第十 鎌倉幕府の成立 北條氏の執權政治
源頼朝は一旦石橋山の戦いに敗れしかども、程なく勢を挽回して房總の地方を從へ、北條時政をして甲信の諸侯を誘致せしめ、千葉常胤らの勸によりて、當時に於ける形勝の地にして、且、源氏累代の縁故深き鎌倉を選び、ここに居を定めて新第を起したり。よりて平氏を富士川に破りし後も、再び兵を鎌倉に返して、まづ東國の根據を固めんとし、譜代恩顧の將士みな第宅をここに構へ、庶民したがひて来集せしかば、從来もの寂しかりし一漁村も、俄に繁榮なる都會となりぬ。
頼朝は、平家がいつしか京都の優柔なる風に染みて失敗せし跡にかんがみ、士風剛健なる關東の地に據りて徐に實力を養ひ、やうやく平氏に代りて天下の政權も収めんとするに至れり。然るに、當時朝廷の綱紀弛みて官職は有名無實となり、加ふるに家格固定して人物登庸の途は開かるるべくもあらず。大江・中原・三善の徒は、もと學者の家より出でて法律・典故に通じ、久しく太政官の實務に當たりしも、いづれも卑官に留まりて、驥足を伸ばすこと能はざれば、むしろ實力ある武家と結託して自家を興さんとし、各々縁故を求めて東下し、頼朝の顧問となりぬ。ここに於いてまぢ侍所を置き、譜代の武將和田義盛をその別當として家人の進退及び軍事・警察のことを掌らしめ、ついで政所(公文所)を設け、大江広元を別當、中原親能らを寄人に任じて庶政をすべしめ、更に問注所を置きて訴訟・裁判にあづからしめ、算數に長ぜる三善康信をその執事となせり。かくて軍事・行政・司法の三機關を別ち、極めて簡約なる政治組織によりて法制の實行を期せしかば、王朝の制度がとかく煩瑣に過ぎて實際に疎きとは、全く面目を異にするに至れり。
かくて幕府の基礎は既に成りたれど、天下を控制するの途は未だ定まらざりしに、たまたま頼朝弟義經と善からず。頼朝天性猜疑に富み、弟の偉勳を建てて名聲朝野に高きを忌みたるに、義經もまた功にほこりて、往々頼朝の節度に從はず、その間ますます穏かならず。遂に義經が平宗盛らの捕虜を率いて鎌倉に凱旋せんとするや、頼朝はこれを腰越驛に抑留して、その鎌倉に入るを許さざりしかば、義經怏々として樂しまず、去りて途に宗盛らを殺して京都に歸りぬ。頼朝すなはち土佐坊昌俊をして義經の堀河第を襲はしめしかども、事成らざりき。これより義經は鎌倉の捜索を避けて、攝津・大和の間に逃竄し、兵亂起こるの風評しきりなりしかば、大江広元これに乗じて守護・地頭の制度を立てて騒亂を未發に防がんことを獻策す。頼朝大いに喜びて、北條時政を上京せしめてこれを奏請せしむ。時に攝關家の九條兼實は武家と提携して、百方これがためにはかるところあり、忽ち勅許を得たれば、頼朝は遍く部下の將士を海内に配置して守護・地頭となせり。守護は國毎にありて、國司と相竝びて、部内の軍事・警察を掌り、地頭は公領・荘園を問はず、一般に配置せられて、おもに租税の徴収にあづかる。ここに於いて國司の權はやうやく守護に移り、荘園の領主もまた地頭のためにその實力を奪はるることとなり、天下の實權おのづから鎌倉に歸するに至りぬ。
頼朝また朝廷に奏請して議奏の公卿を置き、機務に練達せる九條兼實をその首座として朝政に當らしめ、おのづから朝堂の權を収め、また東西の辺境には特に鎭撫の職制を布けり。九州にははやくより鎭西奉行を置きてこれを治めしめしが、奥羽には、平泉の藤原氏が三代の富強を集めて一方に雄視し、守護・地頭の制度もここに及ぶこと能はざれば、頼朝これを抑へていよいよ海内を統一せんとす。時に義經平泉に遁れ来りて、舊縁ある秀衡に頼り、秀衡心を盡くしてこれを擁護したりしに、その子泰衡は頼朝の壓迫に堪へかねて、遂に義經を衣川の館に襲殺し、その首を鎌倉に送りぬ。然るに頼朝はなほ、泰衡が久しく義經を隠匿せし罪を責めて、みづから大軍を率ゐて奥州を伐ち、しきりに敵の城寨を陷れて、程なくこれを滅せり。それより徐に三代の舊跡を巡覽せしが、累代榮耀を極めし平泉の館はすでに灰燼となりて、空しく廢虚に秋風の颯颯たるを聞くのみなりしも、幸類焼を免れたる中尊寺には、さすがに豪華の跡しのばれて、その結構の荘厳なるに驚嘆せり。ここに於て、奥州總奉行・陸奥留守職を置きて奥羽を管せしめ、多く平泉の遺制によらしむることとし、東北地方全く平定して、全國悉く鎌倉の威令に服するに至りぬ。
かくて海内統一の業全く成りて、紀元一千八百五十二年第八十二代後鳥羽天皇の建久三年、頼朝征夷大將軍に任ぜられ、幕府の名實共に備りぬ。蓋し征夷大將軍は、嘗て坂上田村麻呂の任ぜられしにはじまり、もと蝦夷征討將軍の義なりしに、この後は常に武門の棟梁の任ぜられて、天下の政權を掌握するものの稱となれり。また昔、將軍の出征するや、随處に幕を張りて本營を設け、ここに軍務を執りしを幕府と呼びしが、今や將軍の政廳の名となりき。ここに於て、皇室の尊厳は毫もその古に變らざりしが、政治の中心はおのづから京都を離れて鎌倉に移り、その實權全く幕府に歸せしは、實に政治上の一大變革にして、素よりわが國體上未曾有の變態たり。
頼朝武家政治を創始して巧みに天下を制馭し、王朝の政治の得喪にかんがみて、専ら實力の獲得に力めたれども、骨肉の間とかく相和せず、さきに義經を殺し、後また範頼を除きて、みづから羽翼を殺ぎしかば、家運しだいに衰へて、かへつて外戚のために制せらるるに至りぬ。はじめ頼朝の流されて伊豆にあるや、北條時政ひそかにこれを庇護し、妻あはすにその女政子を以てし、ついで頼朝の兵を擧げしより東國を從ふるに至るまで、事多く時政の方略に出で、幕府の創立せらるる、またその盡力に負ふところ少なからざりき。故に北條氏の幕府に於ける地位は、恰も藤原氏の朝廷に於けるが如く、常に内外の機務に参與して、その威勢甚だ盛なり。されば頼朝薨じて長子頼家將軍を嗣ぐや、外祖時政は子義時及び諸將と合議して庶政を所決し、頼家の獨裁を禁じたりしが、ついに頼家を廢して伊豆の修善寺に幽閉し、その弟千幡を立てたり。千幡實朝と稱して、征夷大將軍に任ぜらる。實朝性温雅にして文學を好み、頗る識見に富みたるも、常に北條氏のために拘束されて、よろづ意の如くならず。加ふるに譜代の功臣畠山重忠・和田義盛らの一族いづれも北條氏の陰謀によりて除かれ、殆ど孤立無援となりたれば、源家の命運ももはや久しからざるを察し、進んで顯官を拝して家名を顯さんと欲し、遂に累進して正二位右大臣に昇る。承久元年その拝賀の禮を鶴岡の八幡宮に行ふに當り、頼家の子公卿義時に使嗾せられて、實朝を父の仇なりとし、夜陰に乗じてこれを刺殺し、おのれもまた義時のために殺さる。ここに於て、源氏の正統は僅かに三代にして全く絶えたり。
ここに於いて政子は義時と謀りて、いささか源家と姻親ある藤原頼經の僅かに二歳なるを京都より迎へて將軍となし、政子簾中にありて専ら庶政を聴けり。政子は性明敏にして、夙に頼朝の創業にあづかりて内助の功多く、寡婦となりて薙髪したる後もなほ身を以て政局に當り、果斷を以て紛争を裁決し、將士を懐柔して聲望を集め、世に尼將軍と呼ばる。幕府の基礎ためにますます固くなりしが、北條氏の權力既に重く、時政さきに政所別當となりて執權と稱し、子義時その後を襲ひ、和田氏の滅亡は、更に侍所別當を兼ねて政治・兵馬の全權を占めたれば幕府の實權はここに全く北條氏の手にうつりぬ。義時の子泰時寛厚にして寡欲、頗る仁慈の心に富みて、深く部下を愛し庶民を憐れみたれば、人々悦服して各々その業を樂しめり。殊に泰時は頼朝の違法を守りて、専ら心を政務に留め、常に裁判の公平を期し、評定衆を置きてこれと謀りて庶政を決し、また三吉康連らに命じて貞永式目(御成敗式條)五十一箇條を議せしめ、訴訟・裁決の據るところを定めたり。この式目は主として武家の慣例によりて制定せられたるものにて、幕府の行政より民事・刑事・訴訟の法令に至るまでその大綱を備へて、深く徳義を法令の上に寓し、いづれも簡素・實際を旨として、永く武家政治の標準となりぬ。
泰時の孫時頼は母松下禅尼の庭訓を受けて、日常勤倹を以て下を率ゐ、執權中は一に貞永式目を守りて、風俗を正し、文弱を戒め、頗る善政を布きたり。後、病を得て職を辞し、山内最明寺に退居せし後も、みづから諸國を行脚して、民情を視察し、庶民の疾苦を問いて寃枉をただしたれば、風化大いに行われき。ここにおいて時頼の聲望特に高く、その卒するや、諸將士親疎となくこれを悲しみ、ために薙髪するもの甚だ多かりきといふ。

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