クロノス・天使と戦う男 その4


「あーあ、真理子がうらやましーなー」

 美和は飲むともなしに、ティーカップに指をかけながら云った。

「なんで、わたしがうらやましいのよ。美和が考えてるより、マンガ家の仕事って、大変なんだから」

 美和はマリ子の古い友達で、小学校の頃から顔を合わせていたが、親密になったのは中学の中ごろになってから、だった。

 二人の仲は、それほど親密というものでもない、たまに顔を合わせて、とりとめもない話をする程度だが、美和の感性が非常にシビアなところが、マリ子の興味をひいていた。

「仕事ってのがみんな大変なのは、あたしだって知ってるわよ。問題は充実度のほうよ。同期でOLになった娘って、みんな不満タラタラ。お茶汲みばっかりでどーのとか、コピーがどーのとか、任される仕事なんてなくて、雑務ばっか。どーせ、結婚までの腰かけってしか、思われてないのよ」

「美和はいいでしょうよ、四大(四年制の大学)だし、それも国立(国立大学)だし。卒業したら、それこそエリートじゃない」

 二人は、駅前のパドックという、屋外のカフェテラスで語らっていた。

 家にいた美和を、仕事の一段落したマリ子が呼び出したのだ。

 そうすることは、マリ子の半分習慣となっていた。

 仕事に行きづまったり、なにか悩みごとができたりすると、それを直接明かすことなく、この場所で彼女と話をするのだ。

 無論、今回の悩みの種は、クロノスのことであったが。

「あんた、ホントーに判ってないのね。いい?高卒だろうが、国立出だろうが、会社に入ればさしあたっての仕事はお茶汲み、コピー取り、その他雑務、ってのが相場なのよ。男だったら、新卒でもそこそこの仕事任されるってのに、じょーだんじゃないわよ。大学の中でだってそーよ」

「そうなの?」

「そーよ。うちの研究室、院生(大学院生)が多いから、学部生が、それもたいてー女が、ゼミとか終わってお茶いれるのが、決まりなのよ。あたしんとこは、そーゆーの好きな子いて、あたしは助かってるけど」

「へーえ、そんなのやったことないから、参考になるな」

「参考って、何の?」

「マンガ」

「………あんたってほんっと、仕事のことしか頭にないのねえ」

「別に仕事しかない、ってこともないけど…」

「じゃあ、おとこ、のことでも頭にあるの?」

 美和の冷やかしに彼女は一瞬、舞い上がりそうになったが、坂本の顔が頭に浮かぶと、浮いた気分がしぼんでしまった。

「どーも、そーでもなさそうね。恋しなさいよ真理子。恋愛したことがないから、自分のこと不器用って思っちゃうのよ。あ、そーか、キリスト教徒って、同じ信者同士としか、付き合っちゃいけないんだ。そりゃ大変だ」

「そうでもないけど、わたし、美和みたいにいろいろ乗りかえちゃったりするのは、どうも、って……」

 マリ子の云うとおり、美和には次々と男を乗りかえるくせのようなものがあった。

 マリ子は、美和ってよくもあんなに男の人と出会う機会を作れて、いろんな男の人に合わせられるな、と半分感心し、半分不思議な印象を、彼女に対して感じていた。

 だが、彼女の性格はよく知っているので、決して軽蔑はしていなかった。

 そして彼女と話をするときはよく、マリ子に恋愛を勧めるのだった。

 マリ子は生まれてこのかた、一度も男の人と夜を共にしたことはなかったが、美和に云われるたびに彼女は、恋愛してもいいかな、などと感じてはいた。

 しかし、やはりそう思う一方で、神の道、のことばが響くのだった。

 たとえそれが、坂本、であってもだ。

「乗りかえてるんじゃないよ。恋人になったって、そううまくはいかないの。難しいの。だから恋愛もの、の話ってウケるのよ。マリ子もガンガン恋愛して、一発恋愛もの、かまして当ててみたら?」

「別にいいよ、当てたくてやってるんじゃないんだから。それより、美和、あなた人の心配できるの?大丈夫?卒業」

「そんなの、大したことないわ。単位もズルしまくってそろえたし、卒論なんて、てきとーな本からことば借りて並べてりゃ、むこーも何も云ってこないんだから。あんたも短大出てんだから、覚えあるでしょ」

「そうかな…」

 マリ子は、学生時代を思い返した。

 あのとき彼女は、マンガの修行と、サークルでやっていた聖書の研究に、もっぱら心血をそそいでいた。

 それに卒論で扱ったのは、聖書に関係していたことであったし、それなりに学業にも力を入れていた彼女には、美和ほどいい加減な意識は持てなかったのだ。

「ま、ガッコ出たとしても、就職はこれでまたキビシーしね。そんで上手くどっか入れても、進む道はみんな同じよ」

「ちがう!」

 マリ子は場所にそぐわない大声を出し、美和ばかりか自分すら、驚かせてしまった。

「な、な、何よいきなり」

「美和って、そんなこと考える人じゃないと思ってた。国立行ったのも、わたしたちの中で美和一人だし、今まで話し聞いてても、もっと美和って強い人だと思ってた」

 美和はマリ子に対してなにか、あきらめたような笑みを見せると、

「これだから、真理子はアマちゃんなのよ。ううん、逆にそうだから、良かったのかもしんないけど。いいい?あんたはマンガを描くっていう、あたしたちにない、凄いものを持ってるわ。だから、あんたの読者ってのは、あんたに合わせるのよ。でもあたしたちには、そんなものがないから、大学出ても、お茶くみから始めるしかないのよ。あたしたちの方が、会社に、社会に合わせる必要があるの。これって、あんたが考えてるよか、すごい差よ。自覚したこと、これ、ある?」

 マリ子は困った表情を隠さずに、笑ってるとも、悲しんでるともつかない、美和の顔を見すえた。

美和は、いえ、わたしの他のみんなは、わたしには判らないけど、世に出るときの苦しみを、味わってるんだわ、自分ひとりで生きるための……ひょっとしたら、そんな苦しみを味わってないから、あんな悪魔の付け入るすき、与えたんじゃ……

「ごめーん」

 気がつくと、気の入っていない美和の声が聞こえてきた。

 見ると、美和が右手を下にしき、テーブルの上に顔を横たえ、いささか所在なげにマリ子の顔をながめていた。

「あたし、就職なかなか決まんなくて、気持ちが弱ってたからさ、グチ並べてたかもしんない。あんたの気にさわったら、ゴメンね……悪気なかったつもりだしー……」

「う、ううん、わたしは全然へーき、わたしの方こそ、ゴメンね、わけ判んないこと、云っちゃって…」

「わけ判んないことないよ。真理子は、ホントに素直だよ。あたしの強がり、真に受けちゃってさ。そんな奴、他にいないよ」

 マリ子は美和の視線をかわしつつ、すっかり冷えた紅茶を口に運んだ。

みんな、けっこう平気な顔してるけど、やっぱそれなりに悩んだり、苦しんだりして生きてるんだ……わたしの苦労って、一体なんなんだろう…クロノスって、ホントに悪魔なのかなあ…あいつが悪魔だとしたら、わたし美和より、もっと辛い思い、してるはずだし……

「あんたの悩み、あたしとしゃべって済むくらいなら、大したことないよ。安心しな」

「えっ!」

 彼女は、クロノスよりも、美和にたましいを抜かれた心地になった。

「どうして、それ…」

「隠そうったって、顔にはっきり書いてあるよ。あたし、ずっと判ってたよ。それも、大したことない悩みで呼びつけて。でも、迷惑じゃなかったよ。あんたのこと、何でかいちいち気になるしね。そんで、これからもね。なんか云いたいことあったら、素直に云いなよ。その方が、あんたらしいし」

「美和!」

 マリ子は、後さきも考えず美和の体を抱きしめ、テーブルの上の紅茶を器ごと、みなこぼしてしまった。

「ち、ちょっ…」

 美和の制止もむなしく、マリ子の腕は確実に、美和の体をとらえていた。

わたし、何で今までバカだったんだろう、こんなにみんなに思われて、そして励まされて、生きていってるっていうのに、神父さんにしても、美和にも、そんな風に思われてたなんて知らずに、わたし一人っきりってつもりで……でも、なんで美和、今になってこんな…


             *     *     *


 マリ子は美和と、その友人にとっては訳のわからない愁嘆場を迎えたのち、カフェテラスを後にして自宅へ、とぼとぼと足を運んでいた。

 しかし彼女には、その歩みが遅いのが、妙に気になった。

 いま別に、家に急ぐ用事があるわけでもない。

 それにしても彼女の歩調は、いつもより大分おだやかに、彼女には思われた。

 そのことを自覚したとき、今までなりをひそめていた声が、ふと聞こえてきた。

「いま、お前の家に、やっかいなお客さんが来てるぜ」

 クロノスは人間技ではない、いろんな超能力を持っているので、彼の云ったことは本当だろう。

 でも、それは誰で、どう厄介なのか。

 聞いてみたい気がしたが、相手は悪魔、ヤブヘビになっちゃいけないと、彼女は口、正確にはこころの口を開けなかった。

「それがなー、そのー、…いや、いま、俺の口からそれ云うのやめるわ。どーせ、家帰りゃわかるし、まー、何が起こるのかってえのも、一口で云えんしなあ……ま、やっこさん、素直に帰ってくれりゃ、それに越したこたぁないんだけど、お前の身になんかあったら、俺がなんとかしてやるよ。俺がまいた種だ」

 こいつ、何が云いたいんだろう、彼女は問いつめたい気もしたが、彼の口調に、変な含みがあるのがまた気になって、何も聞けずに自宅のドアの前までたどり着いた。

 家に入ると、すぐに母親と隆が出てきた。二人は一様に、出支度をしていた。

 隆の出支度は、普段の格好とほぼ同じなのだが、母親が中途半端なおしゃれをしているので、それと察しがついた。

「あ、真理子、前いた街の牧師さん、いらしてるわよ。それでわたしたち、席はずすように云われたの。夕方には戻るから。それまでに用事、すませてね」

「俺は別にいーけど。それより姉さん、何かしたの?あの人、すごい様子だったよ」

「ひとのプライベートにつっこまないでよ。お母さんごめんね、なるべく早く、終わらすから」

 そうは云ったものの、牧師さんの用件がつかめない。

 隆の云った、すごい様子、というのも引っかかる。

 何より、クロノスの、何かあったらなんとかする、という言葉が凄く気になった。

 牧師さんは二階の、彼女の部屋で待っているという。

 二階に上がり、部屋のドアを開くと、確かに牧師さんはそこにいた。

 いすに座っている彼の顔には、あわれみとも恐れともつかない表情が、浮かんでいた。

「私もこの歳になるまで、こんなことが起こるとは思わなかったのですが…」

 二人が顔を合わせて、しばらく無言の間が空いたのち、牧師さんが切り出した。

「私もこれが、御主(神)が私に与えてくださった、重要な試練として、受け止めたいと思います。そして、あなたの方も…」

 マリ子は話が見えず、きょとんと牧師さんの顔を見つめた。

「真理子ちゃん、あなたには信じてもらえると思いますが、私は先日夢の中で、主の御使い(天使)の啓示を受けました。あなたの中に、悪魔が巣食っていると……」

「え………」

うっそー、牧師さんのところにも、天使さま、いらしてたんだ、なんてこと……

「そ、そうなんです!わたしのこころの中に、誰かいるんです!」

 マリ子は、隠し立てがムダだと判ると、素直にことを口にした。

 しかし、なぜかクロノスを『悪魔』とは云い切れなかった。

「それはあなたに、なにか悪行をもたらしてますか。判る範囲でいいですから」

「悪行………」

 マリ子は答えに窮した。

 クロノスは彼女に対して、なにか悪さをするでもなく、ただ身の上話を話したがるばかりで、悪魔というより『話し友達』に近いそんざいになっていた。

 それをそのまま云っても、判ってもらえないだろう。

「その……あの……そいつは、わたしにいろんなこと、話しかけるんです。ていうより、勝手にしゃべりまくる、って感じなんですけど……とにかく仕事中、いろいろ話しかけて、邪魔するんです」

そんなこと、いっぺんもクロノスやったことないじゃない、なに嘘ついてのよ、邪魔する、どころかいろんなこと教えてくれる、でしょ、なに考えてんのよ……

“これって、こころの声、それともクロノスが、わたしの声、真似してんの?……いえ、これはわたしの声だわ、間違いなく、でもなんで、クロノス弁護するわけ?クロノスを悪魔だと思ったのは、わたしなのに……”

「それで、そいつのする悪さって、まだそれくらいで…」

「なるほど。今のところは、大したことなさそうですね。それと、その悪魔は、自分の名前を明かしましたか」

「名前…」

 クロノス、彼の名前。

 そう云えば、ことはすむ。

 でもこれは、自分で名乗ってるんじゃなく、昔の宿主にそう呼ばれてただけだ。

 マリ子はそう、自分に云い聞かせると、牧師さんに答えた。

「いえ、別になにも…」

「とすると、もっといやしい、悪霊のたぐいなんでしょうね。位の高い悪魔なら、名前を明かすはずですから」

 牧師さんの安心した様子を見て、彼女は少し、後悔を覚えた。

本当のこと云えば、よかったのかな、クロノスは、位の高い悪魔のかっこうをしてるのよ。牧師さん、そんな軽い気持ちで、あいつを追い出せるかしら……

「その、名なしの悪霊は今も、あなたにしゃべりかけていますか?」

「いえ、どこかで寝てでもいるんでしょうか、何も聞こえません」

「それは好都合です。いや、しかし、本当に悪魔がいるなどとは、思いもよりませんでした。正直、今でも信じられません。でも御使いは、悪魔がいる、とおっしゃいました。そしてそれは、本当だったんですね」

 マリ子は次第に、牧師さんの大仰な話し方に、いら立ちを覚え始めた。

 彼を信用してはいるのだが、それでもなにか、違和感が後を引くのだ。

「あなたの話を聞いて、少しは安心しました。しかし、事がことです。一刻も早く、悪魔を追い払わねばなりません」

「はい……」

 彼女は静かに答えた。

 二人は悪魔ばらいをするために、部屋の模様替えを始めた。

 机やいすを隅に寄せて、部屋の真ん中に新聞を敷きつめる。

 牧師さんがそのスペースにいすを置き、彼女をその椅子に座らせた。

 それから牧師さんは鞄を開け、いろんなものを取り出した。

 それらは、悪魔払いに使う道具だった。

 聖水の入った瓶、長めのロザリオ、聖なる印章など、キリスト教徒ならよく目にするものから、奇怪な文様が描かれた紙や巻物、不気味な木像など、何だかよく判らない物が、床の上を占拠した。

「悪魔ばらいなんて初めてですから、効くかどうかはわかりません。ですが、どれか一つくらいは引っかかるでしょう」

 牧師さんの云いわけがましい前置きに、マリ子はおかしさを覚えた。

「大丈夫ですよ牧師さん。悪魔は出ていきます。わたしもがんばりますから」

 そして牧師さんは、まず聖水の瓶を手にしたが、そこで彼は困った顔を見せた。

「これから聖水をかけるんですけど、どうしましょう。服を脱いでもらうわけにもいかないし…」

「やっちゃって下さい。どうせ、大したもの着てませんから」

 牧師さんはうなずくと、彼女の頭から聖水をふりかけた。

 そして聖書を取り出し、福音書の部分を、よく通る声で読み始めた。

 受けるマリ子は変な気分だったが、いちおう真面目な顔で、牧師さんの声を聞いていた。

 朗読が始まって十分、一向にマリ子の様子に変化は見られず、牧師さんはまた困った顔をした。

「変ですね、こうすればすぐに悪魔が出ていくはずなんですが……日本語ではだめなんでしょうか」

 と、ヘブル語の聖書を取り出すと、同じように読み始めた。

 しかし、さらに十分たってもなんの効果もなく、牧師さんにあせりの色が見え始めた。

「おかしい……なにか、別の手を使いましょう」

 今度は、彼女の前に例の木像を置き、そしてそれをはさんで牧師さんが彼女の前に立つと、十字架をささげて、

「天にましますわれらが神よ、この、悪魔に魅入られし、あわれな子羊をお救い下さい。そして我らが敵、悪魔をお裁き下さい……」

 彼はギリシャ語で同じような文句をくり返し、変化がないと別の言語で、そして彼の知っている言語をすべて持ち出して祈りを続けた。

 その間マリ子は、心痛な表情を浮かべて、牧師さんの祈りをじっと耐えていた。

 じっさい、耐えていた。

 なぜかは判らない、悪魔を追い出すはずの祈りのことばが、マリ子には苦痛でしかなかった。

 そして、何も起こらなかった。

 牧師さんは、しまいには汗だくになり、疲れたように腰を下ろした。

「本当は、その像に吸い込まれて、割れてしまうんですが、わたしの力が足りないのでしょうか……」

「そのうち、うまく行きますよ。休憩にしましょう。お茶、いれてきます」

 マリ子は笑顔で立ち上がり、聖水のしずくをこぼさないように下に降りたが、お湯をわかしている間、彼女は不気味な不安に襲われた。

ここまでやって下さって、なんにもないってことは、クロノスってほんとにとても、位の高い悪魔なのかしら、それとも……

 彼女が部屋に戻ると、牧師さんがくたびれて、切ない面持ちを見せていた。

 それを見たマリ子は牧師さんに、本当に悪いことしてる、と感じた。

「おお、ありがとう」

 マリ子からお茶を受け取った牧師さんは、すぐに笑顔を取り戻したが、彼女にはそれが仮面のように映った。

 彼は紅茶をすすると、

「考えてみれば、あなたのいれた紅茶をいただくのは、これが初めてですね。いや、おいしいです。ちゃんと葉っぱから、いれてあるみたいですし」

 マリ子ははにかみ、うつむいた。

 しかし、顔を上げた次の瞬間、マリ子は自分の目を疑った。

 牧師さんの体がわなわな震え出し、手にしたカップを見つめたまま、ものすごく怖い顔をしているのだ。

「悪魔ばらいに来て、なんでわたしはこんななごんだ気持ちになっていられるのだ、わたしが本当に相手にすべきは、悪魔なのだ、真理子ちゃんではない。悪魔なら、どんな手を使っても、私に抵抗を試み、真理子ちゃんのこころにいすわり続けようとするだろう、そして、私はここで、なごんだ気分でいる、そんなはずはないのだ。悪魔はいる、真理子ちゃんのこころの中に。私には見えないし、判らないが、御使いがおっしゃったのだから、間違いはない。とすると、さっきのわたしのこころは、悪魔が作ったいつわり、だ…」

 彼の目は、まっすぐマリ子の顔に向けられた。

 その目は、怒りとおそれでぎらついていた。

 マリ子は、彼の中で何が起こったのか、理解できずに彼の目を見すえた。

 と、突然虚空からあざけりのこもった声が聞こえてきた。

「もうその辺で、やめにしといた方がいいんじゃあないの、おっさん」

「だ、誰だ!」

 その声の主は、マリ子にははっきり判っていた。

「クロノス!あなた、どうして…」

「このおっさんが、この後すること、予言じゃないけど、教えてやろーか。生半可な方法じゃ、悪魔出てこないと知ったらせんせー、まずそこにあるひもで、お前をしばりあげるぜ。んでもって、そこにある革のムチで、お前ひっぱたき出すんだ。そんで効果なかったら、今度はその、棒の先についた鉄の十字架を、ガスレンジかなんかで熱して、お前のももに焼き印を入れる。次は両手の裏。しまいには、ひたい。さぞかし痛てーだろーなー。そんでも何もなけりゃあ、カバラ描いた巻物、お前の体に巻いて、後さき考えずに火ぃつけちゃう。それで、お前死んじまって、悪魔も死んじまうって算段、おしまい。んだろ、おっさん」

「ふひぇえあ……」

 彼は図星をつかれて、意味不明な言葉をはいた。

「以上が、魔女狩りの時代に書かれた悪魔ばらいのテキスト第三章、具体的な悪魔の払い方のマニュアルだ。だぶんおっさんは、はじめは最後までやるつもりなかったんだろーけんど、悪魔なかなか出てこねーと、だんだんあせって、気分が高ぶってきて、最後まで行っちまうぜ、きっと。不安だったから、書いてあること全部、試すつもりだったんだ。でなけりゃ、ある道具洗いざらい持ってこねーよな」

「それほんと、クロノス?」

 マリ子はわれ知らず、クロノスに哀願するようにたずねた。

「ほんとーだとも。俺何されたって、痛くもかゆくもねーけど、お前傷ついて、殺されちゃうかもしないのに、黙って見てらんなかったから、教えに来てやったんだよ。つーこっでおっさん、幕間狂言はしまいにしときな。でねーとおっさん、ただマリ子傷つけるだけで、終わっちまうぜ」

 彼は最初、なにがどうなっているのか判らずに、ぽかんとしていたが、やがて人とは違う異質なそんざいが、いるのだと気付くと、

「そうか!判ったぞ!きさま、とっくに悪魔に魅入られていたんだ!そして悪魔とぐるになって、小細工しかけてわたしを家におびきよせ、おとしいれて笑いものにしようとしてたんだ!危ないところだった、まんまと引っかかるところだった。もうだまされないぞ、この悪魔の下僕め!」

 彼は悪鬼のような表情で、マリ子に向けて叫んだ。

 彼女は牧師さんの云った、きさま、とは自分のことを指してる、と判ると、

「牧師さん、何おっしゃってるの?わたしは真理子よ、悪魔の下僕なんかじゃないわ」

「だまれ!わたしを猫なで声で誘惑しようとしたって、もうムダだ!きさまももう、本当は悪魔のような、みにくいかっこうをしているのだろう!正体をあらわせ!この悪魔め!」

どうしよう、牧師さん、わたしのことば、ちっとも聞いてくれない………

 ここで彼女ははっと、以前のクロノスの言葉を思い出した。

 彼女の中に悪魔がいると判ると、牧師さんは彼女のことばも、彼女の行為も、すべて悪魔の仕業だと思い込む、と。

 そうなれば、今の彼女が何しようが、なに云おうが、彼にとってそれは悪魔の所業であり、つまりどう説得してもムダであった。

 しかしそのとき彼も、さし当たって何をしていいのか判らず、ことばにならない声を漏らしていただけだったが、やがて自分の持ってきた道具を目にすると、

「よし、こうしてやる!悪魔め、真理子ちゃんの体から、出ていけ!」

 と、さっきのクロノスの云っていたムチを手にすると、マリ子をそれで打ちつけた。

「やめて牧師さん、何するの!痛い、いたい!」

「いたいだろう痛いだろう、こんな思いをし続けたくなかったら、早く真理子ちゃんの体から出ていくことだな!きさまがこの体にいる限り、私はムチを打ち続けるぞ!」

 その言動は、もはや牧師さんのものではなかった。

 彼はマリ子をムチ打つことに、喜びすら感じはじめ、顔にはげびた笑いさえ浮かべていた。

 マリ子はそれにあらがいたかったが、彼の表情を目にしたくなかったので、目を閉じたままムチの矛先から逃げていた。

 一方クロノスは、彼のあまりの変わりよう、開き直りようにあぜんとして、マリ子のこころの中でしばし固まっていたが、やがて彼女が苦しんでいることに気付くと、

「マリ子に何しやがる!」

 と、つむじ風をともなって、彼らの前に姿をあらわした。

 そして牧師さんは、それを悪魔だと判断してムチをふるおうとしたが、その姿を見て、一瞬金縛りにあった。

 そこにいたのは、途方もなく美しい人物だったからだ。

「きさまが、真理子ちゃんに取りついた悪魔か!うまくおのれを飾り立ておって!」

「さーどーかな、まったくの第三者が俺たちを見て、どっちが悪魔と思うだろーかねー?」

 クロノスの話し方は、彼をからかう感じだったが、顔には隠しきれない、怒りの表情が浮き出ていた。

「だまれ!悪魔め!」

 マリ子が目を開けたのは、そのときだった。

 そして彼女が見たものは、クロノスに突っこんでいき、実体ではないその体をすり抜け、勢いあまって床に倒れこむ牧師さんの姿だった。

「悪いけど、おっさんには何にもできねーよ。あきらめて、とっとと帰んなよ。云っとくけど、おれは悪魔なんかじゃねーぜ。俺はマリ子に、なあんもしやしない。ただ、こころの一部を間借りしてる、それだけだ」

 彼は呆然とした顔で、クロノスを見た。

 そしてわれを取り戻し、立ち上がろうと床に手を付いた、が、つくはずの床がなかった。

 彼は、宙に浮き上がっていた。

 マリ子は、我を失いかけながら、それがクロノスの超能力だと見て取った。

 クロノスが、牧師さんを見て冷たく笑っていたのだ。

 クロノスの視線が移ると、彼もそちらへ移動した。

 彼は恐怖のため、指一本動かすことも出来ず、クロノスのなすがままになっていた。

 彼がクロノスのところまで来ると、窓がひとりでに開き、そこから彼は外に出された。

 そして彼の姿は階下へ消えたが、地面に落ちる音はなかった。

 それから二、三、言葉にならない奇声が聞こえたのち、かなり急いだ様子の足音が離れていった。

 後に残されたのは、濡れた新聞紙の山と、悪魔払いの道具と、マリ子、だった。

 彼女は我を失っており、実体化したクロノスが彼女のひたいをつつくと、支えをなくしたビルのように、膝から崩れた。

「おい、大丈夫か、おい」

 彼に揺すられて、マリ子は目を覚ました。

 目を開けると、クロノスがいる。

 今まで悪魔だと思っていたのに、今はなぜかおだやかな気持ちで、彼を見ることができた。

 そして、肩をつかんだ彼の手から、彼女にぬくもりが伝わってきた。

あ、隆みたいに、あたたかい……

 だが、部屋に散らばる道具が目に入り、彼女は牧師さんの、血相を変えた鬼のような顔を思い出した。

 そして、あの時の恐怖がまざまざと脳裏によみがえってきて、ぼろぼろ涙をこぼし始めた。

「おい、お前どっか、ケガはないか、痛いところ、泣いてないで云ってみろよ」

 クロノスにそうさとされて、彼女はいったん泣き止んだ。

 しかし、クロノスが心配そうな表情を浮かべているのを見ると、今度は彼にしがみつき、声を上げて泣き叫んだ。

「まいったなー、こりゃとーぶん、使いもんになんねーかも…ま、しょーがねっか。部屋、このまんまってのもまずいし、片づけてやろう、俺がまいた種だ。つーことだから、離れろよおい、はなれろってば」

 マリ子は、いくら云っても彼から離れようとはせず、やむなく彼は実体を消し、彼女のくびきから抜け出した。

 しがみつく相手を失って、マリ子は前のめりに倒れ、泣き声のボリュームをさらに上げてしまった。

「しゃーねーな…とりあえず防音設備、整えとくか」

 クロノスは超能力で、音の結界を張った。

 そしてあの男を追い出した手で、彼女の体を浮き上がらせ、泣かせたまま部屋のすみに寄せた。

 それから彼は再び実体となって、部屋の片づけを始めた。

      クロノス・天使と戦う男 その5へ続く