「中国人」とは誰か
1.緒言 歴史とは何か
歴史とは単なる事実の羅列ではないし、またそれは不可能な作業である。歴史はある目的を持った物語である。問題はその目的が何であるかにある。「統治の指針」「人生の指針」という目的もあれば、地位や権力の正当性の証明のためであることも多い。昔の日本人が日本史ではなく中国史を学んだのは、政治や人の生き方に資するものを求めてであったと思う。今、国際問題になっている「歴史認識」は、自国の政治的立場や対外的行動の正当性、名誉や尊厳の由来、領土主張の正当性等々を目的にした論争である。特に民族のアイデンティティーをその歴史に求めることは殆どの国に共通である。この時、特に様々な「歴史的事実の恣意的選択や歪曲」がなされることが多いと思われる。今まで「日本人」とは何者かについて、従前の歴史学や考古学の恣意的な歴史上の事実の取捨選択と解釈について論じてきた。そこで、今回は「中国人」とは何者であるのかを論じてみたい。
2.中国語
以前にも書いたが、漢民族が西方から渡来したとする説がある。体型、埋葬法、文法、発語法、古代文字の比較、考古学的発掘調査などによる、漢族の西来説である。
中国語と英語の文法が、その語順の類似など、少なくとも日本語と中国語より遙かに似通っていると感じる人は多いと思う。もちろんこの二つの言葉は互いに異なる「語族」に属す別系統の言語とされているのであるが、アンダーソン(1874〜1960)は、漢民族は人種的にもメソポタミアの古代民族に起源すると説いた。
外国語と同じくらい違う中国語の方言
しかし、一口に中国語と言っても、広大な中国にはさまざまな方言があって、何と外国語並みにたがいに話が通じないという。方言というより別の言語といってもよいと言われている。大別して北方語と南方語に分けられるがそれぞれにさらに細かな方言があり、文法まで異なるらしい。さらに、中国語の「声調」といえば四声とばかり思っていたら、何と、北京語は四声でいいのだが、広東語は九声、福建語は八声もあるといい、上海語及び客家(ハッカ)語は六から七声である。北京語には濁音がないのに南方の諸方言には存在するのだそうである。これで本当に同一言語と言えるのであろうか。さらに「民族」という概念のいい加減さをはっきりと見る気がする。
3.黄河文明と長江文明
20世紀前半に黄河文明の仰韶(ヤンシャオ)文化が発見された。以来、黄河流域で多くの遺跡が見つかった。中国の文明の発祥は黄河流域であり、しだいに長江流域などの周辺地域に広がっていったと見られていた。
黄河文明は、黄河の中・下流域の黄土地帯に、前5000年〜前4000年頃おこった。1921年、スウェーデンの地質学者・考古学者のアンダーソンは河南省の仰韶村で彩文土器を発掘した。翌年の発掘によって竪穴住居跡が発見され、また多くの磨製石斧・彩陶などの土器が出土した。この最初に発見された遺跡にちなんでこの農耕文化を仰韶文化と呼んでいる。
仰韶文化を担った人々は粟・黍の栽培、豚・犬の飼育、鹿などの狩猟を行った。竪穴住居に住み、集落を形成し、石斧・石包丁などの磨製石器や彩陶を使用した。彩陶は西アジア、中央アジアから伝来したものであると言うオリエント伝来説がアンダーソン以来唱えられている。
1930・31年に山東省の城子崖遺跡が発掘され、黒陶文化の存在が明らかになった。この文化は、代表的な遺跡の竜山にちなんで竜山文化とも呼ばれる。黒陶は黒色の薄手の土器でロクロも使用され、鬲(れき)・鼎(てい)などの三足土器が特徴的だという。竜山文化期(前2000〜前1500頃)になると農具・農業技術はさらに進歩し、その結果、仰韶文化期よりもはるかに大きな集落(邑)が形成されるようになった。仰韶文化から竜山(ロンシャン)文化をへて、都市国家を形成した殷・周の青銅器文化に発展していったとされている。
一方、長江文明は、紀元前14000年ごろから紀元前1000年ごろ中国長江流域で起こったと考えられている。1973年・1978年の発掘調査で浙江省の河姆渡(かぼと)遺跡が発見された。河姆渡遺跡は紀元前6000年〜紀元前5000年ごろのものと推定されている。大量の稲モミなどの稲作の痕跡が発見され、その住居は高床式であった。河姆渡遺跡からは玉で作られた玉器や漆器などが発見されている。
河姆渡遺跡は明らかに黄河文明とは系統の異なるものといわれている。稲作が中心の長江文明は、畑作中心の黄河文明とは全く別の発展を遂げた。また、稲(ジャポニカ種)の原産が長江中流域とほぼ確定され、日本の稲作の起源と見られている。
中流域の屈家嶺文化(くつかれいぶんか、紀元前3000年? - 紀元前2500年?)・下流域の良渚文化(りょうしょぶんか、紀元前3300年?
- 紀元前2200年?)の時代を最盛期として、後は衰退し、中流域では黄河流域の二里頭文化が移植されている。これは、黄河流域の人々により征服された結果と考えられている。後述する、黄帝による三苗の征服などの伝説は、黄河文明と長江文明の勢力争いが背景にあると考えられ、三苗はミャオ族の祖と言われる。
4.史書の伝える中華民族の始祖伝説
炎帝
唐の司馬貞による補『史記』三皇本紀によると、姜水のほとりに生まれたことから姓は姜、火徳の王であったので炎帝と称したという。人身牛首の姿であった。
神農氏は、百草を嘗めて毒か薬か、食べた時に体が冷えるか熱をもつか、またどんな香りや味をつけるのに適するかなどを調べ上げた。そのため医薬の祖とされる。また、鋤を使って農耕することを人間に教えたことから神農と呼ばれる。史記は、神農氏の子孫として州・甫・甘・許・戯・露・斉・紀・怡・向・呂という、姜姓の各諸侯の名をあげている。斉侯・許侯は春秋時代まで有力な諸侯として生き残っていた。
黄帝
土徳を有するため黄帝と呼ばれる。『史記』によると、姓は公孫、軒轅の丘で生まれたので軒轅とも呼ばれる。史記は、春秋時代の中国の範囲を統治した開国の帝王として描いている。
三皇五帝のうちの五帝の第一。礼楽婚姻・文字など多くを民に伝えた。蚩尤を討って諸侯の人望を集め、神農氏に代わって帝となった。黄帝から中国五千年の歴史が始まる。五帝と、夏、殷、周、秦の始祖を初め数多くの諸侯が黄帝の子孫である。漢民族はすべてこの黄帝の子孫であるとされる。
黄帝は中国医学の始祖とされ、漢の時代では、著者不明の医学書は、黄帝のものとして権威を付けられた。 現存する中国最古の医学書『黄帝内経素問』、『黄帝内経霊枢』も、黄帝の著作とされている。
『入門 中国の歴史―中国中学校歴史教科書』小島晋治他訳、明石書店(2001)収載の図を一部改変
5.伝説の中華民族の敵 蚩尤(しゆう)
蚩尤は、四目六臂で人の身体に牛の蹄を持つといわれる。砂や石を喰い、同じ姿をした兄弟が81人いたという。また、優れた武器を発明したという。
黄帝と琢鹿の野に戦った。濃霧を起こして黄帝を迷わしたが、黄帝は指南車を使って方位を示し、遂に蚩尤を捕殺した。この時、蚩尤に味方したのは九黎族(苗族の祖先)と夸父族だった。戦いが終わると九黎族は逃れて三苗族となった。黄帝は三苗を皆殺しにしようとしたが、この南方の民を根絶やしにできず、その後、苗族は歴代の王を悩ます手強い敵となった。蚩尤は中国の苗族の英雄神であり戦神である。
史記卷一:五帝本紀第一の註釈より
正義龍魚河圖云:「黄帝攝政、有蚩尤兄弟八十一人、並獸身人語、銅頭鐵額、食沙石子、造立兵仗刀戟大弩、威振天下、誅殺無道、不慈仁。萬民欲令黄帝行天子事、黄帝以仁義不能禁止蚩尤、乃仰天而歎。天遣玄女下授黄帝兵信神符、制伏蚩尤、帝因使之主兵、以制八方。蚩尤沒後、天下復擾亂、黄帝遂畫蚩尤形像以威天下、天下咸謂蚩尤、不死、八方萬邦皆為弭服。」山海經云:「黄帝令應龍攻蚩尤。蚩尤請風伯、雨師以從、大風雨。黄帝乃下天女曰『魃』、以止雨。雨止、遂殺蚩尤。」孔安國曰「九黎君號蚩尤」是也。
6.臨シLinziの住民の遺伝学的研究
2000年、東京大学の植田信太郎、国立遺伝学研究所の斎藤成也、中国科学院遺伝研究所の王瀝 WANG Liらは、約2500年前の春秋時代、2000年前の漢代の臨シ(中国山東省、黄河下流にある春秋戦国時代の斉の都)遺跡から出土した人骨、及び現代の臨シ住民から得たミトコンドリアDNAの比較研究の結果を発表した。それによると、三つの時代の臨シ人類集団が異なる遺伝的構成を持つことが明らかになった。約2500年前の春秋戦国時代の臨シ住民の遺伝子は現代ヨーロッパ人の遺伝子と、約2000年前の前漢末の臨シ住民の遺伝子は現代の中央アジアの人々の遺伝子と非常に近く、現代の臨シ住民の遺伝子は、現代東アジア人の遺伝子と変わらないものであった。
この研究により、2500年前にユーラシア大陸の東端に現代ヨーロッパ人類集団と遺伝的に近縁な人類集団が存在していたことが明らかになった。また、2500年前から2000年前の500年間に臨シ集団に大きな遺伝的変化が生じたことから、過去に人類集団の大規模な移動があったことを示唆している。
7.結論
現在の中国語には、互いに外国語であるかのような種々の方言が存在し、北方方言と南方方言に二大別される。この南方方言の分布域が、黄河文明と対峙する長江文明の栄えた領域と大まかに重なり合っている。しかも、伝説上の南方の支配者蚩尤の統治領域ともほぼ重なる。そして歴史時代における中国文化は黄河文明を源流とするものであり、史書もまたはっきりとそのように記している。一方、ミトコンドリアDNAの研究が示しているのはユーラシア西部に起源を持つ人々が黄河文明の南端付近にいたがその後現代のような「黄色人種」である漢民族に徐々に置き換わっていったという事実である。これらの諸事実を統一的に説明する仮説は以下のようになろう。
「長江流域にモンゴロイドが稲作を基礎とする文明を築いていた。一方、西から移動してきた麦作と牧畜を基礎とした文化を携えたコーカソイドが黄河流域に定住した。武力に勝る北方黄河文明の支配者は、人口においては優勢な長江文明の人々と戦い勝利した。人口に勝るモンゴロイドは政治的軍事的文化的には敗者であったが、遺伝子的には黄河文明の人々をしのいで現代漢民族は『黄色』になった。」
さらに追加するならば、戦士である長江文明の男たちの多くは殺されたが、残った女たちのミトコンドリア遺伝子が引き継がれていったことも大いに寄与したと思われる。また、中国の南方では長江文明を担った人々の言語の影響を未だに受けているのである。
参考文献
『黄土地帯』J.G.アンダーソン 、松崎 寿和 訳 、学生社
『DNAから見た日本人』斉藤成也、ちくま新書
参考Webサイト
DNA考古学
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