箕(み)と竹の歴史
竹を素材とした農具、生活用品、建築材、楽器、茶道具や華道具など、竹は遥か昔より人々の生活文化と深く結びいていた。なかでも箕は農作業に不可欠な道具であり、種々の呪術(じゅじゅつ)性を持つ、神秘性を有する竹製品である。
1.竹について
竹は多年生常緑の植物でイネ科に属し、イネ科の中では原始的なものと考えられているが、分離独立してタケ科とすることもある。タケ群とササ群に大別され、ササは、タケの類(たぐい)で形が小さく皮が落ちないものの便宜的な名である。竹は種子植物で開花周期は120年前後である。稲穂状の黄緑花をつけるが開花後は枯死する。イネ科の他の植物の多くは風媒花の方向に進化したが、タケ・ササ類は地下茎で増える。
竹は、温暖で、湿潤な環境に育つ植物で、世界的には、赤道を中心に北緯・南緯ともに35度までにもっとも多く自生分布し、日本がその北限である。竹の原産地は東南アジアで、タイ国や中国が代表的な産地である。東南アジアを中心に、世界に約40属600種、日本ではおよそ12属150種を産する。また、アジアの竹林面積は世界の面積の8割程度を占めるのではないかとも言われている。日本の森林総面積に占める竹林の割合はおよそ0.38%である。
日本において竹林の造成が本格的になったのは室町時代と言われ、まだ孟宗竹(モウソウチク)が渡来していない時代であり、その種類は真竹やハチクであった。
日本で食用筍(タケノコ)として利用されているものの大部分が中国江南地方が原産の孟宗竹の筍である。孟宗竹は天文元年(1736)年、第21代薩摩藩主島津吉貴が、琉球(りゅうきゅう)から苗を磯別邸(現在の磯庭園)に移植させたのが始まりといわれているが、その後、北海道と東北地方の一部を除き日本全国に広がったものと推測される。
2.竹の神秘性と人間の関わり
太古から、竹は不思議な霊力のある植物とされてきたようで、縄文時代の遺跡からも竹製品が多く出土している。現在でも祭祀(さいし)にはよく竹が使われる。たとえば、地鎮祭のとき土地の四隅に青竹を立てて厄払いする。ではなぜタケは霊的な植物とされたのか。
1)驚異的な生長力
竹は驚異的な成長力を持ち、成長が盛んな時期には、1日に80〜120pという驚くべきスピードで生長し、3ヶ月で成体になる。これは神の霊力によるものと考えられた。
2)カオス性
竹は剛ならず、柔ならず、草でもなく、木でもなく、マージナルな植物、それが神々の霊力と感応しうる渾沌(カオス)的植物とみられたため、呪物として用いられた。
3)不思議な空洞
竹の内部の空洞には霊力、呪力が潜んでいると考えられていたという。空間があれば、そこには何かが「篭(こ)もる」ことができる。タケの内部の神秘的な空洞は神が篭もる場所であるとされた。
4)生命力
タケの一個体の寿命は15〜20年であるが、地下茎は更に10年程生きるので、竹林全体では世代交代が半永久的に繰り返される。
5)一斉開花
「鳳凰は、梧桐に宿り、竹実を食い、醴泉を飲む」という。竹は120年周期に一斉開花し、竹林全体が枯死する。このとき種子はほとんどできないが、地下茎は数年間生きて再生竹を育てる。こうして数年で竹林は甦る。
6)地盤強化作用
タケは群生して生え、網の目のように複雑に絡み合った地下茎と根で土をしっかりと掴む。このため竹林は土砂崩れや水害などに強い。※
7)滋養強壮剤
竹皮には防腐効果がある。清涼感ある芳香もまた好まれた。筍も薬用成分が注目され、滋養強壮作用を有するの生薬として用いられた。
(最近知人より以下のコメントを得た。)
※竹は繁殖力が強く、他の植物を押しのけて勢力を拡大していく。そのため、山の斜面で竹林が拡大すると、竹は根が浅いため、表層が土砂崩れを起こしやすくなるという。
3.竹取の翁(おきな)
「今は昔、竹取の翁という者ありけり。野山にまじりて、竹を取りつつ、よろづの事につかひけり。」
この文章で始まる日本最古の小説『竹取物語』は、だれでも一度は目を通したことがあるであろう。貧しい竹取の翁があるとき竹藪でかぐや姫を見付ける。かぐや姫が竹筒の中で光っていたと言う発想は、竹筒の霊力からであろう。その後、竹を伐る度に竹の中に黄金が入っていて、たちまち翁は長者になっていく。
かぐや姫は「家の内は暗き処なく光満ちたり」との表現どおりの大変な美しさである。この絶世の美女「かぐや姫」に、「色好みといはるるかぎり」との5人の貴公子が求婚してくる。ついには、帝まで求婚してくるのである。しかし「御門の召して宣給はむこと、かしこしとも思はず」とまで言って、帝の求婚すら門前払いする。そして、かぐや姫は翁と悲しい別れを告げて月に昇ってしまうのである。
竹取物語の明確な成立時期や作者は明らかではないがおよそ西暦900年代の成立という。5人の貴公子はいずれも日本書紀(720年)に出ている実在の人物とのことである。当時の朝廷権力が底辺の人々を虐げ、苦しめていたことを厳しく批判しているとの解釈もある。かぐや姫に、富と権力の横暴を批判させたものであろう。
『竹取物語』は竹の神秘と無縁ではありえないが、三谷栄一によると、竹は神の降臨する神聖な植物とされていた。そして、そのような竹を加工する竹取という職業は特殊な職業集団であった。野山にまじって生を営む竹取は箕作り、箕直し、笊作り、筬作りなどを行い聚落から聚落へとわたり歩いた。公共の野山に生えている竹を取って生活をする竹取は、農業をして生活をする者よりも下層の人間として扱われていた。耕作を根拠とした時代に、田畑から衣食を得る普通の“百姓”ではなく、一般戸籍に編纂された班田農民でもない。竹細工を布や穀物と換えてもらわなければならないものの身分が、世間並みであったはずはないというのである。「野山にまじりて」とは極貧であったとの意である。おそらく実際に賤民のような扱いをされていたのかもしれない(柳田國男など)。
しかし一方、竹の持つ神聖さに依って竹取は神人として捉えられもしたという。竹の神秘性が人々の心の中に深く、自然に浸透していた結果、天上と地上とを結ぶ竹から生まれたかぐや姫の発見者になり得たのである。
4.箕を作る人々
箕とは米と籾殻、糠をふるいわけ、豆のゴミを払い除く等に用いる便利な農具である。神に捧げる米を選び分けるとされ、中の窪んでいるところに穀霊が宿ると考えられた。箕には、藤箕などもあるが竹箕が最も一般的である。箕には霊力が宿ると信じられていたため、竹取物語の翁のように箕などの竹製品を作る竹取は神人として迎えられていたという。
箕だけではなく籠(かご)・笊(ざる)・櫛(くし)、筬(おさ)などの原料としても竹が使われる。しかし、箕はその年の豊年を象徴するものであり、穀霊が宿るところと信じられていた。箕は農具に使うだけでなく、御利益のある縁起物であり、現代でも、箕は長寿祈願の縁起物やインテリア素材としても使われている。
箕にはおもに真竹をつかい、孟宗竹などはつかわない。真竹には粘りがあり、うすく割くことができるので加工が容易であるからである。
(1)隼人と竹細工・箕
沖浦和光著『竹の民俗誌―日本文化の深層を探る』に詳しいが、もともと、竹にかかわる人々は海洋民族であった。東南アジアから南洋諸島にかけて居住していた竹の文化を持った人々の一部が、黒潮に乗り「名も知らぬ遠き島より」南部九州の浜辺に流れ着いた。彼らが古来より隼人と呼ばれたこの国の先住民の一つになったにちがいない。彼らは畿内政権に頑強に抵抗したものの遂に破れ、阿多隼人・大隅隼人が畿内に連れてこられて竹器を作らされた。考古学者の森浩一は、竹取物語は元来、中国の南部にあった竹をモチーフにした説話で、まず南九州へ伝わり、隼人たちがそれを畿内へ持ち込んだのではないかといっている。沖浦和光もこの物語の古層に、南九州の隼人の古伝承があったのではないかとの仮説を示している。かぐや姫伝承と隼人との結びつきを、沖浦は「竹中生誕説話」「羽衣伝説」「八月十五夜祭」の三点から解き明かすが、それらは南九州から南西諸島に見られる伝承・民俗であり、また、江南・華南から東南アジア、さらに南太平洋の島々にまで広く分布している。そこには、竹の民俗文化圏が広がっている。南方系の海洋民であった隼人とその後裔をなす人々のなかに、竹の民俗や伝承が受け継がれてきた。海幸・山幸神話は、海で釣り針を無くした弟の山幸が自分の刀を原料にした釣り針を箕に盛って兄に返す物語だという。東南アジアからきた海洋民族が笠沙に上がり、金峰で竹細工作りを始めたという伝承もあるという。
ネパールやチベットからタイ、ラオス、ミャンマーの山岳部を経て中国の雲南、揚子江下流域には、カヤぶきの家の竹壁や竹垣、バラ(丸箕)など竹製農具類など竹の文化があるという。鹿児島県歴史資料センター黎明館の川野和昭は、鹿児島や南島の竹製農具とラオス、タイ北部のそれを比較調査し「脱穀用のバラや背負い籠、その背負い方など東南アジアとの類似性は多い。これらはつながる文化であり、照葉樹林文化の底に、竹林文化をみる思いがする」という。
奈良・平安時代には竹林や竹はまだ珍しかったらしい。また竹を細工する技術や文化もほとんど存在していなかったのであろう。それゆえ隼人の作り出す竹器は珍しかった。延喜式には儀式用や茶籠(かご)、竹笠(かさ)、竹扇など日常使う竹器類の製作品目が見える。こうした仕事に携わった隼人は、作手(つくりて)隼人と呼ばれた。古代の阿多隼人の故郷・薩摩半島は、日本一の竹の産地であり、竹細工の発祥の地である。
隼人の男たちは、竹細工以外に、海幸彦・彦山幸彦の神話で有名な隼人舞や、天皇の行幸の際の戒めの声である吠声(はいせい)などの俳優(わざおき)、そして宮門警衛を以て天皇に奉仕させられた。隼人の女性は女性は料理や裁縫など主に天皇の私生活の世話をさせられていた。
(2)山窩と箕
文明社会と一線を画し、一畝不耕、一所不住の生活を貫く謎の集団サンカ(山窩)は夏は川魚漁、冬は箕づくりで生計を立てていた。
サンカは犯罪者集団扱いされていて、警察によるサンカ狩りは、1890年ごろから全国で行われていたという。大正13年3月25日、別府警察署は大分県速見郡別府町(現別府市)的ヶ浜の松林にあった被差別民の住居を焼き払った。その中にサンカもおり、警察は治安上の問題からサンカ小屋を焼き払っただけであると主張し決着した。
(3)タイシと箕
井上鋭夫の『山の民・川の民』によると、新潟県のある地方では、近世から明治期にかけて「ワタリ」とか「タイシ」と呼ばれていた人たちがいたという。ワタリというのは、舟を操り物資の輸送に従った非定住民のことで、箕作り、海岸の村々で塩を焼くのに使う塩木を流したり、材木を上流から下流に流す筏流しを生業としていた。彼らは農地を持たず、河川や海のほとりなどに住み着いた川の民であった。井上は彼等の起源が中世にまでさかのぼるという。
(4)被差別部落と竹細工・箕
日本一の竹の産地であり、竹細工の発祥の地である隼人の故郷・薩摩半島は、箕作りの盛んな地域でもあった。そして、この薩摩半島の箕作りは、昔から被差別部落の専業とされ、九州各地を歩いて箕を行商した人々も、この地方の被差別部落から出た。バラ(丸箕)などの竹細工にしたがうムラはまた別で、平家の落人伝説を残す山深い里で普通の農民とは違うと見られていた。箕とそれ以外の竹の道具とのあいだには、その生産のにない手において、あきらかな断絶があった。薩摩半島の箕作りの起源については、その先祖がサンカから箕づくりを教わり以後それを生業にするようになったという伝承がある。
中世後期以降、治水のため国内のあちこちに竹林が造成された。土地を持たず河原に住んでいた貧民が治水工事に動員された。そして、しだいに彼らと竹薮との結びつきは深くなっていった。竹は木材より入手しやすく加工するにも資本がいらず、技術的には高度であるが、道具さえあれば製造は可能である。土地を持たず職業を制限された人たちにとって竹細工は欠かすべからざる生業であった。
広島県では世間は「竹細工」=「部落」と見ていたという。竹細工は被差別部落の生業のひとつでなのであろうか。
大阪府富田林市は、竹すだれが盛んであったし、三重県上野市では和傘の傘骨づくりをしていたという。兵庫県加西市も竹細工の生産にたずさわる人が多く、加西郡富田村畑村において古くから箕の生産がおこなわれていた。しかし、江戸、明治、大正時代には、箕の生産は部落外の産業であったという。兵庫県清和会が1933年に行った被差別部落の実態調査『経済調査表』によれば、「竹細工業」は、有馬郡、明石郡、城崎郡に多いものの、他の地域ではほとんどなく。加西郡では全くない。第二次大戦中に海軍の飛行場を建設するため土砂を運ぶ皿籠の需要が生じ、それをきっかけとして加西市の部落における竹細工が始まったという。
兵庫県三田市鈴鹿。かつて「鈴鹿の竹製品は全国一」と言われるほどの腕を持つ竹細工師がたくさんいた。三田市が開催した竹細工教室がきっかけとなり、今では市民による自主的な竹細工サークルがある。
竹筬は織機の部品の一つで、多数の竹片を櫛の歯のようにつらね、それを長方形の枠で固定したものである。この竹筬を生産していたものは東日本ではほとんど「えた」身分の人たちであった。柳田国男は「巫女考」のなかで、江戸時代に筬売りが差別されていたことを述べている。
5.箕と民俗
『福岡の民俗文化』によると、「十月のうちの亥の日に亥の子餅を搗く風が一般に行われている。粕屋郡篠栗町では、以前、臼の上に箕を置いて餅を供え生大根を輪切りにして両面に鍋墨を塗り、白はしを挿して添えていた。云々。」
「箕」には、豊饒と多産に関する呪術性があるらしく、九州を中心とする西日本には嫁入りの日に花嫁の頭上に箕を戴かせたり、不妊の嫁に箕を贈る習慣があるという。インドネシアや南洋諸島の漁村には、高床式の家が狭くて見通しが良すぎるために、森にしつらえた特定の場所で夫婦の性交を行うのだが共同使用のため使用中は入口に箕をぶらさげておくという習慣が現存する。
6.箕に関わる民話−福岡県田主丸に伝わる民話「みづくり清兵衛さん」
オヤニラミという、淀川・由良川以西の本州各地、四国北部、九州北部に分布するスズキの仲間の淡水魚がいる。水のきれいな、流れの穏やかで水草が生えているところにみられ、関西、中国、九州ではヨツメという。このオヤニラミを有明海沿岸ではミヅクリセイベイと呼ぶ。
箕作りである清兵衛は、隠れ蓑を着て里の家々を訪問しては悪戯をしてまわった。篩をもちいて天狗をだまし、さらに里人をあざむいた後で、川に落ちて目が多い魚になる。その魚は、彼にちなんでミヅクリセイベイと呼ばれることになった。しかし、この魚の一層よく知られた地方名は、ヨツメである。
7.箕作りという名字と地名
津山藩の藩医で幕末維新の日本の近代化に非常に多くの功績があった箕作阮甫という有名な蘭学者がいた。箕作という名字はどのような由来を持つのであろうか。犬飼、鳥飼などと同様に職業に由来するのであろうか。それとも箕作という地名から来たのであろうか。滋賀県神崎郡五個荘町山本に箕作山があり六角氏が築いた箕作城という山城址がある。この地名の由来はどこから来たのであろうか。箕作に従事する者が多く住んでいたことから来たのであろうか。それとも日本の多くの地名がそうであるように単なる当て字に過ぎないのであろうか。
参考文献
『竹の民俗誌―日本文化の深層を探る』沖浦和光、岩波新書
『竹取物語』三谷栄一編、桜楓社、1977年
『山の民・川の民』井上鋭夫、平凡社、1981年
『日本の古代遺跡 鹿児島』河口貞徳、保育社、1988年
『したたかに生きるくらしに根ざして』広島県同和教育協議委員会編、1989年
『福岡の民俗文化』佐々木哲哉、九州大学出版会、1993年