仏法を主とし
 
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蓮如上人の言葉に、
   仏法をあるじとし 
     世間を客人(まろうど)とせよ
とあります。
 
仏法をあるじとせよとは、仏法を私の心の主人とせよ、
生活の中心としなさいということでしょう。
 
また、世間を客人、客人と書き まろうど と読ませておられますが、
世間を客人とせよとは、世間は煩悩で動く境界ですから、
アテにせず、世間のことは万事お客様に接するように扱いなさい。
 
決して主人にしてはならないとの思し召しと思われます。
 
主人の主の字は、燭台の炎が燃えている形からくる象形文字で
あるといわれます。
 
灯火、明かりは一家の中心であるところから、一家の長、主と呼ぶように
なったものです。
 
いつも家にいて、家を護り、一切を司って家族を
直接支えてくれるものです。
 
これに対して、客人、客人は必要に応じて家を訪れ、
用事がすむと、さっさと去ってゆきますので、あまりアテには
出来ない存在であります。
 
私たちの人生においても、仏法を主人とするか、
煩悩の固まり、世俗のものを主人とするか、
主人次第で人生は変わります。
 
まったく違うといっていいでしょう。
つまりお浄土に生まれて仏さまにならせてもらうか、
地獄という幸せのない世界にゆくかの大きな違いです。
         
 
 
仏法を主人とすることは、南無阿弥陀仏が生活の中心に
あること、お念仏を基準にしてものごとを考え、護られていることです。
主人の南無阿弥陀仏に計らわれて、心が、口が、身体が動く、
それがお念仏に抱かれていることになります。
 
世間を主人にすると、迷信、妄信になってしまうわけですが、
南無阿弥陀仏の思し召しに従うことは、お釈迦様の教え、
十方諸仏のこころ、阿弥陀如来のご本願に従うことですので、
得手勝手な独善でも偏見でもありません。
 
とはいえ、私たちは、客人に不愉快な思いをもたせないように、
丁重に取り扱うべきであります。当然私たちが人間生活・社会生活を
営む限り、人に迷惑をかけたり、社会を乱すような所作は
許されよう筈がないのです。
 
世間を、客人のように大切にすべきであるということは、
信を得た上での世間への対応、世間のことについての処理に
ついての考えを述べられたものと思います。
 
しかし、あくまでも生活の中心となるべきものは仏法であり、
仏法が私の生活の指導原理にならなければ、私たちの生活が
そのまま念仏者の生活とはならないのであります。
 
仏法は私を生かしめる力であり、人生の羅針盤である以上、
世間のことと、仏法のこととの主客を取り違えてはならない
というお諭しでありましょう。
 
世間のことにまどわされ、大事なものを見失ってはならないと
説かれているのでありましょう。

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次回は、12月4日に新しい内容に変わります。
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                    ( 平成 9年11月27日〜 第253回 )