだろうな……

 鳥が飛んできた。

 数は十羽ほど、頭が美しい緑色をしているのでカモの仲間だろう。

 そして、まるで戦闘機の編隊のように逆V字型に群れて、飛んでいる。

 その姿はまるで、丸ごと一つの生き物のようにマリ子の目に映った。

 一方クロノスも鳥を気にしており、なぜか彼は笑顔で彼らに手を上げた。

 すると向こうも、何か答えるようにガーガー鳴き返してきた。

 そしてマリ子の方を向いたクロノスが目にしたのは、驚きで目を円くした彼女の顔だった。

「あなた、今、何したの?」

「あいつらに挨拶したんだよ。『お前ら、風気にして飛ばなきゃいけないから大変だな』って。そしたら連中『そうでもないよ、心遣いありがとう』だって」

 マリ子の瞳に、ますます不思議さがこめられ、

「あなた、鳥としゃべれるの?」

「しゃべれるよ。もっとも人間とだってしゃべれんだから。人間のほーがしゃべり方忘れただけで。向こうはいろんなこと云ってきてるよ。あ、ヒュノスはしゃべってたな。ほんとあいつ、不思議な奴だったぜ」

 そのとき、もうマリ子の耳に彼のことばは届いていなかった。

そーなのか、鳥のさえずりってときどきわたしたちに何か訴えてるように聞こえるんだよね。それって本当にそうだったんだ。なんてスゴイの。こんなおしゃべりやろーじゃない人から聞くんだったら、もっとよかったけど。

 ああ………………………

 なんて素敵な景色なの。

 なんて素敵な気分なの。

 なんて素敵な世界なの。

 これで、天使さまに今ここで会えたら、もうサイコーなんだけど、それは高望みってものね……

 その時マリ子は彼らの遥か前方に、何かまた別のそんざいが飛んでいるのを目にした。

 しかし、それは何かをはためかせていたので彼女は、鳥かな?とくらいにしか思わず、また自分の考えの中へ没入していった。

 そしてクロノスも、自分の世界に入りこんでいるマリ子を誘導するのに必死で、前のそれには気づいていなかった。

 それは彼らに猛スピードで近づいていたが、彼らはまったく気づかず、またそれの方も彼らを意に介せずに、高速で通り過ぎようとしていた。

 ところが、彼らがすれ違う際、三つのそんざい、の中にそれぞれ電流が走った。

 互いを、視覚で認めたのだ。

え、なぜ、ちょっと、なにー、ひょっとして、うそ、これって、天使さま……

「畜生、だから今日、俺気ぃ進まなかったんだよ!」

 天使は彼らから二十メートルほど離れたところで止まり、彼らもまた留まった。

 マリ子の感覚ではちょっと遠めに思われたが、見たい一心で目をこらすと、不思議なほど微細に天使の姿がうかがえた。

 顔は均整のとれた、美しい面立ち。

 肌は汚れなき白。

 髪は無垢の金髪。

 体には、肌とはまた別の白さを持つ聖衣がルーズにまとわれていた。

 先ほどマリ子が鳥の羽だと思ったのは、聖衣がはためいていた姿だったのだ。

 表情はというと、彼らと不意に出会い、とまどっているといった様子だった。

 振り返るとクロノスが、これ以上憎みようのない、といった激しい表情で天使をにらんでいた。

 そしてなぜか、マリ子にはその姿が、天使とダブって見えた。

「ねえクロノス、どうして恐い顔してるの?天使さま、別に何もしていないじゃない」

「お前に理由はなくても、こっちとあっちには理由があるんだよ!」

 と視線を天使に戻すと、彼の憎悪の表情の中に驚きが混ざり、

「あ、そーかちきしょー、やっぱり奴ら、俺たちのこと…」

 その言葉の意味が判らないまま、マリ子は天使の方を見た。

 天使はというと、まだとまどいを残してはいたが、何かをしようという意志を顔に表し、彼の周りに漂うようにまとわれている聖衣の中に手を突っ込んで、何かごそごそとやっていた。

天使さま、クロノスのことどう思ってるんだろう、話し合えばそんなに悪い人じゃないってわかってくれるかもしれないのに……え、ひと、クロノス、って…

 そのとき、

「剣(ザクソン)!」

  とクロノスが叫んだ。

 見ると、クロノスの前にかかげた手の周りの空気がゆがみ出し、そのゆがみがそのまま剣、の形になっていった。

 すると、天使の方も意志を表情に固め、聖衣から手を出した。

 その右手には十字架の形をした、空気のゆがみが握られていた。

 その時マリ子は、はっとこころをつかまれた思いがして、胸の十字架を握りしめた。

 そして、

「斧槍(ヘレバルデ)!」

 と、澄んだ声で天使が叫び、十字架は次第にハルバードの形になっていった。

「野郎!」

 天使のハルバードが出来上がらないうちに、クロノスは猛スピードで天使に近づき、切りつけた。

 しかし天使はそれをうまくかわし、ハルバードの形を仕上げてそれを構え、再び二人は十メートルほど間をあけて、向き合った。

ああ、二人とも本気で戦ってる。まるでわたしのマンガみたい。でも天使さまっていい方なはずだし、クロノスだって悪いヤツじゃないんだから、どっち応援すればいいの?……違う、そうじゃなくて、止めなきゃ、ふたり、きっと、話し合えば………

 しかしマリ子の想いをよそに、二人は激しい火花を散らしていた。

 天使が切り込めばクロノスが避ける、クロノスが剣をふるえば天使がハルバードで受ける、そして刃と刃がぶつかり合うたびにキーンという、金属音ではなく、不快な超音波のようなものが、辺りの空気を震わし、マリ子の鼓膜を、そしてこころをさいなんでいった。

 しかし、これだけ激しい戦闘にもかかわらず、凶器の舌は彼らの体をなめることすら叶わない。

 二人ともほぼ同じ腕前で、しかも優れた武具の使い手だった。

 だが、どちらかが倒れるまではこの戦いは終わらない、マリ子はそう直感し、何とかやめさせないとと思ったが、彼女がいくら想っても体は前に進まなかった。

 クロノスの誘導がないと、彼女のエーテル体は移動が出来なかった。

 しかし、彼らとの間にかなりの距離があるのに、二人の様子は手に取るようにマリ子の脳裏に知れた。

 そして、均衡が崩れた。

 突き出されたハルバードを剣で流したクロノスは、そのすきに天使に懐に入られてしまった。

 天使は聖衣の中から瞬時に空気のゆがみの小剣を左手で取り出し、表情を変えずにクロノスの左胸に刃先を滑らせた。

 そして、その小剣はマリ子のこころにも滑り込んできた。

「止めてーーーーーーーーーーーーっ!」

 マリ子はことばにならない想いをその一言にこめ、出せるありったけの声で叫んだ。

 その大きなエネルギーを持つ一言は、戦いの渦中にある二人にも影響を与え、一瞬彼らの動きが止まった。

 が、彼女にとっての本当の悲劇は、この後に生じた。

 体の動きを止めたまま、クロノスがすっと体の位置をずらし、そのとき、天使は不覚を取ったことを知った。

 クロノスの懐に入りこんだはずが逆に、彼にふところに入られた形になったのだ。

 それからクロノスは、外に流された剣を器用に返すと、刃先を天使の胴に当て、剣を握る手首に左腕のひじを当てた。

 そして彼は、マリ子にとっては悪魔の笑みともいうべき笑いを顔に浮かべると、両腕の力と前に移動する力で、天使の胴に刃を滑らせ、そのままフルダッシュで前に進んだ。

 その間、一秒もなかった。

天使さま、まっぷたつ…………

 血は、流れなかった。

 相手を倒したことを悟ったクロノスが振り返ると、彼のいた場所の上と下に、天使の体が泣き別れ、漂っていた。

 クロノスは剣を掲げ、空に返した。

 すると、天使の体もそのハルバードの末路と同じように、空にたわみ、よじれ、そして空と化していった。

「ふーうっ、こっちが遊んでやったにしちゃあ、なかなかの腕前だったな。でもラクショーで見切れてたぜ。帰ったら伝えときな。今の俺はそんなんじゃビクともしねえって。おうマリ子、ヤボ用済ますのにちょっち手間かけちまって悪かったな。お前、時間そんなにないだろ、仕事の続き片づけちゃおーぜ。おいマリ子、おい、……マリ子…おい…あ、しまった…やっべー…まじー…」

 クロノスは彼女の様子を見て、彼女のものを見る力を一時停止させとけばよかった、と後悔した。

 彼女は、彼が天使を切るさまを、終始見届けてしまったのだ。

 彼女はそこに、一見普通な感じでたたずんており、表情も平らかだった。

 しかしクロノスは、彼女が先の無気力になっていたときよりも、さらにひどい状態におちいってることが判った。

「大丈夫かおい、なんか気分悪くないか」

 クロノスが近寄っても、彼女の様子は変わらない。

 だが彼が、彼女から一メートルほどのところまで来たとたん、すっと彼から離れた。

 そしてその表情は仮面のように変わらない。

 クロノスは、自分の過ちを確信した。

 彼がいくら近づいても、彼女は一メートルの間を空けて彼から離れるのだ。

 彼女には、クロノスのようにエーテル体を自由に動かす能力を持ってはいない。

『自分の信じていた、そして初めて逢った天使を切った、俺を拒絶する彼女のこころが、無意識のうちにエーテル体をあやつって、俺を近づけさせないようにしてんだ。こりゃそーとーの重症だぞ。並みのやり方じゃあ彼女、自分の殻から出てきてくんないぞ。この分だと、俺のことばも受け付けまい。さーて、どーしたもんか……』

 差し当たってクロノスは時間を超越した虚数空間に、彼女と自分のエーテル体を移し、彼女を元に戻す方策を練る猶予を作った。

      クロノス・天使と戦う男 その7へ続く