第二 國内の統一 上古の社會・政治組織
瓊瓊杵尊日向に降りたまいてより御三代の間は、常にこの地方にましましければ、遼遠の地、いまだ皇化に霑はず、まま騒擾を極めたりき。こにおいて神武天皇中央なる大和平野の地に移りて、ひろく、天下の人民を愛撫し神勅の御旨を全うせんと皇兄五瀬命などと謀りて東征の途につきたまえり。天皇日向を發して瀬戸内海を航したまえり、行く行く行宮を建ててその地方を平らげ遂に浪速に着きて大和に入らんとしたもう。時に鳥見の酋長長髄彦なるもの、饒速日命を推戴して皇軍に抗したれば、五瀬命これがために傷つき、間もなく薨じたまえり。天皇は道を転じて紀伊より入らんとし、道臣命・大久米命を先鋒とし、峻嶺をよじ深谷を渡り進みたまひしが、あるいは天佑によりて反抗する者を破り、あるいは軍歌をもって士氣を勵まし遂に長髄彦を誅し饒速日命を歸順せしめ、その他降れるものはことごとくこれを懐柔して、全く大和地方を平定したまえり。
大和地方すでに平定せしかば、天皇畝傍山の東南橿原の地を相して帝都と定め、宮殿をここに營みいて、辛酉の年正月朔日、荘厳なる儀式を以て即位の禮を擧げたもう。この時事代主命の御娘五十媛命を立てて皇后となしたまへり。近く明治五年、この御即位の年を紀元元年と定め、ついでご即位の日を太陽暦に算して2月11日にあって、これを紀元節と名付けて祝日となせりかくの如く第一代天皇即位の年をもって帝國の紀元を立て、萬古變わりなきは獨りわが國のみにして、しかも西洋の紀元に先立つこと六百六十年、またもってその淵源の悠久なるを知るべし。
かくて天皇は大いに論功行賞を遂げたまい、朝官には、天種子命と天富命とに祭祀を掌らしめ、道臣命と大久米命をしてそれぞれ兵を率いて宮門を警めしめ、なお饒速日命の子可美眞手命を近衞の將して殿内を守らしめたまふ。また地方には、勲功ありしものを國造・縣主に任じてそれぞれ政務を行わしめたまえり。天皇また御心を殖産の上に留めたまひ、楮・麻などを阿波・安房・總の諸國に植えしめて、産業を勵ましたまひしなど、御功業全くなりて遂に崩じたまひぬ。すなわちこの日を推歩して太陽暦の四月三日に當て明治六年初めて神武天皇祭日と定む。
わが帝國の基は、神武天皇に至りていよいよ固くなりしが、當時皇威の及ぶ範圍なお狭かりしかば、第十代崇神天皇は御祖宗建國の御遺志を繼いで、ひろく教化を海内に布かんと思召し、四道將軍を諸方に派遣して皇命を諭さしめ、なお頑冥にして命を奉ぜざるものは、やむなくこれを討平らげしめたまふ。これより將軍の子孫それぞれその地方治めて、天下静謐におもむきしが、國内ようやく多端になりゆきしを以て、はじめて庶民の數を調査して税法を定め、男女にそれぞれ調役を課しぬ。
ここに於いて皇威頗る揚がりしも、なほ東西の邊陬に占居せる熊襲・蝦夷の種族は強暴にしてしばしば朝命に逆らへり。よりて第十二代景行天皇は、智勇絶倫なる日本武尊をしてこれを平らげしめたもう。尊は金枝玉葉の尊き御身をもって、西征東伐ほとんど寧日なく、具に辛酸をなめたまひしが、その妃弟橘媛は、ために海中に御身を投じたまひ、尊もいたく心身を勞して、かしこくも陣中に薨去したまへり。かくて命の御功績により、邊民に至るまであまねくを皇化に浴して、擧國太平を謳歌するに至りぬ。
景行天皇は、尊の平定する東北の諸國を親しく巡視し、御諸別王をその都督に任じたるをはじめ、數多くの皇子を諸國に封じて、それぞれその地方を治めしめたまふ。第十三代成務天皇その後を承けて、ますます治民に御心を注ぎたまひ、中央には武内宿禰を初めて大臣に任じて大政を補佐せしめ、また地方は山河の位置によりて國縣を分かち縦横の路にしたがいて邑里を定め、國造縣主などを増置したまいしかば、地方の制度大いに備わりぬ。ここにおいて崇神天皇以来擴張せる政治は、まさに一段落を告げ、大和朝廷の御稜威いよいよ四方に及ぶにつれ、「やまと」の稱はついに大八洲の國號となるに至れり。
當時我が社會組織はいわゆる氏族制度にして、同一の祖先より出でたるもの、一定の地に占居して團體を作りその職業を世襲せり。これを氏といひ、その稱はおおむね職業または住地の名を取りて、實に社會の單位をなせり。これを統ぶるものはすなわち氏上にして、朝廷よりそれぞれ臣・連などの姓を賜る。されば氏上はおのが氏人を支配して、その政務を執り行うとともに、またこれを率いて朝廷に仕へ、皇室を中心として忠勤を勵みたり。たとえば蘇我氏は地名による稱にして、その長たる蘇我臣は主に政事にあづかり、物部氏は職業にちなめる名にして、これが統領たる物部連は主に軍事を掌る。これらの臣・連家より出でて天皇を補弼し、國家の大政に参與するものは、すなわち大臣・大連にしてこれまたその職務を世々にせり。かくて當時の政教は専らこの氏族制度によりて行われたるものにて、かかる社會組織はやがて政治の組織と一致したりしなり。
かかる時代には、氏人のその氏の上を宗主として尊敬するは素より、その祖神を尊信するの念頗る強かりき。されば尊祖敬神はわが國古来の美風にして、神武天皇の橿原に奠都したふや、神籬を建てて神祇をまつり、ついて霊畤を鳥見山に建て、皇祖天神をまつりて大孝を申べたまえり。また天照大神の神鏡を皇孫に授けたまふに當たり、「この鏡を視ることを吾を視るが如く、床を同くし殿を共にして齋きまつれ。」仰せたまひしより、御歴代これに御剣・御玉を添えて殿中に齋きまつりしが、崇神天皇の御世に至り、その神威をけがさんことを畏れて、神鏡を大神の御霊代とし、御剣を添えて大和笠縫邑に祭らしめたもう。ついで第十一垂仁天皇の皇女倭姫命は更に大神鎭座の地を求めて伊勢に至り、五十鈴川の流れ清きほとり、底津磐根に宮柱太敷立て、高天原に千木高知れる瑞の御殿を立てて、これを齋きまつりぬ。これすなわち皇大神宮なり。その後日本武尊東征の途に就きたもうや、まづ神宮に参拝して遠征の旨を告げたてまつり、御剣を受けて東國に下りたまいしが、尊の薨後その妃宮簀姫これを熱田神宮にまつりたてまつれり。
朝廷特に皇大神宮を尊崇したまひ、御歴代未婚の皇女を選定して齋宮となし、伊勢に發向して、潔斎して神宮に奉侍せしめたまえり。この制は第九十六代後醍醐天皇の御世に至りて廢絶せしかども、今なお神宮の祭祀は皇族をもってこれに任じたもう。また式年遷宮とて二十年毎に社殿をすべて造替して遷し奉るの制も古くより存して、今にかわらず。しかして崇神天皇が神鏡・御剣を別宮に齋きまつりし際、新たにその寫しを作らしめて、神代傳来の御玉とともに宮中に留め、長く皇位の御しるしとしたまいしが、中にも神鏡は宮中の賢所に奉安して、御歴代大神の御膝下にましますが如く仕へたてまつる。臣民もまた大神を國家の祖神として、崇敬すること他に超え神宮に参拝するもの常に絶ゆることなし。氏族制度の代には、各地の氏族は皇大神宮をあがめまつるは素より、それぞれその住地に氏神をまつり、おのが守護神として厚くこれに奉仕せり。その祭祀には、氏上氏人を率いて森厳なる斎場に臨み、親しく荘重なる祝詞を読み上げて、皇室と自家との由来を説き、おのが祖神が君國に立てたる勲功を述べて、いたく氏人を感動せしむ。氏族はためにその團結を堅め、おのが家職に勵みて、祖宗の名をけがさざらんことを心掛くるのみならず、皇室を大宗家と仰ぎて、おのづから忠君愛國の精神を發揮せり。かくて祭祀は政事の最も重なるものとして、國家の大事は必ず神慮に問いてしかるのちに行い、財政の上にもいまだ神物・官物の別なく、すべてこれを齋蔵に納め、祭事を掌れる中臣・齋部の両氏はともに朝廷の要職を占めて、最も社會に勢力を得たりき。
かかる間に、社會の經濟もようやく進歩せり。わが國もと氣候中和にして地味肥え、緑滴る山谷は鳥獣の棲息に適し、参差たる海岸は魚介の棲息に便にして、頗る生物に富みたれば、狩猟・漁撈を營みて、いわゆる山幸・海幸をとるは當初おもなる國民の生業なりしが、農耕の道もまた次第に發達せり。崇神天皇は、農は天下の大本なりと勅して、盛んに農事を奨勵したまひ、垂仁天皇また先帝の御志を繼ぎて御心を勸業に留めたまい、諸國に八百の池溝を開かしめて、灌漑の便を與えたまいたれば、その業いよいよ興りて百姓を大いに富みぬ。
時代の進むにつれて、世の文化もおのづから開け行けり。言葉巧みに、且、荘重に綴られたる祝詞は、はやくより存して、國民文學の淵源といわれ、また悲喜の情切なるとき直ちにその懐を述べたる歌謡にも、古雅の調を帯ぶるもの少なからず。家屋は木造にして礎石なく、茅茨を葺きて雨露を凌ぎ、藤葛を以て梁柱を結べるが如き、極めて質素なる構造なれど、陵墓の規模は尊祖の美風に伴いて、概して壮大なり。その副葬品には生前の使用品、また祭器などありて、上古の文化を偲ぶに足るもの多し。食器は多く素焼の土器を用ひ、衣服の制は、男女殆ど同様にして、麻また楮の糸にて製し、既に色を染め文に織りなせるものもあり、紅緑の玉は頸または腕に纏われて、更にこれを飾り、人々悠々自然を樂しみて、古樸なる生活を送りぬ。

前のページ  次のページ

付録の目次

目次に戻る

表紙に戻る