山窩(サンカ)とは何か
山窩とは、日本の山間部を生活の基盤とし、夏場の川魚漁、冬場の竹細工を主たる生業としながら山野を渡り歩く漂泊民である。その生活実体は十分につかめてはいないが、生産技術や社会関係、信仰といった生活様式が平地民とやや異なり、平地の住民からは異端的に見られていた。サンカは戦争のたびに定住を強制され、ついに太平洋戦争を境にして不明となったといわれる。民俗学の祖柳田国男がサンカについて記述したが、柳田は警察官からサンカについて聞いたという。作家でサンカ研究家である三角寛も、サンカを知るきっかけは警察だった。三角寛は、彼らを独特な文字や掟(おきて)、伝承、厳格な組織を有する社会集団として描き、肉体的にも異能の持ち主としている。
箕を作る山窩の夫婦 『山窩社会の研究』より |
名称の由来
サンカは散家、山稼、山家などとも書かれ、民間では箕作り・箕直し・テンバモン・カワラコジキ・ポン・ノアイ・オゲ・ヤマモンなどと呼んでいた。山窩という名前は、明治維新後に警察によって作られた言葉であるといわれる。「山の窩(あな)にひそむ盗賊」くらいの意味であろう。漂泊民をあたかも犯罪者集団と見た名残がある。三角寛は、ながく山窩と表記してきたが、サンカには大きく三つの仕事の系列があることから、三家と書くのが適当ではないかと言っている。ルポライターの朝倉喬司も別の角度から、やはり三つの家で三家ではないかという説を立てている。四国高松地方で三界に家なき者のことをサンカまたはサンガイというのと同じだとか、ジプシーの故郷といわれる西インドのサンガタの住民サンガニに語源を発するとかという説もある。異端の歴史家矢切止夫は、大和朝廷は海からやって来て平地に棲(す)みつき、原日本人は、山でサンカとなり、海で海人(アマ)となったとことから。原日本人は山海族であり、サンカは山海なのだと言っている。
サンカは自分自身を関東ではナデシ、関西ではケンシ、ショケンシ(世間師)、ケンタと呼ぶが、これは、Gypsyという言葉が外部からの呼称で彼ら自身はRom(人間という意味)と呼んでおり、Eskimo(生肉を食う人)がInuit(人)の蔑称であることと似ている。
起源
サンカの種族的系統については、縄文人の末裔説、渡来人説や落人(おちゅうど)説、中世の傀儡(くぐつ)の後裔説などがあり一定していない。
縄文人の末裔説によれば、彼らは大和朝廷に征服された先住民族であり、原日本人である。この日本列島に、朝鮮半島や中国から水田稲作と高い土木技術をもった、騎馬と鉄の武器で武装した俗にいう弥生人がやってきた。これらの人々やその後身である大和朝廷は列島の平地部分を占拠していった。原日本人は平地を追われて山に立てこもった。侵略者たちは日本列島の主人面をはじめ、征服され、滅ぼされた原日本人の末裔であるサンカは、大和朝廷成立以前からの生活を守り暮らした。平地定着民となる事を拒絶し、山と平野の間を風のように流動し先住民としての矜持と自立を守ってきた。これはアメリカ大陸に上陸したイベリア人がインディオを駆逐し、アメリカ人たちが「インディアンは劣等な存在、自然奴隷である」として、インディアンから土地を剥奪したのと同じ事である。
柳田国男は<妖怪談義>のなかで次のように述べている。
『これらの深山には神武東征の以前から住んでいた蛮民が、我々のために排斥されられ・・・その大部分は死に絶え、乃至は平地に下ってわれわれの文明に同化したでもあろうか、もともと敵である。少なくもその一部分は我慢をして深山のそこに踏みとどまり野獣に近い生活を続けて、今日までも生存してきたであろうと想像するのは、強(あなが)ち不自然なる空想でも無かろう』
沖浦和光は、有史以前からの「山人」に連なるものではないかとする柳田国男のサンカ論を否定し、サンカは比較的新しく江戸期に度重なる飢饉(ききん)で山野に逃れた人々を祖とするという「近世末期発生説」を提起している。サンカに関する初出史料は安芸国(広島県)の庄屋文書(1855年)とみられる。三角寛はサンカ発生の地として「雲伯石の三国」(島根・鳥取両県)を示唆している。
生活
山窩は、日本列島の脊梁(せきりょう)(せきりょう)山脈や高地を移動し『山』を生活の拠点としていた。北は青森の下北半島から南は鹿児島の大隈半島まで全国的に分布するとも、東北地方以北にはいないともいわれる。住居は山では洞窟に住み、移動のときにはユサバリとよばれるテントを張って家族単位に生活した。また、ユサバリで暮らすことをセブリと『瀬振り』(セブリ)といった。これこそがサンカの特徴である。セブリこそがサンカなのである。昼間は箕(み)作りをしたり、笛を作ったりする。時には蝮(まむし)も捕る。サンカは働き者で、身奇麗だという。煮炊きは、テンジン=天人という自在鉤(かぎ)で吊(つる)したナベで行う。風呂(ふろ)は焼き湯と言って、穴を掘った内側にまず天幕を張って水がもれないようにし、水を入れた後に、たき火で焼いた石を入れる。こうして湯を沸かし、入浴する。冬は南の暖かいところ、夏は北の涼しいところに居を構えたという。男は天幕や道具を、女は赤ん坊やナベカマを背負い、山のサンカ道を抜けて次のセブリに行く。
彼らは米を主食とせず、さらに、非農耕・非定住・非服属の等の特徴を持つことから「日本のジプシー」とも呼ばれる。サンカは、このような生活をサンカ言葉でハタムラという掟(おきて)で守ってきた。サンカ言葉では、平地に降りて暮らすことをトケコミ、イツキという。戦後は、トケコミしたイツキのサンカが、サンカの主流となったという。
言葉
言葉の幾つかは集団固有のものを用い、それを兵庫県地方ではサンショコトバといっていた。サンショとは中世の散所(さんじよ)に当たると推定されている。サンカ同士は、伝令やサンカ文字による手紙で常に連絡を取り合っていた。
生業
サンカには大きく3つの職種がある。ミツクリは箕(み)作りで、竹細工系の仕事。フキタカは笛作り、琴作り、茶筅(ちゃせん)作りなど、楽器や芸事の道具製作で他にも籠(かご)、簑(みの)、笠(かさ)、下駄(げた)などの細工物を作る。里におりて食料その他と交換した。
箕 米などの穀物をより分けたり運んだりする、農作業には不可欠の道具。 |
エラギは猿舞い、獅子舞、猿楽、白拍子、くぐつ、などの遊芸である。彼らは、漂泊の旅をする遊芸の民だった。歌舞伎(かぶき)は出雲の阿国という女がはじめたと言われている。サンカの伝承=コトツによれば、この阿国がサンカだったというのである。このようにサンカは、芸能や宗教などにたずさわった者と根をひとつにするようだ。
この他にイツモリ=五守という分類もあり、山番などの労務関係の仕事がある。ヤシナド(ヤシナ)という分類には、竿(さお)屋、ふいご屋(いかけ屋)、研ぎ屋(するど・刃物砥ぎ)、トベナイ(呪・占い師)が入る。蝮捕はサンカの誰がやってもいいとされる仕事で、取った蝮は生きたまま蛇屋に売る他、調味材料、副食などの食用にした他、保健剤、外傷剤としても使われたという。川漁にたずさわる集団も多かった。山中の川のそばでユサバリをしてセブリ、川魚や山菜を取りながら、転々と移動した。非農業系の仕事のかなりの部分がサンカなのだ。
道具
ウメガイとテンジンが代表的なサンカの道具で、サンカの証明ともなる重要なものだ。ウメガイは、両刃の小刀で、サンカの象徴的な仕事である箕(み)作りで竹を細工するのに使われる、サンカにとっては最も大切な道具である。また、時には護身用に使用される。テンジン=天人はウメガイとともにサンカを証明するもので、ウメガイよりも大切にされる。マガクモ=ニセサンカがウメガイを持っている事は許されても、天人を持つ事は絶対にゆるされない。
山窩と戸籍
670年の「庚午(こうご)年籍」に始まる戸籍は、国家統治の基礎であった。しかし、明治に入っても戸籍への編入を拒絶し、国民の三大義務である徴兵、納税、義務教育を無視してきたのがサンカであった。日清戦争後にも20数万人、第2次世界大戦後の昭和24年にも、約1万4000人の無国籍サンカがいた。その当時サンカ以外の流浪人を合わせると80数万人の戸籍を持たない人達がいたという。昭和27年朝鮮戦争を契機に国家再編成を実現する目的で施行された「住民登録令」によって、この列島に住む人々は全て、居住地を決め、その住所を申請すると同時に、米穀通帳、国民年金、健康保険、選挙人名簿などを一括登録する事を義務化した。後に「住民基本台帳法」として完成するこの政令によってサンカの歴史は幕を下ろすことになる。
山窩と裏日本史
日本の信仰はどれも、深く山岳信仰と関わりあっている。山岳信仰と密教は密接な関係にある。真言宗の開祖空海も、中国に渡る前に山で修業している。後に修験道は真言宗、天台宗の両密教に所属するが、表向きは修験が両密に所属しているものの裏では関係は逆だという。
サンカと修験の深いつながりは容易に想定できる。サンカと修験は同じものでないが、サンカとの関係が悪ければ、修験は修業どころか、山にいる事すらできなかったであろう。そして、日本仏教は、修験を通してサンカとつながっていた。明治以降、仏教と神道は分離されてしまったが、江戸時代まで仏教と神道はそれほど別のものではなかった。いや、山を介して深く関連しあっていた。
竹はサンカにとって重要なものだ。お伽噺(とぎばなし)の竹取物語はサンカの物語かもしれない。竹取物語のかぐや姫が男に冷たいのは、サンカの女が朝廷の男に敵意を持っていたためだろうか。
サンカは忍者の源流だったとも言われる。身が軽く、山の自然の過酷な環境の中で生まれ、育ち、そこで生きる知識と技能がある。また、独自の文字や連絡方法を持ち、その情報網は日本全国をおおっていた。サンカ独自の山の道も、他にはない交通網だった。そういう特殊技能と、結束、集団性は、そのまま強力な忍者集団になれる。戦国時代、サンカは忍者として諸国の大名に雇われ、情報戦を担っていたという。
情報を握ることで、逆に諸大名を操作していたとも言う。織田信長は、サンカを裏切ったため、本能寺で明智光秀に殺されるよう、忍者=サンカが手配したというのだ。また、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康などは、サンカ出身だという説もある。確かめようはないが、それが間違っていたとしても、サンカと日本史の関係を考える場合、ある種のリアリティーは伝えている。
サンカは明治初期から次第に被差別部落や都市部のスラム街に溶け込んでいったという。
山窩と古史古伝
サンカには、独特の文字と神話伝承がある。『日本書紀』『古事記』に書かれた以外の歴史を伝える幾つかの古文書を一般に古史古伝というが、その中の、江戸時代に大分で発見された『上記』(ウテツフミ)はサンカ文字と同じ文字で書かれている。『上記』は、本当の古代史なのだろうか。また、日本神話である『日本書紀』も『古事記』も、サンカ言葉で読むとまったく違ったものになるという。サンカの道具であり武器であるウメガイという両刃のサンカ刀があるが、このウメガイこそがスサノオノミコオがヤマタノオロチを退治した刀だというのだ。
山窩と犯罪
大正15年7月30日、池袋の黒川健三方に職人風の覆面男が忍び込み、20円を強奪した。4年にわたって東京を震撼させた説教強盗の登場である。忍び込んだ家で、縛り上げた家人に戸締まりをしろとか、防犯上の説教をしたことから、当時朝日新聞の記者だった三角寛が「説教強盗」と名づけた。説教強盗は犯行を重ね、その数は昭和4年には盗みと強姦をあわせて65件に登った。その鮮やかな手口にキリキリ舞いさせられた捜査陣から「犯人はサンカ」ではないのかと声があがった。これを聞きつけた三角寛はサンカに興味を持ち、サンカの研究を始める。昭和4年2月24日、説教強盗妻木松吉は西巣鴨向原の自宅で逮捕された。捕まる時「おさわがせしてすみません」と言った妻木はサンカではなかった。昔は、事件があると警察はすぐにサンカではないかと疑った。下谷万年町にサンカが多くいて、潜入している刑事までいたのである。
サンカは、明治以降、近代に入ってからも戸籍を持たずに山で漂泊の生活を続けていた。そのため、明治以降、近代に入ってからは警察が、まつろわぬ人々であるサンカを怪しみ、サンカと犯罪を結びつけ、何かあるとすぐに「犯人はサンカ」ではないかと憶測した。現在もそれは続いている。グリコ森永事件の当時、一部で「かい人21面相」=サンカ説がささやかれたのである。その噂(うわさ)の真偽は確かめようもない。また、何から何までサンカでは困ってしまう。しかし、噂(うわさ)が出る事自体が、サンカの魅力が今も輝いている証拠なのは確実だ。
山窩料理
東京都下にサンカ料理を出す割烹旅館があった。今はサンカ料理をやっていないが、それに近い川魚料理をだす。米を食わないサンカらしく、米飯がなく、よもぎソバがメインの料理である。この店、戦時中、陸軍御用達(ごようたし)の店で一般人は入れない店だった。東条英樹が入りびたり、夜の大本営とまで言われた。サンカ料理と東条英樹、陸軍とサンカが実はつながっていたのであろうか。
山窩の町
甲州街道はかつてサンカ街道とも呼ばれたという。街道沿いの都下に、サンカの町がある。この町にサンカが定住したのは戦時中の事で、漂泊の生活で戸籍を持たないサンカを強制定住させて戸籍に入れ、徴兵した。定住の場所は、ただ無作為に選んだのではなく、サンカに縁のある場所が選ばれた。
現代の山窩
かつて、山で生活し自分たちの独自の文化と社会を形成していたサンカが存在したのは確かな事だが、現在はとなると、「いる」「いない」で意見が別れている。『サンカと説教強盗』を書いた礫川全次は、トケコミしきって、消滅したという説だ。現代日本では山に行ってもセブリをしているサンカはいない。小説や物語の中でのみ、彼らに会う事が出来るというところであろう。
しかし、その一方で、サンカの独自の結束を生かして金を集め、そのサンカ資金でエリートを育て上げ、サンカ資金の運用で裏側から中枢を動かしているという説もある。三角寛の『サンカ社会の研究』の第4章15は秘密結社という見出しでシノガラを紹介している。セブリから離れてトケコミをすると三代限りでサンカから絶縁する。しかし、形の上ではトケコミだが、絶縁しないで秘密のつながりを持ち続けるのがシノガラなのだと言う。セブリがなくなった後、サンカはシノガラとして存続しているのかもしれない。元々、明治以降、戸籍を取らせるため、また犯罪捜査のためとして警察から過酷な手入れをされるなど差別にさらされたサンカが自衛のため、法律家、政治家を育て対抗しようとした事からはじまるサンカ基金がシノガラと結びつき、秘密裏に育てた人材を、サンカの代表として権力の中枢に送り込んでいるのだろうか。民俗学者の赤松啓介は「サンカも殆んど姿を消してしまい、常民のなかへトケコミしたようだが、地下の組織は生きているだろう」「こうした人たちの正体を調べようなどと、バカな野心は起こさないのがよい。ウラの世界にはウラのオキテがある」と述べた上に「絶対に死体が上がらない海もあるし、あまり人の行かぬ林の中に白骨が横になり、木の枝に縄がゆれているという風景もある」とまで言っている。(民俗境界論序説)
『マージナル』1号では西垣内堅佑弁護士がサンカと土建・建築業界はつながりが深いと言われることをふまえながら、田中角栄元首相と政商小佐野賢治の協力関係がサンカの秘密組織シノガラと重なると指摘している。矢切止夫も「原日本人の系譜をひくサンカにはシノガラという相互扶助組織があり、その組織の元締たるオーモト(アーモト)様はスイスに存在していた」「アメリカ政府はオーモト様と連携し戦後の日本の政体について、天皇制を廃止し、日系アメリカ人を母体としたオーモト様指揮下のサンカ政権を作ることを計画していた。しかし、占領後、天皇の力が強いことを知ったフリーメーソン(33階位)のマッカーサーは、サンカ政権の約束を反古にし、天皇制を利用してフリーメーソンの影響下にある政権を作り出してしまった」という説を紹介している。また、田中角栄が拘置所から出た時に「ユダヤにやられた」と口にしたという話もあったという。現代日本の裏側でサンカが活躍しているというのだ。これは、五木寛之の作品『風の王国』ともつながる説だ。サンカは銀行も持っていて、これがサンカ基金を運用しているという噂もある。
山窩物語
「もののけ姫」という映画で、宮崎駿はサンカをはじめとする人々を描いたようである。サンカとタタラ族との深い繋がり、もののけ姫の名前がサンという事とアシタカという名から連想される先住民、彼らがハンセン病患者達を助けたという事実がそれを考えさせるのである。作家の椋鳩十は、自然に生きる漂泊民として詩情豊かに描き、自由に生きる人間の原風景を呼び起こした。「戒厳令の夜」「風の王国」など五木寛之の作品では、国家の規制を超えて独自の文化をもち、管理社会の下で閉塞した状況に風穴を開ける集団として登場している。中島貞夫監督の映画「瀬降り物語」(85年)では、山々を流浪する孤独な生活を萩原健一が好演した。
サンカと呼ばれる人々はハンセン病や色んな事情があって山に逃げてきた人たちをとても良く面倒みたりもした。今の破壊された地球において、自然を愛し共生する自発的貧困とも言える質素、簡素、素朴な生活を送り、真の豊かさを知り、自由で矜持高く、弱きものを愛する事のできるサンカこそが、今の日本に一筋の光を差す、真の生をおくっているのかもしれない。
引用・参考文献
『マージナル』1〜10(現代書館)
矢切止夫の諸作品(日本シェル出版)
『サンカ社会の研究]』三角寛(絶版、現代書館より復刊)
『サンカ研究』田中勝也(新泉社)
『山窩の生活』鷹野弥三郎(明石書店)
『義経と山の民(サンカ)の陰謀』佐治芳彦(KKベストセラーズ)
『又鬼と山窩』後藤興善(批評社)
『サンカと説教強盗―闇と漂泊の民俗史』礫川全次(批評社)
『柳田国男全集〈4〉「イタカ」及び「サンカ」』柳田国男(柳田国男全集〈4〉ちくま文庫)
『遠野物語・山の人生』柳田国男(岩波文庫)
『サンカの社会資料編』三角寛(現代書館)
『非常民の性民俗』赤松啓介(明石書店)
『非常民の民俗境界―村落社会の民俗と差別』赤松啓介(明石書店)
「山窩物語」井上清一「舫船」(同人誌)
小説
『風の王国』五木寛之(新潮文庫)
『戒厳令の夜 上 下』五木寛之(新潮文庫)
『鬼麿斬人剣』隆慶一郎(新潮文庫)
参考映像
『瀬降物語』『戒厳令の夜』
引用・参考URL
kumanolife