クロノス・天使と戦う男 その1 |
部屋の窓からは、初春のうららかな日差しが射し込んでいた。 岸田マリ子は窓を開けて、表の風を呼び込んだ。 その風は一瞬、マリ子の体温を激しく奪ったが、時がたつにつれて風は優しくなり、マリ子の部屋にさわやかさを届けた。 マリ子は時々、その風がどこから来ているのかを、夢見がちに考えることがある。 単に学問的に、気圧の差で成層圏からおりてきた云々、というのでなくて、春を告げる精霊が、彼女に生きている実感をあたえるために、燃えるような聖衣と純白の羽をはらはらとはためかせ、天界から運んできた、などと彼女は考えた。 マリ子はそんな、子供じみた事柄をいつも、頭に浮かべているのだが、実のところそう若くはない。 もう、二十二なのである。 立派な大人として振るまい、生きるために社会に出て、いつも生活のことを考えていなければならない、年齢である。 だが彼女には、そんな考えがゆるされた。 彼女は、マンガ家なのである。 デビューしてまだ二年を数えていないが、編集者も一目置く気鋭の作家なのだ。 彼女はファンタジー系の、少女向け冒険物語を得意としていて、特に天使と悪魔の戦いを描いた短編連作が、読者には人気があった。 天使たちが天界につどい、悪魔と戦うために意見を交わす場面などは、プロの作家の中にすら、出版社預かりの原稿を大枚で買い取ろうとした者がいたほどだ。 それだけ、彼女の作品にはリアリティと風格があるのだ。 その裏には、彼女が本物のキリスト教徒、ということがあった。 彼女は子供のころからの敬虔な信仰者で、常々聖書の世界を目に見えるものにしたい、という願いがあった。 むろんプロになる際には、多少こころの迷いもあった。 普通に就職してふつうに結婚すれば、もっと楽に女の人生を歩めるかもしれない、短大の卒業間際、進路を決めるとき、そんな思いに悩まされていた。 ところが教会に行って、シスターにそれとなく相談を持ちかけると、今は自分の進みたい道を歩めばいい、そうさとされて、彼女は迷いを振り切った。 そして思い切って、出版社に短編を持ちこんだところ、見事に掲載されることとなり、評判が評判を呼んで、たちまち売れっ子作家の仲間入りをした。 連載を抱えるようになり、ある程度まとまった収入を得られるようになった頃、再び教会に出向いて、彼女は神に感謝した。 しかしその帰り道、マリ子はふと、奇妙な疑いをおぼえた。 仕事がうまくいったから、自分は神さまに感謝したのだ、これがうまくいかなかったら、自分はどう考えたのだろう。 うちひしがれて、神さまをうらんだりしただろうか。 いやそんなことはない、それはあまりに自分に都合のいい考えとしても、自分が必死に神さまに祈ったのに、神さまに裏切られた、そんな思いがこころの片隅にも残らない、とは云い切れない。 彼女は少しばかり、神を疑った。 むろん彼女は、逆恨みするほどの浅はかな信仰を持っていたわけではない。 わきまえることは、わきまえているつもりだった。 それでも、何かこころの奥底に引っかかっていた。 自分という存在が、神にとって何なのか。 逆のことは、聖書のことばや教会の説法で、何度となく云われていたが、彼女の疑問にこたえることばは、いくら記憶をたどっても、一向に出てこなかった。 それ以来、彼女の作風が少しずつ変わっていった。 一糸乱れぬ統制が取れているはずの天使たちが、いつしか互いを疑うようになってきたのだ。 そして策謀、裏切り、悪魔との取り引き……この変化はむしろ彼女の作品に深みを与え、読者には好評だったが、彼女の中では葛藤が深まっていった。 自分はこんな考えで、これ以上マンガを描いていっていいのか……。 編集者がねぎらいの言葉をかけても、彼女はつれない表情でこたえるだけだった。 そんな初春の日のことであった。 風は彼女に優しかったが、空の抜けるような碧さは不思議と、彼女のこころに冷たくしみた。 次の〆切はいつだったっけ。短い奴だったからそんなにあわてなくてもいいけど、そろそろ隆を起こしに行かなきゃな… 隆は彼女の一つ違いの弟で、大学に通いつつ彼女のアシスタントとして働いていた。 彼女は他の作家よりも筆が早い、という特性もあったが、よそからアシを雇うのを嫌い、弟に背景やトーン張りを任せているのだった。 隆もまた、姉に似て手先が器用なのだ。 マリ子は、彼女と同じく自宅の二階で寝ている隆を起こそうと、窓に背を向けた、その時だった。 一陣の風が、どっ、とマリ子の部屋になだれこんできた。 それは、今までマリ子を優しく包んでいた風とはちがい、彼女のこころの中を冷たく通り抜けていった。 何? マリ子は、反射的に振り返った。 そして彼女は瞬時に、何か部屋の中のゆがみを背中で感じ取っていた。 ひょっとしたら、自分は外を向いたまま、永遠に空をながめていた方かいいんじゃないか、なぜか彼女はそんな考えを、頭の中にいだいた。 ふりかえっちゃいけない、でも何で振り返っちゃいけないの? しばらく彼女は自問をくりかえしたが、仕事を進める、という現実問題を彼女は思い出し、いささかためらいながら後ろをふりかえった。 悪い予感、は的中した。 マリ子の振り返った視線の先に、男が立っていたのだ。 しかも、宙に浮かんで。 男は真っ黒の服で身を固めていた。 上はスゥエットのようだが、材質はうかがえない。 下のパンツも一見ウールみたいだが、上着と同じ物にも見える。 どちらも、光すら吸い取ってしまうような漆黒が、その成り立ちを隠していた。 そして、靴さえも全く光沢のない黒、であった。 わずかに露出している肌の色はというと、こちらは透き通るように白かった。 指などは白魚のごときさまで、まるで生まれてこのかた何ごとにも使っていない、と思えるほどだ。 そして何より、彼の風貌をきわだたせていたのが、彼の顔立ちである。 男、といえば男だし、女、と云われるとそうも思える、しかもまた、どちらとも取れないような美しさが、その顔の中に集っていた。 男とマリ子が思うのは単に、彼の胸にふくらみを見なかったからであって、彼の顔かたちでもってしては、彼女は性別を見分けられなかった。 髪の毛はさらさら風で、あからさまな金髪でもなく、色素の抜け切った白というのでもない、もし白金という色があるとしたら、そんな言葉で表現できるような、高貴な色を発していた。 目の色は、青とも、緑ともちょっと見ではつかないが、ひどく透き通ったシアン系の色をたたえている。 そして全体的に彼の姿をうかがうと、この世のものとは思えないほど美しかった。 むろんある種のアーティストであるマリ子は、それらの様を瞬時に見とっていた。 しかしその美しさは、マリ子のこころの中には素直に入りこんでこなかった。 そんな冗談のような人物が、マリ子の部屋の中に浮かんでいるのだ。 だが彼女は、彼の見た目の不気味なほどの美しさや、宙に浮いている異様さなどを覚えるより先に、身の危険を感じていた。 彼女はこころの中で口走った。 こいつが男だっていう確かな証拠はないけど、もし男なら、身を守んなきゃいけない。でも、どうやって? マリ子は、窓の右側にある机の上に目をやった。 仕事道具の大きなカッターが、彼女の目に真っ先に飛び込んできた。 マリ子は視線を、彼からそらさずにカッターを手にすると、おそるおそる刃先を彼に向けた。 「あなた、一体だれ?」 彼女は二の句を探して男をにらみつけていると、 「ほう」 という、場にそぐわない落ち着いた声が聞こえてきた。 「思ったより、子供っぽい顔してるな」 男がしゃべった……んじゃない、目の前のあいつは、少しも唇を動かしていないじゃない、じゃあ、誰が今のことばを… 「しかし、人間は見かけによらないからな。普通は何考えてるか、判ったもんじゃないぞ」 でも、あいつの視線は、わたしにまっすぐ向けられている、判らないけど、たぶんあいつが云ってるんだと思う…だとしたら、わたし値踏みされてるんだ! マリ子はカッターをにぎる手に力を入れ、ますますきつく男の顔をにらみつけた。 「性格はしっかりしてそうだ、自分の身を守る術を知ってる…けど実際に利用できるかは、これから見極めないとな」 彼女は、主なき声を不思議がるより先に、いら立ちを覚え始めた。 異常な出来事に接しながらも、彼女のこころは冷静に、声だけが聞こえる違和感を拒んでいるのだ。 「ねえちょっと、口開けて話してよ!気持ちの悪い」 「え?」 気の抜けた声が、今度は男の口を通して聞こえた。 「聞こえてたのか」 「え、ええ、聞こえてた」 男は、少しとまどいの表情を浮かべながら、 「どうもこころの扉、しめてなかったみたいだ。扉しめ忘れると、他人に考えてること、聞こえちゃうんだよな。お前たちの言葉で云う、えー…テレパシー、って奴か」 マリ子はぐちゃぐちゃになった思考回路をなんとか整理すると、目の前で起こっていることを理解しようと努めた。 姿かたちやしゃべり方は人間の男のようだけど、口を閉じたまましゃべったり、宙に浮かんだりしてて、まるでマンガの中に出てくる超能力者みたい。でも、スプーン曲げるくらいならともかく、こんなすごい超能力使う人って、現実にいるわきゃない。だとしたら、人間以外の…………悪魔! マリ子の想像力は、彼をチカンだと思った時よりもなお、彼女の背筋を寒くした。 天使の物語を描くときに、調べた資料で見たことある、悪魔って、だいたい真っ黒な肌してるか黒い服着てるかしてて、それで下っぱの連中なら醜悪なつらがまえだけど、位が高いやつだと、天使と変わらないような、高貴な顔をしてるって……… 彼女の読んだ資料が正しければ、まさしく目の前にいる男はその、位の高い悪魔のかっこうであった。 彼女は、彼がほかに何か、別のそんざいである仮定を捨て、すっかり悪魔だと思いこんでしまった。 それは、人間ばなれした男の顔が、彼女の描いているマンガの中の天使のひとりに、よく似ていたからだ。 そして彼女には、どうしても彼が天使だとは思えなかったのだ。 なぜなら、悪魔とはもともと、天使から堕ちたそんざい、だからだ。 非常識なこと云うみたいだけど、非常識なのは向こうだって同じだ、と彼女は彼に問いかけることにした。 「あなた………悪魔ね!」 「ほう」 男は不敵な笑みを浮かべ、 「お前もそうきたか。どうもキリスト教徒、ってえのは、はっそーが貧困だな。俺を見ると、口そろえたように悪魔だって決めこみやがる。云っとくけどおじょうさん、俺はお前らの考えてるよーな、悪魔なんかじゃあねーよ、ってんだ」 「じゃあ、あなたは何者なの。人間なの、それとも他に別の?」 「………なにもの、って云われても、何ともいいようがないな。お前のような人間でもないし、神や天使の類ともちがう。まして、悪魔でもない。人間流に自分の種族はなにか、なんて考えたこともないし、知りもしない」 マリ子は彼の言葉がもたらす混乱に悩まされながらも、質問を続けようとした。 この男が悪魔ならば、話すこと全部が嘘なのかもしれない。 それでも、彼女の作家としての好奇心が、恐怖心を上回っていた 「じゃあ、名前、なんていうの?」 「なまえ?名前なんか、ろくに意識したこともない。生まれ持ったなまえもない。俺を名前で呼ぶ奴もいなかったし。あ、いっぺんだけ、宿主だったヒュノスって学者に呼ばれたことがある。クロノス、ってね」 「クロノス…………」 マリ子は、カッターをにぎりしめた両の手を、ゆっくり降ろした。 それは、彼女の意思にもとづく行動ではなかった。 クロノス、たしかギリシャ神話の中に出てくる神のうちの一人の名前だったっけ、こいつの話が本当ならば、どういう意味でその学者さん、そう呼んだんだろう……… 「俺のそんざいを理性的に理解しようとする奴は、ヒュノス以来だな。面白い。普通なら理屈抜きで出入りしてるとこだが、少しは俺の身の上を話してやろう」 「ち、ちょっと待って!」 「ん?何だ?」 「わたし、あなたが悪魔だって、まだ疑ってんだからね、気安く話さないでよ」 「話は最初から聞け。早い話、俺は天使に追われて逃げ回ってんだ」 「えっ、天使さまって、ほんとにいるの?」 「いるよ」 「どこに?」 「お前らの云う、天界によ。正確には、ここの空間のどこともつながってて、すぐとなりみたいなもんだけど。奴らもよく行き来してるぜ、人間には見えないだけで」 「じゃあ、そこには、神さまもいるわけ」 「そうだよ」 マリ子のこころの中で、自分の夢想したような世界が、本当にあるのかもしれない、そんな思いに、無上の喜びがふくらんでいったが、目の前の黒づくめの男を見て、その感情がみるみるしぼんでいった。 「あなたも、そこから来たの」 「たぶんな、天使に追われてね」 「……じゃあ、やっぱり悪魔じゃない」 「まあ聞けよ。確かにあっち…えー、天界の奴らは俺を悪魔だって追い回すけど、人間を堕落させたり、聖者を誘惑しようとしたことなんてまるっきり、ないぜ。断じて俺は悪魔って呼ばれる由縁の、なにごともしたことはない」 男は話に熱が入ってきたのか、身振り手振りを入れるようになった。 「じゃあなぜ、あなたは天使に追われてんのよ」 「知るかよ、あいつらに聞け」 「あいつらって?」 「天使の連中にさ」 マリ子はだんだん腹が立ってきた。 天使に追われてる悪魔、しかも位の高く美しい悪魔なんだから、もうちょっと、物腰に気高い気品みたいなのが見えてもいいのに、こいつときたら下品な話し方するし、みょーに軽いノリでやんの。イメージ狂っちゃう 「とにかく奴らに追われてるんで、いま俺はあっち…天界には居られない状態なんだ。もっとも、気付いたら俺は奴らに追われてたけどな」 「気付いたらって、いつのこと?」 「それも知らん。だいたい俺には人間みたいに時間の感覚、ってのがないからな。お前らの言葉で云ったら、生まれつき追われて逃げてた、ってのが正しいのか」 マリ子は、宿命、という言葉を思い出した。 “もしこの男の話が本当なら、このクロノス、とかいう奴は、天使さまに追われる宿命を持って生まれたんだ、言葉にするとかっこいいけど、あいつの口ぶりだとなんだか、警察に追われてるチンピラみたいで、いまいち感じ出ないな” 「でも、天使さまに追われてるのなら、なんでわたしのところに来るのよ。もっと隠れやすいとこにいた方がいいでしょ」 「いい質問だ。俺はこっちの世界じゃ、本当はそんざい、することが出来ない。俺に限らず、天使なんかもみんなそうだけどね。天使とかいう奴らは、神のご加護、ってか?そんなのでこっちでも自由に回れるんだけど、俺にはそんなものがないから、こっちじゃ人のこころの中にしか、住むことが出来ないんだ」 「えっ……それって、どゆこと?今あなた、そこにいるんじゃないの?」 「そこはそれ、あんたがおびえるといけないからね、そっちにいるように見せてるけど、本当はお前のこころん中にいるのさ」 わたしのこころの中に、今、あいつがいる、わたしのこころの中にいま、悪魔が巣食って………… 「いや――――――――――――――っ!」 「どうしたのお姉さん、しっかりして!」 マリ子が気が付いたときには、彼女は弟の隆に肩を揺すられていた。 彼女は、座り込んだ姿勢で、気を失っていたのだ。 「気が付いたお姉さん、のぞきでもいやがったの、得物持ち出して」 少しがらの悪い話し方に、一瞬彼女はあの男のかげを感じたが、その声の主が明らかに隆であることを見てとると、すぐに安心した。 「隆、ありがとう。大丈夫、何か、悪い夢見てたみたい。ここんとこ疲れてるから」 「…かんべんしてよ、たかだか夢見たくらいで命取られたような声出しちゃって、ったくもう」 隆は姉の肩をぽおん、と押しやり、マリ子はのけぞる形で後ろに倒れた。 それに対して、彼女はただ、 「はは」 と笑い返しただけだった。 仕事はいつから始めるのか、とかいう事務的な会話をいくつか交わしたのち、隆は部屋を出ていったが、マリ子の目には、弟の背中が以前よりも広く、妙に頼もしくうつった。 そして隆のつかんでいた、肩の暖かさが彼女のこころに深くしみた。 昔から甘えん坊で、仕事中もいつもぐちぐちグチこぼしてて、バイト代せびるばっかしのゴクツブシだと思ってたのに、いつの間にあんな、男らしくなったんだろ。成長したんだな。隆も…… そんな感慨をおぼえつつも、さきのクロノスとかいう悪魔のことも、思い出さずにはいられなかった。 隆の云うとおり、手にカッターがおさまっていたからだ。 これって、あいつと話してた証拠かな、最初のころ、怖かったからカッター突きつけてたものね、でも夢見たって、体動かすこともあるよね、夢だとしたらすっごいリアルな夢だったけど、本当だったらどうしよう、いや、あれは夢よ、うん、夢であってほしいけど…… 再び高まる恐怖心をおさえるべく、しきりに十字を切りつつ、マリ子は心の中で自問をくり返したが、その小さな希望は、ほどなく打ち破られた。 クロノスが、またも語りかけてきたのだ。 「つーこっで、しばらく俺はお前のこころん中、いさせてもらうぜ。ひょっとしたら、すぐにどたばたになるかも知んねーけど、当分は向こうもおとなしくしてるだろう。その間に取りこみさいちゅう、あんたがパニクらないよう、追い追いことを説明してやるぜ。そんじゃ俺は、……えー、お前らのことばで、寝る、って状態に入るから、てな訳で、今後ともよろしく」 |