第509回 私のために
平成14年 10月24日〜
妙念寺電話サービスお電話ありがとうございます。
感動的な文章に出会いました。
石田慶和(いしだよしかず)先生が、京都の六角堂などで
ご法話された記録に、こんなところがありました。
「京都女子学園の創設者の甲斐和里子さんという方が
いらっしゃいますが、この方のお父さんは足利義山という
ご法義を喜ばれた立派な宗学者でした。
和里子さんのお若いときのことでしょうが、義山先生は
あまり肉類がお好きではありませんでした。
あるとき鯛の吸い物のふたをとって、しばらくじっと眺めて
おられたが、『聖人が思い切ってはじめて魚肉に箸を
おつけになった時、どんなにかおいやであったろう』と
おっしゃって、食べずにハタとふたをなさった。
そこで和里子さんが、聖人はお父さんと違って肉類が
お好きだったかもしれませんよ、とおっしゃったたところが、
『おまえはなんというもったいないことを言うのか、今でも
戒律を守って肉食妻帯をされない僧侶が他宗には
ずいぶんおられる。私のような下根下劣なものでも、
それくらいのことは容易なことだ。
聖人がどうしてお好きで肉食をなさろうか、全く私たちに
心配させないためばかりに肉食妻帯なさったのに、
おまえはそれがわからんのか』とおっしゃった、
ということが{草かご}という本に書かれています。
私はこれを読んで深い感銘をうけました。足利先生は
聖人の肉食妻帯を人間の次元でとらえておられない。
聖人が『弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、
ひとへに親鸞一人がためなりけり』とおっしゃった同じ
場にあって、親鸞聖人を仰いでおられるのです。
私たちが聖人のことを思うときに、そういう見方というものが
あるということをよくお考えいただきたいと思います。
現代は『人間親鸞』とか『人間蓮如』とか自分の寸法に
あわせて考えようとします。
しかし昔の人たちは、決してそのようには考えて
おられない。親鸞聖人をただ客観的にひとりの人間として
みるということではなくて、仏さまのお姿を仰いで
おられたのだとおもいます。
そしてそこに念仏者としてのあるべき自分の生き方と
いうものを見いだしておられたのです。・・・・・」
という文章です。
親鸞聖人は、戒律を守ることの出来ないこの私が、
心配しないように、ご自分が肉食妻帯をしていただいた
のだという見方、その御蔭でこうしてお念仏に出会えたとの喜び。
宗教というものはそういう世界であり、多くの先輩が受け継がれた
ことだと味わわさせていただきました。
妙念寺電話サービスお電話ありがとうございました。
次回は、10月31日に新しい内容に変わります。
浄土の慈悲(本願寺出版社)
石田慶和師法話集
「親鸞聖人の夢」・平成3年4月10日 京都六角会館での法話
「肉食妻帯ということ」・平成9年12月15日 内道場報恩講法話
より一部掲載
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