クロノス・天使と戦う男 その3


「はい隆、これベタお願い」

 マリ子は手にしていたペンを口にくわえると、手早く原稿をまとめて弟に差し出した。

「はいよ」

 と原稿を受け取った隆は、これまた慣れた手付きで原稿を整理し、机に置いた。

「云っとくけど、ホワイト代、値上がりしたからね。塗りそこない、一か所につき二百五十円引きよ」

「ええっ、こないだ、すえ置くって云ってたじゃない」

「そのあとで、わたしがどれだけ苦労したと思う?スピード上がったって、仕事が雑だと仕方がないの」

「はーい、判りました」

 隆は口では素直にあやまると、すぐ机に目を落とした。

 原稿の〆切が近付くと、二人の間でこのようなやり取りが展開されるのだ。

 彼女は自分のマンガを描く、たいていの仕事は一人でこなしてしまうが、人気が出て描く分量の増えた今では、限界が出てきた。
 それでコマの線引き、荒い背景、ベタ塗りなどの雑事は弟にまかせていた。

 そして収入の一部をバイト代として隆に渡すのだが、なにぶん彼は素人なため、失敗も多かった。

 しかし、二人ともスピードだけは早かったので、俗に云う修羅場は経験したことがない。

 そして〆切の三日ほど前になると、決まって顔を出すお客さんがいた。

「真理子、坂本さんがお見えになったわよー」

 一階にいる、母親の声だ。

「おや、ダーリンがいらっしゃいましたね」

 マリ子は描きそこないの原稿を丸めて、隆にぶつけた。

「おや、なかなかはかどってない様子だね、珍しい」

 この家にとって、もはや顔なじみである坂本は、まるで我が家のようにマリ子の部屋に入ってくる。

「すいませーん。急いではいるんですけど、なにせこのバカが…」

「バカはよけいだよ。判ってるよ、ぼくが遅いって」

 といっても、本当に遅いわけではない、二人でやっているにしては、彼とて信じられないスピードで仕事をこなしている。

「ま、いいさ。あと三日もあるんだし。なんなら、ぼくが加勢してもいいけど。ベタなら隆くんより、うまいって自身はあるけどね」

「ちぇっ、勇騎さんまで、僕のことバカにする」

 すねる隆を見て笑う坂本を、マリ子はこころよい気持ちでながめた。

 それにしても気になるのは、最近坂本のことを「勇騎さん」と名前で呼ぶようになったことだ。

 そしていつか、根拠もなしに隆が「お兄さん」とでも云いやしないか、ひやひやしていた。
 でもそれは、彼女にとって迷惑なばかりでもなかったが。

「まあ、それは冗談として、先生、そろそろ休み、入れたらどう?ずいぶん根つめてるみたいだし、体によくないよ。陣中見舞い、持ってきたから」

「そーそー、さっきから云ってんのに。もう休もーよ」

「判ったわよ、…そうですね、お休みいただきます」

 隆がこっそり笑っているのを、マリ子は目でおどした。

 坂本が持ってきたのはマリ子の好物、駅前のタラゴンという店のショートケーキだった。

 そして隆が、男手にしては珍しい手早さで食器に取り分けると、早々に自分の部屋へ引っこんだ。

 お茶を入れにきた母親も、あいさつもそこそこに下へ降りていった。

 どうやら家族はみんな、同じことを考えているらしい。

 当の坂本は、そんなことは意にも介しない様子で

「どう今度、新しいアシ入れてみたら?今の様子だと、慣れた人もいらないようだし、若い子はいくらでもいるよ。それに、いつまでも弟さんがアシやってくれる訳でもないし」

「ええ、でも、やっぱ今の雰囲気でないとわたし、身が乗らないみたいで、今のところは、せっかくの申し出すみませんが……」

「そうか、惜しいなあ、先生の方の増産体制がととのったら、別の雑誌にもう一本、連載を頼もうと思ってたんだけど」

「そんなわたし、死んじゃいます!だいいち話、思いつきません……」

「そうかなあ、ぼくの見立てだと、先生の才能は止めどなく湧く泉のごとし、なんだけどねえ」

 マリ子は視線をそらし、

「買いかぶり過ぎです」

「ぼくは女性はもっと、どんどん働くべきだと思うんだ。たといそれが少女マンガ家という、せまい範囲の仕事であってもね。そしてぼくはそういう人たちを、手助けしていきたいし、そうすることが好きなんだ」

人たち、か…………

 坂本はマリ子担当の編集者である。

 年齢は三十才、いまだ独身で、顔かたちはそう大したことはないが、それなりにまとまってはいる。

 彼が彼女の担当になったのは一年ほど前のことで、彼がついてからマリ子の人気は上がるようになった。

 それまで一本ずつ描いていた天使の話を、連作という形でつなぐようアドバイスしたのも、坂本である。

 そんないきさつで仕事を続けていくうち、いつしか彼女のこころは坂本に傾いていった。

 だが、いつもすんでのところで、彼を編集者の立場に引き止めていた

 感情で動くのは、ある意味正しいのかもしれない。

 立場どうこうを気にするのなら、申し分はないのかもしれない。

 編集者とくっついたマンガ家など、珍しくないからだ。

 しかしそれだけに、彼女のこころの中で、とがめるものがあった。

 運命の人、などは信じてはいない。

 だが感情に流されて人生を決めるのは、神の道にもとると考えたのだ。

 じっさい彼の方はというと、編集者のスタンスをくずす、気配すらない。

 何かが見えるまで、彼女は待つことにした。

 それでそのまま終わっても、いいとは考えていた。

「話変えて、いいですか?」

「どうぞ」

「わたし、このままでいいんですか」

「え?なにが?」

「天使の扱い方です。本当はもっと、誠実な人たちなのに、このままだと悪魔と変わりなくなってしまいそうで……」

 坂本は軽く笑うと、

「まーた先生、そんなこと気にしてる。何度も云ってるでしょ、一つのものには千の相があるって。それをなるたけ数多くとらえることが出来る、ってのが表現する者の十分条件だ。一つの見方にしがみついたって、しょうがないさ」

「でも」

「それに、こうは云えないかな。先生の描いてる悪魔は、天使から堕ちた連中だ。てことは、天使もきっかけさえあれば、悪魔になるかもしれないから、もともとそんな要素が天使の方にもあった、ってね。神からの流出物は、善性において神におとる、って話もあるし」

「そんな……」

「先生の信仰は信仰として、持っていればいいのさ。割り切れば問題ないだけの話で、そうでなかったら、いまの悪魔学とか、聖書の研究者でさえ、生きながらこぞって天罰が下ってるよ」

 坂本は大学で、哲学を専攻していたのだそうだ。

なんで哲学をやってて宗教にくわしいのか、マリ子には判らなかったが、ともかく宗教に関する彼のアドバイスは、彼女の作品に大きく影響を与えていた。

「でも、なんだかんだいっても、結局天使たちは、力を合わせて悪魔を倒す展開にするんでしょ?」

「ええ、そのつもりですけど……」

「なら、いまのままでいいよ。今のままで、読者的にも、会社的にも問題はないし。ぼくの意見だと、先生的にも、正しいと思うよ」

 坂本がすっ、と彼女に視線を合わせると、マリ子は顔が赤くなるのをこらえた。

 それからしばし事務的な打ち合わせをしたあと、坂本は、さわやかというには少しくずれた笑顔を残して去っていった。

 隆は呼ばないと、来ないのはわかっているので、彼女はしばらく一人で、こころの整理を行なった。

 それが、彼女の日常だった。

また、近付けなかった………

「行っちまえよ」

 そして、彼女を日常から引き離す声が、いずこともなく聞こえてきた

 もはや、誰かはわかっている。

 彼女はこころの内を隠すことなく顔に出すと、宙にあらわれた影をにらみつけた。

「色男じゃん、なかなか。話もよく判ってるみてーだし」

この悪魔、どこでこんな言葉づかいを覚えたんだろう

「聞いてたの」

 彼女の声には怒りがこもっていた。

「聞きたくなくても、扉とおしてびんびん響いてたぜ。そんなに好きなら素直に行けよ、どうせ神の道なんてある訳ないし」

こいつに隠しごとする時は、そのことを強く思わないようにしなきゃ

「悪いけど、あなたの倫理観とは違うのよ。悪魔のささやきなんて、ごめんだわ」

「別に悪いこっちゃねーじゃねーか。感情のままに動くのは正しいし、気持ちいいぜ。感情のままに」

「それって、イブをたぶらかした手?」

「どーしてそー来るかなぁ、そーじゃなくてぇ、感情を押し殺してまで、自分の殻を守るのは心身ともによくないって、一般的なは・な・し」

「悪魔がブリッ子してんじゃないわよ」

「ブリッ子じゃねえ強調だ、こいつ、懐かしいことば持ち出すな、ともかく俺が云いたいのは、あの牧師が云ってたこともだけど、もっともらしい口ぶりで、見返りがあるのかどうかも判らないような話に、盲従する必要はさらさ、ねーってことさ。あのにーちゃんも云ってたじゃねえか」

「坂本さんを引き合いに出さないで!」

「おーこわ、じゃ別に俺でもいいけど、俺の場合は逆、になるのかな、俺は奴らにうまくはめられて、こっちに……おっと、どうもしゃべり過ぎたみたいだ」

 と言い残すと、クロノスの姿は雲をかき消すようになくなってしまった。

 彼の声が聞こえなくなると、反射的に彼女は弟を呼び出す習慣が出来ていて、その時もすぐに声をかけようと思ったが、せつなクロノスの最後のことばが気にかかった。

あいつ、話の最後にいつも、謎、残していくな……何なんだろう


          *     *     *


 マリ子は、自分の近くで、目をおおうほどのまばゆい光が輝いているのに気付いた。

 当然、それが最初からあるとわかっていたら、彼女は光に近付いていなかったろう。

 彼女は、目をつむっているのだ。

 そして彼女は、直接目で見なくても、光がそこにあるのが判った。

 目を使わなくても、光は彼女の頭の中に届いていたのだ。

何だろう、この光。こんな光、家の中にあるわけないし、ヘッドライト?写真の照明?空を照らすサーチライトなら、このくらいの明るさ、あるんだろうけど、なんでこんなところにあるんだろ………

 しばし彼女が光のみなもとについて考えていると、今度はなにやら声が聞こえてきた。
 おだやかで落ち着いて、一語一語かはっきりと聞き取れるような声だ。

 最初は、

「タリタ、クム。タリタ、クム」
 という、不思議な語調を持った、どこか、遠い異国のことばのように彼女には聞こえたが、次第にそれが、自分に向けられたことば、だと判るようになり、そして、

「娘、目覚めよ、娘よ、めざめよ」

 とはっきりした日本語になったとき、その声が光の中心から来ているのだと悟った。

 寝ていた自分を起こしに来たんだろうな、彼女は単純にそう思ったが、その声にはとんと聞き覚えがないし、見て確かめようにも、まぶしくて目が開けられない。

 誰だかたずねよう、と思ったが、ふと頭の中を、クロノスの影がよぎった。

あいつもこんな、変な現われ方をしたんだ。また、誰か尋ねて、変な問答やらかすようだったらどうしよう

「娘、めざめよ、むすめよ、そなたはまだ目覚めてはいない、真に目覚めているならば、そなたには、そなたのこころ以外の、何ものも存せぬはず」

えっ、どうして、そのことを………

 彼女は驚いて、目がくらむのを承知で目を開けた。

 すると、彼女の目はくらむこともなく、見えないはずの、光を発している源を、あますところなくとらえた。

 そして、その形を瞳でたどり切ったとき、彼女は驚きとおそれに包まれた。

 くだんの声を発した光のみなもとは、まごうことなき天使の姿をとっていたのだ。

 背中から突き出た純白のつばさ。

 けがれを知らない色を持つ聖衣。

 そして名を発しては形容し切れないほど、高貴な色をたたえた肌と髪。

 人間の作り出した、美の最上のイメージをすべて持ち合わせたそんざいが、彼女の目の前に立っていたのだ。

 マリ子の体に、電流が走っていた。

 自分がマンガの中で、憧れをもって描いていた天使がいま、目の前で彼女に語りかけているのだ。
 その天使が、彼女の方を向いているかどうかはうかがえなかったが、いまだ先ほどの言葉をくり返していた。

 そして彼女は瞬時に、これは神さまの下さった救いの手、だと思い、悩みを訴え出ようとした。

あの、天使さま、おっしゃるように、実はわたしのこころに……

 声が出ない。

 声が出ないんじゃない。

 天使への恐れからか、天使の力が彼女になにか及ぼしているのか、とにかく彼女は体じゅう、指の先まで動かすことが出来ないのだ。

 当然、口も動かないから、声も出ない。

そんなー、こんな大事なときに、なんてこと……………あ、そうだ、あいつには口を動かさなくても、こころで話せば通じるんだ、ひょっとすると天使さまも……
 と、ここでマリ子は、憧れている天使を悪魔ふぜい、と同列に扱うのを一瞬ためらったが、背に腹は変えられない、彼女はこころで訴えはじめた。

天使さま、わたしのこころの中に、クロノスという悪魔が巣食っています。どうか彼を追い出して下さい。でないと、わたしあいつのとりこになってしまう恐れがあります。どうぞ、わたしのこころから、クロノス、という悪魔を追い出して下さい……
「主を信ぜよ。悔い改めよ。そなたが主に対してなしうる、あらゆる信仰のあかしを示せ。さもなくば、そなたは明らかに、天よりの罰が下されるであろう」

この天使さま、わたしの云うこと、何も聞こえてないみたい、せっかく来てくださったのに、どうしよう………

 彼女は、天使は彼女のこころをしってか知らずか、ただ、さっきと同じことばをくり返すばかりだった。

「主を信ぜよ。悔い改めよ。そなたが主に対してなしうる、あらゆる信仰の証しを示せ。さもなくば、そなたは明らかに、天よりの罰が下されるであろう。娘よ、むすめよ、むすめ、むすめ…」


「おいっ、マリ子!おいっ、マリ子!起きろ、起きろよマリ子!」

 彼女はこの激しい声と、全身を揺さぶられる感覚を受けて目を覚ました。

 するとそこは彼女の部屋で、彼女はベッドの上で寝ていた。

あー、……なんだ、今の、夢だったんだ。じゃ、あんなにあせることなかったか…でも、夢の中ででも話ぐらい、出来りゃよかったな……

 彼女は少しの間、夢の余韻にひたっていたが、激しい声と体の揺れはまだ続いており、やむなく彼女は意識をこの世に戻した。

「おいっ、いつまで寝てんだよ、それどころじゃないぞ、起きろよ!」

 この声は聞き覚えがある、彼女はいったん安心したが、ただ聞き覚えがあるだけで、その声の持ち主が誰かを悟ると、たちまち嫌悪感がわきあがってきた。

悪魔!

 目を開けると、血相を変えたクロノスが、彼女の肩をつかんでいた。

 彼女を大声で揺り起こしたのは、なんたることか天使ならぬ悪魔であった。

 彼女はほぼ反射的に、右の手を垂直に左方向に一閃させ、その手は確実にクロノスの左のほおをとらえた。

「あれ?」

 クロノスは、拍子抜けした声を出して動きを止め、彼女の肩から手を放した。

「俺、お前になんか悪いことしたか?」

 彼女は当初、彼が何のことを云ってるのか判らなかったが、少し考えて、彼が一方的に結んだ不可侵条約を気にしていると判って、かすかに可笑しさをおぼえた。

 が、すぐにこころを引きしめると、マリ子は彼をきっとにらんで、

「なんであなたがわたし起こすのよ、せっかくいいとこだったのに」
 と云いはなったあと、彼女は彼をたたいたとき、ほおの感触があったことに気付いた。

あ、こいつ、姿見せてるだけってったのに、実体もあるんだ。すると、どゆこと?わたしのこころの中にしか住めないはずなのに、ぶって当たったって………
 彼女が混乱におちいっている間、クロノスも我を取り戻し、

「そうだ、それじゃない、お前いま、天使呼び出さなかったか?」

 唐突に出た天使、ということばで、彼女は先ほどの夢を思い出した。

 どうして知ってるの、とうっかり口から出そうになったが、こいつの手前、うかつにしゃべれない、そう思ってきつい表情を作ると、

「何よそれ、天使さまがあなたんとこ、来たとでもいうの?」

「あ………」

 クロノスは動きを止め、しばし彼女の顔を見ていたが、やがて姿を消して、

「そうだよな、考えてみれば、お前天使呼び出せるくらいなら、神父んとこ行かねーもんな。それは悪かった。いやな、何か近くに、天使の波長感じたもんだからよ」

「天使の波長?」

「天使が人間のこころに送りこんでくる、テレパシーみたいなもんさ。奴ら時々、人間になにか云いたいときに、それ送るんだ」

ああ、やっぱり、あれは夢じゃなかったんだ。神さま、疑ってごめんなさい。あなたはちゃんと、わたしのことを見て下さっているのですね。お願いします。こいつを………

「しかしよ、こりゃ厄介なことになるな。奴ら、お前んとこに俺がいるって、嗅ぎ付けやがったんだ。お前が牧師になんか、相談に行ったからだぞ」

「よかったじゃない」

「どーしてだよ。ことによると、天使がやって来るんだぜ」

「何度も云わせないでよ、厄介なのはあなただけでしょ。わたしはせーせーするわ」

「人ごとじゃないぞおい、天使が来て大変なのは、お前も同じだからな」

「どーだか。それってあなたが出て行きたくない、云い逃れじゃないの?」

「………ま、いーや。いますぐどーこーって話しでもなし。ま、どっちにしろ、お前のこころにいる限り、あいつらも手ぇ出せねえからな、あーあ、あせって損した。無理やり起こしたのはホントーに悪かった。それは謝るから、俺寝る」

 とクロノスは、一方的にこころの回線を切ってきた。

 彼女はしばし、憮然とした心持ちでクロノスをなじったが、天使の加勢が来る、その予言を思い返し、あたたかい感情に包まれた。

ああ、やっぱり、神さまも、天使さまも、わたしを見ていらして、ちゃんとあいつを追い出す算段を立てていらっしゃるのね……でも、わたしのこころの中にいる限り、手が出せないって、どういうことだろう………


      クロノス・天使と戦う男 その4へ続く