クロノス・天使と戦う男 その2 |
悪魔。 神と敵対する者。 サタン、ルシファー、ベリアル、ベルゼブルといった名の悪魔が聖書等の記述にのぼり、また名も与えられない、悪魔のしもべである悪霊どもも、聖書のそこかしこに登場する。 蛇の姿でイブをそそのかし、原罪をなさせたと云われ、神の子をはじめあらゆる聖者をまどわし、罪なき人々に取りついて害悪をなし、そして黙示録のハルマゲドンでは、その醜悪な姿を存分にあらわして神と戦う、悪の源なる者。 そんな最悪のそんざい、らしきものが、いまマリ子のこころに巣食っているのだ。 彼女は聖書をめくり、悪魔や悪霊に取りつかれた者の記述を探した。 それらには、こうあった。 悪霊に憑かれた者は、決まってハンセン氏病であったり、物狂いであったり、何か原因不明の病気におかされている。 だが高位の悪魔に取りつかれた事例は一切なく、彼らは聖者に近付き、堕落をそそのかすのみだ。 それなら、自分に取りついたクロノス、とかいう悪魔は、いったい自分に何をなそうとしているのか、彼女は彼の様子をうかがった。 しかし、いくらたってもクロノスの真意はつかめない。 彼女は物狂いにもならず、病みもせず、彼の話が時おりわずらわしいと思う以外は、何も彼からもたらされていないからだ。 クロノスは、彼女が一人でいて、緊張から解放された時に、よく彼女に語りかけた。 それらの言葉は、別に彼女を誘惑するたぐいのものではなく、たいてい彼の身の上話であった。 「俺が人のこころの中にしか住めないといってもな、誰でもいいって訳じゃないんだよ。相性ってのがあって、俺の波長と合わないこころだとからっきしだめなんだ」 それは、真夜中執筆が一段落し、ベッドで服を着たまま、横になっていた時だった。 「じゃあ、わたしのこころとあなたが相性がいいってこと?」 多少うるさいのを別にすれば、今のところ彼のそんざいは毒にも薬にもなってないので、マリ子は彼を極端に恐れるのを止めて、ときたま彼の話に付き合うことにした。 暇つぶしには、ちょうどいいし ただ、いつ誘惑を受けるか判らないので、彼女はこころにしっかり防衛線を張ってはいたが。 「まあ、そういうことだな。単に波長が合う、ってんなら結構いるけど、お前はまた特別だ。相性ほとんどぴったり、てこと。非常に居心地がいいし、落ち着けるし」 「あなたね、人が恐ろしがってるのに、そんなとこでくつろがないでくれる?」 「え?お前俺が怖いの?」 「当ったり前じゃない、誰が悪魔にこころ乗っ取られて、気持ちよく思うのよ」 「だからさー、俺は悪魔なんかじゃないって……ま、しょーがねーよな。キリスト教徒だもんな、お前」 「そうよ、相性がいいから、味方、とでも思ってるの」 突然、マリ子の目の前に、クロノスが姿を現した。 この男は、話が乗ってくると姿を見せて、身振り手振りを入れて話したがるのだ。 そして、姿かたちは、あいかわらず美しい。 「おれのこと、味方だと思ってくれなくても結構だけど、少なくとも中立の立場、だと考えてくれ。そうだ、こうしよう。俺はお前のこころにちょっと間借りする以外、お前に対してなんら悪影響をあたえない。それでいいだろ」 「どーだか。契約を引っくり返すの、あなたたちの専売特許でしょ。わたし、悪魔と契約する気なんて、さらさないわよ」 「だから悪魔との契約じゃなくて…えー、こっちの言葉で条約、これだな、俺とお前は対等の立場でこの条約を交わすんだ」 「勝手に人のこころに入りこんだくせに、たいとーの立場なんてふざけてるわ。それにそれって、不可侵条約?ソ連は第二次世界大戦で、日本と交わした不可侵条約を、とどのつまりでふみにじったわ。人間でさえこれなのよ。悪魔の云うことなんて信じてもらえると思う?」 「ほー、よく知ってるねぇー、さっすが人気マンガ家、勉強量がちがう」 マリ子は、クロノスのあまりのノリの軽さに、たいがい嫌や気がさしてきた。 「はいはい、おしゃべりタイムはこれで終わり、仕事にかかるから、あなた黙っててよ」 宙に浮いているクロノスは少し残念そうな表情を見せたが、すぐに姿を消し、 「わーりやしたよ、条約は守りまっせ、お前のすることには干渉しません」 と云ったきり、彼は沈黙を保った。 クロノスは、彼女の云うことにはたいてい、聞き入れるのだった。 もっとも、彼女の云うこととは『だまってて』くらいであったが。 悪魔にしてはあいつ、聞き分けがやたらいいけれど、だまされちゃいけない。あいつきっと、わたしに気を使ってるふりしながら、着々と人をたらしこむ準備をすすめてるんだわ 彼女はそう決意を固めたが、また一方で彼のことば、が引っかかってもいた。 それは彼が、以前話したことで、たいていの宿主には一言の断りもなくこころに出入りしていて、それでまったく、彼の方に支障はなかったということだ。 そうすると、彼女とくだんの条約を交わす必要など、彼には全然ないはずだ。 案外、あいつがあんなことを云いだしたのは、わたしとずっと、話し続けたいからじゃないのかな そんなことをふと考えて、彼女のこころは一瞬なごむのだが、あれは悪魔、という声がこころのまたどこかからしてきて、彼女は再び心をかたくなにした。 実際、クロノスが本当に悪魔かどうか、マリ子にははっきり判断がつかなかった。 これまでにも彼女は、彼を追い出すために、あらゆる悪魔ばらいの手段を試した。 手始めに十字を切る、神さま、そして父の子に助けを求める、聖書を読み上げる、などなど一人でできることはすべてやったが、それらの祈りは、彼のおしゃべりを止める効果すら見せなかった。 悪魔払いじゃ、あいつを追い出せない?それって、あいつが悪魔じゃないってこと? 第一、彼を悪魔だと一方的に決めつけたのは彼女の方で、彼はずっとそのことを否定している。 それに、聖書や文献に見られるような、彼女に見える、悪魔に憑かれたあかしもない。 彼が悪魔ではない可能性も、ない訳はないのだ。 だが、彼女の方にも根拠があった。 神さまをいっときでも疑い、悪魔と通じる天使なんかをマンガに描いたりしたから、彼が悪魔であれば、彼に取り入られるすきを与えた、そんな恐れもあった。 また逆に、彼の闖入を受けたからこそ、キリスト教徒にもとる考えを起こしたのかもしれない。 いずれにせよ、彼にこのまま居座られるのは、彼女にとって迷惑以外のなにものでもない。 とりあえず、あいつを追い出さなきゃ 彼がやってきてから半月ほどたったある日、彼女はその日の仕事を早めに切り上げ、一人で隣のとなり街へ行く電車に飛び乗った。 以前親しくしていた牧師さんに、相談しに行こうと思ったのだ。 クロノスはそのことについて、何も云わなかった。 当然彼女の方からは切り出さなかったが、彼女が何を考えているかぐらい、判っているはずだ。 それで何も云ってこないというのは、彼女のこころにとまどいを生じさせた。 それでも春の日差しの中、電車は軽快に彼女を目的の街へ運んでいった。 牧師さんはその街の、大きな教会にいる。 彼女が幼いころを過ごしたのがこの街で、日曜学校に通ったのも、洗礼を受けたのも、長じて進路を相談しに来たのも、この教会だった。 教会の敷地に入ると、庭の花壇に水をやっているシスターがうかがえた。 彼女に進む道を示した、シスターだ。 シスターは満面の笑顔でマリ子を迎えると、相談をしにきた旨を聞き、奥へ引っこんだ。 牧師さんを待つあいだ、彼女はそのまま庭で花壇の花をながめて、その彩りの豊かさを楽しんでいたが、ここへ来てふと、クロノスのことを打ち明けるかどうか、迷いが生じてきた。 なに考えてるの、あいつを追い出す相談しに来たんじゃない、話して当然よ……でも、何だか、あいつに悪いような気がしないでも……いーやっ、あいつは悪魔なのよ、わたしを惑わしてる…… 堂々めぐりをくり返しているうち、シスターが現われて彼女を家へとみちびいた。 通されたテラスの部屋のテーブルに、牧師さんは座っていた。 昔から、ちっとも変わらない姿だ。 「真理子ちゃんひさしぶり、まあかけなさい」 彼女は少しかしこまって椅子にかけ、一礼して出された紅茶をひとすすりした。 そして視線を上げると、牧師さんの笑顔が彼女の目にうつった。 ああ……やっぱり、ほっとするな…ここは…… ふたりがひと通りたがいの近況報告を交わすと、牧師さんの方から話を切り出した。 「で、どうしたの、なにか、相談があるって?」 牧師さんはヨーロッパの国の生まれで、彼女の顔をのぞきこむ瞳は碧く、優しかった。 だがいつもは見なれたその目も、今日に限っては、彼女のこころを見透かす審判の目、のような気がしてならなかった。 「あの……………」 彼女はここへ来て、己の迷いを打ち消すことが出来ずにいた。 「わたし、最近………こころの中にぽっかり穴が空いたような気がして……」 穴が空いたんじゃなくて、穴の中にクロノスがいるんだ、どうしてそう、素直に云えないの? 「穴っていうか、その…いままでの、自分の考えを、裏切るようなことを、してるようで、その…うまく云えないけど……」 「うん」 牧師さんは静かにうなずくと、 「ひょっとして、自分の信仰に疑いを持ってきたんじゃないのかい?」 「そ、そうなんです!」 さ、さっすが牧師さん、よく判ってらっしゃるわ、でも、本当は、少し違うの…… 「私も、あなたのように感じたことは、以前確かにあります」 「えっ、牧師さんも……いえ、失礼しました」 「いやいや、これは誰でも経験することだ、特別恥ずかしいことじゃないよ、真理子ちゃん。またその試練をくぐり抜けてこそ、本当の信仰が打ち立てられるものなんだよ、いいかい?」 牧師さんは、メガネのずれを直すと、 「普通私たちは、神に祈ったり、正しい行動をとって生活を送ることが信仰だと思いがちだけど、それだけじゃないんだ。なにか形にしようとしたり、かたちを求める、それだけなら、いずれ限界は来るさ。そんなのは、ただの神頼みといっしょで、つまらない、もちろん一つひとつのことは大事なんだけど、それだけのことさ。ようするに、いまあなたは自分を中心にしてしか考えてないから、みずから視野をせばめてるだけのことなんだよ」 マリ子は、少し目の前がひらけたような気がした。 しかしそれは、クロノスのそんざいを除くたぐいのものではないが。 「あなたは、あなた一人のちから、ひとりだけの力で生きてると思うかい?そうじゃないだろう。両親や兄弟、周りの人、食べ物を作る人、機械を作る人、おもちゃを造る人、電車を動かす人、それぞれの人が力を合わせてこそ、私たちは生きていられるんだ。しかも、そのひとり一人のしていることは、ほとんど違うね。それでは、食べ物を作っている人が、電車を動かしている人に、してることが違うから、『力を合わせて生きていない』と云うことが出来ると思うかい?」 「いえ、そんなことはないです」 「そう、一人ひとりは違うけど、みな同じ一緒に生きてるんだ。大事なことは、それらのひとり一人に、主の愛がそそがれているということだ。だから、それらの人びとがあなたにもたらすものも、主の恩寵と云えるんだよ。自分だけがどうこうだからどうだ、と思うのは非常に小さなことさ。今はそれが見えないから、ささいなことでも信仰を疑ってしまうんだよ。そんなことは、本当は気にしなくてもいい。本当に恐いのは、自分のそんざいに疑いを持った時で、その末路は、わかるね」 「は、はい」 マリ子は、自殺、という言葉を脳裏に浮かべた。 「そうでなければ、大した問題はない。自分の信仰を疑う、ということは、主を疑う、ということで、理性的に云えば主とは自分にとって客体だから、ものを考えるということだ。別に悪いことじゃない。まして主は何もかもお見通しなんだから、多少疑ったところで気にもおかけにならないさ。疑いつくして信仰がひっくり返った、なんて聞いたことはないし、あ、あなたは主のそんざいそのものを疑ってはいないかな?」 「いえ、そんなことは、断じてありません」 マリ子はあわてて云った。 「じゃあ、ここはそんなにあせらずに、じっくり考えてみることだね。するとだんだん、物事のほかの側面が見えてきて、視野がひらけると思うよ。そうなれば、あなたの信仰も本物になります」 牧師さんのあたたかい提言に、マリ子は返す言葉を失した。 もし、感情をコントロールする術を100%失っていたら、体じゅうの水分を涙となしていただろう。 彼女は云いつくせない感謝の言葉を短く伝えると、早々に教会をあとにした。 帰りの電車の中、その日初めてクロノスは口をひらいた。 「ムダな努力をしたもんたな」 彼の口調には、額面ほど皮肉は含まれていない。 「よけいなお世話よ。少なくともあなたに惑わされない自身はついたわ」 マリ子は彼にきつく返した、とはいっても人前である、クロノスは彼の云うこころの扉をひらいているので、思っただけで伝わるのだ。 「誰が…まあいい、ところで、あのせんせ、相当の学者だな。単に人生相談に答えただけじゃないみたいだし、あの分だと、エクソシズムもかじってる」 「エクソシズムって?」 「悪魔払いのことだ。それより、あのせんせに俺のこと云わなかったのは、お前にとって正解だったな」 「え?それどういうこと?悪魔払いやられて困るのは、あなたの方じゃ…」 「俺はそんなもので追い出せないよ。お前も前にさんざやらかしたろうが。何やろうが屁でもねーや。厄介な目にあうのはお前さ。なんせ、お前に悪魔がついた、なんて思われたら、せんせーお前の云うこと聞かないぜ」 「なによそれ、さっきもわたしの話、あんなに真剣に聞いて下さったってのに、そんなことある訳ないわ」 「頭使えよ、お前に悪魔が入ったって聞いたら、お前の言葉も行動もみんな、悪魔のもの、と取られるぜ。いま、お前が俺をそう、見なしてるみたいにさ」 あ………そうだ、わたしがこいつを悪魔って決めつけてから、こいつの云うこと、そうとしか聞こえてなかったんだ…… 「今は扉ひらいてんだよ、聞こえてっぜ」 「うっさいわね、判ってるわよ」 「いずれにせよ、話が面倒になるぜ。せんせはうっすらと、俺のそんざいに気付いてる。でなきゃあんな、含みを何枚も重ねた云い方しねーし。まったく、お前はとんでもない奴と知り合いになってるな」 「ありがたいでしょ、感謝しなさい。わたしのこころから出ていくことに」 「なに他人事決めこんでんだよ。なんせお前は、あのせんせの汚い部分、見るかもしんねーからな」 「えっ、それ………」 それから、クロノスはこの件に関しては、口をつぐんだままだった。 |