(その三) 謀略文書・田中上奏文 |
「田中上奏文」というものがある。昭和2(1927)年に首相となった陸軍大将・田中義一から天皇に進言された政策文書とされたもので、
・・・・ But in order to conquer China we must first conquer Manchuria and
Mongolia. In order to conquer the world, we must first conquer China. If
we succeed in conquering China the rest of the Asiatic countries and the
South Sea countries will fear us and surrender to us.
・・・・The way to gain actual rights in Manchuria and Mongolia is to use this
region as a base and under the pretense of trade and commerce penetrate
the rest of China. Armed by the rights already secured we shall seize the
resources all over the country. Having China's entire resources at our
disposal we shall proceed to conquer India, the Archipelago, Asia Minor,
Central Asia, and even Europe.
世界を征服しようと欲するなら、まず中国を征服せねばならない。中国を征服しようと思うなら、まず満州と蒙古を征服しなければならない。
我が国は満州と蒙古の利権を手に入れ、そこを拠点に貿易などをよそおって全中国を服従させ、全中国の資源を奪うだろう。中国の資源をすべて征服すればインド、南洋諸島、中小アジア諸国そして欧州までが我が国の威風になびくだろう。
などというとんでもない内容の文書である。
昭和2年(1927)4月20日、田中内閣は発足した。中国では、軍閥、コミンテルン、共産党等が絡む事件が続き、我が国の対応が難しくなっていた時代である。「田中上奏文」の計画の実行の第一歩とされたのが、昭和3年6月の関東軍による張作霖爆殺事件である。
張作霖 |
しかし実際は、張作霖事件の勃発を知るや、昭和天皇は暴走する軍部を懸念し、事件の真相解明を強く求めた。ところが、田中は陸軍とはかりもみ消しをしようとした。天皇は激怒し田中は辞職したのである。
さすがに、戦後になって、このおどろおどろしい「上奏文」は偽造文書であるということが証明された。英米の代表的な百科事典ブリタニカにも”田中メモリアル”は、偽造されたものであると書かれているそうである。
(1)エドガー・スノーによるプロパガンダ |
エドガー・スノー(Edgar Snow)は1936年、「中国の赤い星(Red Star over China)」のなかで、「毛沢東はやせたリンカーンのように見えた」とのべ、読者に中国共産党が良心的な民主主義者であるとの印象を与えた。そして、1941(昭和16)年に出版された、「アジアの戦争(The
Battle for Asia)」において、スノーは「残虐な日本人」というステレオタイプを読者に植え付けたうえで、その「残虐な日本人」の侵略と戦っている中国共産党というイメージを多くの読者の脳裏に焼き付けた。
「アジアの戦争」の冒頭を飾ったのが、「世界を征服するには、まず中国を征服しなければならぬ。In order to conquer the world we must first conquer China.」との「田中上奏文(田中メモリアル)」の一節なのである。スノーによって「世界征服をたくらむ野蛮で残虐な日本人」のイメージが英米の大衆に広く深く浸透していったのである。
(2)世界に流通した偽上奏文
昭和4年12月、中国で漢文の「田中上奏文」なる文書が出現した。1930年代には、米国で英文パンフレットとなり、米国共産党によって大量に配付された。ソ連のコミンテルンは、昭和6年12月の雑誌「国際共産主義者」にロシア語版を発表した。
(漢文の田中上奏文)
『欲征服支那、必先征服滿蒙、欲征服世界、必先征服支那。□支那完全被我國征服、其他為小亞細亞及印度南洋等異服之民族、必畏我而降於我、使世界知東亞為日本之東亞、永不敢向我侵犯、此乃明治大帝之遺策、是亦我帝國存亡上必要之事也。』
『寓明治大帝之遺策、第一期征服臺灣、第二期征服朝鮮、既然實現、惟第三期滅亡滿蒙、以及征服支那領土、使異服之南洋及亞細亞全帶、無不畏我仰我鼻息之云云大業。尚未實現、此皆臣等之罪也。』
「上奏文」に「日本が世界制覇を達成する過程で米国を倒さなければならない」という一節があり、米国との戦争を明確にした点が米国内で強い反発を呼んだ。
In the future if we want to control China, we must first crush the United
States just as in the past we had to fight in the Russo-Japanese War.
『將來欲制支那,必以打倒美國為先決問題,與日俄戰爭之意大同小異。』
ルーズベルト大統領もその内容に注目したという。この文書が米国の対日姿勢の硬化に一役かったことも十分推測される。
田中上奏文は、10種類もの中国語版、ドイツ語版も出され、世界中に「世界征服を目指す日本」というイメージをばらまいた。ただし、当然ながら「偽」である故に日本語で書かれた原文は存在しない。
(3)東京裁判 |
昭和21年5月3日に始まった東京裁判 (極東軍事裁判)の冒頭陳述において、キーナン検事は、日本は昭和3年以来、「世界征服」の共同謀議による侵略戦争を行ったとのべた。
被告等が東アジア、太平洋、インド洋、あるいはこれと国境を接している、あらゆる諸国の軍事的、政治的、経済的支配の獲得、そして最後には、世界支配獲得の目的を以て宣戦をし、侵略戦争を行い、そのための共同謀議を組織し、実行したというのである。「夢にも思い及ばざること」と、東条は呆気にとられて答えるほかはなかった。
東条英機 |
この時「田中上奏文」は、連合国が日本を裁くうえで重要な根拠とされたようである。「田中上奏文には、天皇も承認した日本の世界制覇の計画が書いてあり、それを実行に移したのが、昭和3年の張作霖爆殺事件とその後の日本の行動である。」というわけである。
日本人弁護人の中心となった清瀬一郎は、1927年からの「世界侵略の共同謀議」が、田中メモリアルに基づいているのではないか、と気がついた。そこで弁護団は田中メモリアルが偽書であることを証明する戦術をとった。
蒋介石の部下、秦徳純は次のように証言した。
「私は、中国におけるきわめて普遍的な印刷物によったもので、そのなかには「田中の世界侵略計画」、つまり第一段階で満蒙侵略、第二段階で華北の侵略、第三、第四段階では1940年の(41年の誤り)真珠湾攻撃となって現れるのである。」
林逸郎弁護人が「日本文の原文を見たことがあるのか」と尋ねた。秦は「見たことはない」と答えた。
ウェッブ裁判長が聞いた。
「私はただ一つだけ証人にお聞きしますが、あなたは田中メモリアルといわれるものの真実性について、何か確信を持っているのであるが、それとも疑う理由を持っているのですか。」
「私は、それが真実のものであることを証明はできないし、同時に真実ではないことを証明することもできない。しかし、その後の日本の行動は、作者田中が、素晴らしい予言者であったように、私には見えるのである。」
結局、キーナン首席検事は証拠として提出することはしなかった。判事団も、「田中上奏文」が偽書であることに気づかざるを得なかったと推測される。
(4)偽文書の証明
「田中上奏文」には、本来なら当然あるべき日本語の原典がない。内容も、文書内の日付などに矛盾や誤謬が多く、上奏文にもかかわらず表現が不穏当で『どぎつい表現』が使われている。到底、日本人が天皇に上奏するために書いた文書とは考えられない。昭和5年2月、我が国の外務省は、文書を偽造と断じ、中国の国民党政府に抗議した。
歴史家・秦郁彦氏は、「田中上奏文」が偽文書である証拠を列挙している。
・ 田中が欧米旅行の帰途に上海で中国人刺客に襲われた。
→ 正確には「マニラ旅行の帰途、上海で朝鮮人の刺客に襲われた」。田中本人が上奏した文書で、自分自身が襲われた事件を、このように書き間違えるはずがない。
・ 大正天皇は山県有朋らと9カ国条約の打開策を協議した。
→ 山県は9カ国条約調印の前に死去している。
・ 中国政府は吉海鉄道を敷設した。
→ 吉海鉄道の開設は昭和4年5月で、上奏したとされる昭和2年の2年後。
・ 本年(昭和2年)国際工業電気大会が東京で開かれる予定
→ 昭和2年にこの種の大会はない。昭和4年10月の国際工業動力会議のことか。
秦氏はこれ以外にも5件の記述の誤りを指摘し、「これだけ材料をそろえば、偽作の証拠としては十分過ぎるだろう」としている。
一体、誰が何の目的で、「田中上奏文」なる文書を作り、世界にばらまいたのであろうか。
(5)ソ連の陰謀
この疑惑の文書「田中上奏文(田中メモリアル)」について、産経新聞(平成11年9月7日号)は、ソ連による偽造の可能性が強いと報じた。
日本の世界制覇の野望の証拠とされ、東京裁判での「共同謀議説」や「南京事件の存在」にも深く関わっている「田中上奏文(田中メモリアル)」を偽造したのはKGBの前身GPUで、米国共産党によってその英語版が大量に配付された。「田中上奏文」は
1930年代に米国や中国で出回り、日本に対する強い反発を呼んだ。(産経新聞:平成11.9.7)
(6)今も生きている偽上奏文
「田中上奏文」は、中国において絶好の「排日資料」として利用され宣伝された。
今日でも、中国共産党は、「田中上奏文」を「日本帝国主義の意図と世界に対する野心」を断罪する根拠に使っている。近年の教科書問題においても、人民日報は、「田中上奏文」を引用して、日本の教科書の内容を批判している。
中国で一般に信じられているところでは、田中メモリアルは昭和2(1927)年7月、昭和天皇に上奏された後、極秘文書として宮内庁の書庫深く納められていた。翌3年6月、台湾人の貿易商・蔡智堪(さいちかん)という者が宮内省の書庫に忍び込んで、二晩かかって書き写したものを中国語に訳し、昭和4年12月に公表したものだとされている。台湾人商人が皇居のなかにある宮内省に二晩も忍び込んで、中国語文で25頁もの分量の文書を書き写したというのだから驚きである。
(7)陰謀をでっち上げる陰謀
反ユダヤ主義の基となった有名な偽書、『シオンの長老の議定書』があったように、反日本主義を生んだ偽書こそ『田中上奏文』であったというべきである。
【田中上奏文がソ連の謀略であることを伝える産経新聞の記事】
【ワシントン6日=前田徹】1930年代の米国や中国で日本の世界制覇野望の証拠として使われてきた「田中メモリアル(上奏文)」は偽造文書と指摘されているが、ソ連国家政治保安部(GPU)がその偽造に深く関与していた可能性が強いことが、米国にソ連指導者の一人、トロツキーが上奏文作成時の2年も前にモスクワでその原文を目にしていたことを根拠にしており、日米対立を操作する目的で工作したと推測されている。
米下院情報特別委員会の専門職員として、ソ連の謀略活動研究してきたハーバート・ロマーシュタイン氏が、元ソ連国家保安委員会(KGB)工作員で米国に亡命したレフチェンコ氏と共同で米国内のKGB活動の実態を明らかにする目的で調査した際に、偽造文書が関与していたのではという疑惑が浮かんだ。
「田中上奏文」は、1927年から29年にかけて内閣を率いた田中義一首相が昭和天皇にあてて提出した上奏文とされ、その内容は「日本が世界制覇を達成するためにはまず中国、モンゴルを征服し、その過程で米国を倒さなければならない」としている。この上奏文によって第二次大戦にいたる日中戦争、真珠湾攻撃は、計画的な日本の野望達成への一環だったとされてきた。ところが、ローマンシュタイン氏らの調査では、トロッキーが暗殺される直前の40年に雑誌「第四インター」に投稿した遺稿ともいる論文のなかに、田中上奏文に関しての貴重な証言が含まれていた。トロッキーは、スターリンによって追放される前で、まだソ連指導部の一人だった当時の25年夏ごろ、KGBの前身のGPUトップだったジェルジンスキーから「東京にいるスパイが大変な秘密文書を送ってきた。日本は世界制覇のために中国を征服し、さらに米国との戦争も想定している。天皇も承認している。これが明らかにされれば国際問題化し、日米関係がこじれて戦争にいたる可能性がある」との説明をした。
当初、トロッキーは「単なる文書だけで戦争は起こらない。天皇が直接、署名するとは考えられない」と否定的だったが、その内容が日本の好戦性と帝国主義的政策を証明するセンセーショナルなものだったためソ連共産党政治局の重要議題として取り扱いが協議され、結局、「ソ連で公表されると疑惑の目で見られるので、米国内のソ連の友人を通じて報道関係者に流し、公表すべきだ」とのトロッキーの意見が採用されたと証言している。
ロマーシュタイン氏はこうした経験を検討した結果、GPUが25年に日本外務省のスパイを通じて何らかの部内文書を入手した可能性は強いが、田中上奏文は、盗み出した文書を土台に27年に就任した田中義一首相署名の上奏文として仕立て上げたと断定している。
同氏によると、トロッキーが提案した「米国内の友人」をとおしての公表計画は米国共産党が中心になってすすめており、30年代に大量に配布された。しかも日本共産党の米国内での活動家を通じて日本語訳を出す準備をしていることを示す米共産党内部文書も見つかっており、実は田中上奏文の日本語版が存在しないことをも裏付けているという。(平成11年9月7日産経新聞朝刊より)