第一 建國の體制
遠く神代において伊弉諾尊・伊弉冉尊の二神初めて淡路・四國・隠岐・九州・壱岐・對馬・佐渡・本州の大八洲國を經營したまふ。また諸神を生みたまひて、この國土の山海草木に至るまで、それぞれこれを分掌たまへり。二神の間に生まれさせたまへる天照大神は、もとより天下に君たるべきお方と定まりたまふ。大神は保食神とともに御意を生民の上に注がせられ、水陸の田を分かちて稲粟稗などの五穀を植ゑしめ、また養蚕紡織の道を授けたまひたれば、萬民等しくその御恩澤に浴せざるはなし。かくて御聖徳の赫奕として周きこと、あたかも太陽の天上に輝き渡りてひろく宇宙を照らし、萬物これによりてその生育を遂ぐるが如くなりき。然るに大神の御弟素戔鳴尊は、強勇にまかせて、大神の農耕を妨げ、新嘗の宮殿を汚したまふなど、すこぶる荒々しき御振る舞いありしも、大神の寛洪海の如く、少しもこれを咎めたまはざりき。されど大神が祖神に奉るべき御衣を織らしめたまふ時、尊はその機殿をさえ汚したまふに及びて、大神はついに堪へかねて天石屋にこもりたまふ。ここにおいて八百萬の神々天安河原に會して相議し石凝姥命をして八咫鏡を鑄造せしめ、玉祖命をして八尺瓊曲玉を作らしめ、これを青白の和幣とともに榊の枝にかけて、太玉命これをささげ、天兒屋根の命祝詞を読み上げ、天鈿女命石戸前に神樂を奏して、大神を迎へ出したてまつりぬ。素戔鳴尊は、諸神に罰せられて出雲に降り、その地方を平らげたまひて天叢雲剣を、これを天照大神のに奉らる。またその御子五十猛命とともにはかりて、樟・杉・檜のたぐいを諸方に播殖せしめ、船を造りてしばしば朝鮮半島に往来したまへり。命の御子大國主命は少彦名の命と力を合わせて、さらに國土を開拓し、醫薬の方、禁厭の法などを定めて、國民を愛撫し、大いに勢威を張りぬ。天日槍も、その風を慕いて半島の地よりわが國に歸化せりという。時に天照大神はわが國を永く皇孫統治の下に置かんとて、諸神と計りて經津主命・武甕槌命らを出雲に遣わししてその御旨を諭さしめたまふ。大國主命は御子事代主命とともによく大義を辨へたれば、直ちにその命を奉じ、おのが經營せる國土を悉く奉りて、みづから杵築に引退したまへり。大神よりてその大功を賞し、宏壮なる宮殿を建て、大國主命をここにおらしめて、これを優遇したまへり。この宮殿儼然として古制の様式を存しここに命もまつりて上下の崇敬今にかはらず、これすなはち出雲大社なり。大國主命の國土を獻上するや、大神すなはち皇孫瓊瓊杵尊をこの國に君臨せしめたはんとし、八坂瓊曲玉・八咫鏡・天叢雲剣の三種の神器を授けて荘重無比の神勅を下したまふ。萬世一系天壌無窮皇運はここに始まり、世界に比類なきわが大日本帝國の基礎は實にここに定まりぬ。
ここに於いて皇孫は三種の神器を奉じ天兒屋根命・太玉命を天鈿女命石凝姥命・玉祖命の五部の神を從へ天忍日命・天久米命の武神を前駆として日向に降りたまふ。これより御三代の間はこの地におはしましてわが帝國をおさめたまひしが、第一代神武天皇が神勅の御旨を奉じて帝業を恢め、大和の橿原宮に初めて即位の禮を擧げたまひしより、萬世一系の天皇は代々三種の神器を皇位の御しるしとして連綿と榮えまし、列聖絶えず仁政を垂れて國民を愛撫したまふこと、かしこくも慈母の赤子におけるが如し。
この尊厳なる皇室を戴けるわが國民は、おほむね皇孫に從い、降り来たれる五部の神をはじめ、諸神の後(神別)なるか、又は神武天皇以来歴代の皇胤より出でたるもの(皇別)なり。この他支那・朝鮮などより歸化せるものの子孫(蕃別)、または太古よりわが國ありし熊襲・蝦夷などの異種族もあれど、はやくもわが國民と同化して、その間少しも區別を存することなく、相共に皇室を中心として忠誠を致し、もって今日の盛世を成せり。
かくてわが建國の悠久なること既に萬國に秀で、爾来星霜を積むことここに數千載、皇室と國民との由来するところ頗る古く、その情誼は實に一大家族の如し。しかも君臣本来の關係は毫も紊るることなく、萬古不易の國體は微動だにせず、これを諸外國の歴史に顧みて、諸外國が多く國民ありて後に君主を選び、また革命しばしば起こり、簒奪を事とし、今や建國當初の國體を保つもの殆どこれなきに比し、ますますわが國體の宇内に卓絶する所以を覺らん。北畠親房は嘗て神皇正統記を著し、優秀なるわが國體を頌していはく、「大日本は神國なり、(中略)日神長く統を傳へたまふ。我國のみ此事あり、異朝にはその類なし。」と。國民よくこの國體の尊厳なる所以を體して、いよいよ忠勤を勵み、國家の愛護に努めざるべからず。


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