クロノス・天使と戦う男 その5 |
牧師さんの悪魔ばらいの後、クロノスの予見どおり、彼女は使いものにならなくなった、つまり、何ごとも手に付かないようになった。 家族も彼女の変化を、少なからずあやしんだ。 何しろ、あの日の夕方、帰ってきた母親が見たものは、部屋のすみで床にうつ伏し、泣きじゃくっているマリ子だったからだ。 そして彼女は、牧師さんに事情を聞くことを家族に禁じ、それ以上は語らなかった。 それから、彼女は決して表へ出ようとはせず、一日寝ているか、ベッドの上に座り、窓の外をながめて過ごした。 一応お腹はすくのだろう、食事だけは抜かなかったが、それでも食べる量は以前よりだいぶん少なかった。 そして当然、仕事の方も支障を来たす、はずだったが、幸いネーム(せりふの部分)や下書きは上がっていたので、隆と坂本の二人でやっつけ、なんとか彼女抜きとはばれない程度に、その月の分は仕上がった。 クロノスも、彼女には何も云ってこない。 話しかけてもムダだと思ったのか、それともそっとしておいた方がいいと考えたか。 彼女の方はというと、もう何がどうしたとか、どうでもよかった。 なにも、考えることができないのだ。 全てのものが、彼女の目にはうつろに映っていた。 そして、自分の体に異常さえなければ、彼女の気にかかることはなかった。 そうして、四日ほど過ぎた。 今の状態で彼女は良くても、そろそろ次のマンガの話を決めないと、作品を来月号に載せられなくなる、つまり、連載に穴が空く。 それは読者を残念に思わせるばかりでなく、彼女の収入をも減らす。 そして、隆のバイト代も減ることになるのだ。 新しいマウンテン・バイクを買う計画を立てていた隆は、ここで収入源の姉に立ち直ってもらおうと、策を考えた。 最初は坂本に援軍を頼もうと思ったが、彼はなぜか、彼女を強く説得しようとしなかった。 マリ子の方も、彼を避けていたようだった。 坂本じゃダメだろう、と見当を付けた隆は、リリーフとしてマリ子の友達、美和を抜てきした。 彼女は何度かこの家に遊びに来たことがあったが、その時の印象では、荒ぶるマリ子よりも、さらに勝気そうであった。 彼女なら、マリ子に喝を入れられるかも、そう考えて、隆は彼女を呼び出した。 美和は、取るものも取り合えず、という感じでやってきた。 自分と話をした直後にマリ子の身に何かが起こった、その思いが、彼女を急がせたのだ。 彼女は隆からことの次第を聞くと、駆け足で階段を上がり、マリ子の部屋に入った。 マリ子はパジャマのまま、ベッドの上に座って、呆然と空をながめていた。 その無表情な顔を見た瞬間、美和は背筋の凍る思いがした。 ひょっとしたらマリ子は、こころの病気にかかったんじゃないかしら、と。 恐る恐るマリ子に近付くと、彼女に気付いてマリ子はふりむいた。 「美和じゃない」 「よ、よう」 美和は取り合えずほっとすると、ベッドに腰かけてマリ子の顔を見た。 「一応、体は元気そうでよかった。どうしたの、一日ぼーっとしてる、って聞いたけど」 「なんでもない。ただ、何もしたくなかっただけ」 「ええ?何もしたくなくなった、ってねえ……弟さんが、神父さん来て何とか、って云ってたけど、なんかあったの?」 マリ子の表情が急に硬くなり、シーツをつかむ指の力が強くなったが、そんなこころの表れをなんとか隠して、 「ええ、あの後、神父さんが家にいらしたわ。でも何でもない。ちょっと互いに誤解はあったのかもしれないけど、それはもう済んだ話」 「それならいいんだけど…ホントに?」 「ええ」 「そう……じゃあ、アレ?あんたマンガのことで、ほら、前、なんか天使がどーのって云ってたじゃない。それが煮つまって、頭ばっかーん、ってバーストしちゃったんじゃない?」 「…かもしれない、でも判らない」 「わからない?」 マリ子を見る美和の表情が、少し厳しいものになった。 「一どきに、いろんなことがあって、一つひとつ考えて、何かしようとするんだけど、なんともならなくて、どう動いても、どうしようもなくて、結局、何もしなくても同じだ、て思ってるのかもしれない。でも、よく判らない」 「わからない、ってねえ……」 美和は座ったまま、マリ子に少しつめ寄ると、 「あんたねえ、世の中自分中心に回ってる、って思ってない?」 美和の目は怒っているというよりも、その目を通して何かを見てもらいたい、そんなことを訴えている目だった。 「あんた、自分を何様だと思ってんのよ?何もしたくなきゃしなくていい、そんな甘いこと考えられる立場にあんたいないのよ」 マリ子は、美和のことばの意味はよく判らなかったが、彼女のこころの中にある何か、を感じて目を見開いた。 「あんたがただ、好きでマンガ描いてるだけだったら、それでもいーでしょうよ。でもあんたはもうプロで、しかも人気があって、ファンの読者いっぱい抱えてんのよ。その子たちがどんな思いしてあんたのマンガを心待ちにしてるか、考えたことある?」 「美和……」 「あたしだって、ヘラヘラ遊んでるよーで、あんたのやっていること、気にかけてるよ。ただ血なまぐさいだけの戦争の話描いてるんじゃなくて、なにが正しくて、何がまちがってるか、読んでて一緒に考えられるような話なんじゃない。だから、みんなあんたのマンガ好きになるのよ。そんなことやってるあんたが、ちょっと何か不都合があったくらいで仕事投げ出すようじゃ、みんなあんたに失望しちゃうよ」 マリ子の頭の中の何かが、ぱきーんと音を立ててはじけた、美和のことばを聞いて、彼女はそう感じた。 「自分で何か思い悩むんだったら、いっくら悩んでもけっこーよ。でも、そんなんで仕事できないよーになるんじゃ、社会人として失格ね。ったく、代わってやりたいくらいよ、あたしに能力があれば」 マリ子は美和の真意を感じ取り、うつむいて手をもじもじさせた。 なにか云いたいけど云えない、その思いは美和にも伝わっていた。 美和はマリ子にぐっと近付いて、自分のひたいをマリ子の額にくっつけると、 「いろいろきついこと云ったようだけど、ごめんね。今のあんたにゃ、荒治療も必要かなーって思って。でも、あたしだって、あんたのファンの一人なんだよ。早く立ち直ってバリバリ描いてさ、あたしたちを楽しませてよ」 美和はその愛嬌のある丸い顔に、満面の笑みを浮かべた。 マリ子はなおも口が利けなかったが、視線を下に落としたまま首を横に振った。 それが否定の意味ではないとさとると、美和はひたいを離し、マリ子の肩をぽんと叩いた。 「がんばりなよ、どーしたらいいのか悩んでたら、考えこむんじゃなくて、自分のやりたいよーにやればいいんだよ。それじゃあ、あたし帰るけど、早く元気になりなよ」 余韻を残さずに去っていく美和の背中を、マリ子は見ずに気配だけで見送った。 美和が階段を下りると、隆が目を丸くして待っていた。 「なんとか、片付いた。もう少しすれば元の調子、取り戻すと思うけど。それまで、しばらく放っておいた方がいいわね。あ、その調子だと、聞こえてたんだ」 「ええ、下にいても話わかるくらいでしたから。なんか、すごいですね、美和さん。迫力ありましたよ」 「あら、そう?あれくらい云わないと、真理子アマチャンだから、目ぇ覚まさないと思うの。でもこれであんたも安心ってとこか。好きなもの買えるし」 「えっ、どうしてそれ…」 美和は玄関まで進むと、靴に足をかけながら、 「人間のすることの動機なんて、大したことないもの。金、恋愛、それと食べ物。それだけで人は動くものよ。真理子はちょっと違うようだけど。まああんたもせいぜい、真理子からしぼれるうちに、絞っときなさい」 美和は出際に、隆の肩をぱあんと叩いて去り、彼は今後彼女とは、あまりお近づきにならない方がいい、そう考えた。 そのころ二階では、美和のはげましにこころを震わせつつ、まだ何をしていいのか判らない、マリ子がたたずんでいた。 “どうしよう……牧師さんにも、美和にも迷惑かけちゃって、はやく、何とかしないと……でもまだ、なんにも考えられない…” 「いい友達じゃねーか。大事にしろよ」 どこからともなく、声が聞こえてきた。 「クロノス?」 マリ子がそうつぶやくと、クロノスが窓のところに、腰をかけたかっこうで現われた。 「どこ行ってたの」 「どこも行きやしないよ。ずーっと、お前のこころの中にいたさ。ただ、お前があんな様子じゃあ、俺の話聞いてくんないと思ってさ、待ってたんだよ。でも辛かったー、話したくてうずうずしてたぜ。あの姉―ちゃんが来てくれなかったら、俺そこの間抜け面と口喧嘩でもしようかと思ってた」 クロノスの指した先には、彼女がファンの子からもらった、かわいらしい天使のぬいぐるみがあった。 彼が冗談を云ったことがわかると、マリ子はかすかにわいてきた感情に従い、小さく笑みを浮かべた。 「取り戻してきたな」 「え?」 「いやなんでもない。それより一つ、云いたいことがあるんだ。聞いてくれるか」 「ええ……」 マリ子が以前より、素直な態度を自分に見せるのを見て、ちょっととまどいつつもクロノスは続けた。 「お前をふぬけにさせた直接の原因は、あの牧師がいらぬ悪魔ばらいなんかやらかしたことだ。それはいいな?」 「はい」 「もちろんそれは、俺がお前のこころの中にいたせいだが、神父のやったことは俺の意志そのものじゃない、それは判ってくれるか?」 マリ子は無言でうなずいた。 「とはいうものの、どっちにしろ俺のせいでお前のこころ傷ついちまったんだから、この件に関しては100%俺の責任だ。だから俺はお前にあやまる。悪い。すまんかった。ごめん。言葉もない。許してくれ……っつっても、ただあやまる、って云うだけじゃ、許してくれそうもないしなあ。人間なら、賠償金とかで、金払えばすむんだろうけど、俺金なんて持ってないし…」 「クロノス」 「ん?」 「わたしからも、一つ聞いていい?」 「え…あ、どうぞどうぞ」 「クロノスって、本当に悪魔じゃないの?」 クロノスは一瞬顔を素に戻すと、 「そうだよ。何度も云ってっけど、信じてもらえないじゃん」 「じゃあ、これ触っても平気?」 マリ子は、首にかけていた十字架をクロノスに投げた。 彼はそれをうまく受け取ると、ひもを指にかけてくるくると回した。 「ほら、全然へーきへーき」 そして彼は片方の手で十字架をつかむと、今度は首にかけてポーズを取った。 「似合うかい?気分的には、ちょっとしゃくに障るけど」 マリ子は十字架をかけたクロノスを見て、はっと思った。 クロノスの美しさが、ここに来て素直に彼女のこころに飛び込んできたのだ。 「ねえクロノス、もうひとつ聞くけど」 「はいはい」 「あなたは天使さまのこと、どう思ってるの」 クロノスはちょっと考えるふりを見せ、 「そーだな。嫌いはきらいさ。でも俺、奴らのこと宿敵だとか、恨んだりとか、そんな風に思ったことはないね。せいぜい、さんざ俺のこと追い回しやがって、うるさいったらありゃしねえ、くらいなもんか。あ、も一つあるこたあるけど…」 「え、それって何?」 すると一瞬しまったという顔をしたが、すぐに表情を厳しくすると、 「世の中には、ある人が知らなくてもいいことがある。それ聞いたら今のままじゃいられなくなるよ。それでも良かったら云ってもいいげと、そんな勇気ある?」 そう云うクロノスの口調になにか、ただ事ではない含みがあるのにマリ子は気づき、あわてて首を振った。 「いえいえ、いいです、結構です」 「賢明だ」 クロノスはあらぬ方向を見て云った。 と、その方向にさっきの天使が座っているのを目にして、彼はひらめきを覚えた。 「そうだ!」 彼は床に足を付けるとマリ子に近づいて彼女の手を握った。 「お前につぐなう方法、思いついた!」 「え?」 「今なら天使、あんまりこっちに来てないはずなんだ。だから空、あいてるんだよ。飛べるんだよ!今なら!飛ぼう!一緒に」 「飛ぶ……」 「空から広い景色なんか見た日にゃああんた、暗い気持ちだってぱーっと吹っ飛んじゃうさ。元気になれるよ」 「でも」 マリ子はあわててクロノスの手を振り払うとガッツポーズをとり、 「ほらわたし、元気だよ。じき元気になるよ、ほらほら」 彼女はしきりに腕をゆすって、元気なことをアピールするが、クロノスはその美しい顔にまぶしい笑みをたたえ、 「こんなせまいとこに閉じこもってちゃあ、直るもんも直らないよ、自分をごまかすのは止そうぜ。行こうよ、空へ」 「あ…」 クロノスはマリ子の手を取ると、すうっと窓の方へ向かった。 すると、マリ子の体もふわりと浮いて、クロノスに引かれるまま、表に出た。 「え、え、ち、ちょっ…」 混乱したマリ子は、無我夢中で振り返った。 すると、部屋のベッドの上にマリ子の体が横たわっている。 その姿は、ひどく疲れて眠っているように見えた。 そして振り返ると、クロノスに手を引かれて、空を飛んでいる自分が確かにいる。 「なにこれ、なにこれ、わたしあそこ、わたしあそこ、寝てる、飛んでる」 「何わけの判んないこと云ってんだよ。お前いま実体から抜け出て、エーテル体になって飛んでんだ」 「エーテル体?」 「お前たちのことばで霊、っていう奴だな。もの考えたり、体あやつったりする方の自分さ。部屋で寝てるのは、ただのものとしてのお前だ」 「あ………わかった!ようするに、幽体離脱したんだわたし!」 「まあ、そう云えば通りがいいのかな。お前らは実体こみだとまだ飛べないから、俺がお前のエーテル体を抜いてやったんだ」 「え、これって…クロノスがやったこと?」 「そうだよ」 マリ子は、自分の体を見まわした。 確かに、クロノスが幻影の体のときのように、うっすらと透けている。 「すっごーい、こんなことまで出来ちゃうなんて…ねえ、あなたって、できないことないんじゃないの?」 「ん?そうだな、試してみたことはないけど、たぶん、何でも出来るんじゃないかな」 「なによその、多分、って」 「そんなこと今はどーでもいーだろ、あ、そーだ、この十字架、俺が下げてるのはなんだから、返すわ」 と、クロノスの首にかかった十字架のひもがするりと彼の体を通り抜け、マリ子の首におさまった。 「あれ、わたしエーテル体なのに、何でこの十字架落ちないの?」 「それよか、見ろよ、いーながめだぜ」 クロノスに云われるまま、マリ子は下を見下ろした。 気が付くと彼らは上空百メートルくらいのところまで上がっていた。 そしてこころが落ち着くと、マリ子は眼下に素晴らしい景色が広がっていることに気づいた。 マリ子の住んでいる武蔵野の大地だ。 空からは見たことないのでそれまで判らなかったが、東京の街には意外に緑が多かった。 大きな緑、小さな緑があちこちにあり、その間を人が築いた建物がひしめき合っていた。 人の作ったものは、空から見ると色を失ってくすんだ灰色に見えた。 その分、緑が引き立っていた。 左の方を見ると、長くて太い緑色の線が大地を大きく分けてうねっていた。 多摩川だ。 その向こうの神奈川県側は、東京よりも緑が豊かだった。 そして上を見ると、碧々とした空が地上にいる時よりも間近に感じられた。 世界は広い、言葉ではそう云うけど、普通に生活してる分にはそんなことは実感できない。 マリ子は、今まさにその世界の広さを全身で感じていた。 二人の体は、西に移動しながらどんどん上昇していった。 上に行けば寒くなるはずなのに、マリ子はなんとも感じない。 それどころか、マリ子のこころは解放感とすがすがしさでいっぱいになっていた。 「すっごーい、すごいすごい、すっごーい!」 「あのなあ、何が云いたい?」 「だってだって、だってー、わたし、こんなの、こんな凄いの、初めてだから…」 「え?人間って飛行機で空飛んでんじゃないの?お前飛行機に乗ったことないのか?」 「あれとはぜーんぜん違うわ。わたしが飛んでるわけじゃないし。こんなに視界が広くもないし。それにいつ落ちやしないかって乗るたびひやひやしてるのよ」 「はっはっはっ、お前そんなこと考えてんのか。これだって判ったもんじゃないぜ。俺が手ぇ放しゃあ、お前落ちてって地面に激突しちゃうかもよ」 「えー、そんなー、クロノス、わたしの手、絶対、ずぇーったい、放さないで、お願い」 マリ子はつかまれていない方の腕で、クロノスの腕をしっかりとらえた。 「嘘うそ、このエーテル体はそんなことじゃあ死なないよ。それよりお前、どうやら元気取り戻してくれたよーだな」 「え……………」 云われてみれば、確かに空を飛ぶ前に抱いていた暗いこころはマリ子の中から完全に姿を消し、代わりに世界の広さを身近に感じ、生きる希望のようなものが見出せた気がしていた。 「これって、クロノスが…わたしのこと励ましてんのね。なんかわたし、みんなに迷惑かけちゃって、クロノスにまで……御免なさい、ごめんなさい」 「おいおい、あやまるこたぁないって。第一、俺がお前にさんざん迷惑かけたからつぐなってるだけのことだ。気にすんなよ…ま、いーや、満足してくれたみたいだから戻るぞ。戻ったらお前、ちゃんと仕事しろよ。あのねーちゃんの云い草じゃないけど、お前の読者が待ってんだからな」 そう云うとクロノスは今来た道、空の道を引き返した。 マリ子は、クロノスに手を引かれながら、自分の頬に涙がつたっていることに気づいた。 へえ、エーテル体、霊体でも涙は流れるんだ…クロノスって、どうも悪魔じゃないみたい。悪魔ってたいてい勝手に出てきて悪さをするか、召喚者,呼び出した人の願いに応じて物質的な欲望を満たすものだけど、こんなに透き通っててすがすがしい思いをさせてくれる悪魔なんて、いそうにないものね……… |