本を読む恋人たち その1 |
とある水曜日の午後五時二十分、夕闇が迫るなか、竹本功は市立図書館へとひた走っていた。 その図書館はふだん、午後六時になると閉まってしまう。一方、竹本の勤める某IT企業の定時は五時だ。だから彼は一時間足らずしか、その公共施設にはいられないことになる。 もちろんいくらIT企業でも、納期前でなければ土日は休みだ。それらの日を利用すれば、彼はもっとゆっくり本を読み、借りる本を選ぶことができる。実際、彼もそうやって土日に来ることはある。 しかし彼には平日、特に水曜日に行かなければならない、重大な理由があった。 竹本は、外見からすれば意外に広い館内へ入ると、返却カウンターにほぼ投げ出す形で借りていた本を置き、職員が告げる確認のことばもこそこそに、本だなの並んでいるスペースへ急いだ。 彼はまず、新着本が平積みで並んでいる中央のカウンター状の書架へと足を運び、面白そうな本が来ていないか目を通す。そしてたいてい彼のメガネにかなうものはなく、すぐに文学のスペースへと移る。 それから彼の、ここへ来た本当の目的が始まるのだ。彼は一応そこに並んだ本の背表紙をながめるが、それらのほとんどはすでに読んでしまっていて、目を引くものはない。にもかかわらず、彼の目は真剣そのものだった。 なぜなら、彼が探しているのは本ではなく、その本のすきまから見える、ある女性の顔なのだ。 その女性は少なくとも、水曜日にしか図書館に現れない、竹本はそう思っている。ひょっとしたら他の曜日に訪れているのかもしれないが、彼の知る限り、彼女の姿を見るのは水曜だけだった。その日も彼の期待どおり、彼女はいつものように本だなの向こうでハードカバーの文学書をひらき、まじめな顔で紙面に目を落としていた。 そして竹本は静かに裏手へ回り、本を探す振りをしてこっそり彼女の総身をなめ回すように見た。 彼女の年の頃は恐らく竹本と同じ、二十代半ばくらいで、身の丈は160センチほど。体は細く、胸も少ししかない。ぴったりした黒いスウェットを着込み、グレーのタイトスカートをはいているので、体のラインが丸わかりだ。顔は小さめで丸っこく、度の強そうな丸ぶちのメガネをかけている。髪を真ん中からきっちり分けていて、伸ばした後ろ髪を三つ編みでまとめていた。 マンガやアニメでいう、委員長キャラだ。 そしてメガネの奥にある目は小さく、団子っ鼻が顔の中心に居座っており、おせじにも美しい顔立ちとは言えない。本を手にしつつ、本だなに目をめぐらすさまは、むしろ無愛想に見える。しかし、本を読んでいる時に見せる彼女の真剣な面持ちは、硬くはあるが凛としていて、竹本には美しく見えた。 彼が彼女を初めて見たのは一ヶ月前くらい、やはり水曜日の夕暮れ時だった。一見して主婦とわかる子連れで年かさの女性や、彼と同じく仕事帰りのしょぼくれた勤め人、マンガや児童書目当てに来る子供たちに混じっていたのだが、ひとめ見たその瞬間、かの女性の姿は彼の目をとらえて離さなかった。 別に、竹本はそれほど女に飢えてはいない。会社にも、妙齢でそれなりの見た目を持った女性はいくらかいる。しかし彼女が好んで本、しかもハードカバーを中心とした文学を読むという属性が、とりわけ彼の気を引いたのだ。そんな趣味を持つ若い女性は、彼女が初めてだった。 そうして彼は一方的に想いを抱き、こんなふうに彼女の姿を眼に焼き付けようと、水曜ごとに図書館に来ていた。しかし、目立ったアプローチをすることは一向になかった。 彼とて男のはしくれ、こちらから動かなければ何も始らないことはわかっているが、なぜか彼は動かないで、ただ彼女を見つめるだけだった。 そしてその日も、何ごとも起こることなく閉館時間が訪れ、いつもの通り二人は別々に図書館を出ていった。もちろん竹本の心の中は、何もできなかった後悔の想いでいっぱいだった。 次の水曜も竹本は図書館を訪れた。すると、当然のように彼女も来ている。そして彼のつきまといは続いた。しかし、彼女はそうする彼の姿を認めても、ことさらにとがめることはなかった。 図書館には多くの人が訪れるが、その中には常連客、今のことばでリピーターが少なからずいる。そういった人種は自然と同類を見分けることができ、また話をしなくてもたがいに連帯感のようなものを抱いていた。例えば、貸し出しのカウンターに長蛇の列が出来た時、まれにではあるが割り込んだり、列のスムースな進行をさまたげる者が出ると、申し合わせもしないのに常連たちが出張って、連携プレイで注意をしたり、進行をうながしたりすることがある。竹本もかの女性も、その仲間としてたがいを認めていた。 だから、彼が彼女のまわりをうろうろしても怪しまれることはなかった。ああ、本を探しているんだな、ぐらいにしか思われない。 彼はその立場を利用して、ストーカーまがいの行為を平然と続けていた。 もちろん竹本も本物の本好きだから、ここに来て彼女のことばかりを考えてはいない。手にしたことがなくて、おもしろそうな本があれば自然に手を出す。それが彼らの習性だった。 そのとき彼の目の前には、アメリカ文学の翻訳書がならんでいた。いつもなら素通りしてしまう場所だが、たまたま目にした一冊の本の名が、コンピューターのネット上でちょっとした話題になっていることを、彼は何となく思い出した。でも別にすぐにはいいかな、と通り過ぎようとしたが、もし人気が高くなれば予約待ちが重なって、借りることが難しくなる。一秒半考え、今が手を出すチャンスかな、と彼は振り向き、なかば義務感でその本に手をのばした。 すると、彼の左どなりからも手がのびるのが、左目の片すみにうつった。彼はほとんど反射的に、人差し指を本の背にかけた。 その瞬間、あたたかい感触が左手の甲に伝わる。 左を向くと、彼が想いを寄せている、まさにその女性の顔が間近にあった。 触れているのは、彼女の右手だった。 竹本はびっくりして手を引っ込めようとしたが、彼女はさらに右手を本に向けてのばし、彼の左手を握るかっこうとなった。 彼の身に電流が走り、動けなくなる。 左手の甲に、体じゅうの感覚が集まる。 しかし彼女はすぐに手を離す。少し残念に思いながらも、彼女は本をあきらめたのだろう、と安心し、竹本はゆっくりと本を抜きにかかった。 すると彼女は、引き出された本の下の方を強くつかんで、無理やり引っぱった。 何だこいつは、何でこんなに必死なんだ、と思いつつ、負けじと彼も指に力を入れる。 そのはずみで本は書架からこぼれ、二人の手をすり抜けて床に落ちた。表紙の厚い紙が樹脂板に当たり、乾いた音を立てる。 その瞬間、二人とも同時にしゃがみこみ、本に手を出した。 再び、たがいのぬくもりが指先に伝わる。 竹本が顔を上げると、彼女の真摯なまなざしが彼の目をとらえていた。 その鋭さに何も言えずにいると、目の前から落ち着いた声が聞こえてきた。 「その本、どちらが取るか協議しませんか」 女の口から『協議』なることばがもれるのを、竹本は初めて聞いた。自然に目が見開かれる。 彼はゆっくりと本から手を離し、彼女もそれに従うように手を引いた。 「ええ、……キョウギ、ですか」竹本はちょっと考え、「いえ、僕は別にいいです、また今度で。あなたも読みたいんでしょう」 彼女は、その頬をわずかに引きつらせた。 「いえ、読みたいのはあなたも同じでしょう。ここでゆずられても、私が納得行きません。どちらが先に読むべきか、はっきりさせてください」 彼は答えにこまり、腕時計をのぞきこんで、 「でももう閉館まで時間がないですよ。話してるひまはありません。本当に僕はいいですから、どうぞどうぞ」 と、彼は本を拾い上げ、彼女に押し付けた。彼女はしばし考えたのち、本を自分の手におさめた。 彼は無関心をよそおい、立ち上がって行こうとしたが、 「じゃあ、とりあえずこれは私の名義で借ります。外にファミレスがありますからそこに入って、どちらが先に読むか話し合いましょう」 竹本は、どうしてよいかわからない、どうしろというのだ、という顔を作り、まだしゃがんで見上げている彼女を見下ろした。その顔は、いたってまじめだった。 彼女が貸し出しの手続きを終えると、二人は特にことばを交わすことなく、連れ立って近所のファミリーレストランへと急いだ。竹本は別に急ぐ必要がなかったが、彼女が無言でどんどん足を早めるので、しかたなしに歩調を合わせたのだ。 もちろん彼の心のうちには、ある種のかすかな期待が身をひそめており、それが彼をも黙らせていた。 店は全国どこにでもある大手チェーンのもので、中はちょうどよい明るさといろどりを保っていた。すでに外は暗い。二人は周囲に人がいないボックス席を選び、向かい合って座った。 そして同じタイミングで水を口に含み、メニューを見るのもそこそこに彼女は例の本をテーブルに置いた。 「そういえば、まだ名前を言っていませんでしたね」 竹本はふとそのことに気付き、笑顔で告げると、彼女の顔からもけわしさが取れた。 「そうですね、私はこういうものです」 と、手慣れた手付きでハンドバッグから名刺を取り出した。受け取って見ると、名前は西川夕美、仕事は市中心部の物流会社の事務職、とある。連絡先は会社のそれで、ブログのものであろうURLが載っているが、携帯番号、メールアドレスなどの個人情報は書かれていない。口に出して自己紹介をしてくれないのは、一方では合理的なように見えるが、少し冷たい印象を受けた。そこで彼は、あえて名刺を出さずに口を開く。 「私は竹本功、近所のコンピューター関係に勤めています、と言っても小さいところで、大手企業から発注を受けるようなことはないです」 「そうですか」 西川はその返事ののち、彼を見ずに本に目を落とし、また顔に険を浮かべていた。 これは口上を切り上げ、早く本題に入った方がよさそうだ、と竹本はことばを継ぐ。 「その本、どっちが先に読むかって、どうやって決めるのですか」 西川は視線を上げ、 「あなたはどうしてこの本を手に取られたのですか」 話がかみ合わない。彼は少し困り、 「いえ、ネットで話題になっていたので、何となしに読んでみようかな、と思って。それだけです」 彼女の顔がまたけわしくなり、 「それをあの場でおっしゃっていただければよかったのに。私はこの作家をずっと追いかけていました。それで、たまたまこの作品だけ手に入れそこなって、求める時間がなかったからですけど、気付いた時には店頭から消えてて、ずっと探していてあの図書館でやっと見つけたのです」 何だ、それなら本屋で注文すればいいのに、と彼は心の中で吐き捨て、毒気を隠すためにタバコを取り出し、火をつけた。 すると彼女が、 「ここがたまたま喫煙席だからいいのですが、今はいろいろとうるさいですから気をつけてください」 竹本のいら立ちはさらにつのる。 「じゃあ、この本はあなたが持って行って構いませんよ。どうせあなたの名義ですし」 「そういう問題ではありません。話は確かに、私が先に読むことで落ち着きましたが、ただあなたの動機が私の中で明らかにならない限り、勝手に話を……」 ここで二人の目に、オーダーを聞きたいが輪に入れず困っている、女性スタッフの姿が映った。しかたなく、二人して適当な軽食を頼む。 「あ、」 女性スタッフが去ったのち、西川が小さくもらした。困った顔をしているので竹本は妙に気になり、 「どうしました」 「本の話はもう付いたのですから、ドリンクでも頼むべきでした。食べ物だとかなり時間を喰ってしまいます。うかつでした」 「あ、そうか……しょうがない、せっかくなので、少し長居しましょうか」 彼の内に、さっき感じた高ぶりが戻ってくる。 「では、さっきの話の続きですが、あなたは…」 「その話はまた後で」 西川は、手をも使ってするどく制止する竹本に呑まれ、 「は?……いえ、どうぞ」 「あの、西川さんをよく図書館でお見かけするんですが、いつもどういう本を読まれるのですか」 竹本は顔がほころぶのをこらえ、彼女の目をまっすぐ見た。 西川はこれといった表情を作らず、面接で発言するように答える。 「私の専攻は、英米文学です。といっても、原文で読むことはそうしません。訳本で読むのとでは、やはり読む速さが違いますから。時間を取られたくないんです」 そして彼女は、何人かの英語系の名前を挙げた。その大半は、竹本も知らない作家のようだ。大学デビューなのかな、彼女のことばから彼は察した。 西川が話を一区切り終えると、竹本は間髪入れず、 「私は基本、乱読です。だいたいは最近の日本の小説、村上偽兄弟とか、京極と か、渡辺、このへんはちょっと俗っぽいですけど、あと戦中、戦後の文学、第三の新人なんかも、不完全ながら網羅してます」 「ということは、やはり日本がメインなのですか?」 これまで事務的な語り口だった彼女の、思わぬ食い付きを見て、彼は心の中でガッツポーズを取った。 「そうですね。僕は…私は内容そのものよりも、ことばの美しさが心にひっかかるたちなんです。といって、散文詩みたいなのが好きなわけではありません。というか、その……ことばによる意味付与形式の美しさ、つまりことばそのものの美しさとかじゃなくて、表現する構成手段としてのことばの美しさが評価の対象となるので……あ、」 ここで、竹本はしまった、と心の中で舌打ちをした。こんな感じの物言いで、彼は過去何人もの女性に、デートのさなか席を立たれたのだ。いくら相手が大学出っぽくってもまずかったか、とそっと西川の顔をうかがった。 すると、彼女は退屈するどころか、メガネの奥をらんらんと輝かせ、竹本のあごのあたりを食い入るように見ている。これはひょっとするとあれだぞ、と彼は気を取り直して先を続けた。 「あなたは英語が出来そうですが、日本人が原文で読んでも、そういったとらえ方が出来るんですか?僕はリテラシーをもって英文を読んだことがないので」 「そうですね、言語はどこのでも基本同じですよ。ただやはりネイティブでないと、いくら精読してもわからないニュアンス、っていうのはありますね。例えば、それこそヘンリー・ミラーとか、バロウズとか」 「ああ、あれは訳文でもかなりきついですね。バロウズは何が言いたいんでしょうね。特にカット・アップなんか」 西川は身を乗り出して、 「あのへんはどうでもいいですよ。それこそ詩みたいなものです。だって、まわりはギンズバーグみたいなストリートテイストな連中ばかりですから。ラップやヒップホップの原型だと考えておけばいいんです」 竹本は感動していた。まさか、自分の読書癖を聞いて引かないどころか、それに乗って話を広げてしまうような女性が、現実に存在するとは思わなかったのだ。知らないうちに、リミッターを解除する。 「でも、日本ではそのあたり区別がきちんとされている、というか、ボーダーレスは文学として認められませんし。『カエルの死』なんかは評価されましたけど、業界は冷たくて、本人は見切りをつけてバイオレンスに行っちゃったようですね」 「あれ、冷遇されていたんですか?作者本人はもともと平井和正が好きで、金になる仕事がなくてあれを作ったと何かで見ましたけど」 「そうなんですか?いえ僕はあれは……」 二人の会話はなかなか止まらず、料理が運ばれても、二人は口にものを入れながら先を続けた。 そして目の前の食べ物がなくなり、ライトノベルとケータイ小説の関係を論じながら竹本がタバコに火を点けると、壁にかけられた時計のデジタル表示が、彼の目に飛び込んできた。 八時四十分。 若い女性を留め置くには微妙な時間だ。 もちろん彼にも仕事があるから、これ以上かかずらっているわけにはいかない。 しかし彼女とのつながりは、絶対に保っておきたい。 そう考え、彼は会話を中断してふところを漁り、名刺を取り出した。 「それは?」 「あなたがあの本を読み終えたら、よければこちらに連絡してください。次に僕も読んでみたいんです」 西川は当惑した顔を見せつつも、いかにもIT企業らしいスマートなデザインの名刺を受け取る。 「貸し借りの手続きがありますから、図書館で落ち合いましょう。日時はそちらで決めてもらって構いません。これで、よろしいですね?」 彼女は困った表情を変えず、 「名刺、ありがとうございます。でも、これくらいの訳本なら三日もあれば読み終えてしまうので、連絡を差し上げるまでもないでしょう。竹本さんのお時間を裂いてしまうのも心苦しいですし。日曜日の昼頃、そうですね、二時ぐらいに図書館で待ち合わせ、というのはどうですか?」 竹本の名刺には、携帯の番号が書いてあった。もしそこに連絡したら、彼女が非通知にしていない限り着信履歴が彼の携帯に残るので、ごく自然に彼女の番号がゲットできる手はずになっている。それを察したのか否か、彼女はうまく彼のたくらみをかわしたのだ。竹本は、心の中で残念がる。 「わかりました。日曜日の二時ですね。」 二人は席を立ち、共だって支払いを済ませようとした。そのとき、西川が伝票をひったくり、自分の財布から金を出すのを見ても、竹本は何も言わない。また彼女も、彼が自分の分しか出さないのを当然のように見やった。 店を出ると、もう真っ暗だった。二人は変によそよそしくあいさつを交わして、それぞれの家路に着いた。 もちろん、二人は相手がどう思っているかを、わからないでいた。 |